2012年12月18日 (火)

歌手ベッキー★友川 カズキに★触発され

0015  中居正広の「金スマ」で、ベッキーのリサイタルをやっていたが、録画しておいたが、見るほどのことでもないだろう、と思っていた。
 ベッキーは、動物好きで、みんなに好かれる気働きできる少女で、恋愛さえ封印して、自分の目的のためにまっしぐら・・・そんな印象である。


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ベッキー(1984年3月6日 - ):日本のマルチタレント。神奈川県出身。サンミュージックプロダクション所属。158センチメートル、AB型。母親が日本人で父親がイギリス人のハーフ。ロサンゼルスでダンサーをしている妹ジェシカがいる。亜細亜大学経営学部卒業。日本とイギリスの二重国籍だったが、20歳を機に日本国籍を選ぶ。ビジネスや起業目指して経営学科を選んだ。歌手での名義は『ベッキー♪♯』。♪=「四分音符の半分と♯=半音高い」目指すという意味らしいWikipedia参照
005 ベッキーは歌手を目指して新境地を開こうとしたが、鳴かず飛ばずで、ファンからはタレント一本で行けばいいじゃないか、ベッキーの歌のには批判が多かったらしい。これにはかなりめげてしまって、自分には歌手としての才能がないのか、どうしたら聴衆の心がつかめるのか、悩んだという。
 「金スマ」でベッキーにリサイタルをやらせる・・・という提案があって、歌手ベッキーとして二ヶ月かけて、自分のスタイルを研究する中で、友川かずきの歌を番組側で用意したのだろう。

友川かずき 生きてるって言ってみろ
http://youtu.be/wMIDu8ELZ9I

私にとっても、「友川 カズキ」は、初耳であった。
 聞いてみると、ムード的には「尾崎 豊」(おざき ゆたか、1965年11月29日 - 1992年4月25日)に似ている。声は。在日の「清河
チョンジンへの道」を歌う韓国歌手新井英一と似た、自分のハートを叩きつける歌い方である。(筑紫哲也ニュース23の紹介であった)

友川 カズキ(ともかわ かずき、1950年2月16日 - )(62歳)
:日本の歌手、競輪評論家、画家
。本名:及位 典司(のぞき てんじ)。2004年に「友川かずき」から現在の表記へと改めている。
出身地日本 秋田県山本郡八竜村(現・三種町)
中学生時代に中原中也の作品に出会い詩を書き始める。1年間浪人して、バスケッ
トボール名門秋田県立能代工業高に進学。バスケットボールの練習に明け暮れた。
 二十歳のころ、赤提灯で岡林信康の歌を聴いてフォークシンガーを志す。1971年、全日本フォークジャンボリーに飛び入り参加。1974年3月、宇崎竜童に見出され、シングル「上京の状況」でデビュー。1977年、「夜へ急ぐ人」をちあきなおみに楽曲提供。同年のNHK紅白歌合戦でちあきが歌う同曲は大きな反響。

 ぶっつけるようなギターの弾き語りは、ベッキーの心に何か訴えているようであった。明るくみんなに好かれるベッキーには、歌とは、人の心を振るい立たせなければ、歌ではない。歌は人生の道しるべであり、みんながそれに乗れるのだ・・・そんな心境を与えているようだった。それから二ヶ月、彼女の歌が変わったように見えた。聴衆の前で歌う場が与えられるのは、タレントベッキーという実績のおかげであるが・・・。
それまでの歌は、今までの個性、タレントベッキーのキャラがかぶる歌が多い印象であった。
ベッキー♪♯ - 好きだから

http://youtu.be/ZBZnCjvAMyc
ベッキー♪♯ - 心こめて
http://youtu.be/kE-xjEynG1o
それを、壁を破ったのは、歌手ベッキーを出すには一工夫が必要であると判断した「金スマ」スタッフが歌わせたのが「中島みゆき ファイト」であった。カバーしたほうが、新しい歌手ベッキーになるとやらせている。
ベッキーの「ファイト」は、YouTubeにはないだろうが、その代わりに、中島みゆきのファイトがあった。ヒット数
1,069,922 すごい。
ファイト!by 中島みゆき
http://youtu.be/sehTpxlne_0
000 中島みゆきの味わいとは、かなり違うが、ベッキーはいい味があった。これは、友川 カズキに触発されたせいに見えた。
 オリジナルではないが、歌い方は聴きやすい。

「fight02.WMA」をダウンロード

Ws000005 Ws000006

さだまさしが「語りは明るく、歌は悲しく」と完全に二分して演じているように、歌を語りの延長では人の心を惹きつけない。落差、意外性が歌にあってこそ、いWs000008 いな、と思う。

 ベッキーの提灯持ちになるのが本意ではないが、友川 カズキにヒントを得て、「一を聞いて、十を知る」ベッキーは、歌手としていい位置を得るかもしれない。女の歌手で、魂が震える歌を歌う人は少ない。

「ファイト!」歌詞
http://j-lyric.net/artist/a000701/l000dd8.html
中島みゆき「ファイト!」誕生秘話←ラジオ動画
http://mechag.asks.jp/213354.html

0007  友川 カズキは、魂を震えさせる言霊をもっている。それを叩きつけて、これでもか!というこの歌は、いまどきの若者には、ショックだろう。友川 カズキは、自分は消耗品だとか、言葉は唾を吐いているようなものとか、自分にかかってもいいのだ、という。
 

0011 この激しさは、私の世代には上昇志 向が強かったからわかる。今の満たされない気持ちがまだまだある。負けないぞ、まだくたばらないぞ、と叫んでいる。その激しさは燃えているが、静かに時の流れに身をまかせている。

秋の夜長 河島英五か、本田美奈子か 
本田美奈子が歌うドボルザーク新世界
  
寒い冬の日は 河島英五のうたがいい 
私の心は夏もよう 内館牧子と藤本敏夫 

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2012年8月23日 (木)

芸術の秋 リサイタルのお誘い いかが?

Photo  友人の娘婿であったり、友人であったり、応援者つながりで、見てやってほしいと連絡が立て続けにきたので、紹介したい。
●小貫岩夫テノールリイサイタル2012
 届けたい心の歌 東京文化会館小ホール
 9月1日(土)14:00開演、13:30開場
 入場料4000円(ペア券7000円)、学生2000円

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Head01  有能な音楽家であっても、音楽で人生を送るとなると、これは大変だ。がんばれー!とはいえるが、彼らが一番喜ぶのは、見に行き、聴いてあげることだが、音楽を聴きに足を運ぶ・・・、その余裕が、今日本の国民にあるか。
http://clovertimes.cdx.jp/CCP013.html
http://pierino.blog.ocn.ne.jp/pierino/

 

H2_008 ●浅井高平ピアノリサイタルのお知らせ
 大泉学園ゆめりあホール
 
9月11日19時開演、18:30開場
 一般2000円、学生1000円

吉田琢磨・浅井高平ジョイントコンサート
http://youtu.be/9TBaFxNFYNY

Photoリサイタルポスターをアドビファイルで送ってもらったが、ブログでは適応していなかったので、変換に手間取り、ようやく掲載します。あしからず。
 お笑いの世界でも、フジTVタモリの「笑っていいとも」などで、終わりの時間に告知をこまめにやっているが、クラシック音楽の世界は、卑屈になってはいけないし、かといって、偉ぶっても人は来ないし。クラシックの人は、どんな態度で接するのがいいのかね。
 昔は、王侯貴族がスポンサーでお抱え絵師であり、貴族直属の音楽家で、彼らがバックについていないと、芸術家は生きていけなかった。
 どうなんだろう、今は多くの音楽学校で音楽家を多数輩出しているが、一万人の町に音楽家は何人必要だろうか。その町で、何人のプロ音楽家が食っていけるか?そんなケチケチした見方で見たら、芸術を目指す生き方はできない。

 が、芸術家は、自営業みたいな存在であるから、収益が上がらない経営していたら続かない。芸術家は、年金はどうする?医療保険はどうする?月収を上げるには、どうするか、芸術が追いかける夢とは正反対の生活事情と対決しなければならない。その足元を固めてないと、芸術家は続かない。

