2012年11月30日 (金)

仏像鑑賞★如来、菩薩、明王、天、

Buddhismorg_2  仏教を信仰するとは、さとりを開くこと。
仏像のいろいろ ①七福神のなぞ 
 Amida 阿弥陀(あみだ)如来(→)による救済は、人を西方浄土=(この世よりも)修行がしやすい場所の提供である。それだけでは、さとりを開いたことにはならない。
 阿弥陀如来は、人々が浄土に来て悟りの境地に到達するまで面倒を見てくれる。という関係である。

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 その修行し悟りを求める人を菩薩(ぼさつodhisattva)という。そういう意味では、仏教の信徒はすべて菩薩である。そして、菩薩はその修行が完了すれば、みんな如来になれるのである。阿弥陀如来も修行時代は法蔵菩薩と呼ばれていた。

「仏像」を見るとき、如来、菩薩、明王、天って何?と、解らないとお楽しみも半減である。
大日如来、阿弥陀如来、
弥勒菩薩、地蔵菩薩
不動明王、愛染明王、大威徳明王、

 詳しくわかる必要は無いが、少しだけ整理できていれば理解が進む。
●如来とは・・・
25_1Iti  悟りをひらいた者、解脱した者=仏を意味する。
 仏様=お釈迦様と思っている人も多いかと思いますが、お釈迦様はいわゆるブッダ釈迦如来で、たくさんいる「如来」の中の1人。

★★代表的な如来★★
①釈迦如来(しゃかにょらい)
.あらゆる仏像の起源。お釈迦さま。

②阿弥陀如来(あみだにょらい)
.すべての人に永遠の救いの光を放つ。

③薬師如来(やくしにょらい)
.万病を治し衣食を満たす現世利益の仏。

④毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)
.無数の釈迦如来を統括中心の如来。大仏。

⑤大日如来(だいにちにょらい)
.宇宙そのものを神格化した密教の如来。

●菩薩とは・・・
Photo  まだ悟りをひらくために修行中の者を意味する。
 如来のお供というイメージも強く、釈迦三尊は普賢菩薩と文殊菩薩を従え。薬師三尊は日光菩薩と月光菩薩を従えている。阿弥陀三尊は観世音菩薩と勢至菩薩を従えている。
 特に
弥勒菩薩→は釈迦入滅五十六億七千年後に如来となり、すべての世界を救済する「仏」で、今は菩薩といえども、唯一私たちの未来を救うスーパ菩薩である。

★★代表的な菩薩★★

①観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)
2728.あらゆる現世利益願いごとを叶える。

②十一面観音菩薩
.あらゆる方向すべての人々を救いとる。

③千手観音(せんじゅかんのん)菩薩
.千本の手に無限の救済の能力を発揮。

④不空絹索観音(ふくうけんじゃくかんのん)
.完璧な網であらゆるものを救いとってくれる。

⑤如意輪観音(にょいりんかんのん)菩薩.世間と精神的な世界に財宝を与える観音。
⑥准堤観音(じゆんていかんのん)菩薩
.過去にたくさんの仏を生んだ仏母。

⑦馬頭観音(ばとうかんのん)菩薩
.天馬のようにかけめぐり悪を断ち切る。

⑧普賢菩薩(ふげんかんのん)
.仏のあらゆる御利益を授ける菩薩。

⑨弥勒菩薩(みろくぼさつ)
...五十六億七千万年後に衆生を救済する未来仏。

Monjubosatu ⑩虚空蔵菩薩(こくうぞう)
.抜群の記憶力を授けてくれる菩薩。

⑪文殊菩薩(もんじゅぼさつ)→
.智慧を司りすべての如来を指導する菩薩。

⑫地蔵菩薩(じぞうぼさつ)
...地獄の入口で人々を救ってくれる菩薩。

⑬大勢至菩薩(だいせいしぼさつ)
...智慧の光であまねく人々を照らす菩薩。

⑭日光・月光菩薩(にっこう・がっこうぼさつ)
...薬師如来の脇侍
 

「仏像」菩薩と如来の見分け方、
菩薩=様々な飾りを付けているが、
如来=悟りの境地に達して何も身に付ける必要はないので、袈裟だけをまとっている。
 ただし、例外が大日如来で、大日如来は悟りの境地としての王者の様ですので、如来像の中で唯一様々な飾りを身につけている。

●明王(みょうおう,vidyaraja)というのは・・・
密教独特の仏尊で、大日如来の命を受け、未だ仏教に帰依しない民衆を帰依させようとする役割を担った仏尊。外観は、忿怒(ふんぬ)の相で火炎を背負い、髪は怒りによって逆立ち(怒髪天)法具や装飾品は極力身に付けず、法衣は片袖を破って動き易くし武器類を手に持った姿で表現される。

★★代表的な明王★★
Hudou ①不動明王(ふどうみょうおう)
...怒りを救済にかえる大日如来の化身。

②五大明王(ごだいみょうおう)
...怒りのすがたをした五智如来の化身。

③孔雀明王(くじやくみょうおう)
...厄除け雨ごいの本尊。

④愛染明王(あいぜんみょうおう)
...煩悩をさとりにかえる愛欲の王。
※「菩薩」と「明王」は、ひとつの神格の二面として現れる(例えば、馬頭観音菩薩=馬頭明王)。

●(てん,deva)とは・・・
梵天、帝釈天、弁財天、大黒天、四天王、など比較的身近な感じのする神で・・・起源は、インド古来の宗教バラモン教から取り込まれた神々で、七福神信仰にも見られるように、勇ましかったり、縁起がよかったり、優しかったり、日本人には身近で庶民的な神様。
 天は、釈迦の教えに触れて仏教に帰依した如来や菩薩を守り、現世利益を行ないます。仁王は天部。

★★代表的な天★★
Bonten_1 ①梵天(ぼんてん)
.仏教を護る神、インドの世界創造神。
②帝釈天(たいしゃくてん)
.世界の中心に住んで仏教を護る神
③金剛力士・執金剛神(こんごう・しゅうこんごう)
門前で悪を退散させ、阿形「あ」でものの「はじまり」を象徴している。吽形「ん」を表し「おわり」を象徴し、一切の知徳の帰結,罪悪を遮断する。
④四天王(してんのう).東西南北の守護神
.東=持国天.西=広目天.南=増長天.北=多聞天.
 仏の教えを多く聞いて精通。
⑤毘沙門天(びしゃもんてん)
Photo_2.貧乏神を追い払う北方の守護神。四天王の一神,多聞天のこと。
.単独でまつられる場合には,多く毘沙門天とよばれる。
⑥吉祥天(きちじょうてん)
...幸福をさずける美しい女神。
⑦弁財天(べんざいてん)
...音楽と学問をつかさどる神。水の神,金運・開運の神様
⑧大黒天(だいこくてん)
...福の神になったインドの戦いの神
⑨十二神将(じゅうにしんしょう)


仏像のいろいろ ①七福神のなぞ

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以下の文章は、仏教に興味がにない人は、読まないほうがいい。

 私達の世界は欲望が渦巻く「欲界」で、その中に六道があり、
①地獄道・
②餓鬼道・
③畜生道・
④阿修羅道・
⑤人道・

⑥天道に区分される。

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2012年6月19日 (火)

オウム関連ブログ一覧

いろいろ検索して探すより、まとめたほうが便利であると思い、一覧にしました。

オウム関連ブログ一覧

nozawa22: 高橋克也逮捕、さて「ひかりの輪」「アーレフ」は
nozawa22: オウム教団主要メンバーの経緯を見る
nozawa22: オウム麻原は、どう弟子を説得し従わせたか
nozawa22: 麻原彰晃オウム真理教 上祐史浩の立場
nozawa22: オウム真理教が目指したもの
オウム真理教教祖麻原、死刑決定 2006.09.15

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2012年6月16日 (土)

高橋克也逮捕、さて「ひかりの輪」「アーレフ」は

004  逃亡を続けていた高橋克也がついに逮捕された。
 朝からそのニュースでもちきりだった。漫画喫茶で店員に見破られ、警察の職質で「高橋か」と聞かれ、「そうです。高橋克也です」と、菊池と同じように素直に捕まった。
  もともと、
宗教に熱心な人は人がいい。だから、悪意のマインドコントロールにひっかりやすいのだろう。たぶん、死刑の判決の人たちも、自ら進んで犯罪を犯したというより、役割を与えられたことで、この運命を選んでしまったのだ、と思う。
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 高橋 克也(たかはし かつや、1958年4月26日 - ):オウム真理教の元信徒。神奈川県出身。ホーリーネームはスマンガラ。横浜市港北区育ち。 1979年、横浜市の高等専門学校を卒業後、電機会社に勤務1987年5月にオウム神仙の会に入信し、7月にオウム真理教に出家。教祖麻原彰晃の身辺警護を担当する「SPS(尊師パーソナルスタッフ、後の自治省)」に所属、諜報省に移籍し、井上嘉浩の補佐役となった

それで、高橋克也の逮捕に関して、上祐史浩が記者会見をしていた。この記者会見が、手際よくYouTubeにアップされていた。それは、ニュースで紹介されているより、きちんと音が取れている。それも道理で、「ひかりの輪」のサイトだからね。
ひかりの輪」  =上祐史浩が代表の分派
アーレフ
Aleph」=旧オウム真理教の残党主体
 
こうして上祐史浩の記者会見を紹介すると、「ひかりの輪」の術中に陥るかもしれないが、それを理解した上でYouTube見てください。元オウム真理教の分派「ひかりの輪」と主流「Alephアーレフ」との違いを知るには、ちょうどいいかもしれない

 「ほっとした」と上祐氏 訪問先の大阪で会見
http://youtu.be/LPMUVp2FOdM
 上祐 史浩(じょうゆう ふみひろ、1962年(昭和37年)12月17日 - ):宗教団体ひかりの輪代表。アーレフ(現Aleph・旧「オウム真理教」)元代表。オウム真理教では、男の最古参の弟子。身長は175cm。
 オウム幹部の中で麻原彰晃にNOといえるのは上祐だけといわれた。のちにロシア支部長に赴任。
 福岡県久留米市出身。早稲田大学高等学院、早稲田大学理工学部を経て、1987年早稲田大学大学院理工学研究科修士課程を修了。
 宇宙開発事業団(現独立行政法人宇宙航空研究開発機構)に入る

 公式コメントを、読み上げたのち、記者の質問に答えて、「私見ですが、よろしいですか」と断ってしゃべりだした。
 まず第一は、今回は、全逃亡犯の逮捕、これによって、オウム問題は、法廷の中へ移行する。
 第二に、法廷の裁きによって、刑が執行される。特に麻原の刑が。
 第三に、これからは、五年前、私が脱会したアーレフが、依然として事件を直視せず、事件を陰謀として、洗脳的な教化によって、事件を知らない若い世代を中心に入信させている。そういう問題を解消する。
 以上、私の個人的な最終的な解決、三点が質問の回答です。と、オウム真理教の最終的解決についての質問について、答えた。

 「ああいえば、上祐」の記者会見である。
彼からすると、昔の記者より、相手が若いから手玉にとりやすい。最初、クセのある黒眼鏡をかけてきて、それをはずして、あの顔でしゃべり始めたが、結局、よく聞くと、自派「ひかりの輪」の勢力拡大につながる話に終始している。

Images008 テレビ向きの好印象を得るための演出をしているのは明らか。まあ、アーレフのコメントも出さない態度よりは、まだいい。その「アーレフ」主流派は、新入信者が急増している。アーレフから、信者数が1000人を超えたことを公安庁に報告した。「事件を知らない若い入会者の伸びが目立つ」と指摘、オウム真理教に詳しい、紀藤弁護士が説明した。

紀藤 正樹(きとう まさき、1960年11月21日 - ):山口県宇部市出身の日本の弁護士(登録番号:21759、第二東京弁護士会所属)。
1979年 山口県立宇部高等学校卒業
1985年 大阪大学法学部卒業
1988年 大阪大学大学院法学研究科、博士前期課程修了
1990年 第二東京弁護士会に弁護士登録する

 麻原彰晃著書「生死を超える」
 この本は、紀藤弁護士がオ
ウムの考え方を説明しているという。
 
生死も善悪を超越し、その規範を超越しているから、「人を殺す」コト自体が悪ではない。言い換えれば、オウム真理教を信じないことが「悪」だから、むしろ、今生き続ける事が悪で、そのままでは功徳を積めないから、今殺して上げることが、その人をより高いステージに上げることになる。これが、オウム真理教の真髄にある。
 説明しにくいが、それを信じてしまうのが信仰である。
 麻原彰晃オウム真理教 上祐史浩の立場