 それを考えないで飛び込むから、多くの音楽家はできるのであって、それを考えていたら、とても芸術家にはなれないだろう。こういう格差社会で、富裕層が存在してくる社会のほうが、スポンサーになる人がファンになってくれる。

 もうひとつは、大衆に好まれる音楽をインターネット上で、あるいは路上演奏家から人気を得ていく方法もある。
 ジワジワ人気と実力が上がっているHY(エイチワイ)というグループがある。彼らの存在が、私の音楽を見る姿勢にマッチしている、と思った。インディーズ音楽から這い上がり、そしてメジャーになってほしい。

 文楽や能の公的な援助を大阪市は打ち切るつもりで、橋下徹市長は、ふた度見に行って、やっぱり気に入らなかったらしく、援助する気はないように見えた。急に、今の文楽や能演者にもっとエンターテイメントの要素を入れて、人を集めろといわれても、出来ない相談だ。

メンバー 公式サイトHY Official Site【HY Mode】
新里英之(ギター、ボーカル)
仲宗根泉(キーボード、ボーカル)
宮里悠平(ギター)
許田信介(ベース)
名嘉俊(ドラム)
 HY(エイチワイ)は、男性4人・女性1人のミクスチャーバンド。
 メンバー全員沖縄県うるま市出身。 2000年結成以来、インディーズシーンで活動している。個人レーベル“東屋慶名建設”所属(レーベル名で、建設会社ではない) 「HY」というバンド名は、彼らの地元沖縄本島中部、うるま市の与那城「東屋慶名(ひがしやけな Higashi-Yakena)」のイニシャルから来ている。
何が心打つか、その彼らの代表作を聴いてみてください。

時をこえ(LIVE) / HY公式
http://youtu.be/t5A0mkfBj_A

 かれらの演奏活動は泥臭いが、自分たちで歌うべき課題を探して、創作して世に送り出している。沖縄は、今も新しい音楽、民謡が生まれているといわれているが、自分で探して歌にしている。これがいい。出来合いの名曲を上手に歌えばいいというのではない。問いかける姿勢がほしい。ミクスチャーという文化も、新しさがある。
 関東でも、関東らしい土着文化があるはずだ。心を揺り動かす何かを歌い上げてほしい。語りかけてほしい。「原発ゼロ」を浸透させるだけの力ある歌、心に響く歌でもつくったれ!

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2012年5月18日 (金)

SONGs長谷川きよしから 先人たち思う

 盲目の歌手「長谷川きよし」を紹介したのは、永六輔の土曜日のラジオであった。そのラジオを通して、永六輔は、日本中からいろんな人を見つけて紹介してくれた。放送を通じて、人を応援している永六輔の心意気に感動した。

 たとえば、在日朝鮮人歌手新井英一「清河チョンジンへの道」・・・在日朝鮮人の彼が、初めてルーツの故郷を尋ねていく話で、歌を聞くと、韓国人独特の熱すぎる熱唱に圧倒された。この在日の歌手の故郷への熱い思いのCDを私は買ってしまった。
 村役場で謄本を見て、自分の祖父が故郷を出たいきさつを聞いて回る話しが歌われていた。その情熱と心情が韓国特有の金管打楽器の響きに似た歌は印象深かった。

 
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永 六輔(えい ろくすけ、1933年4月10日 - ):
角刈り頭と細長い顔がトレードマーク。血液型はAB型。代々浅草にある寺住職の息子。江戸時代初期渡来中国学僧の子孫。在日外国人17代目と自称。

 ある時は、漂泊の俳人山頭火を紹介してくれた。
 分け入っても分け入っても青い山
 どうしようもないわたしが歩いている
 鉄鉢の中へも霰
 うしろ姿のしぐれてゆくか
 さみしい風が歩かせる

 さだまさしのおっかけがコンサートをひらくたびに、全国から集まっている現状をみると、永 六輔が果たしていた役目を、今さだまさしが、行っているという印象がある。

今の天皇とほぼ同じ年で、永 六輔は、しゃべり方も似て、時々、皇太子時代の天皇の声色を使ってみせたこともあった。終戦時の体験も同時体験している世代は、多士済々。五木寛之、野坂昭如、野末陳平、青島幸男、小沢昭一、藤本義一など。
 一言でいえば、野良犬世代(焼け跡闇市派とも)で、戦後日本の社会がガタガタだった時代に育ったから、縁の下をねぐらにしても暮らしていける世代。実際早稲田文学部に在学中五木寛之は、下宿代がなく、学校の近くにある穴森八幡の祠の中で寝泊りしていたという。

 この人たちとは、世代が違うが、
 長谷川 きよし(1949年7月13日 - ):京教育大学附属盲学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)卒業。日本のシンガーソングライターである。本名は長谷川清志。東京都出身。緑内障のため2歳半で失明し、全盲となる。高校三年生のときシャンソン・コンク
ールに4位入賞。1969年、「別れのサンバ」でデビュー。発売直後はあまり反響のなかったが、深夜放送で流れるようになると、フォーク世代の若者から支持され、大ヒットとなった。巧みなギター演奏と、透明度の高い声によるバラードで人気を博す。

 多くの曲を紹介できないが、三曲を聴いてみる。
 別れのサンバ(1969年)
 黒の舟唄(1972年)野坂昭如のカバー
 灰色の瞳(1974年)加藤登紀子とデュエット

別れのサンバ(1969年)http://youtu.be/XYEPErAdFis
別バージョンで
http://youtu.be/YFk9tnlBP30

灰色の瞳.加藤登紀子 長谷川きよし High quality
http://youtu.be/6Jkhex-CYq4

黒の舟唄(1972年)
http://youtu.be/PikBR18KwlQ

野坂昭如 黒の舟唄
http://youtu.be/DXhdgOI_tXk
作詞作曲野坂昭如の作品かと思ったら、作詞も作曲も別の人がやっているのだね。
冒頭に「男と女の 間には深くて暗い 川がある
誰も渡れぬ 川なれど渡れぬ」意味深な歌詞がある。
 これは、ちとやそっとでは出てこない言葉だ。人間の深部をさぐって、ようやく見つけることのできる言葉だ。野坂昭如によって、世間に広まった感がある。

「黒の舟唄」
能吉利人作詞・桜井順作曲
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/kuronofunauta.html
男と女の 間には
深くて暗い 川がある
誰も渡れぬ 川なれど
エンヤコラ 今夜も 舟を出す
Row and Row
Row and Row
振り返るな Row Row

お前が十七 俺十九
忘れもしない この川に
二人の星の ひとかけら
流して泣いた 夜もある
Row(繰り返す)Row

あれから幾年(いくとせ) 漕ぎ続け
大波小波 ゆれゆられ
極楽(ごくらく)見えた こともある
地獄(じごく)が見えた こともある
Row(繰り返す)Row

たとえば男は あほう鳥
たとえば女は 忘れ貝
真っ赤な潮(うしお)が 満ちるとき
なくしたものを 思い出す
Row(繰り返す)Row

おまえと俺との 間には
深くて暗い 川がある
それでもやっぱり 逢いたくて
エンヤコラ 今夜も 舟を出す
Row(繰り返す)Row

野坂昭如は、当時異端と呼ばれていたが、彼は天才ではないか、と思うくらい才能にあふれていたと思う。字は読めないような下手くそだったらしいが、情緒ある作品を世に送り出している。一番泣かせるのは、神戸で妹をなくしたことをテーマにして書いた
『火垂るの墓』(1967年)は、アニメで見たが、戦争をこういう面から描いて感動させた作品はいくつかあるが、コレに勝る作品は少ない。

日本レコード大賞作詞賞(1963年)
直木三十五賞(1967年)
講談社エッセイ賞(1985年)
吉川英治文学賞(1997年)
泉鏡花文学賞(2002年)
安吾賞新潟市特別賞(2009年)
 直木賞をとっても、それだからどうだ、と言う程度で、意に介していないような振る舞いで、田中角栄に金脈問題がおきると、彼はあの当時国会議員だったか、突然、田中角栄の選挙区へ行って、対立候補として立候補して挑むような行動をした。地元には、父が昔副知事であったとしても、昔のこと、落選した。