 「宗教団体Alephアーレフ」は、2000年2月4日に発足した宗教団体。
 麻原逮捕後、オウム真理教から、2003年2月にアーレフに改称、そして、2008年5月にはAlephに改称した。
 旧オウム真理教の幹部で死刑とか、無期にならなかったのは、上祐史浩だけだったので、
アーレフの代表に推された。彼は、麻原路線を否定して、つまり、麻原の肖像を本尊とすることを禁じた。すると、主流派の麻原盲信シンパが俄然反対して、上祐史浩は足元をさらわれ、古参信者から総スカンを食って浮いてしまた。
 代表でありながら、自ら脱会を宣言することになった。それが、「ひかりの輪」設立のいきさつである。

麻原 彰晃(本名:松本 智津夫1955年(昭和30年)3月2日 - ):
日本の宗教家、日本で唯一の「最終解脱者」を自称。宗教団体オウム真理教(現Aleph)の元代表、教祖、日本の国家転覆を企てたテロリスト。この一連の事件他による死刑囚。熊本県八代市高植本町(旧・八代郡金剛村)の畳職人の家庭に、9人兄弟の第7子(4男)として生まれた。

 代表になった上祐史浩は、組織防衛のために「麻原外し」路線を推進、麻原を「旧団体代表」と定義し、麻原の肖像を本尊とすることを禁じた。この方針に、麻原を崇拝する多くの信者主流派が反発することになった。
 代表派(M派・上祐派・J派) は、教団代表である上祐を中心とし、 アーレフ主流派から分裂し「ひかりの輪」として活動を始めた。
  一方、アーレフ主流派(A派・反上祐派)は、旧オウム真理教教団の多数派。麻原への「帰依」を打ち出し、旧オウムの教義を守ろうとする。「原理主義」と批判される。

 2007年3月以降、アーレフを脱退した「ひかりの輪(上祐史浩代表役員)」(2007年5月7日分離設立)も、公安調査庁は団体規制法に基づく観察処分対象。公安調査庁は、Alephの活動を特に区別する場合、「オウム真理教主流派」、「教団主流派(反上祐派)」といった表現をもちいている。
 
 「ひかりの輪」は、上祐史浩が一人代表でまとまっている。
 が、古巣アーレフのほうは、信者の数は多いが、内部はゴタゴタが続いた。まとめられる信望のある人材はいない状態である。
野田成人とゴッドマザー村岡達子が、アーレフで知名度がある。あとは対外的に知名度はない。この野田成人は、野心の強く、組織内部では嫌われて主流派から完全に無視され、除名処分になった。
 主要メンバー杉浦兄弟は脱会、村岡達子も運営から排除され、現在では「師」レベルの主流派幹部が実権を握っている。

 アーレフ教団内は、「麻原信仰が強化」され、麻原彰晃を教祖として信仰し、発足時に封印したはずのタントラ・ヴァジラヤーナやポアについて、麻原が説法するビデオが教材が用いられている。また、ヘッドギアを使用する信者の映像も報じられた。
 これまで新代表を名乗ってきた野田成人に対し、教団役員の地位の失効と代表地位の無効を通告した。
2011年11月17日、アレフが信者数が1000人を超えたことを公安庁に報告した。新入信者が増えている。コレは不思議である。
 以上が、オウム真理教の改名Alephの内部事情である。

 この混乱に入信すると、かえって自由があると思うか、とんでもないと思うか。それは自由だ。「ひかりの輪」の上祐による統一感がいいのか、上祐独裁を感じるか、新興宗教を目指す若者の参考になるのか。

 それより、この日本の若者の悩みの解決という需要、悩みを掬い取る宗教だろうに、一体どういうことだろう。宗教がだめなら、
政治か、職業か、何か希望を見出さないと、同じ様な事件がおきる。

 それには、まず、浄土真宗が葬式宗教から脱却しないかぎり、ダメだ。
 浄土真宗だけでなく、日蓮宗は?禅宗はどうだ?
 
葬式で金儲けを考える葬儀屋との結託を蹴っ飛ばすだけの勇気をもって、宗教者は、その“潔さ”をもたないと、カルト宗教を跋扈させる!宗教は、金儲け手段ではないし、政権を取る手段ではない。
 しっかりせい、仏教は精神世界の指導者をめざせ。


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オウム真理教教祖麻原、死刑決定: nozawa22
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2012年6月 2日 (土)

オウム麻原は、どう弟子を説得し従わせたか

000  元幹部宅から見つかった700本のテープの中に、麻原の言葉があった。オウム真理教事件の証拠資料として押収されず、番組NHK「未解決事件ファイル」の資料として、分析されていた。
 人殺しに加担させられると思えば、誰でも躊躇するだろう。
 それを麻原は、常識を超えた世界観を吹き込んで、命令に従う立場に追い込む。上祐のような理論が語れる弟子には、ポアの脅しを使っている。そうすれば、たいていは逆らえない。
 発見された700本のテープには、まだ正常だった麻原が、いかにマインドコントロールを弟子に仕掛けたか、生の言葉が残っている。

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 麻原教祖、表向きに次のように語っている。
「核戦争が起きる状態がきている。
 それを止めることができるのは、あなた方だけなんだ。
 あなた方は何をやればいいか。
 
愛だよ
 本当に
隣人を愛することができれば、あなた方は救うことができる。」

この言葉とは別に、ごく限られた幹部に、麻原はオウム武装化計画を打ち明けて、加担するように仕向けている。そのテープには、巧妙な言葉が録音されている。

幹部:今生で救済っていうのは、核戦争の回避ですか?
麻原:違う。今生で救済の成功は、核戦争を起こさせないことではない。
 (間をもたせて)変なことをいうぞ。
 資本主義と社会主義をつぶして、
宗教的な国を作ることだ。本当の意味で、この世をもう一回清算するべきだ。
幹部:起きた時点で、今のオウムのスタッフは一度みんな死にますか?
麻原:ほとんどが死なないだろう。私は
オウム以外は生きられないと考えている。(88年1月3日の説法)

 宗教的な国=国立戒壇日蓮宗を国家宗教に
 
国立戒壇」(日蓮宗を国家宗教にせよ!という主張を創価学会が目標を持っていたが、共産党がそれを「憲法違反」と追及したことで、当時の池田大作会長が方針を変えたと聞いている。親戚筋の顕正会がその目標を持っている。 顕正会VS創価学会 近親相争う

 多くの説では、90年の衆議院選挙立候補して麻原彰晃はじめ、全員落選した時点でオウムが武装化に進んだという見方をするが、これら700本の録音を聞くと、それ以前から、麻原はオウムの武装化を考えていたことになる。

88年11月のテープには、「武装化について」麻原が上祐史浩に持論を語る場面がある。救済は平和的なやり方では、実現できないと語っている。

麻原:今の
人間というのは、動物以下だと私は思っている。
 もの
すごい数の生き物を殺しているし、ものすごい数のうそをついている
 一体どっちの救済が正しいのか。
 仏教的な生き方(平和路線)というより、むしろ救済的な生き方というか、管理する側の生き方(武装化路線)というか、そうする生き方になる。
 つまり、今の人間が動物化した以上、動物化以下となった以上、それをコントロールしなきゃならない。

上祐史浩は、武装闘争路線と平和路線を組み合わせて、いくべきだと、自分の意見を持っている。

0000 上祐:僕は、できるとしたら、爆弾や兵器を作ることではないと思う。
 要するに、
後者(武装化)をベースにして、できれば、前者(平和路線)で、前者のパターンをやる場合には、相当動きが早くないと。(麻原:間に合わない。)後者(武装化)の方も。

 同じテープには、村井との会話も残されている)
 科学省大臣の村井には、第二次世界大戦の兵士の死者数を尋ねる場面から始まって、「戦死者が2000万人」と村井に答えさせ、人間はこのように人殺しをし、このような
人間社会は間違っていると村井に思わせている。オウム真理教は、その人間社会の救済をしなければならない、と村井に思わせ、その流れを巧まずに、麻原のオウム真理教でも、人殺しを正しいこと=ポアだ、と思う流れにしてしまう。

麻原:私がびっくりしたのは、第二次世界大戦の死傷者の数だ。どのくらい死んでいると思うか?(麻原は、自分が知っていることでも、必ず相手に答えさせて、それから話を進める論法を取る)
005 村井:兵隊が2000万人です。
麻原:一般人を入れたら、どうだ?
村井:一般人を入れたら、この10倍になるんじゃないか。
麻原:
一般の人は相当死んでいるから、あれは一時的な、人間のカルマ(悪業)の清算だ。そう思わないか?
 そういいうことが、私の研究課題なんだよ。

Ws000016Ws000014麻原は、自分が答えを持っていることを、相手に必ず聞く。
「~と思うか?」と言って、相手から回答を出させそれから話を進める論法を取る。否定、否定と続けてから、気に入った答えを取り上げ、弟子の理解と責任の上で、自分の意思を押し付ける。

 弟子は、自分で言い出したことと思い、グルの意思であるとは思わないで、それにしたがってしまう。それが繰り返されて、言われると、それに一度同意したことで、グルを絶対化してしまう。どの説法でも、教祖絶対化のための話し方を続けていた。これもマインドコントロールになっている。

京大理学部の大学院博士課程を終えた遠藤誠一が出家して、本部のサテアンに住み込み始めた。その出家当初、麻原に呼び出され、問われているシーンから、話が始まる。
遠藤誠一(えんどう せいいち、1960年6月5日 - ):元オウム真理教幹部。北海道札幌市出身。ホーリーネームはジーヴァカ。教団内でのステージは正悟師で、1994年6月に教団に省庁制が採用されてからは厚生省大臣になり、後に第一厚生省大臣となった。教団内では薬物購入の責任者であった。(第二厚生省大臣は土谷正実,この下に最近捕まった「教団の走る爆弾娘」菊池直子がいた。)。
北海道札幌北高等学校卒業の後帯広畜産大学獣医学科卒業。1986年、帯広畜産大学大学院獣医学専攻修了と同時に獣医師の資格を取得。京都大学大学院医学研究科博士課程に進学。専攻は遺伝子工学、ウイルス学。1987年3月にオウム神仙の会に入信。1988年11月、博士課程中退とともにオウム真理教に出家した。

008 麻原:どうだ?遠藤。
 二つの道(平和路線・武装化)があるだろう。
遠藤:なんとも、言えません。
麻原:二つの道があると思わないか?
遠藤:実際に(武装化)の動きをオウムがやらなければ、いけないと考えたことがありませんでしたので、ショックというか、ちょっとびっくりしています。
麻原:びっくりする必要はないよ。それも選択肢だから。(遠藤:ああ)
 もし、政治というものが、一切の宗教を禁止して、私たちに従いなさいと、力でどうするか・・・
遠藤:我々がですか?
 反抗というのは、あまり好きじゃない。仕方なく従うという道をとるかもしれない。
麻原:従うか?
遠藤:多分そうですね。
 日本としては、そういう方向になりつつあるのですか。
麻原:なる。間違いなくなる。
 そうしたら、警察が何人か来るよね。警察はアポしちゃえばいい。
遠藤:うーん・・・
 三人の警察官が死んだら、もっと多くがくる。
麻原:そうじゃないよ。三人の警察官だけじゃなくて、本署ごと消しちゃえばいい。
遠藤:はい?本署ごと消しちゃう?