1983年12月 参議院議員を辞職し、第37回衆院選に金権政治を批判する意味で田中角栄元首相と同じ新潟3区から出馬。選挙運動中に暴漢に刃物で斬りつけられ、以後の選挙運動を見送らざるを得ない状態に。次点で落選。Wikipedia参照

Ws000000野末陳平と組んで、「早稲田中退・落第」というコンビ名で漫才をやって見せた時期もあった。参議院東京東京地方区で立候補し当選した。そのときは、同世代の著名人を総動員でにぎやかな選挙をした。菅原文太も協力している。彼らの世代の真骨頂は、旧秩序の破壊かもしれないが、見るものには新鮮に映った。残念ながら、野坂昭如は、脳梗塞で倒れ、治療に専念して、何年だろう。

六輔 のラジオ番組で、野坂昭如、小沢昭一の三人で、トークショーをやっていた。不定期で何回か続いていたが、その日、いつものように遅刻常習で、遅れて来ながら威張っているのが、野坂昭如だった。いつもの遅刻だから、彼の悪口を永 六輔と小沢昭一が語っていた。ついに終了時間になっても現れなくて、それが脳梗塞で倒れた日であった。

壇上にあらわれた、映画監督大島渚が表彰される場面で、賞を渡す側にいた野坂昭如は、大島渚を突然殴った。それで、負けん気の大島渚も殴り返して、壇上で大喧嘩になった。そういう場面もテレビのライブでやってのける。今の人には、考えられないのが、今の天皇の年代の人たちである。

 映画監督大島渚の真珠婚式パーティーで挨拶を行う予定であったが、当初の進行予定時間より遅れてしまい、待ち時間に大量に飲酒し酩酊してしまった。その後、挨拶を終えると左後ろで野坂の挨拶を聞いていた大島にパンチを食らわすが、大島も負けじとマイクで野坂の顔面を2発殴った。後に大島が野坂に謝罪の手紙を書き、野坂も謝罪して和解した。Wikipedia参照

長谷川きよしは、たぶん野坂昭如と面識はないだろうが、「黒の舟唄」をカバーしたのは、その歌のよさに惚れたのだろう。野坂昭如は。「男と女の 間には深くて暗い 川がある 誰も渡れぬ 川なれど渡れぬ」と、よく歌っていたが、うまいのか、下手なのか、私にはわかりかねたが、その伝播力はすごいものがあった。

野坂昭如が歌うと、その影が映るから、普通著名歌手は避けているのか、誰も歌わない。あえて、長谷川きよしは世代が違うから、平然と歌っている。いい歌は誰が歌っても、いい。

お前が十七 俺十九
忘れもしない この川に
二人の星の ひとかけら
流して泣いた 夜もある


 今流行っている歌とどこが違うのだろう、と考えてみた。
 宗教の理念が含まれている、この真理を歌えば、多くの人は共感する。心に収まる。コレの共通項は、アメリカナイズ、欧米化されていない部分にある。「
千の風になって 」(私は、ここにはいません)とか、「トイレの神様」など、時々ヒットする歌は、みんな、日本人の宗教観、風習のバックにある何かを突いている。それで、心のひだにスーッと入るから、ヒットするのだろう。

 野坂昭如だけ取り上げても、相当量のエピソードがある。永 六輔 の世代は、多士済々。五木寛之、野坂昭如、野末陳平、青島幸男、小沢昭一、藤本義一、大橋巨泉など、世代を多少拡大したら、膨大になる。きょうは、ここまでにシトコ。

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2012年2月22日 (水)

由紀さおり クローズアップ現代 取上げられて

002 由紀さおりのヒットは、アメリカだけでなく、世界的のヒットで、あれよ、あれよ・・と広がりが大きいので、本人があっけにとられていく状態は、日本のプロ野球からアメリカへ移籍してドカドカンとお金を稼ぐようになったのと似ている。

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★★
由紀さおり in ニューヨーク 投稿者 gataro-clone

5051 「夜明けのスキャット」が出たとき、歌詞がなく、ルルル・・・で続くこの歌、どうやって覚えたらいいか、音痴には難しいと直感した。1969年、友人の神奈川のK大教授になったN君が、私のアパートに遊びに来て、新婚旅行の計画を練っていたのを思い出す。いやはや、40数年前だ。

由紀さおりは、デビューしたころから男性ファンが多かった。その前の少女時代、姉の安田祥子と共に、本名の「安田章子」で童謡歌手として活動した。しかし、昭和二十年代なら、小鳩くるみ並のヒットしただろうが、時期がわるかったかもしれない。そこから、ずーっと売れずに、ソレが『夜明けのスキャット』となるまで、10年。

5077 1965年にキングレコードから「ヒッチハイク娘」(安田章子)で歌手デビューしたが、ヒットに恵まれず停滞。童謡歌手時代から行っていたCM曲やテレビ・ラジオ主題歌の吹き込みや、「大人の世界を歌えるように」という修行もあって、母の付き添いでキャバレー・ナイトクラブへの出演を行いながら雌伏のときを過ごす。

このときのエピソードとして、母親はキャバレーの前に目立たないように、娘章子の帰りを待っていると、女給応募してきたものと違えられ、「遠慮しないで入って」と、女給さんに呼びとめられて、面接に連れていかれそうになったそうだ。

5078 「夜明けのスキャット」に続く「手紙」なんかもよかったと思うよ。こうして、NHK紅白に出て、意やすっポットライトを浴びていたが、その後、しぼんでしまい、雌伏数年で姉安田祥子と童謡を歌って、新境地を開いている。ソレが現在も続いている、という印象である。

5045 それが、ピンク・マルティーニのリーダーでありピ アニストのトーマス・M・ローダーデールが、地元ポートランドの中古レコード店で由紀さおりのファーストアルバム『夜明けのスキャット』(レコード)を発見したことがきっかけだとか。ジャケットの由紀さおりの姿に魅かれたというトーマスは、由紀の透明5052感のある歌声に魅了され、2007年発売の彼らのアルバムで、由紀さおりのアルバム収録曲「タ・ヤ・タン」を日本語でカヴァーしていた。2009年、YouTubeにUPされたこの楽曲のLIVE映像を偶然由紀さおりのスタッフが発見、コンタクトを取ったことから、国境・世代を超えた交流が始まったという。

31jyobcxh8l__sl500_aa300_ 由紀さおりが、年間チャート1位に輝く大ヒット「夜明けのスキャット」でデビューした1969年にスポットを当て、当時日本のラジオから流れていた歌をセレクトしたアルバム制作を開始。このアルバムのアレンジとプロデュースをピンク・マルティーニに依頼し、彼らの提案からそこに世界でヒットしたスタンダード楽曲も加えられ、“日本の歌謡曲”からワールドミュージックとして広がりを持つアルバム『1969』の誕生とつながった。

Img_5084 日本からアメリカへ出かけ、ヒットを飛ばそうと何人ものアーティストが仕掛けたが、坂本九「スキヤキ」(上を向いて歩こう)以来、40年日本人が大ヒットした例がない。それをなぜか、なぜ由紀さおりがヒットしたのか、その点について、「クローズアップ現代」では、追求していた。

日本語は、英語や中国語と比べて、同じ内容を伝えるに長くなる。端的にいうと、日本語で伝えるには言葉数を少なくして、その中に同じものを乗せる・・・この点の欠点と長所を多くの音楽関係者や言語心理学者が説明していた。

5054 その例に説明していたのが、ピーター、ポール&マリーの1960年代にヒットした「パフ」である。英語で歌詞を見ると、言葉をたくさん繰り出して伝えるのだが、日本5057語はそうは語数が入らないから、精選した数語で伝えるしかない。

ソレを歌詞でみると、右の歌詞比較である。His head was bent in sorrow green scales fell like rain.合計11語を日本語の詩は「みどりの うろこ ならして ないた。」四語で表現しようとする。日本語の俳句、短歌の真髄を取り込むことで、詩の背景とストーリーを伝える。これを日本語のゆるやかなリズムが、ヨーロッパにないから、心を癒すのだろう・・・と多くの人が解説する。

「みどりの うろこ ならして ないた。」四語で、His head was bent in sorrow green scales fell like rain.合計11語の内容を伝えるという世界が、今回由紀さおりの歌のうまさに乗っかったのだ、と私は思う。ヨーロッパの解説者は浮世絵に漂う感覚があるというが、異国情緒を言いたいのだろうと思うが、ヨーロッパ感覚のすべてを緻密に伝えて説明する文化から、心にある情景、具象を言語的な分析でなく、言葉は少なくとも、日本語という言語を音として聞いて、その情景を心に描く・・・、それが万国共通の伝達手段で心を癒す。これは、前にも紹介したが、北アイルランドのケルト人歌手エンヤの歌が、意味はわからないが心にしみこむ、ソレと似ている。nozawa22: 歌、メロディ エンヤの歌声を大晦日に聴く 

由紀さおりの歌声は、西洋人には「浮世絵」の癒しと感じたのだ、と説明する。フワーっとした世界を心に描いているようだ。巧まずして、由紀さおりの歌は、ソレを実現した。今まで、日本のアーティストたちの失敗は、アメリカ人はこんな歌、こんなリズムが好きだろう、と向かっていったがその観点が失敗につながったようだ。日本語の特徴五七五で世界を描く芸術を用いて、心象を描く、この日本語の見かたを西洋文化に癒されない部分をつかむと、伝わるのだ、という証明みたいなものだろう。

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竹内まりあ『人生の扉』五十路の応援歌 高橋真梨子の歌 好きになれるか 聴く  エンヤの歌声を大晦日に聴く  世界遺産 チェコ プラハの民主主義  歌、メロディ  音楽  恋愛、愛 私の心は夏もよう 内館牧子と藤本敏夫 吉田正シベリアで作った幻の4曲 台風一過、秋を感じてニニ・ロッソを聴く    夏川りみ 彼女の歌をYouTube聴こう    本田美奈子が歌うドボルザーク新世界     ちあきなおみ 冬隣 喝采 紅とんぼ     真夜中に倍賞千恵子を聴きながら   手紙 拝啓15の君へ アンジェラ・アキ  新宿駅裏「紅とんぼ」ちあきなおみ   椎名林檎 天才か、はったりか  真夏の夜も さだまさし ハーレム   本田美奈子が歌うドボルザーク新世界    

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2012年2月 3日 (金)

NHK SONGS 山本潤子に 心和むひと時

4533 このごろの話題は、世界不況から始まり、国内は原発汚染、震災処理、消費税、新党、マニフェスト、増税、沖縄問題、法人税払わない銀行とか、がさつで肌を逆なでする話題が多い。考えなければならないのは、重々わかるが、気持ちが重くなるばかりだ。これでは、現代の若者は「イヤダ、めんどくさい」と、重い話題から関心を遠ざけてしまう。もっと、心にしみるほのぼのとした気持ちになりたいものだ。

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Artist_yamamoto   山本潤子の歌は、演歌のようなベタベタしたところがない。共感を盛り上げるフィーリングが日本人にぴたりと来る。へつらわないし、媚びない。さらりとした感覚が心地いい。なかなか、動画が制限される音楽界にあって、彼女の曲は沢山でている。音楽事務所に仕切られている人が多い中で、自分の音楽を聴いてもらうという姿勢がしっかりしているように見える。(がめつい人かどうかは、印象ではわからないが)

冷たい雨http://youtu.be/t-55gtC3z_4
もとは1975年に発売された、バンバンのシングル「『いちご白書』をもう一度」のB面に収められていた、荒井由実作詞作曲の作品。最初にこの曲を聴くと大人のドロドロで子供にはついていけない。 できれば、これは、いろいろ聴いたあとで、聴いたほうがいい。

4510 山本 潤子(やまもと じゅんこ、1949年12月30日 - ):日本のシンガーソングライターである。旧姓、新居。奈良県吉野郡天川村出身。葱の花オフィス所属。性格は「一見クールだが、天然」。2人の娘の母親でもある。
代表曲に「翼をください」(作詞:山上路夫、作曲:村井邦彦)、「卒業写真」(作詞・作曲:荒井由実)などがある。「翼をください」は約30年以上にわたり小学校の音楽の教科書に採用され、現在でも合唱曲として有名。
 4人姉妹の末っ子として生まれ、生後半年で父親の実家がある大阪市阿倍野区に転居。南大阪幼稚園、苗代小学校、阿倍野中学校を経て、帝塚山高校卒業、帝塚山大学卒業。高校2年生のとき、ピーター・ポール&マリーのコピーバンドを結成

1969年、フォークソンググループ「赤い鳥」を結成。同年、第3回「ヤマハ・ライト・ミュージックコンテスト」全国大会にて「竹田の子守唄」を歌いグランプリを獲得。第2位のオフコースなどを抑えての優勝。
1973年4月、メンバーである山本俊彦と結婚

SONGS第206回は、山本潤子が登場。『赤い鳥』『ハイ・ファイ・セット』を通じ4514 て、日本の音楽シーンを代表する女性ボーカリストとして活躍を続けている。プロデビューするきっかけとなった、1969年のライト・ミュージック・コンテストに同じく出場したアマチュア時代からの音楽仲間、小田和正や財津和夫のインタビューをまじえ、懐かしの名曲とともに当時の熱気を振り返る。ライト・ミュージック・コンテストでは、山本潤子をふくむ『赤い鳥』は、完全な仕上がりで、彼らはこれをプロになるステップとして臨んでいた。小田和正や財津和夫らのコメントは、コレを最後にして就職しようと思っていた、という。「赤い鳥」に刺激をうけて、コレでは終われない、と痛感して再度、音楽に真剣になっていった、と説明した。

卒業写真/翼をくださいhttp://youtu.be/c1vTp00DrUU
 『翼をください』
1971年にシングル「竹田の子守唄」のB面に収められた。作曲の村井邦彦は、『赤い鳥』の才能見出し、プロデビューに導いた。彼らのコンサートでは最後に観客と一緒に歌われた。1976年には音楽の教科書に掲載されるようになる。それ以来、世代をこえた名曲として知られるようになった。
 『卒業写真』
1975年に発売された『ハイ・ファイ・セット』のデビュー曲。詞・曲は荒井由実。ユーミン自身も、4ヵ月後にアルバム「COBALT HOUR」で歌っている。シンガーソングライター・荒井由実の名を広めるとともに、『ハイ・ファイ・セット』の新しい世界が表現された名曲

山本潤子 - 「海を見ていた午後 1997 TV LIVE」http://youtu.be/4Md8Xb9wXPg
4557 1974年荒井由実のアルバム「MISSLIM」の1曲。横浜のレストランからカクテルの青を通して船を見る情景から作詞作曲した、といわれている。『ハイ・ファイ・セット』1975年発売のアルバムでカバー。ユーミンの歌の世界が凝縮された1曲。

山本潤子竹田の子守唄.flv http://youtu.be/M8jvkubfRzo

イムジン河 - 山本潤子 × 泉谷しげる http://youtu.be/NHPkR5bSvco

山本潤子 フィーリング ★★
http://youtu.be/iW5ahYBnssE

4501 4543 女性の容姿が音楽を左右するわけではないが、中学生の山本潤子、高校生の山本潤子、プロになった山本潤子と、見ていくと、それなりの容姿ではあるが、匂うがごとく美しくなっているとも思えない。

4600 歌う姿勢が、媚コビがないし、へつらわない。人間の原点、原型を追及する。大げさにいえば、真髄は何か、その点に集中しているから、人の心をうつ。歌手としてゆるがせてはいけない点を持っている。これが、ヒットにつながり、友達にも恵まれ、いいプロの楽曲をもらっている。それは、人徳かもしれない。それがヒットとなっている。自分だけの努力では、楽曲に恵まれるというのは難しい。

竹内まりあ『人生の扉』五十路の応援歌 
高橋真梨子の歌 好きになれるか 聴く  
エンヤの歌声を大晦日に聴く  
世界遺産 チェコ プラハの民主主義  
歌、メロディ
 