 新出家の遠藤には、考えてみたこともない発想が、麻原によって示されると、「うーん・・・」としか表現できない場面を想像すると、麻原の漫画チックな思想が刷り込まれてしまう。理系学者の意地がみごとに麻原のたくましさに飲み込まれる瞬間であるようだ。

麻原:私がびっくりしたのは、第二次世界大戦の死傷者の数だ。どのくらい死んでいると思うか?(麻原は、自分が知っていることでも、必ず相手に答えさせて、それから話を進める論法を取る)

 麻原彰晃が松本智津夫と本名の時代、20代後半、「一番儲かるのは宗教だ」と友人に語っているらしい。そして、宗教を求めてくるものは、気が弱くまじめであると知って、彼らの上に立つことを夢見たようだ。

 「阿含宗」に入信して3年間で、そのノウハウを覚えて独立した。
 麻原彰晃ののし上がり方は、居食屋チエーンで修行して独立してあらゆる産業に手を伸ばしている
渡邉美樹と似ている。麻原が『居食屋 和民』みたいに人間を支配することを考えなかったら、偉大な存在になっていただろうに、宗教を支配の道具にしていったがゆえに、現在に至った。「つぼ八」(つぼ八本部)とフランチャイズ契約を締結が出発点。

渡邉 美樹(みき=男性、1959年10月5日 - ):神奈川県横浜市出身の実業家。ワタミ株式会社取締役会長。学校法人郁文館夢学園理事長、岸和田盈進会St_wata01 病院理事長。
少年時代は野球に熱中。
1969年10歳で母と死別、父が営んでいた広告事業も行き詰まった。
神奈川県立希望ヶ丘高等学校に進学。
明治大学商学部に進学。大学在学中、大規模なイベントを多数企画、実施。卒業間際の1982年23歳、北半球を放浪。

大学卒業後は佐川急便(当時の東京支社管内)でセールスドライバーとして1年間勤務。起業のため、1年間で300万円を稼いだ。
1984年25歳、有限会社渡美商事を設立。経営不振のつぼ八の店舗を買い取る形で、フランチャイズ店オーナーとなる。
1987年に社名をワタミフードサービスと改称し、独立。
1996年に株式店頭登録、
1998年に株式上場を果たした。
2002年に、全300店舗を超える規模となった。
2002年に農業、
2005年に介護、
2008年に高齢者向けの弁当宅配事業
労働集約型事業を展開し、独自の6次産業モデルを構築した。
2009年、ワタミ社長を退任し、同社会長に就任した。
2011年2月15日、非常勤の取締役最高顧問となった(後に、非常勤取締役会長になる)。
2011年4月、無所属で東京都知事選挙に出馬、落選。同年6月、岩手県陸前高田市の参与に就任。
2011年12月28日、同月20日に大阪維新の会の松井一郎知事及び橋下徹市長の要請を受け、大阪府及び大阪市の特別顧問に就任。

時間の有効利用、ヨガ教室、仏陀再誕 
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2012年5月30日 (水)

麻原彰晃オウム真理教 上祐史浩の立場

000_7_2 NHKスペシャル「未解決事件オウム真理教」を見て、明治以降の日本で、「オウム事件」ほど社会を震撼とさせた団体も個人もいない。だから、オウム真理教を放送すると、いまだに日本中の耳目を集める。
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高橋克也逮捕、さて「ひかりの輪」「アーレフ」は

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事件も多いし、疑問も多い。
035_2  まず分からないのは、麻原 (松本 智津夫)が、サリンを使って霞ヶ関中枢を破壊し、日本転覆を図るに至るまでになった彼の頭脳の中である。これを説明できるのが、古参信者であった上祐 史浩である。
 
上祐 史浩は、麻原の一番身近にいて、麻原の人柄と考えを知る立場である。今回のNHKスペシャルでも取材に応じて語るが、当時の姿から想像できないほど、上祐は、反麻原、反オウムの立場で語る。この姿を見ると、上祐ファンを増やしそうな印象さえ持つ。

松本智津夫*昭和30年3月2日 - 熊本県八代市高植本町の畳職人の家庭027_2 に、9人兄弟の第7子(4男)として生まれた。彼の父については諸説あるが、 『週刊文春』2000年新年号、「松本の祖父は熊本県出身の警官で、戦前に朝鮮半島に渡り、その地で警察署長を務めた後、終戦後、熊本に引き揚げた」「松本家は、朝鮮から引き揚げてきた日本人」との説をとる。。
1961年(昭和36年)4月、八代市立金剛小学校に入学。
1961年(昭和36年)秋、視覚障害者(隻眼)熊本県立盲学校に転校
(長兄の証言によると、視覚障害は水俣病による被害という。ただし水俣病患者の公的認定を受けていない)。
 部活動は柔道に打ち込む、一方、盲学校の小学部5年時に児童会長、中学部在籍時と高等部在籍時に生徒会長に立候補するが、3度とも落選。その後、成績は中程度であったにもかかわらず、熊本大学医学部を志望し、高等部3年の3月に同医学部を受験するが失敗。高等部専攻科に進学する。
1975年(昭和50年)1月12日、盲学校の生徒としては異例の柔道二段(講道館)を取得(オウム事件後、講道館より剥奪)。鍼灸免許も取得した。この頃より「東大法学部卒の政治家となり、総理大臣の座に就くこと」を志す。
1975年(昭和50年)3月(20歳)、熊本県立盲学校を卒業。

1975年(昭和50年)3月末、東京大学文科1類受験を目指し、東京都江東区大島、8月に品川区戸越に移住。9月に八代市の実家に戻る。
1976年(昭和51年)1月、熊本市で長兄の漢方薬店助手を務める。
1976年(昭和51年)3月、受験勉強をするために熊本市黒髪町に下宿。
1976年(昭和51年)5月、また実家に戻り、長兄の店を手伝う。
1976年(昭和51年)7月20日、兄を侮辱した従業員の頭部を殴打。
1976年(昭和51年)9月6日、傷害罪で1万5千円の罰金刑を受ける。
1977年(昭和52年)4月(22歳)再上京、代々木ゼミナール渋谷校(廃校)に入学。東大受験に失敗。
1977年(昭和52年)頃から仙道やヨーガの修行を始める。
1978年(昭和53年)1月7日、代々木ゼミナールで知り合った松本知子(旧姓石井)と結婚。千葉県船橋市湊町に新居、「松本鍼灸院」を開院。
1978年(昭和53年)9月15日「松本鍼灸院」を廃し、診察室兼漢方薬局「亜細亜堂」を開業。

1980年(昭和55年)7月、保険料不正請求が発覚、670万円返還を要求される。
1980年(昭和55年)8月25日(25歳)、宗教団体阿含宗に入信、三年間在籍。
1980年(昭和55年)12月、船橋市新高根に新居を購入し移住。
1981年(昭和56年)2月、船橋市高根台に健康薬品販売店「BMA薬局」]を開く。
1982年(昭和57年)6月22日、無許可医薬品製造、販売したため、薬事法違反で逮捕され、20万円の罰金刑を受ける。知人に「最も儲かるビジネスは、それは宗教だよ」ともらしていた。
1983年(昭和58年)夏(28歳)、仙道・ヨーガ・東洋医学などを統合「(超)能力開発」指導を行う学習塾「鳳凰慶林館」(東京都渋谷区桜丘)を開設、松本は「麻原彰晃」と名乗る。

1984年(昭和59年)2月、「鳳凰慶林館」からヨガ道場「オウムの会」に名称変更し、同年5月28日株式会社オウムを設立。
1986年(昭和61年)4月、ヨガ道場「オウムの会」から、宗教団体「オウム神仙の会」と改称。同年7月、ヒマラヤで最終解脱と称す。
1987年(昭和62年)7月(32歳)、「オウム神仙の会」から「オウム真理教」に改称。世俗化、形骸化した宗教を打ち破り、すべての魂を救済するとして布教活動を展開。空中浮揚などのショー的なアピールや自著、オカルト雑誌への広告記事を利用し、徐々に信者を獲得。この年には8名の弟子を解脱に導いたとする。
1988年(昭和63年)(33歳)、ダライ・ラマ14世と親交のあるペマ・ギャルポに接近。「自分の瞑想がどの程度のものであるか、チベット仏教の先生方に見てもらいたい」と申し出、ダラムサラの宗教庁を紹介される。現地で長老らと一緒に瞑想した結果、高く評価され、ダライ・ラマ14世との接見を認められる。この際の接見の様子をのちに自己宣伝に利用する。

1990年(平成2年)2月の第39回衆議院議員総選挙への大量立候補したが、全員落選。麻原自身、真理党代表として立候補するも、女子運動員が麻原の面をつけて踊る姿がマスコミに報道され、多くの人には印象つけたが、東京4区(5人区)で13位で落選。

020_2 1990年(平成2年)5月、シャンバラ化計画を実行すべく熊本県波野村に進出。地元住民の激しい反対運動に会う。国土利用計画法違反事件で強制捜査を受ける。この強制捜査が行われるまで、武器製造、毒薬の製造を行っていた。女子会員の夫が熊本県警に勤めていて、情報(強制捜査)をオウムの井上が電話で受けて、急いで軍事化路線の証拠を隠蔽した。警察の強制捜査が順調にいけば、その多くの死者を出すサリン事件を引き起こすことなかったが、「国土利用計画法違反」の証拠にしか目が行かなかったので、結局、オウムの息の根を止めるきっかけにはならなかった。

県警の首脳は、この強制捜査着手に、「宗教団体」の信教の自由という憲法上の権利が積極的に捜査ができず、一週間延びた。その間に、オウムは軍事化路線の証拠を完全に隠蔽してしまった。熊本県波野村に進出した理由について、順法闘争では実現できないから、オウムの武装化、の意図であると、上祐史浩は説明した。
 結局、波野村はオウムが5000万円で手に入れた土地を9億2000万円で買戻すことで合意。オウムの大きな資金源となる。


032_2 これで、熊本県波野村撤退後、その代わりが、富士山麓、山梨県上九一色村(現・富士河口湖町)のサテアンとなった。その第七サテアンが化学工場でサリンを製造する場所になった。強制捜査の情報を得ると、その工場に巨大なシバの女神を壁にして、オウム真理教のシンパ宗教学者に見学させて語らせている。これによって、この宗教学者は、大学教授の職も失ない、数年にわたってマスコミから干された。最近、この教授の論文寄稿を見るようになった。


006 2010年(平成22年)オウム真理教元幹部の上祐史浩は、(2010年12月3日号)『FRIDAY』誌での対談でも語っているが、NHKスペシャルの取材でも、同様のことを語っている。
「麻原は人の心を読む感受性は鋭く、超能力のようなものは確かにあったが、能力と人格が一致しない人物だった。彼の根源は、逆恨みと被害妄想。弱視だった子供時代からの逆恨みを社会に広げた人物だと断言。
 (上祐史浩は)サリン製造も知っていたし、教団がおかしいとは思っていた。しかし、武力闘争に反対の意見を伝えたところ、サリン計画を知った以上は、麻原に『ポア』する側に立つか、『ポア』される側に立つか、決めろと迫られ、恐ろしかったからだ」と述べた。

『ポア』とは「意識を高い世界へと移し替える」ことと定義。「積極的に死を与え、より高位の世界へ意識を移し替え、転生」させる特殊な技法も『ポア』と呼ばれ、これが『ポア』という言葉で「殺戮を正当化する」と検察側が主張。Wikipedia参照

 反麻原に立つ立場にいるから、当然の言葉であるが、視聴者の同感をえる上祐史浩の言葉を伝えると、上祐史浩が正当化されてしまう。コレは問題だ。

●上祐 史浩(じょうゆう ふみひろ、1962年(昭和37年)12月17日 - ):オウ ム真理教では、マイトレーヤ正大師 スポークスマンの役割。
 現宗教団体ひかりの輪代表。アーレフ(現Aleph・旧「オウム真理教」)元代表。身長は175cm。オウム真理教時代、麻原彰晃にNOといえるのは上祐だけといわれた。のちにロシア支部長に赴任。オウム真理教が社会の注目の的になったころ、巧みに詭弁を弄し「ああいえば、上祐」といわれた。オウム真理教では男の一番弟子であった。するが、これはこのことが災いしての左遷といわれた。
 福岡県三潴郡城島町(現久留米市)出身。早稲田大学高等学院卒業、早稲田大学卒、同大学院理工学研究科修士課程修了。フジテレビアナウンサー軽部真一は高等学院・早大の同級生。
 1980年代 大学在学中、苫米地英人と面識があり、超常現象などに強い興味を持ち、オカルト雑誌『ムー』掲載されていた麻原彰晃の記事からオウム神仙の会に入会。当時の恋人都沢和子と共に出家信者となる。その後彼女を麻原に献上。
1989年、坂本堤弁護士一家殺害事件前、教団に批判的な存在(坂本氏)をポア(殺害)について、麻原から一度意見を求められた際、上祐は暴力行為ではなく自らの広報活動によって、批判勢力の影響を和らげるべきだ、と強く反対。


 その後、謀議は反対する石井久子や上祐を除いて行われた。坂本堤弁護士一家殺害が起きると、上祐は、教団が起こした事件だと察し、麻原に電話するも、逆に事件を正当化するよう説得された。麻原に反対意見を言える人材は、武装化路線に進み始めたオウムにとっては、邪魔な存在であった。麻原は、上祐をモスクワ支部へ転勤させた。

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2011年11月22日 (火)

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Omu6_2 オウム裁判は、11月21日の遠藤誠一被告への最高裁の判決をもって終了する。オウム真理教で起訴されたのは、189人に上る。死刑の判決が出たのは、松本智津夫死刑囚ら13人、5人が無期懲役となった。

オウム真理教から続く教団(現Aleph)には、麻原死刑囚への崇拝する信者は多く残っている。公安当局によれば、1000人を超える。その後も、事件を知らぬ若い人が入会しているらしい。カルトだと言っても、それがブレーキにもなっていない。今日の若者の心に、何か現実の癒しか、何かを与えられないからだろうか。
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53f88861 町を歩いていたら、文庫本「平和を愛する世界人として」【文鮮明】を手渡された。文鮮明は立派な人だ、と言われても、知らなければ「そうですか。」になってしまう。“文鮮明=統一教会”と知らなければ、美しい言葉に惑わされる。