音楽  恋愛、愛 
私の心は夏もよう 内館牧子と藤本敏夫 
吉田正シベリアで作った幻の4曲 
台風一過、秋を感じてニニ・ロッソを聴く  
夏川りみ 彼女の歌をYouTube聴こう 
本田美奈子が歌うドボルザーク新世界
 
ちあきなおみ 冬隣 喝采 紅とんぼ 
真夜中に倍賞千恵子を聴きながら  
手紙 拝啓15の君へ アンジェラ・アキ 

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新宿駅裏「紅とんぼ」ちあきなおみ 
遠藤実 国民栄誉賞 北国の春  
三原純子『南から南から』昭和17年 
歌で一息 休憩だ 
椎名林檎 天才か、はったりか 
佐藤しのぶ 品のある点が魅力  
夏川りみ 彼女の歌をYouTube聴こう 
アジアの風 感じて 加藤登紀子  
ちあきなおみ 冬隣 喝采 紅とんぼ      

親愛なる子供たちへ「手紙」樋口了一  
イムジン河 加藤和彦の自殺はなぜ 
秋の夜長 河島英五か、本田美奈子か 
本田美奈子が歌うドボルザーク新世界  
寒い冬の日は 河島英五のうたがいい 
私の心は夏もよう 内館牧子と藤本敏夫 

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2012年1月23日 (月)

こまどり姉妹の健康10か条

4208黒柳 徹子より5つほど若いが、こまどり姉妹:1938年(昭和13年)2月16日生まれ。北海道厚岸郡厚岸町出身の双子歌手。父親は炭鉱労働者。その後樺太へ渡り、敗戦まで樺太で育つ。太平洋戦争後は、極貧生活の中、帯広市や釧路市の炭坑町を転々とし、ついに家賃が払えなくなり夜逃げ。姉妹は日銭を稼ぐために門付けを始めた。1951年上京。1959年に日本コロムビアより「浅草姉妹」でデビュー。

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4202 ザ・ピーナッツが出ているころ、演歌の双子がこまどり姉4207 妹であった。いまでは、まあまあお年を召してね、昔、出会ったおばさんにそっくりだ。

昭和30年代、友人Kが根津神社の近くに下宿したと聞いたので、遊びに行った。都電の通りを一本入った通りに大正時代の木造の二階に間借りしていた。昔芸者だったというおばさんが白塗り白粉だらけの顔を出して、お茶を出してくれた。おばさんが下へ降りたあと、「Kちゃん、洗濯ものない?と親しげにいって、パンツまで洗ってくれる」と、高校卒業したばかりの彼はこの白粉だらけが苦手で、三ヶ月もいないで転居してしまった。こまどり姉妹がちょうどそんな年頃で、昔々を思い出してしまった。

419220代こまどり姉妹
 姉栄子、妹葉
子は、似ているが体重差は10~8キロあるという。妹はガンで余命までいられるほどの重態であったので、手術後はナニを食べても健康であればということで、食べて太ったとか

4199その二人、きわめて健康であると強調していた。目は裸眼で新聞も読めるし、耳もいい。歯は全部自前の歯で硬いものも、バリバリ食べられる 。子供のころ、貧困生活で、甘いものを食べる機会がなく、大豆を炒ったものがおやつであったからだ、という。

健康の秘訣は、
①枕元に500CCの
を置き、起きた時と寝る前にコップ一杯の水を飲む。
歩く。20分程度の速歩を一日二回か三回、合計一時間歩く。
③派手な、明るい洋服を着る。
若返る気持ちが大切。
④いやなことは、一日で忘れる。
ストレスをためない
ガムをかむ。かむと頭脳を刺激、口に唾液が出て歯を鍛える。
歯磨きを一日3回、やわらか歯ブラシで。
⑦食事前に
根菜の煮物を食べる。もちろん、肉魚も筋肉のために食う。
Img_4203 Img_4204
手先を動かす。グー、パー運動で10秒で30回できると、25歳の若さ、20回なら35歳。
⑨⑩は、聞きそこなった。

1961年(昭和36年)、NHK紅白歌合戦に初出場。ザ・ピーナッツに次いで紅白史上2組目の兄弟・姉妹での出場となった。紅白歌合戦にはこの年から7年連続で出場
4195  第12回(1961年場)『姉妹酒場』 第13回『未練ごころ』 第14回『浮草三味線』 第15回『女の恋』 第16回『恋に拍手を』 第17回『幸せになりたい』 第18回『三味線渡り鳥』  最近の歌手は古い持ち歌を繰り返して歌ってごまかしているが、彼女たちは同じ歌を歌わない努力している。

人気絶頂の1966年(昭和41年)5月8日、鳥取県倉吉市で公演中に突然、18歳の男が舞台に駆け上り、相手を間違え、葉子を刃物で刺した。この男は、栄子のファンで、結婚を望んでいたが応じてもらえなかったので、無理心中を図ったというもの。葉子は腹部を刺され重傷を負ったが一命を取り止め、しばらくして舞台に復帰した。

このころ、美空ひばりに塩酸を掛けた事件があった。何か舞台の人が身近な人と混然一体の考えをするのは、昔からいた。歌手で華やかに人であるはずだったが、いつも過去を引きずるような印象があった。

父母の死、葉子のガン、葉子の大怪我、栄子の交通事故、脱税問題などの不幸が続き、大きな借金を抱えたまま1973年(昭和48年)に一時芸能界から離れた。2009年(平成21年)には片岡英子監督によるドキュメンタリー映画『こまどり姉妹がやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』が公開。(Wikipedia参照)

4210 4211 ハムレットにこまどり姉妹が出る?という意外性狙って・・・蜷川演出で、と説明している。西洋劇に日本的な感性を入れるのだとか。怪しげなもので、ぶっ飛ぶ危機性があって、緊張感を生む。二人に日本人の人生と存在感、そういう目線がほしかったと説明している。

しばらく見ていないこまどり姉妹が、最近こうして引っ張り出されるのも、アレかな。3・11大震災だろう。戦後の日本の貧しさから立ち上がってきた歴史を、彼女たちが体を通して表現している、と感じられるからかもしれない。

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2011年11月21日 (月)

人生 たそがれ時に 童謡を歌う森昌子 

2626 今日は天気がよかったので、フトンを干した。ついうっかり日が落ちたのに気づかず、四時半ころフトンを取り込みに行ったら、夕焼けの美しさに、つい「カメラ、カメラ」と叫びながら、たそがれ時の夕焼けを数枚写したが、急いでたので、電柱がじゃまでいいアングルではないが、黄昏【たそがれ】時の色に見とれた。

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2630 「徹子の部屋」で、森昌子が「ふるさとコンサート」では、最近童謡を歌っているといっていた。11月に「朧おぼろ月夜」を歌うのは、そぐわないかもしれないが、歌唱力のある森昌子だと、すごくしっとりして聴けた。

 朧月夜 ←クリック 伴奏聴ける
 
高野辰之作詞・岡野貞一作曲
2628_2 菜の花畠(ばたけ)に、入り日薄れ
見わたす山の端(は)、霞(かすみ)ふかし
春風そよふく、空を見れば
夕月(ゆうづき)かかりて、におい淡(あわ)し

里わの火影(ほかげ)も、森の色も
田中の小路(こみち)を、たどる人も
蛙(かわず)のなくねも、かねの音も
さながら霞(かす)める、朧(おぼろ)月夜

 こういう童謡、同窓会の〆に歌うとよかったな、とあとから思う。あと何年後に又会えるか、それを思いながら。たそがれ、夕焼け、故郷の空に、ああ、15歳に帰るすべもない今、歌えるなら歌いたい。

おぼろ月夜 森昌子の歌ったものをYouTubeで見ようとしたが、著作権のあるものは、タダでは見られない。★

 森進一森昌子夫妻は離婚して、森昌子は再デビューで脚光を浴びていたが、年齢も年齢であったから、更年期にさしかかったところで、体調不良を自覚し、診察を受けると子宮筋腫だった。MRI映像を見ると、筋腫が沢山、十数個あって、大きなのはみかん大から、そのまわりに粟粒のような筋腫があった。それらをレイザーで全部焼ききって治った。