319_largeかつて合同結婚式で桜田淳子が結婚して、日本中が驚かされた。派生団体の“国際勝Photo_2 共連の女の子が駅前で花束売りつけていた。タレントの飯星景子が入信して、父親飯干晃一【ジャーナリスト】が必死に取り戻した例も知っている。父には『われら父親は闘う 娘・景子を誘いこんだ統一協会の正体』(ネスコ、1993)という著書もある。(余計な話であるが)1998年、コンピューター技術者の男性と結婚、翌年離婚。カルトと分類される宗教には、いろいろ問題がある。

 カルトへの妄信で人生をむちゃくちゃにした人がいる。ナニを信じていいのか、わからない混沌の中、オウムの幹部たち、今どんなことになっているか、それを急に調べてみる気になった。まだ、活動している人がいる。

Ws000002 ●麻原 彰晃(あさはら しょうこう、本名:松本 智津夫(まつもと ちづお)、1955年〈昭和30年〉3月2日 - ):宗教団体オウム真理教(現Aleph)の元代表、教祖。日本の国家転覆を企てたテロリスト、一連の事件他による死刑囚。自称、日本唯一の「最終解脱者」。自ら作詞作曲、歌うシンガーソングライター。
1996年(平成8年)6月19日以降、宗教団体「アレフ」に一旦改組され、再度改称「Aleph」に改称。宗教団体Alephでは、尊師・グルの呼称の使用、麻原の「生誕祭」や肖像の掲示を公然と行う。教団は日本支配を画策しており、その憲法草案の中では神聖法皇と呼称されていた。また、神や死者の声が聞こえる霊能者であるとも自称。

Zenkoku06102621380701_file_01 ●上祐 史浩(じょうゆう ふみひろ、1962年(昭和37年)12月17日 - ):宗教団体ひかりの輪代表。アーレフ(現Aleph・旧「オウム真理教」)元代表。オウム真理教でホーリーネームは、マイトレーヤ正大師 オウムの顔、教団内では「外報部長」等の役職でスポークスマンの役割を果たす。
 当時、巧みに詭弁を弄することから「ああいえば、上祐」といわれた。オウム真理教では男の一番弟子であった。身長は175cm。オウム真理教時代に幹部の中で麻原彰晃にNOといえるのは上祐だけといわれた。のちにロシア支部長に赴任するが、これはこのことが災いしての左遷といわれた。
福岡県三潴郡城島町(現・久留米市)出身。早稲田大学高等学院卒業、
早稲田大学卒、同大学院理工学研究科修士課程修了。フジテレビアナウンサー軽部真一は高等学院・早大の同級生。
1980年代 大学在学中、ディベートサークルの活動を通じて、苫米地英人と面識があった。大学時代より超常現象などに強い興味を持ち、オカルト雑誌『ムー』掲載されていた麻原彰晃の記事からオウム神仙の会に入会。大学院を出た後宇宙開発事業団に就職するも1ヶ月で退職し、当時の恋人都沢和子と共に出家信者となる。その後彼女を麻原に献上。
1989年、坂本堤弁護士一家殺害事件前、教団に批判的な存在(坂本氏)をポア(殺害)について、麻原から一度意見を求められた際、上祐は暴力行為ではなく自らの広報活動によって、批判勢力の影響を和らげるべきだと強く反対。その後、謀議は反対する石井久子や上祐を除いて行われた。坂本堤弁護士一家殺害が起きると、上祐は、教団が起こした事件だと察し、麻原に電話するも、逆に事件を正当化するよう説得された。

Image001 ●村井 秀夫(むらい ひでお、1958年12月5日 - 1995年4月24日):オウム真理教幹部。ホーリーネームはマンジュシュリー・ミトラ、ステージは正大師。省庁制が採用された後は科学技術省大臣だった。教団では麻原に次ぐナンバー2、科学技術部門最高幹部と見られていた。大阪府生まれ。子供の頃はSF少年であり、また望遠鏡で星を観察するのが趣味という親から見て全く手の掛からない子供であった。
1977年、
大阪大学理学部物理学科入学、同大学院修士課程を卒業後、神戸製鋼に入社したが、1987年オウム真理教に入信し正大師になる。入信理由は「かもめのジョナサン」の心境になったから。オウム真理教教祖麻原彰晃の側近の一人。坂本弁護士一家殺害事件・松本サリン事件・地下鉄サリン事件など、教団が起こした事件の中心人物。
1990年の衆議院議員総選挙に東京都第8区から真理党公認で立候補、落選。教団が報道される中でもスポークスマンとして登場。
1995年4月23日(村井秀夫刺殺事件)東京都港区南青山の教団東京総本部前で山口組系羽根組組員、右翼団体構成員徐 裕行(在日韓国人)に刺され、翌24日午前2時33分に
死亡。6月、オウム出版『巨星逝く-悲劇の天才科学者村井秀夫』(カセット・テープつき)出版された。
 村井の死により、村井が知りうるオウム事件に関する供述が聞き出せなくなり、事件解明を遠のかせた。死亡により村井本人は起訴されなかったが、オウム幹部の裁判という形で村井のオウム事件への関与が認定された。

Dd77f0c1_2  ●青山 吉伸(あおやま よしのぶ、1960年3月9日 - ):大阪府柏原市出身の元オウム真理教幹部。元弁護士。ホーリーネームはアパーヤージャハ。教団内でのステージは正悟師で、教団が省庁制を採用した後は法務省大臣だった。京都大学法学部卒
1988年、通勤により起きた腰痛治療のために、オウム真理教の主催のヨガ道場に通い始め、麻原彰晃の著作を読むようになった。
1989年に入信、翌年に出家。教団顧問弁護士を務めた。本人談によれば、この修行で腰痛が快癒したという。
1990年10月に国土利用計画法違反事件で逮捕された後に保釈される。
1995年3月に地下鉄サリン事件が起こり、一連のオウム真理教事件の教団信者らが逮捕されると、弁護士という立場を生かして勾留している信者と接見した。検察に自白をしていた被疑者たちは、青山と接見すると、急に自白を拒むようになった。捜査幹部は青山が弁護士という立場で接見交通権を悪用して「修行が足りない」等と脅して、オウム事件の露見を阻止しようとしていたと主張している。
1995年5月3日、上九一色村の肥料会社社長に対して、サリンを撒いたと告訴したが、逆に青山が肥料会社社長への名誉毀損の罪で5月4日に逮捕される。
教団と対峙していた滝本太郎弁護士をサリンを用いて殺害しようとし、滝本弁護士サリン襲撃事件に滝本弁護士を呼び出す役割を果たしたとして、殺人未遂の罪で起訴。2002年2月、東京高裁において
懲役12年の刑が確定した。すでに出所している。

Hayashi5 ●林 郁夫(はやし いくお、1947年1月23日 - ):元オウム真理教幹部。元医師。教団が省庁制を採用した後は治療省大臣だった。地下鉄サリン事件の実行犯。ホーリーネームはボーディサットヴァ・クリシュナナンダ。
1947年、品川生まれ。父親が医師、母親が薬剤師の開業医の家に生まれた。小さい頃から思いやりのある子といわれ、人助けがしたくて医師の道を選ぶ。専門は心臓血管外科。慶應義塾中等部から慶應義塾高等学校を経て
慶應義塾大学医学部に入学。テニス部に所属し、上達につながるのではと考えて、本で見たヨーガを1日15分取り入れる。
 医学部卒業後、慶應義塾大学病院、栃木県済生会宇都宮病院、国立療養所晴嵐荘病院(現・茨城東病院)などに勤める。臨床医として癌などの死病の患者と接するうちに、現代医学や科学が乗り越えられない「死」に対して深く考えるようになる。
1977年、桐山靖雄の本に感化され、阿含宗の正式な信徒となり、約10年在籍したが、自身の修行の成果が出ないと悩んでいた。
1978年、アメリカデトロイト、サイナイ病院外科研究所に留学、1981年帰国後、栃木県済生会宇都宮病院、茨城県東海村の国立療養所晴嵐荘に再び勤めるが、手術は出来ても人の心は救えないと悩んでいた。同時に予防医学の重要さを認識するようになり、心臓病などはストレスと深くかかわっていると認識し、患者にヨーガ、瞑想法、呼吸法などを紹介していた。
1987年、オウム真理教への入信 書店で麻原彰晃の著書と出会う。信者のヨーガやツァンダリー、インドの伝統医学、オウム食(菜食)などを用いた修行メニューによる具体的な成就記事などに強く衝撃を受け、傾倒していく。
1989年オウム真理教に入信、1990年5月に麻酔科医であった妻、子供達と共に一家で出家信者になった。出家の際、目黒に所有していたマンションを売った額を含めた全財産8000万円、車2台を布施として寄付した。「師長」になり、東京都中野区にあった教団付属医院(AHI)の院長に就任。1994年には治療省大臣。教団の犯罪に従事する信者の指紋消去手術を行った行為などがワイドショーで報じられた。
1995年、地下鉄サリン事件の実行犯として千代田線にサリンを撒布し2人を殺害、231人に重軽傷を負わせた。同年の4月8日に石川県穴水町の路上で放置自転車を盗んだ容疑(窃盗罪)で逮捕された。事件直後、林は麻原彰晃が「地下鉄の騒ぎでオウムが疑われてるのは心外だ」と発言したことで、麻原に対して不信感を抱いた。逮捕後も麻原の「シヴァ神にポアされて良かったね。マントラを1万回唱えなさい」などの発言で、不信感を持った。
5月6日に地下鉄サリン事件の全面自供を始めた。逮捕当初、林は「警察とオウム真理教との戦いだ」と発言し、断食を宣言するなどの行為があったため、死刑を免れないと思われた。
 その後、捜査に協力的な点や、公判の中で遺族・被害者側が改悛の情があるとして、必ずしも死刑を求めなかったこと、サリン散布の実行犯であることを捜査側が関知していない段階で、自ら告白した点、罪の呵責に喘いでいる点などを考慮し、検察は林の全面自供により地下鉄サリン事件の全容が明らかになったことが、自首に相当するとの判断を下した。このため検察は死刑ではなく無期懲役を求刑したが、無差別大量殺人事件の実行犯に対し検察側が自発的に求刑を軽減するのは極めて異例のことである。
1998年5月、東京地裁で
無期懲役の判決が下る。
 
検察側も林側も控訴せず、一審で確定し、千葉刑務所に現在服役中。その後、地下鉄サリン事件の他の4人の散布役は全員死刑が確定したことから、地下鉄サリン事件の散布役の中ではただ一人死刑判決を免れることになった。後に、サリン事件で亡くなった被害者の名前を毎日念仏で唱えていると報道された。
『文藝春秋』に手記を発表。その中で、麻原が持つ学歴コンプレックスから高い学歴をもつ自分に敢えて汚い仕事をやらせた、と解釈している。手記の印税等は被害者への救済金に充てられている。

Pn2009062701000628___ci0003 ●早川 紀代秀(はやかわ きよひで、1949年7月14日 - ):兵庫県出身の元オウム真理教幹部。ホーリーネームはティローパ。教団内でのステージは正悟師で、省庁制が採用された後は建設省大臣だった。麻原の信頼が厚く、数々の犯罪に手を染め、裏の実行部隊トップといわれた。神戸大学農学部でバイオを学び、大阪府立大学大学院では緑地計画工学を専攻。修士論文は「ユートピア都市論」であった。修了後、大手建設会社に勤務。公金横領が発覚しクビになる。
1986年に阿含宗を退会し、オウム神仙の会に入会。青年層が多いオウム幹部の中にあって数少ない中年であり、教祖の麻原よりも年上である(麻原よりも年上の幹部としては他に林郁夫がいる)。
1989年の坂本堤弁護士一家殺害事件は、TBSのスタッフが坂本堤弁護士のオウム批判のインタビュー映像を放送直前に早川に見せたことがきっかけとなった(TBSビデオ問題)。オウムの政界進出を主張し、第39回衆議院議員総選挙の教団幹部の立候補を推進した。
熊本県波野村の国土利用計画法違反事件で逮捕、保釈されている。保釈中も教団幹部として3年余に21回ロシアを訪れた。この訪問中、1994年6月に大型ヘリコプター「ミル17」をロシアから購入している。
1995年4月に、拳銃を別の車に移し変えようとしたところを不法侵入罪で逮捕。教団が初期に起こした殺人事件など計7事件で起訴され、一審で死刑判決。控訴、上告はともに棄却され、2009年7月17日、
死刑が確定した。オウム真理教事件で死刑が確定するのは6人目。
ヘリコプターによるサリン散布計画(11月戦争計画)の根拠として、早川ノート、早川メモというものが一時期話題になったが、本人によれば、実は岐部ノートであるとされる。

20111256 ●遠藤誠一(えんどう せいいち、1960年6月5日 - ):元オウム真理教幹部。北海道札幌市出身。ホーリーネームはジーヴァカ。教団内でのステージは正悟師で、1994年6月に教団に省庁制が採用されてからは厚生省大臣になり、後に第一厚生省大臣(第二厚生省大臣は土谷正実)。院獣医学専攻修了。この時、獣医師の資格を取得。京都大学大学院医学研究科博士課程中退。専攻はウイルス学。博士課程中退とともにオウム真理教に出家した。
1988年に教祖の麻原彰晃が出版した著書「マハーヤーナ・スートラ 大乗ヨーガ経典」の広告では、遠藤は、「一切のものは原因と結果の連続に過ぎない」という麻原の言葉に、長く心を縛り付けていた重荷から開放されるような安らぎを感じ、ここまで真理を公開した麻原に何とか報いなければならない気がしたと述べている。
事件への関与、坂本堤弁護士一家殺害事件のきっかけの一つになった「血のイニシエーション」で麻原彰晃のDNAの効果の是非が話題になったが、麻原のDNAを培養した人物でもある。第7サティアンに隣接したプレハブ建物・ジーヴァカ棟を研究施設として与えられ、ボツリヌス菌、炭疽菌、ペスト菌などの細菌兵器の培養をおこなっていた。サリンの製造においては土谷正実とともに中心的人物であった。
1995年4月26日、富士山総本部に立てこもっていたところを発見され、土谷とともに逮捕される。松本サリン事件の実行犯、地下鉄サリン事件の共同正犯、VXガス襲撃事件などで殺人及び殺人未遂などの罪で起訴された。
2002年10月11日の第一審、2007年5月31日の控訴審ともに死刑判決が下され、2011年11月21日上告審である最高裁第1小法廷において上告を棄却され
死刑判決が確定した

Es ●新実 智光(にいみ ともみつ、1964年3月9日 - ):愛知県出身の元オウム真理教幹部。ホーリーネームはミラレパ。教団内でのステージは正大師で、教団が省庁制を採用した後は自治省大臣だった。1986年のオウム真理教の最初に開かれたセミナーから出席し、岡崎一明や大内利裕と並ぶ古株。坂本弁護士一家殺害事件、松本サリン事件の実行犯。地下鉄サリン事件では運転手役。2010年2月に死刑が確定

愛知県立岡崎東高等学校、
愛知学院大学法学部卒。学生時代は、その風貌から「空海」というあだ名をつけられたこともあった。友人にも恵まれ学生生活も楽しむが、高校生時代より精神世界に興味があり、多くの宗教団体に入信する。麻原の言う「苦を感じなければ修行の道に入らない」との鉄則を高校時代から感じていた。これは新実の顔に生まれつきの傷があったため、その傷を「苦」と感じていたためである。
高校時代に、その団体に入れば傷や病気が治ると信じ、ある宗教団体に入信するが、教義は「入信しない者の魂は、神の意思によって滅ぼされる」というものであった。新実は、そこには何ら神の愛はない、単なる神のエゴイズムに過ぎぬと感じ脱会する。これは新実にとって、最初の宗教への挫折となる。
 その後は、読書に打ち込んだり、仙道的なことや瞑想を行うが次第に宗教から遠ざかり、空手など肉体的鍛錬に興味が移る。
 大学時代 友人の勧めで大学時代の終わりに、再び別の宗教団体に入信するものの、同様に「よいことをしない魂は滅びる」との教義に「存在というものは、この神々の将棋の駒に過ぎないのか、いつでもその神々の意思によってなくなるのだろうか」との思いをいだく。しかし、新実は「私は決してそうではない、私たちには本当の力があるはずだ、神と同じレベルの魂が内在するはずだ」と感じるに至る。このため、神が持つとされる霊力を自分自身も持ちたいと考えるようになる。
 このときにオカルト雑誌『ムー』や『トワイライトゾーン』などで麻原彰晃の空中浮揚の記事が目にとまり、ヒヒイロカネのプレゼント
に応募したことがきっかけで正月のセミナーに参加する。大学4年生のとき、オウムの前身「オウム神仙の会」へ入会。大学卒業後は食品会社へ就職するが、二度も自動車事故を起こしたことから、「魔境へ入り込んだ」と信じ込み、会社を半年で退職し出家。
 オウム入信後 麻原に惹かれたのは、他の宗教の多くが「神の啓示を受けた」とするものが多いのに比し、麻原は自分自身で修行をし苦難を乗り越えた
「どこにでもいるような人」であったからだという。最初のセミナーで、新実はその雰囲気が自分自身が求めていたものと直感する。そこでバイブレーションに浸りながら修行することで身体の浄化作用を実体験し、宿便が出たり、体調の回復を実感する。この神秘体験によって、深く麻原に帰依するに至る。当初は半信半疑であったもののその考えは180度転換する。
シャクティーパットにより、アストラル体の浮遊を感得し、体が痺れ多大な至福感を覚える。このときに「麻原に一生付いていくほかない」と確信する。このときの体感を「生死を越える」に詳しく書いている。麻原に礼を言い、道場へ行くと、突然肉体のクンダリニーが昇り、シャクティー・チャクラーが起こる。ムーラ・バンダ・ウディヤーナ・バンダが起こり、その後背中の方が盛り上がり、首のところでジャーランダラ・バンダが起こり、頭の方へすっと抜けた感じがした。これ精神集中やマントラを唱えるだけで自分自身で抑えられないほどに、すぐに起こるようになる。新実自身によれば「この霊的な変化が本当に自分の内面で起こったことをきっかけとして、やっと信に目覚めさせてもらった」らしい。
新実は前世に並々ならぬ興味を持っており、他の信者とも前世を話題にすることが多かった。ある女性信者に宛てた手紙では「91カルパ(宇宙の創造、維持、破壊の周期を教団では1カルパと定義していた)前にあなたと夫婦だった」と書いていた。麻原の4女の松本聡香(ペンネーム)を追い回しては「さとちゃんはどこから来たの」と聞いていたが、聡香が1度だけチベット密教のカギュ派の僧侶の名前を思いつきで答えたところ、逮捕されたあとに面会に来た信者に伝え広めた。
1987年12月3日、24歳のときにオウム真理教内の独房に2週間こもり、クンダリニー・ヨーガで成就したと麻原彰晃に認定され、ミラレパのホーリーネームを授けられる。
1989年の坂本堤弁護士一家殺害事件では坂本一家殺害の実行犯として坂本家に進入し、坂本の妻(当時29歳)を絞殺した。
1990年の衆議院議員選挙に東京10区から出馬し落選した。

Pn2009070___ci0003 ●井上 嘉浩(いのうえ よしひろ、1969年12月28日 - )は、元オウム真理教幹部。京都府京都市左京区出身。ホーリーネームはアーナンダ。教団内でのステージは正悟師。高校1年時に阿含宗入信。京都の私立洛南高等学校卒業後、日本文化大学法学部に入学するも直後に出家し、夏休みに同大学を中退。非常に信心深く、修行に際しては同じ行を繰り返し行うことで知られていたことがワイドショーに出演した元信者の告白などで語られている。ワイドショーでは水中クンバカの行を行い、5分30秒も水中で結跏趺坐を組み続ける姿も放映された。
 地下鉄サリン事件の3日前の尊師通達で正悟師に昇格した。また、教団が省庁制を採用した後は諜報省次官としても抜擢された。その背景には教団代表麻原彰晃の寵愛があったという。5月15日、目黒公証人役場事務長拉致監禁致死事件で特別手配されていたが、秋川市で発見され、公務執行妨害の疑いで現行犯逮捕される。乗っていた車の中から爆発物の原料となる物質が発見された。
 駐車場経営者VX襲撃事件、会社員VX殺害事件、被害者の会会長VX襲撃事件、目黒公証人役場事務長拉致監禁致死事件、地下鉄サリン事件など一連のオウム真理教事件に関与したとして起訴。地下鉄サリン事件を起こすことを決定したリムジン謀議では、教団への捜査の攪乱のために毒ガスを使用することを最初に提言した人物であった(謀議の途中で硫酸に変更する提言をしたが、最終的にサリン散布が決定された)。
 第一審では死刑の求刑だったが、目黒公証役場事務長事件では監禁罪を認めたが致死罪を認めず、地下鉄サリン事件では連絡役に留まるとして無期懲役判決が下った。オウム真理教事件において死刑求刑に対して無期懲役判決が下ったのは初めてであった。検察が控訴し、控訴審では目黒公証役場事務長事件の監禁致死罪を認め、地下鉄サリン事件の現場指揮者ではないが総合調整役として無差別大量殺人に重要な役割を担ったことを認定して死刑判決を受けた。2009年12月10日に上告棄却、2010年1月12日に上告審判決に対する訂正申し立てが棄却され、
死刑が確定した。
 かつて麻原の妻である松本知子に口答えしたために、麻原から厳しい肉体的罰を受けて、一週間ほど立つのにも苦労した経験があったことを公判中に語った。
 ウパーリこと中村昇と並んで教団内での2大プレイボーイといわれた。出家後まもなくして幹部に抜擢されたが、個室で女性信者の面談をするようになるとクレームが殺到した。当初、他の幹部は信じなかったものの、その数が50名を超えたことから麻原彰晃が注意をした。一方、井上はある女性幹部と交際していた。オウムの教義ではこれは破戒に当たるため、女性幹部は懺悔をするために麻原の元へ行ったが、麻原は一方的に井上を擁護したことから、女性幹部は、自分の記憶がおかしいのではないかと考え込んでしまった。

関連事件 [編集]薬剤師リンチ殺人事件
駐車場経営者VX襲撃事件
会社員VX殺害事件
被害者の会会長VX襲撃事件
目黒公証人役場事務長拉致監禁致死事件
島田裕巳宅爆弾事件
地下鉄サリン事件
新宿駅青酸ガス事件
東京都庁小包爆弾事件

9c15 ●土谷 正実(つちや まさみ、1965年1月6日 - )は元オウム真理教幹部。東京都出身。筑波大学大学院化学研究科修士課程修了。有機物理化学を専攻。ホーリーネームはボーディサットヴァ・クシティガルバ。教団内のステージは正悟師で、地下鉄サリン事件の3日前に尊師通達で昇格した。1994年7月に教団に省庁制が採用された後は第二厚生省大臣だった。
 土谷はサリンやVXガスの生成、LSDの合成における中心人物で、中川智正や遠藤誠一らとともに教団での薬物密造に関与していた。
 東京都立狛江高等学校から筑波大学第二学群農林学類へ進学。卒業後は同大学院化学研究科へ進学。修士課程2年の春入信。1991年9月に出家。
1993年8月にサリンの大量生成方法を完成させた。中川智正たちと同年11月にサリン600グラム、12月にはサリン3キログラムを製造し、94年2月にはサリンを含む30キログラムの溶液の製造にも関係した。山梨県上九一色村の第7サティアンのそばに専用のプレハブの実験棟クシティガルバ棟を持ち、サリン生成実験をしていた。製造の指示は、主に麻原彰晃や村井秀夫から出されていたとされている。

1994年5月には遠藤誠一とLSDの合成に成功し、同年7月にはVXガスの製造を開始した。
土谷らが製造したサリンは1993年12月18日の池田大作サリン襲撃未遂事件、1994年5月9日の滝本弁護士サリン襲撃事件、同年6月27日の松本サリン事件などに使用された。
1995年1月に、土谷は保管していた物を廃棄した。 同じく中間物質(土谷が分析し確認したもの)は、この時に廃棄した。
VXガスは1994年12月2日の駐車場経営者VX襲撃事件、12月12日の会社員VX殺害事件、1995年1月4日のオウム真理教被害者の会会長VX襲撃

事件などに使用された。1994年8月、村井秀夫の指示のもとに青酸やホスゲンの製造にも関与し、製造されたホスゲンは同年9月20日の江川紹子ホスゲン襲撃事件に使用された。
1994年から開始されたLSDや覚醒剤を用いたイニシエーションにも、土谷らによって合成されたLSDが使用されていた。
1995年4月26日、第2サティアンの地下の隠し部屋で、指名手配中の女性容疑者をかくまったとして、犯人隠匿容疑で遠藤誠一ら7人と現行犯逮捕された。後の供述から、7つの事件への殺人罪などに問われ再逮捕、起訴された。
公判の人定質問で職業について「麻原尊師の直弟子です」と答えたが、現在は「現在の麻原氏にはついていけない」「一審中はAへの信仰を捨てなかった」としている。罪状認否では薬物密造事件は認めたが、他の事件で無罪を主張した。2003年7月14日、検察側は論告で「麻原彰晃の頭脳として、悪魔に魂を売り渡した殺人化学者。教団で唯一、サリン、VXの生成方法を確立して大量無差別殺人を可能にした。被告なくしてはサリンなどの化学兵器はなく、無差別大量殺人事件もなかった。刑事責任は松本被告に準じた存在」として死刑を求刑した。この求刑はオウム真理教事件の裁判では一審判決の求刑としては最後の求刑である。弁護側は「殺人にVXガスやサリンを使うとは知らずに生成に関与させられただけで殺意はなく、事前共謀にも参加していない」と無罪を主張した。
2004年1月30日の第一審は手配信者の隠匿の罪は無罪としたが、「松本事件では捜査段階の供述で他の教団幹部らが不特定多数を殺害しようとしていることを認識していたと供述している点から犯行を幇助する意思があった」「地下鉄事件では捜査段階の供述で自分が製造したサリンが近い将来に地下鉄を含む東京都内で使われることを知っていたと判断でき、松本事件とは異なり共同正犯の責任を負う」と他の6事件で有罪とし、死刑判決を言い渡した。
2006年8月18日の控訴審は控訴を棄却して、死刑判決を維持。
2011年2月15日、最高裁第3小法廷は被告側の上告を却下。同3月8日、最高裁第3小法廷は死刑判決に対する被告側の訂正申し立てを棄却し、
死刑が確定