 だが、そのころは更年期症状が同時進行してウツの症状を伴っていた。人と会うのが億劫で、仕事としてステージで歌っているときは笑顔で振舞うが、終わったとたん反動で、一人で26階のマンションのベランダで外を眺めていると、鳥のように飛べそうな気になるとか。母親や息子が母昌子がおかしいと思うと声をかけて、我に返るというときがあった。

 子宮筋腫が治ったあと、不正出血が続いたので、主治医の先生に見てもらうと子宮頸がんとわかった。「一番よい方法は?」という問いに対して、先生は子宮全摘出を勧めた。彼女は即断は出来ず「二三日考えさせてください」と保留して帰った。子供を生んだこの子宮を摘出してしまう女の気持を私にはわからないが、数日考えて再び主治医に「最適の方法は?」と訊ねると、今後歌手活動をするには、やはり思い切って子宮の全摘出がいいでしょう、ということで、「わかりました」と承諾して、全摘出手術を受けた。手術は、2634 癒着が多くあり、合計8時間の大手術で無事退院した。

退院記者会見 その会見では「50年も私の中にあったものを取るのだから」と語って、でも、「取ってよかった」と語った。元気になった姿を見せることで、同じ病気で悩んでいる人へのメッセージになり、手術へ踏み切れるのではないか、と語った。

 女の人生にはいろいろある。だが、「これが私の人生」、「私には、資格も技術もない。歌うことだけですから」と、ようやく開き直って一皮むけた森昌子になったように見えた。

 和田あきこのように強いキャラの歌手ではないが、この森進一との結婚し子供を生み、離婚した。再デビュー、子宮筋腫、更年期から来るウツ、難病の子宮頸がん、と続く。これらの人生を経て、今はもう、歌でも生活でも、自由な立場に立った。これらの経験がプラスにできないのか。

 活動は、新曲ではなくていい。日本伝統の歌を彼女のフィルターを通して歌いつなぐと、童謡にしても、歌が生き返る。中興の祖のような人になれると思うが、どうだろう。

 彼女は、素直な日本人ぽい歌が歌えると思う。彼女が歌うと、聴きたいと同時に、ナゾッて歌いたくなる。これが、彼女の歌。・・・カラオケで歌うと、うまいのに「もういい」という人がいるが、アマチュアの森昌子がカラオケで歌うとしたら、「もっと聴きたい」という気がする。声とメロディに拒否反応がない人だ。

2632 2631 デビュー時の森昌子  「せんせい」を歌ったときの森昌子、中二トリオで歌っていた三人娘の中では器量はいいとはいえないと思ったが、その分、歌唱力でカバーして、歌は抜群であった。いまの彼女、整形?と思うほど、いい感じになっている。しっとりした雰囲気がある。この歳になると、女は雰囲気だね。

 これからは、流行を追わず、歳相応に・・・しっかり、胸に響く歌を歌う歌手に変身してほしいものだ。この離婚、子宮筋腫、更年期うつ、子宮頸がんを乗り越えてきた彼女だからこそ、といわれる歌手になってほしい

 由紀さおり姉妹の童謡は、狙いすぎの童謡だ。今、由紀さおりは、アメリカ、ヨーロッパでブームにのっているようで、歌が変わるかもしれないが。森昌子には、もっと「日本人固有のメンタリティ」を歌い上げてもらいたい。私の言っていることが伝わるかな?夕焼けに感動するとか、たそがれに思いをこめるような・・・わかるかな。

森進一はなぜ離婚するか: nozawa22

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2011年11月10日 (木)

金子みすず 亭主に禁じられた詩作

C0193833_0292487   私と小鳥と鈴と
私が両手をひろげても
お空をちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように
地面を速くは走れない。

私が体をゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように
たくさんな唄はしらないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。

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もうひとつ、有名になった金子みずずの詩を紹介してみる。

S0804262_2  大漁 (鰮いわし
朝焼小焼だ
大漁だ
大羽鰮の
大漁だ。

浜は祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
鰮のとむらい
するのだろう

詩としては、着眼点が人間の側ではなく、鰮から見たらそのとおりだから、ハッと気づいておどろく新鮮さがある。今からまねても、詩人として大成するかは、保障のかぎりではないが。

金子みすずの詩は、死後50年を越して、著作権者の権利失効が成立している。遺族に著作権がなく、『金子みずず著作権保存会』が印税を受け取る形になっている。その中から、遺族に印税の一部を支払うという。死後50年過ぎてから発見されて、急にクローズアップされて、幸運というか、不思議な立場である。

金子みすゞ記念館(生家跡):大正期の童謡詩人金子みすゞ(1903-1930)は仙崎で生まれ、深川高等女学校(現在の山口県立大津高等学校)を卒業するまでの間を仙崎で過ごした。
  仙崎(せんざき)は山口県長門市の一地域で旧・大津郡仙崎町一帯を指す。日本海側屈指の漁港として、また蒲鉾の産地としても知られ、戦後の引き揚げ港。現在は仙崎駅~長門市駅間で列車が往復運転している。詩作の大半は奉公先の下関市で行われたものだが、その題材には仙崎の情景が多く描かれている。代表作の一つである「大漁」は仙崎漁港に大量に水揚げされた鰯にモチーフを得たものだとされているし、王子山、弁天島、祇園社(八坂神社)など仙崎の風景を読んだ詩も数多く残されている。また、みすゞの墓所も仙崎にある。

Img_236636_27043985_0_2   『にんげんだもの』相田みつを
くるしいことだってあるさ 人間だもの
まようときだってあるさ 凡夫だもの
あやまちだってあるよ おれだもの

ヘタうまい文字で「人間警句」の相田みつをの心とよく似た心象だと思う。しっかりつかむと壊れてしまう「魂の形」を上手に描く。宇都宮市の柴田トヨさん(99)の初詩集「くじけないで」にもその雰囲気がある。100歳になったトヨさんが書いた詩は、「さびしくなったら」だ。

Dscn1084 さびしくなった時 
戸の隙間から 入る陽射しを 
手にすくって 何度も顔に あててみるの
そのぬくもりは 母のぬくもり
おっかさん がんばるからね 
呟きながら 私は立ちあがる

相田みつを、柴田トヨさんの詩は、細工がないように見える。細工していないように「細工」しているのだろうが。金子みすずは、ダレが教えたのか、天性の何かをもっているようだ。だから、赤い鳥(北原白秋)、金の船(野口雨情、金の星に改題)、童話(西条八十)に投稿して、大正12年、初投稿から注目された。西条八十から「どこかふっくらして温かい情味が謡全体を包んでいる。この感じは英国のクリスティーナ・ロゼッティのそれと同じだ。閨秀の童謡詩人が皆無の今日、この調子で努力して頂きたい」と激賞されている。それから、金子みすずの詩は、その後3年間、みすずの作品が掲載され続けた。

Ws000004 Ws000006 金子みすず(本名テル)は、山口県大津郡仙崎に生まれ、父庄之助、母ミチ、兄竪助、本人テル、弟正祐の一家であったが、父はテルの三歳のとき死亡。母の妹フジが、県内屈指の書店「上山文英堂書店」に嫁いでいた。テル(みすず)が女学校2年のとき、叔母フジがなくなり、女手がないからということで、母ミチが後妻に入った。弟は幼いうちから、文英堂の養子になっていた。兄竪助が結婚することになった時点で、テル(みすず)は、文英堂下関店で店番として勤め始めた。この本に囲まれたこの時期、この生活が気に入っていた。詩を書くにも適し、投稿していた時期と重なる。

9784882843023 上山文英堂店主(社長)上山松蔵の指示で、大正15年、社員の中で手代格(中間管理職)の男と結婚した。文英堂の発展のため、身内で組織を固めるため、テル(みすず)を利用したともいえる。養子となった弟正祐が一人前になる前のリリーフとして考えられていたようだ。テルの夫が仕事はできるのかもしれないが、ワンマンで遊び人であった。一番のつらいことは、みすずに「童謡を書くな。投稿仲間と文通をするな」と禁じたことである。詩を全く理解しない、みすずの心から一番遠い男であった。昔は、そういう政略結婚のような結婚でも、そう不思議とは思われなかった。

詩で飯が食えるか!」「魚屋に学問はいらん!」とか、「女は黙れ!」「飯は黙って食え!」とか、昔の男の中にはガンコに自分の考えを一方的に押し付ける人がいたものである。今の男には、考えられない古い時代の世界が当然のように広がっていた。古い日本の社会は、そうなんですよ。

 当時の男の常識だったかもしれないが、みすずの夫は花柳界に出入りして、夫の立場からすると、気のあわないみすずの顔を見ているより、女にチヤホヤされているほうがいい。そのうち、遊郭で性病(淋病)に罹患して妻みすずに移してしまった。これが引き金になって、離婚となる。最初子供(女の子)は、妻みすずの養育であったが、夫が気が変わって子供を渡せという要求をしてきて、当時の法律では妻が拒否できなかったのか

Misuzu その前夜、娘3歳と一緒にフロに入り、童謡をいっしょに歌い続けていたという。深夜、母や親族に遺書を3通書いた。母には「今夜の月のように私の心も静かです」昭和5年3月10日、上山英文堂二階でカルモチンを飲んで命を絶った。娘と一緒に撮った写真の預り証と三通の遺書が残っていた。

みすずの詩は、一切発表されていないから、突如発表されたように見えるが、昭和5年まで密かに書かれていた。書き溜めた詩はノート数冊に清書して、童謡詩に理解のあった弟正祐あてに送ってあった。その後、ずっと彼の手元におかれていた。

文庫本「金子みすず童謡集」角川晴樹事務所発行より参照

私の言いたいことは、金子みすずが愛するわが子を夫に奪われて、その苦しみを歌ったら、どんな詩がかけたか、それが私には興味がある。残酷な要求であるが、童謡から本当の詩人、人間の佳境に入ると思う。この部分は、ないものねだりであるが、芸術家の境地である。二十五で死んではいけないよ。まったくちがった詩が出来るはずだったと思う。

だだ、金子みすずは生きていれば、108歳くらいだ。子孫がまだ多くいる。彼女が生きていたころを知っている人も多い。詩は発表できないかもしれない。 安住紳一郎と米倉涼子 金子みすず巡り:

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2011年7月18日 (月)

上を向いて歩こう いかにしてできたか

6743 「上を向いて歩こう」は、いかにしてできたか。ちょうど50年前、突如として出てきた。音楽の世界はみんな地上に芽を出すように、中村八大、永六輔、坂本九が結びついた。

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坂本九 上を向いて歩こう
http://youtu.be/E5Zmh_6Ngto

  上を向いて歩こう
 涙がこぼれないように
 思い出す春の日 一人ぼっちの夜

 上を向いて歩こう
 にじんだ星をかぞえて
 思い出す夏の日 一人ぼっちの夜

 幸せは 雲の上に
 幸せは 空の上に

 上を向いて歩こう
 涙がこぼれないように
 泣きながら歩く 一人ぼっちの夜
 思い出す秋の日 一人ぼっちの夜

 悲しみは 星のかげに
 悲しみは 月のかげに

 上を向いて歩こう
 涙がこぼれないように
 泣きながら歩く 一人ぼっちの夜

 一人ぼっちの夜
 一人ぼっちの夜

Img_6763 兄貴分の中村八大が、早稲田の後輩である永六輔に出会ったのは、有楽町の日劇前である。26歳の永六輔は放送作家になっていた。

中村八大は、すでに人気音楽家になっていて、二本の映画音楽の作曲を依頼されていた。その作曲に歌詞を作れる人を探しているところに、運命的な出会いをした。二本の映画につかう曲を一晩でつくるという厳しいものだった。歌を作るための作詞かがいない・・・、思案をしながら有楽町の日劇の前を歩いていたとき、早稲田大学の後輩永六輔に出会った。

永は、大スターの先輩に声をかけられ、体が固まっちゃうというか、硬直状態で、その硬直状態の永六輔に「きみは歌詞が書けるか?」と言われて、書いたこともないのに、とっさに永は「書けます」と嘘をついてしまった。これが、人生のスプリングボードだった。どうしようか、どうしょうか、と思ったけれど、書かざるを得なくなった。

Img_6760 「オレが10曲つくるから、10の歌詞をつくれ」っていわれて、本当に脂汗を搾るようにして作った。二人はアパートの部屋の両隅に机をわけて、詞と曲をどんどん量産始めた。八大のマネージャーをやっていた桑島は、後に語っている。

Img_6758 最終的に、八大が「じゃあ、この詞にはこの曲」っていう10曲をしぼってきめた。その10曲の中に「黒い花びら」が入っていた。一晩アパートにこもって、映画二本分の作曲を仕上げ、その中に今後の運命を大きく変える歌があった。

それが、水原弘の歌った「黒い花びら
黒い花びら 静かに散った あの人は 帰らない・・・

水原弘は、私の従兄の「洋ちゃん」にそっくりで、太い眉毛で似ているな、と思ったものだ。昭和33年頃か、レコード大賞を昭和34年に取った。水原弘、余り人気が長く続かなかったのは、酒か、身を持ち崩して、再起したのか、それともそのままだったか。

中村八大はロカビリーの全盛に斬新なサウンドを取り入れ、放送作家永六輔は話言葉をつかったシンプルな歌詞、二人でつくった歌は音楽界に衝撃を与えた。曲はレコード化去れ大ヒットした。この年に始まった、レコード大賞を受賞した。こうして中村八大、永六輔は作曲家、作詞家としての成功を手にして、このコンビが数多くの名曲を生み、この二本の映画の中で、脇役であったが坂本九が出演していた。六八九の軌跡が交わった。坂本九が17歳というから、それは、「上を向いて歩こう」のヒットの二年前である。

6738 6735_3 中村八大は、案外多くのコンサートもやっていて、あるコンサート(1961年7月21日)には、江利チエミ、ザピーナツ、水原弘、坂本九19歳(上を向いて歩こう)、森山加代子、デュークエイセス、石井好子、三木のり平、水谷良重、加山雄三、

6739 「上を向いて歩こう」が初お披露目された日であった。それを舞台袖で聞いていた永六輔は坂本九の歌い方を聞いて、そのときの感想を語っている。

6756 永六輔は、60年安保の闘争に加わって、仕事を減らしても、政治を変える、日本の平和を維持する。日本中が、戦後の廃墟から立ち上がってきた気持を体制にぶっつけ、樺美智子さんの死を象徴するように、大衆の運動が挫折していく。それをむなしく、悲しむ・・・この永六輔の感情が悲しいけれど、泣いてはいけない・・・この気持が「上を向いて歩こう」には込められている。

作詞の気持と作曲の心が一致したわけではないが、中村八大の感性から、時代と音楽性を生かし、坂本九の個性を表に出した。悲しいけれど、泣かないぞ、そんな気分、だから50年たっても、いろんな場面で歌われている。

6748「ユニークな歌い方であろうが、日本語は、なんだよ!この日本語はひどい、この歌これでメチャクチだな、と思いながらコンサートを一人帰った。あいつが歌ったから、ダメになってしまった、残念だな、この歌はと思って帰った。そのあと、「夢であいましょう」であの歌が登場してから、アーっという間にヒットしたとき、オレは全然わからないと言う気分だった」

このユニークな歌い方を仕掛けたのは、中村八大だった。今日は赤ちゃん、遠くへ行きたい、帰えろかな・・・数多くの名曲を残した。

6761 早稲田へ入って、ずぐに渡辺普さんに見出され、シックスジョーズに誘われ、プロジャズピアニストになった。人気ピアニストになった。53年には、ビッグフォーを結成して、
ピアノ  中村八大、
ドラム  ジョージ川口、
ベース  小野 満、
サックス松本英彦

このころから、ずっと作曲家として成功したいと願っていた。そのころに映画音楽をつくる仕事を依頼され、作詞を永六輔との出会いになる。

中村 八大(1931年1月20日 - 1992年6月10日享年61):中国大陸青島チンタオで出生、作曲家・ジャズピアニスト。『上を向いて歩こう』、『こんにちは赤ちゃん』、『遠くへ行きたい』、『明日があるさ』など、1950年代末から1960年代に数々のヒット曲を作曲した。