J01 ●岐部 哲也(きべ てつや)はオウム真理教の元幹部。ホーリーネームはマハーカッサパ。大分県出身。省庁制が採用された後は「防衛庁長官」となる。
大分県で生まれた。
高校卒業後は美術専門学校でデザインを専攻した。卒業後はデザイン会社に就職しデザイナーをしていた。愛称は「テッちゃん」
1987年に教団前身のオウム神仙の会に入信した古参信者で、入信後もオウム真理教の出版物の装丁など、デザイン関係を手がけていた。
写真撮影の技術にも優れており、有名な「麻原彰晃の空中浮揚」写真も岐部が撮ったという。
1990年の第39回衆議院議員総選挙に真理党公認で、当時の東京都第10区から立候補している。
1995年4月8日に自動小銃の部品を隠すために無断で地下駐車場に侵入した建造物侵入罪で逮捕された。裁判の結果、
懲役1年の実刑判決を受け、 翌年に府中刑務所を出所した。
その後、教団には戻らず家族と一緒に過ごした。
2004年7月7日、警察庁長官狙撃事件に関与した殺人未遂罪の容疑で逮捕されたが、証拠不十分で7月28日に釈放され、9月17日に不起訴となった。

T_tky201111140601●中川智正(なかがわ ともまさ、1962年10月25日 - ):元オウム真理教幹 部。岡山県出身。ホーリーネームはヴァジラ・ティッサ。麻原彰晃の主治医。菊池直子が逮捕後、一番慕っていたとの手記が発見される。
1977年岡山大学教育学部附属中学校、1980年岡山県立岡山朝日高等学校、1988年京都府立医科大学医学部医学科卒業。大学では柔道部に所属し大学祭の実行委員長を務めるなど、明るく温厚で実直な人柄から交友関係は広かった。
1988年2月にオウム真理教に入信。入信直後も人格的な変化は見られなかった。
1988年5月に医師免許を取得し翌月から大阪鉄道病院に研修医として就職、勤務態度は真面目だった
1989年8月末、周囲の反対を押し切り退職し出家。
逮捕後の手記では、人の死に際し、表向き沈痛な表情の上司や同僚らが、何事もなかったように談笑する姿への失望が、退職とオウムへの傾倒の理由のひとつであった事を述べている。
1995年8月22日医師免許取消処分。

(坂本堤弁護士一家殺害事件)。
午前3時、中川は他の幹部のあとより坂本の自宅へ入る。先頭は新実智光と端本悟、中川は一番後ろだった。
ドアは開いており、最後に入った中川はドアを閉めた際に音を立ててしまい、他の幹部に「静かにしろ」と叱られる。家族3人が川の字になって寝ていた。緊張で胸がどきどきしどおしだった。中川は坂本に注射。その後、1歳長男龍彦にも手をかける。目を覚まして泣かれ、「なんとかしろ」と言われ、あわてて座布団をかけ、口をふさぎ殺害。
 3人の遺体を車に乗せ富士山総本部へ向かう。その車中、中川は怖くて何がなんだか分からず目をつぶっていたが、体の震えが止まらなかった。総本部に到着した時には呆然としていたが、麻原から「顔色が悪いね」といわれる。
 この事件のあと、中川は麻原の側近に取り立てられ、その後の一連の事件に関わっていくことになる。
 坂本弁護士の事件はいちばんショックであったが、そのあとは断れば自分もそういう目に遭うのだと思うようになる。


中川智正手記
「宗教は人の心に平安をもたらし、人と人をつなげ、平和な社会を築く肯定的な作用があるが、その半面、自らの正しさを強調するあまり、独善的・排他的になったりもする」と持論を展開。「(負の面が)極端な形で出たのが、一連の事件だったと思う」と分析した。

Images ●松本 知子(まつもと ともこ、- ):オウム真理教元幹部(出版事業を行っていた株式会社オウム社長)にして、麻原彰晃こと松本智津夫の妻。ホーリーネームはマハーマーヤ、のちにヤソーダラーへ変更となる。旧姓は石井(石井久子とは血縁関係はない)。
千葉県立木更津高等学校卒業後、浪人し、代々木ゼミナールに通う。予備校時代に麻原彰晃と知り合い、
大学進学を断念し結婚
オウム真理教  麻原がオウム真理教を立ち上げる中で、妻として献身的にサポート。麻原との間に男2人、女4人の子を作る。石井久子、三女アーチャリーに続き3番目に正大師となり、教団内でも重きを成していった。教団が省庁制を採用した後は、郵政省大臣となった。
一連のオウム事件の発覚に伴い、薬剤師リンチ殺人事件で逮捕、起訴される。1998年5月14日の第一審で懲役6年の判決を受け、1999年9月9日の控訴審、2001年6月26日の上告審では
懲役6年の判決を受けた。和歌山刑務所にて服役し、2002年10月15日に刑期を満了出所した。
  出所後は教団に戻っておらず、2006年半ばまでは教団との関わりは薄いと見られていた。ところが、2006年7月20日、アーレフ信者の容疑にかかわる家宅捜索の報道を通じて、松本知子と三女を中心として松本家が信者からの資金援助を受けていたことが明らかとなり、加えて、8月に四女が教団との関係を断つためとして、松本家を離れて江川紹子に未成年後見人になることを依頼し、江川が承諾したことが報じられ、こうしたなか、教団が2002年12月以来松本家に「松本知子作の絵画の使用料」を名目として継続的に資金提供してきたことまで報じられた。
 こうした経緯を経て、2006年9月20日、教団が契約に基づいて2002年12月以来松本家に月40万円を絵画の使用料として支払ってきたことを、分裂状態の反代表派に属するアーレフ広報部、上祐派広報部の双方がともに認める見解を発表した[3]。以後の支払いを打ち切るか継続するかについては、両派で意見が対立し合意に達しなかったため、契約は継続されているという。
 なお、上祐史浩は2007年3月発表のインタビューにおいて、絵画の使用料契約が当初から実質的に生活援助であったことや、その後信者から松本家への資金提供の流れがあったことを認め、また反代表派の信者が松本知子を含む松本家の人々と個人的接触をしてその意向が教団に反映される、といった形で松本家が実質的に教団に影響を与えていると述べ、四女の告発を事実として認めている。
2007年3月20日の報道によると、教団元信者の男性から松本家の子ども4人が住居提供を受け、海外旅行や私立学校への入学などの大きな出費をする一方で収入の裏付けとなる勤労実態がないことから、公安当局は男性が1000万円以上になる生活費を丸抱えしており、男性が隠れ信者の可能性があるとみているという。また、アーレフ広報部が生活支援については否定する一方、以前から報じられている松本知子への絵画使用料については認め、見直しを含めた検討をおこなっているとしていると報じている。

Ishii ●石井 久子(いしい ひさこ)は、元オウム真理教の幹部。
短大を卒業後、保険会社に入社。その後、会社の同僚だった飯田エリ子に誘われ、オウム真理教の前身である「オウム神仙の会」に入会。その後、保険会社を退社して出家。教団の中ではかなり早い段階で正大師となった。
1990年の第39回衆議院議員総選挙には真理党から東京都第3区から立候補したが落選した。省庁制を採用した後は、大蔵省大臣となった。1995年に一連のオウム真理教事件が発覚がきっかけとなり、
教団を離脱した。

Iida2 ●飯田エリ子(いいだ えりこ)は元オウム真理教幹部。神奈川県横浜市出身。血液型はO型。ホーリーネームは始めラクシュミー、後にサクラー。教団内のステージは正悟師で、省庁制が採用された後は東日本の信者を統括する東信徒庁長官だった。
最古参のメンバーで、まだ家庭的で和気藹々としたヨガサークル「オウム神仙の会」を石井久子とともに作っていた主要人物である。
一般人を勧誘して入信させる才能はオウム真理教信者中№1であった。
文化女子大附属杉並高校を経て、
文化女子大学短期大学部生活造形学科を卒業し、デパート店員を経て、日産火災海上保険に入社。1984
年、健康のためにヨーガ教室鳳凰慶林館に通い始め、会社の同僚であった石井久子を誘いオウム神仙の会に入会。その後、保険会社を退社して出家した。
1987年初め頃には同教団信者の岡崎一明と恋愛関係にあった。1990年の第39回衆議院議員総選挙には真理党から東京都第11区から立候補したが落選した。
1995年の目黒公証人役場事務長拉致監禁致死事件では監禁致死罪に問われ逮捕、起訴された。一連のオウム真理教事件指名手配犯らの、逃走幇助の指揮官だったともされている。
1996年10月26日の第一審では懲役7年、1998年9月10日の控訴審では
懲役6年6ヶ月の判決が下された。上告をせず刑が確定し、2002年8月25日に刑期満了で出所した。服役中の2002年3月に脳出血で倒れ、言語・記憶に深刻な障害を負い歩行もままならない。

Mai_200 ●都沢 和子(みやこざわ かずこ - ):オウム真理教の元幹部。東京都出身。ホーリーネームはウッパラヴァンナー。省庁制が採用された後は、「西信徒庁長官」となった。
 短大在学中、ESSに所属し、早稲田大学のESA所属の上祐史浩に出合った。
 短大卒業後、社会人となるが、恋人上祐史浩がオウム真理教に入信したことを知り、会社を辞めてオウム真理教に入信した。
入信後は、名古屋支部長などを歴任した。教団の出版物やビデオに出演し、信者を獲得していった。また、上祐史浩と別れ、石井久子らと同様、松本智津夫の愛人となる。教団が起こした事件が明るみに出た後、
教団を脱会した。

Okazaki2 ●岡﨑 一明(おかさき かずあき、1960年10月8日 - ):オウム真理教元古参幹部。ホーリーネームはマハー・アングリマーラ。山口県立小野田工業高等学校工業計測科(現・電子計測科)に入学。高校の学費は奨励金で賄い、日曜日はゴルフのキャディーや遊園地のアルバイトや土方をやり、その収入で身の回りの生活用具をそろえ、養父母にタバコ銭も上げていた。
昭和60年3月頃、漢方薬剤師で鍼灸師から勧められ、阿含宗に入信。桐山靖雄から護宝塔を受け、千座行を始める。在家では解脱は無理など、更に1度、除霊した先祖の霊が再び取り憑くなど、欺瞞や詭弁が多く、桐山自身、解脱の方法が示せないことが分かり、脱退。
昭和60年夏頃、精神世界の雑誌『ムー』(学研)に麻原の空中浮揚の写真を見て、直接、麻原に会う。、
「相当の悪業を積んでいますが、それでも解脱はできるのでしょうか?」と、今生で自己の解脱が可能か否かも尋ねた。すると麻原は、「はい、できます。あなたがそう思っている時点から、あなたの罪は消えています。それはもう、解脱を求めようとする時点から、その道に入っているんです。あなたにも解脱はできます。」と、麻原の言葉によって、「ああ、この人は違うな。本物かもしれない。」と、入信の決意に変わった。それまで本物のグルを求め、新興宗教の教祖や神通力があるとされる著者、活動家に直接電話して、解脱や救済について問答し、確かめた。当時、そのだれもが傲慢な態度で、麻原のような指導者はいなかった。

1989年11月3日の朝、麻原に命令されて他の5人の実行犯と共に坂本の住んでいた横浜市磯子区洋光台のアパートへ。それぞれ役割分担をして出勤する坂本を待ち伏せていたが、当日が祝日であることを忘れており、坂本は家から出てこなかった。
 そこで、岡﨑が麻原の命令無しにアパートの鍵を調べて、施錠されていなかったことを知る。早川を通して麻原に知らせると、深夜に家族しかいなかったら「家族ごと殺害しろ」と命令される。岡﨑がもう一度調べて施錠されていなかったから、岡﨑らは午前3時頃に坂本一家殺害を遂行。岡﨑は坂本を絞殺した。その後、一家の遺体をそれぞれ別の場所に遺棄した。
 岡﨑の自首により「坂本堤弁護士一家殺害事件」は、オウムの犯行だと分かったために、「自首は成立」した。地下鉄サリン事件の実行犯だった林郁夫は自首による刑の軽減が認められて無期懲役となったが、岡﨑の公判では、自首の動機が罪の意識からではなく、脱走した教団から自分の身を守るためであったこと、遺族が極刑を望んだことから「自首による刑の軽減」は適用されずに、死刑の判決が下った。オウム真理教事件において、一番初めに
死刑が確定した人物である。