1945年に福岡県久留米市へ引き揚げ、そこで旧制中学明善(現・6753_2 福岡県立明善高等学校)、早稲田大学高等学院、早稲田大学文学部卒業。学生時代からピアニストとして活動。早稲田大学に進学してからは、ジョージ川口、松本英彦、小野満と共にジャ6757 ズバンド「ビッグ・フォー」を結成。その活躍ぶりが、当時早稲田大学のベーシストだった渡辺晋(渡辺プロダクション創業者)の耳に届き、早稲田大学文学部に進学後 兄を通じて渡辺晋と対面。渡辺が結成していたコンボバンドに加入。しかしながら1953年からはドラマーのジョージ川口率いるカルテット「ビッグ4」のメンバーとなり、大衆的ジャズブームの渦中で非常な人気を得た。
 その後、1950年代末からは作曲家としての活動に主軸を転じ、ジャズのセンスを生かした特異な作風で、永六輔とのコンビで多くのヒット作を世に送り出した。「上を向いて歩こう」など二人の歌をしばしば歌った歌手の坂本九を合わせて、『六・八・九』と呼ばれる。

6744 1959年の『黒い花びら』(作詞・永六輔、歌・水原弘)で、第1回日本レコード大賞を受賞。
1963年の『こんにちは赤ちゃん』(作詞・永六輔、歌・梓みちよ)で、第5回日本レコード大賞を受賞。
1966年1月、ミュージカル「宝島」の音楽担当。
1966年10月、第1回リオデジャネイロ国際音楽祭に、江利チエミの『私だけのあなた』を出品。オーケストラ編曲賞を受賞。
1970年からはNHK総合テレビ「ステージ101」の音楽監督を務めた。
1992年6月10日、心不全のため他界。享年61。晩年は持病の糖尿病に苦しみ、音楽活動の一線からは退いていた。葬儀は浄土真宗で行ったが、77日忌は日蓮宗にて行われた。
Wikipedia参照 

永六輔のガールフレンド黒柳徹子:

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2011年7月14日 (木)

長渕剛 松島基地隊員を慰問激励

004_2 Hold Your Last Chance(クリックすると長渕剛の歌が映像つきで聴けます)

長渕剛 いのち

長渕剛 / 巡恋歌

長渕剛 乾杯 

長渕 剛 とんぼ

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Close Your Eyes・・・特攻搭乗員に捧げる歌

私の胸へ帰っておいで
気高いあなたの勇気を抱きしめたい
ひそやかな海に咲いた白い花たちが
今 私のからだに折り重なる

close your eyes 瞳を閉じれば
あなたが私に微笑みかけるよ
close your eyes 瞳を閉じれば
希望へ昇る あなたが永遠(とわ)に生きる

6576 6589 今年長渕剛は60歳になる。熱い彼は、そんな年を感じさせない。歌手キャラとして、そうしている面もあるが。とにかく熱い。そうし続けるには、エネルギーがいるだろうが、がんばっている。

松島へ来る前には、石巻で避難所にいる人々と共に歌って、盛り上がっていた。彼には音楽、歌という武器がある。人々を巻き込む力が備わっているから、会場に着くとすぐ人の輪に囲まれて歓迎される。素人の一般人では、こうはいかない。

6615 自衛隊員のご苦労がヒシヒシと、身につまされる。給料をもらって仕事をしてるにしても、泥まみれになって、汗水をたらしてガレキの中を毎日、全国から集まった若い人に、長渕剛は、格納庫の急ごしらえのステージに立って、感動したことを話し始めた。

6600 「松島基地の自衛隊のみなさんに、会いたくて、会いたくてたまらなかった!(大勢の隊員は、ワーッと盛り上がった)

この松島が絶望に伏してしまって、何をしていいか、わからなかった。何もなすすべがなかった。そんな時にみんなの勇姿、みんなの瞳、にんなの動き、もう日本はだめかと思った。

6603 だけど、そこに日本はあった。みなさんは、日本の誇りです。ボクの、ボクの、ボクのだいじな誇りです。思い切り、これで死ねる思いです。思い切り声を出して歌おう!歌おうや!

かたい絆に 想いを寄せて 語り尽くせぬ 青春の日々
時には傷つき 時には喜び 肩をたたきあった あの日

あれからどれくらい たったのだろう 沈む夕日を いくつ数えたろう
ふるさとの友は 今でも君の 心の中に いますか

6624 乾杯! 今 君は人生の 大きな 大きな舞台に立ち
遥か 長い 道のりを 歩き始めた
君に幸せあれ!

キャンドルライトの 中の二人を 今こうして 目を細めてる
大きな喜びと 少しのさみしさを 涙の言葉で 歌いたい

明日の光を体に浴びて 振り返らずにそのまま行けばよい
風に吹かれても雨に打たれても 信じた愛に背を向けるな

乾杯! 今 君は人生の 大きな 大きな舞台に立ち
遥か 長い 道のりを 歩き始めた
君に幸せあれ!

人生の大きな舞台に立ち、遥か長い道のりを歩き始めた」これに、重荷を背負い、とあれば、徳川家康の遺訓の内容と同じになる。
人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くが如し、
急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし、
心に望み起らば困窮したるときを思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え、                       
勝つことばかり知りて、負けることを知らざれば、
害その身に至る。
己を責めて人を責めるな、
及ばざるは過ぎたるより勝れり
人生の重荷は、明るく励ます・・・長渕がその点を上手に応援している。これは、長渕剛が新境地を開いたと言える。

特に松島基地の隊員、2500名の前で彼が語ると、全員が反応して応えてくれていた。これだけ、全員を一致して、歌を歌うと右に揺れ、左に揺れ、お約束事かもしれないが、彼のいう言葉が魔法の杖のように、彼らは全員催眠術にかかったも同然。その点、長渕剛が、彼ら自衛隊の国士、戦場(被災地)での汗水流して、国を思う長渕が若い隊員に感謝、感謝という言葉に感動しているのが見える。

自衛隊員の気持を完全につかんでいる。人生相談に乗っているようなもので、教導師になっている。歌自体の歌詞が、彼らのハートをつかんでいる。この領域が新しい長渕の働き場所だ。

 私は順子と言う歌で、長渕剛を知った。あれは二十数年前、息子の中学三年の担任がお別れ会で、乞われて独唱した、と記憶している。それ以来、順子が気になっていた。

長渕 剛 とんぼ

0008_2 長渕剛のプライベートは波乱万丈であった。石野眞子と結婚して、二年ほどで、彼のDV(ドメスイティック・バイオレンス家庭内暴力)で、石野は離婚。その後、志穂美悦子と結婚、この間に国生さゆりとの密会を写真誌にスクープされ、おおモメして、まあ、賢妻志穂美悦子は、国生と長渕をいれ、話し合いで円満解決したとか。「石野真子と長渕剛 婚約会見」81年9月頃

この国生との付き合っている間、長渕は麻薬で逮捕されたり、アレアレと歌手危機であったが、それを克服して、今、新しい境地へ到達できているのは、賢妻志穂美悦子のおかげかもしれない。志穂美は、平凡は男より、波乱がある才能のある男が好き、私の役目はその才能を伸ばすことだ、といっていた。

6590 彼の声は、以前は澄んだ声であったが、それをつぶして、歌の内容に合わせて、歌手長渕剛像を作り上げてきた。1980年代の半ば、ボブ・ディランの歌声への憧れから、焼酎やルゴールの原液で何度もうがいをし、歌手の命でもある喉を焼き切って透き通った声から「しわがれた声」へと変わった。長年の独特の歌唱法や楽曲のスタイルで、10代から中高年層までの幅広いファンを生み出した。喉にポリープが出来ていたが、声質を変えたくない長渕は、悩んだ末そのポリープを除去せぬまま今の声質を保っている、と語っている。

 歌手は大変だ。歌や歌手イメージにあわせて声質も、キャラも変えていくのだから、プロは生易しくない。悪魔に魂を売っている部分もある。それでも、それ以上に訴えるものがあるものだけが、プロになるのだ、と私は信じたい。

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