オウム教団重要メンバーの経緯を見る 
オウム真理教教祖麻原、死刑決定: nozawa22  
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麻原彰晃オウム真理教 上祐史浩の立場
 

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2011年10月21日 (金)

池田名誉会長の病状 週刊文春10月27日号

「たぶん」(憶測)ですが、創価学会会員だった池田名誉会長担当の看護師が脱会して、日蓮同系「顕正会」傘下で保護されているのだろうか、そこで文春記者に語っているように見える。

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 「創価学会」と「顕正会」両者の関係は、
 日蓮正宗から枝別れした新興宗教である。創価学会と同系の顕正会は、同系ゆえに、お互いに会員の奪い合いをしている犬猿の仲ある。スケールは、創価学会のほうが会員数は群を抜いているが、最近「顕正会」が創価学会から脱会を呼びかけていて、かつては、信濃町の創価学会本部への・・・を敢行して警察沙汰にもなった。「顕正会」は、かつての「日蓮正宗妙信講」である。座主は浅井氏であった。

2009624234313734 週刊文春 池田大作の病状 暴露!(顕正会の創価学会員の脱会を促すブログ)からの引用、参考で紹介。同様の記事 

 数カ月前まで看護師として池田氏を担当していたAさんが重いロを開いた。――衝撃の証言。
「新聞や雑誌では、池田先生が今も元気で活動されているように書かれています。しかし、私がお側で世話をした数カ月前には、
歩くこともままならず、読み書きや他人と話すことも難しい状態でした。二十四時間体制で医師や看護師が常駐し、病室には、秘書が先生の様子を見守っている。いつ何があってもおかしくない状況だったのです」
 緊張した表情で語るのは、東京・信濃町にある創価学会の医療関連施設「南元センター」の看護師として勤務していたAさんだ。

 昨年の五月中旬以降、池田氏が公の場に姿を見せなくなって一年以上が経過している。そのため、これまでも重病説が囁かれてきた。彼女が語る「池田先生」とは、創価学会のカリスマとして君臨する池田大作名誉会長(83)のこと。
 Aさんによると、池田氏は現在、南元センターの五階にある特別な病室に入っているという。Aさんによれば、
学会内でも池田氏の健康状態や入院先に関しては、ごく一部の関係者しか知らない超極秘事項だ。数カ月にわたり看護を担当したAさんが、池田氏の病状を明かす。

「先生の病気は、脳梗塞です。梗塞は二ヵ所にあり、もともと糖尿病という持病をお持ちなので、合併症を誘発する恐れもあり、自力で歩くことはできず、移動は車椅子でした」
 Aさんが池田氏の担当になったのは、昨年平成10年でした。南元センターは、創価学会員が健康診断を行う健康保険組合の医療施設で、一階から四階までは普通の病院と大差はない、とAさんは説明する。
「南元センターで働いている大半の職員は、五階に池田先生がいらっしゃることをおそらく知らないと思います。下のフロアで勤務していた私も、まさか最上階に先生がいるとは夢にも思いませんでした」

 Aさんは婦長から五階の勤務を命じられ、最上階へ向かった。エレベーターを降りると、制服警備員の刺すような視線が注がれた。フロア全体のピリピリとした空気を感じながら病室の扉を開けると、生花の香りが鼻の中に広がる。そして、大きなベッドに痩せた老人が横たわっていた。
「それが池田先生でした。尊敬する先生が目の前にいらっしゃって驚きました。大変名誉なことだと思い、嬉しくて涙が出そうになったことを覚えています。私が担当し始めた頃はまだお元気で、週に一、二度、屋上に出て外の空気を吸ってらっしゃいました」

 その後、池田氏の容態は悪化。病室の外へ出ることができなくなり、
「担当した当初から、先生はご病気の影響で言語障害が出ることもあり、お話も聞き取りづらい部分はありました。でもその頃は、なんとか会話もでき、幹部の方など関係者がお見舞いに来て、いろいろお話しされていたようです。 食事も自分でされ、病室の大きなテレビを見たり、読書をなさっていました。
 ただ、
屋上へ上がったり、読み書きができたのも今年平成11年一月頃までだったと思います。高齢や脳梗塞のせいで認知症の症状が進行してしまったからなんです」Aさんは振り返る。

 東日本大震災が起きる前、池田氏の病室である〝出来事〟が起こったという。
「病室には、池田先生の著作や、各界の著名人と撮られたお写真などが飾られていました。一月の終わりから二月のはじめ頃ですが、先生が車椅子に乗ってらっしゃったとき、
突然、奇声を上げて、ご自分の著作や写真を投げ始めたのです。慌てて、秘書や看護スタッフでお止めしました。
 この後、先生の近くにモノを置いておくのは危ない、ということになって、展示品は撤去されました。メガネも自分で割られてしまうかもしれない、と外すことになりました」

 三月に入ると、池田氏の症状はさらに進んだという。
「他の人を認識できていないのでは、と思う日もあり、
看護師や来客の方とも意思疎通ができないこともありました」また、その他の能力も日を追うごとに衰えていった。
咀嚼(そしゃく)が困難になり、食事もきちんと摂れなくなりました。誤嚥(ごえん)よって誤嚥性肺炎を起こしてお亡くなりになる高齢者が非常に多いから、首から一日三回、経管注入で栄養剤を入れることになりました。口から食事を摂れないので、どんどん痩せていきます。みなさんがご覧になっている写真より、十キロ以上痩せ、お元気な頃の面影がなくなっていきました。顔のつやがなくなり、頬がこけてゲッソりした感じでした」

 なぜ、熱心な学会員のAさんが池田氏の病状を明らかにすることを決意したのか。
「私は池田先生をお慕いして創価学会へ入りました。今も、その尊敬の思いは変わっていません。
 私が先生の看護スタッフを始めた頃は、まだ先生もお元気で、〝神様〟だと思っていました。しかし、先生のお世話をするうちに、先生も寿命のある人間なんだ、と痛感したのです。
 幹部の方々は、心配する我々学会員に対して『先生は元気です』とアピールするばかりです。しかし、それは学会員を欺き、池田先生を冒漬しているのと同じではないでしょうか。末端の学会員にも先生の現状をお知らせして、先生のために大勤行会を開いたほうがいいと思うのです。それが、今回、私がお話しした理由です」

 Aさんは、衰弱してゆく池田氏の看護をしながら心を痛める日々が続いた。
「以前は病室の隣に大理石のお風呂があってよく入られていたのですが、その浴室は使われなくなりました。大理石の浴槽のそばに車椅子ごと入れる介護用の浴槽があって、そちらを利用するようになったのです。入浴は四、五人がかりの作業でした。回数も、私が勤務していた当時は週二回ほどになっていました。看護師がオムツを交換し、婦長など地位の高い方が、病衣を着た先生のお顔などを拭いでいました」

 池田氏専用の五階フロアにいる看護師は、日勤三名、夜勤二名の計五名。二十四時間体制で勤務し、そのほかにも警備室に警備員が三名、エレベーター前に一名、病室の前に一名配置されている。病室には秘書とともに、監視カメラが設置され、ナースステーションでチエックできるようになっていた。階段には防火扉が設置され、普段は鍵がかけられていた。そのため、昇り降りできるのはエレベーターのみ。そこで警備員が出入すの人間を見張っていた。

「まず驚いたのは、最上階の物々しい雰囲気です。警備員は第一警備の方々でした。どの人も体格がよくて、何か格闘技でもやってらっしゃるような人だと思います。目つきが鋭くて、通常の業務をしている私たちも常に監視下に置かれているような感じでした。四階以下は金城会の方が警備をしています」
「第一警備」は、
池田名誉会長直属のエリート警備部隊。また、金城会は全国各地域から集められた柔道や合気道の有段者が多い一般の会員でことでも有名です。こちらも池田会長の警護が主な業務といわれていてます」

 警護体制だけでなく、病室の作りにも秘密が隠されていた、とAさんは話す。
「先生の病室は、縦が約七メートル、横が約五メートルの広さです。白っぽい壁は鉄製で、『マシンガンで撃たれてもびくともしない』と説明を受けました。病室の窓ガラスも防弾ガラスだと聞きました」
 まるで軍事施設のような堅牢さだが、一歩病室へ入ると、そこには瀟洒(しょうしゃ)な洋間が広がっているという。

「先生の病室にはキングサイズのベッドがあり、シーツ、掛布団カバー、枕は全て金色のペーズリー柄でした。ベッドの側には、小さなテーブルと椅子が置いてあり、お元気なときには、そこでよく筆ペンを手にとって和歌を詠んでいらっしゃいました。他に来客用の応接セットもあります。テーブル、ソファーと椅子が二つ。
 また病室には絨毯が敷かれているのですが、『バッキンガム宮殿に使われている絨毯と同様のもの』と言われました。一般の病室とは全く違い、外国の洋館みたいなお部屋なのです」備え付けの棚には、大きなテレビ、先述した著作や写真などが並ぶ。花瓶には様々な種類の生花が飾られていた。

 病室でも髪型はオールバック
「香峯子(かねこ)夫人が週に何度か病室にいらっしゃって花を取り換えていました。エレベーターで五階へ上がるときは、警備員や看護師などのスタッフは整列してお迎えするのです。夫人は、長居することもなくて、一時間くらいでご自宅に戻られることが多かった」
 また、池田氏の病室では重要なルールがあった。「一番初めに注意されたことは『病室の電気は切ってはいけない』ということでした。先生は明かりが消えるとよく眠れないそうなんです。昼夜逆転されることも少なくなく、昼間に眠ってらっしゃることも多かったですね。病室の天井は折上天井になっていて、蛍光灯が何十本も取りつけられていました」
 実際、南元センターの周囲から池田氏の病室とされる場所を見上げると、記者が確認を行った夜には、いつもブラインドの隙間からかすかに明かりが漏れていた。厳重に警護された池田氏の病室。そこに足を踏み入れるのは夫人など池田氏の家族と医療スタッフ、ごく限られた学会の幹部だけだったという。

「池田先生の側近の方はいらしています。幹部の中でも、本当に重職の方がいらしていました。先生が話ができたときには、病室の隣にある会議室でいろいろ話をされていたようです。
 髪の毛やお顔は来客があるので、二日に一度くらい手入れしていました。髪型も皆さんがご存知のオールバックです。先生はいつも身ぎれいにしていらっしゃいました。髭は電気カミソリなどで丁寧に剃らせていただいていました。夫人からも見た目には気を遣うように指示が出ていて、きちんとさせていただきました」

 先述のように、池田氏は一年以上も公の場に姿を見せていないが、学会系の新聞や雑誌には、池田先生のメッセージや対談の様子が描かれています。先生はそんなことが出来るようなお体ではないのに……確かに、学会の機関紙『聖教新聞』によれば、地震発生後の今年三月二十一日、池田名誉会長は東京・新宿区の創価学会第二別館で勤行を行ったと報じた。また、五月三日付の同紙には夫人とのツーショット写真が掲載されており、キャプションには〈4月19日、東京・新宿区で〉と記している。

 南元センター取材は「拒否」
 学会系の総合誌『潮』でも、海外の要人たちとの対談を連載。六月号からは、モスクワ大学総長、ヴィクトル・A・サドーヴニチィ氏との対談が掲載された。この連載対談の中では、東日本大震災などにも触れられ、池田氏が、「本年五月、ロシア国立交響楽団が来日公演し、各地で大きな反響を呼びました」と言及しているが、そんなことが可能なのか。 
「(聖教新聞の夫人との写真ば)今年の四月十九日に撮影されたもの。また、連載対談は近年の往復書簡をまとめたものです」
 さらにAさんの証言に対しては、「ご指摘は全て事実無根です」(創価学会広報室)
 否定するのであれば、南元センターの五階を見せてほしいと求めたが、「部外者の方を入れたことはありません。もしそこに名誉会長がおられなければ、どこかに移した、と言われるだけでしょう」と受け入れられなかった。別の学会関係者も言下に否定する。
「南元センターは一般の学会員も利用する施設。五階に入ったことはありませんが、そこに池田先生がおられるなら、隠しておけるはずがありません。今も池田先生は、秘書を通じてさまざまな指示をなされています」
 だが、下の階で働いていたAさんでさえ、五階勤務になるまでは、そこに池田氏がいるなどとは、想像だにしていなかったのだ。そもそも家族やごく一握りの幹部を除き、池田氏の所在や現状が、彼の健在を祈る一般の学会員にさえ隠し通されていること自体に無理があるのではないか。一刻も早い真実の開示が待たれる

『週刊文春』2011年10月27日号

(日蓮宗系の宗教)
顕正会VS創価学会 近親相争う
  
週刊朝日の公明党よ!目をさませ
 
矢野絢也、創価学会を訴える 週刊新潮
石井一参院議員 創価学会党に噛み付く   
賢治 日蓮宗国柱会が発想元か 
公明党の組織選挙の現状さぐる 
創価学会池田大作、重篤の危機?
 
真夏のアルバイト 2

【浄土真宗】
他力本願と悪人正機説 
親鸞「他力本願への道」 
法然、親鸞 同じ点、違う点

基礎知識(外部リンク)
石井一議員 創価学会を追及1/3
 
石井一〝P献金〟「公明党と創価学会」  
民主党はP献金を解明できるか   
石井一議員 創価学会を追及2/3 

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2011年6月17日 (金)

法然、親鸞 同じ点、違う点

5950 NHK「歴史秘話ヒストリー」渡辺あゆみ進行で、法然と親鸞を一括して取り上げていたが、わかったようなわからないで、これでいいのか、と、思った次第だ。二人の偉人をまとめてしまうと、無理がある。

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5941  法然は15歳で、父に遺言で「殺しあう武士ではなく、僧侶になれ」という言葉に従って、比叡山延暦寺に行ってた。貴族階級に生まれた親鸞は母子家庭に育ち、8歳で比叡山に入って坊さんになった。

法然:武士階級15歳、父に遺言で、比叡山延暦寺に。
親鸞:貴族階級8歳、母子家庭ゆえ、比叡山延暦寺に。

  修行僧は妻を持たず、一生独身で経典の勉強にいそしむ。これが僧としてのスタイルであった。その点、法然も、親鸞も真面目に戒律にしたがった。しかし、実際には、比叡山の僧坊の下のほうには、坊さんの妻を隠している家がいくつもあり、偉くなると隠れて妻帯するのが要領のいい坊さんだったらしい。

 余談だが、だから、織田信長の時代までそれが続いて、比叡山が信長に対抗勢力として立ち向かったとき、戒律を守っているなら比叡山にいるはずがない大勢の女子供の犠牲者が出た。そうすると、信長にとっては、僧侶はいい加減な存在だと思われる。それをマアマア、固いこといわないで、建前と本音を使い分ける生き方をしていたのを、信長に説得する有力仲裁者はいなかった。阿鼻叫喚のうちに多数の僧侶と妻子どもは殺され、伽藍は火をつけられ燃やされた。まじめな非妻帯僧侶も多くいたが・・・・。

02  戒律を守ることから生じる、人間本来の種の保存本能、性欲からの苦しみを親鸞は、真面目に受け止め悩んだ。法然は、それをどう処理したかは、どこにも書いていない。稚児さん、つまり同性愛、ホモによって、解消した場合も多い。信長の小姓森蘭丸も稚児から成り上がって大名格までなったといわれている。

Photo 「女犯」と称して、仏教のなかに戒律として存在した。相撲なども、女性は不浄だから立ち入らせない神聖な場所がある。山なども女性が立ち入れないところがある。つまり、男と女は違う生理を持っているから、女を遠ざけて、修行をした。

Photo_2親鸞入門 漫画で親鸞の一生表現されて、わかりやすい。 親鸞は、自分の中に克服できない悩みは性欲ばかりではないが、苦しみぬいて教えを乞いに大先輩の法然の評判を聞いて相談に行って、親鸞は法然の教えで目が覚めた。

 このあたりでは、頂法寺六角堂で100日参篭して95日目に夢の中で、女犯すると観音菩薩が「われ玉女の身となりて犯されむ。終生引導して極楽に生ぜしむ」と、親鸞に語っている。「これは観世音菩薩の誓いであるから、このことをみんなに説きつたえよ」と聞いて、親鸞は、女犯の重荷から解放された、と伝えられている。

 これは、日本の独特の解釈かもしれない、と私は思っている。スリランカの仏教者はみな一生独身のようだ。タイの坊さんも独身で、坊さんになると、独身で子供を残さないが、妻帯した日本の坊さんは子孫をのこす。だから、東南アジアの仏教国では、賢い人ほど仏門に入り、その子孫が残されないから、国民の知能水準の低下がある(かもしれない)。そんな見方を聞いた。

 のちに、親鸞のことを尊敬のあまり、「法然上人にだまされて 念仏を唱えて 地獄に落とされたとしても 決して後悔することはないだろう」というほど、親鸞は法然を尊敬していた。親鸞に準ずるレベルの子弟は100人200人は法然のまわりに常にいたようだ。

 法然の教えの「専修念仏」は、一生懸命「南無阿弥陀仏」と唱えれば、仏様が死後、かならず浄土へ連れて行ってくれる。わかりやすく、だれにでもできる信仰であった。それを念仏さえ唱えて入れば、約束してくれるラクチンな宗教であると思われ、人気が出て他宗派からやっかみが大きくなっていた。

 人気歌手や人気タレントがマスコミで騒がれるように、平安末期にも、人気僧侶、説教師がいた。一人は焼き肉チェーンと同じ「安楽」という名前の若くてハンサムな僧侶が有名だった。

5951 「安楽」というハンサム僧侶、法然の信仰を広める説教師で、念仏を語るのに音程とリズムがあるらしいんだね。その頃の楽しみに映画やコンサートがあるわけではない。浄土へ行ける説教がある、あの「安楽」さんが出ると聞けば、予約なしだから公演会場には早くから人が集まるわけだ。

5959  あるとき、後鳥羽上皇付きの女官がふたり、上皇が行幸で都を留守の間、その安楽説教師の公演会に行き、その場で洗礼をうけ出家してしまった。最高権力者後鳥羽上皇の女官は、お手付き女官だったのか、僧侶との関係を疑われた。女官が出家したことを烈火の如く怒って、「安楽」ほか一名の僧侶の首をはね、女官二人も殺された。

5962 二週間後には、法然の責任を問われ、僧侶の身分をはく奪されて、四国高知へ流罪に処された。そのとき、法然のまわりにいた高弟7名がバラバラに流罪にされた。そのとき、親鸞は新潟県の居多ヶ浜に流された。(流罪の際。食糧は自活できるように、種モミを受けとって、それで来年の食糧をつくるようにする、と聞いたが、これは正しいのか、確認できないでいるが、教えてほしい。)

5906 法然を師匠として、親鸞が仕えたのは6年間のみで、引き裂かれたことになる。その後、師匠の法然は1年で許されて、京都へ戻ってきた。流罪の疲れがあり、二か月後に衰弱して死亡(入滅)した。親鸞は、その知らせを新潟流刑の地で聞いて、泣きぬれた。

 遠流おんるの刑では、僧に資格ははく奪され、ただの人として流される。僧でも俗人でもない、それを、「非僧非俗」と称した。ここで在家で信仰する方法を開拓した。

Photo_3つまり、親鸞は、越後の地で妻帯して家庭を持った。日常の中で信仰し、仏にすがって生きる生活を続けた。浄土へ行けるのは、真剣に戒律を守り、たくさんの寄進をした人だけではない。みんな平等に救われるのだ。法然のいう念仏を唱えることではなく、信じれば、すなわち救われる、という親鸞の解釈を広めた。

 他力本願と悪人正機説 親鸞「他力本願への道」

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2011年4月12日 (火)

カースト制度と闘う 僧侶佐々井秀嶺

09 ヒンドゥー教のカースト制度は、インドを解放したガンジーさえ手をつけなかったのを、日本人僧侶、仏教徒がカースト制度からの解放を仕掛けている。佐々井 秀嶺 僧侶はインドに帰化して、仏教の最高位に上りつめ、インドの大衆にあがめられている。それを始めて知ったのは、朝日新聞の夕刊紙だった。葬式宗教しか知らない日本人には衝撃的な行動に見える。

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佐々井 秀嶺ささい しゅうれい、本名:佐々井 実、現本名:アーリア・ナーガルジュン(Bhadant-G Arya Nagarjuna Shurai Sasai)、1935年8月30日 - インドで活動している日系インド人僧侶(1世)。カースト以下の身分のダリット(不可触民)の人々を仏教へと改宗させるインド仏教復興運動の中心人物。

1935年(昭和10年) 岡山県阿哲郡菅生村(現在の新見市)に5人兄弟の長男として誕生。
1957年 鳥取県立米子東高等学校入学(中退)。山梨県甲州市の大善寺で修行。
1960年 高尾山薬王院で出家、鹿児島市の日蓮宗 教王寺で修行。
1962年 大正大学の聴講生、雑誌『実践仏教』発行。傍ら浪曲師(東家楽水 (2代))、易者となる。
1965年 30歳、薬王院留学僧としてタイに留学。
1966年 インドのカルカッタ、後にラージギル日本山妙法寺へ。
1967年 夢告により、ナーグプル(インド中央)に移動。
1969年 インド山妙法寺をナーグプルに建立。
1970年 ボンベイのシッダールタ・カレッジに留学。
1988年 インド国籍を取得。
1992年 ブッダガヤの大菩提寺(マハーボーディー寺)管理権奪還運動を開始。
1998年 マンセル遺跡、シルプル遺跡の発掘を開始。
2003年 仏教徒代表としてインド政府少数者委員会の委員となる(在任期間:2003年11月2日~2006年10月2日)。
2009年 44年ぶりに日本帰国、各地を訪問、講演会を開く。

インドの人口に占める各宗教の割合: ヒンドゥー教徒80.5%、イスラム教徒13.4%、キリスト教徒2.3%、シク教徒1.9%、 仏教徒0.8%、ジャイナ教徒0.4%(2001年国勢調査)インドの人口は12億人。仏教徒960万人、ヒンドゥー教の海の中に、仏教を信じる人はわずか。釈迦が生まれたのはインド、仏教の発祥地なのに、どうしても、日本人には不思議なことに、ヒンドゥー教とイスラム教ばかりが多い。

身分を縛りつけ、いろんな面で格差をつけるヒンドゥー教カースト制度の影響から抜け出したいと思う人も多いが、ヒンドゥー教の多勢に仏教の無勢、勝ち目がないようにも見える。が、身分を縛りつけ、いろんな面で格差をつけるヒンドゥー教の影響から抜け出したいと思う人は多くいる。最近、インドでは身分の平等な仏教に改宗する下層階級が急増し、いまや仏教徒は1億人ともいわれる。佐々井僧侶らの活躍と無関係ではない、と思われる。

Ws000009 佐々井 秀嶺 僧侶は、上の写真はニコニコしているが、他の写真を見るとあまり柔和な顔というよりいかつい。ヒンドゥー教と闘うには強さが必要、その意味では、佐々井僧侶の押し出しが向いているかもしれない。

Ws000007 「日本行脚」という本、40年ぶりに日本に来た佐々井 秀嶺 僧侶の日本での足跡を追いかけて撮った写真が中心Ws000008 らしい。らしい、というのは、この本1000部限定出版で一冊6000円もする。日本にいる佐々井 秀嶺 僧侶ファンが多くいて、彼の生き方にあこがれる日本人が彼に生き方を学ぼうとしてる様子だ。

Lee_tenghui_2004_cropped_2  そういえば、芸能人のファンは、生き方を学ぶというのではないが、そういいう心の師匠をもつ人が案外いる。台湾の元総統李登輝の講演会があると台湾まで出かける日本人は多い。日本人ばかりのファンクラブを構成している。インテリが多いようだ。私には、そういう親代わりになる人がいない。しいていえば、浄土真宗の親鸞かな。親鸞の思想はわかりやすそうで理解しにくいから、臨済宗など禅宗のほうがいいかも。

Sasainagpur3oct2010朝日新聞の記者が、佐々井 秀嶺 僧侶を取材にインドで同行取材して、彼の四輪駆動に乗せてもらって、交差点で止まると、車やバイクに乗っている人が佐々井僧侶に合掌したり、声をかける。「バンテージ(上人様)、ジャイ・ビーム!」と、日本の僧侶だったら、ありえないことが起こる。ジャイ・ビーム!とは、仏教人の挨拶言葉らしい。赤い法衣の佐々井僧侶は、実にうれしそうに顔がクシャクシャになる。

仏教徒で最高位についたインド初代の法相ビームラオ・アンベードルカがいる、その名に由来する挨拶だという。「アンベードルカ、万歳!」という意味に相当するらしい。

いまでこそ、佐々井僧侶はおインドで僧侶の最高位にいるが、日本にいる頃は、人生失敗ばかりだったという。岡山から上京したのち、商売で借金を抱え、女性問題でも悩み、求道と結婚の板ばさみに苦しんだ。人生の何たるかを自問し、自殺未遂が三回、24歳で出家したが、僧侶の生活に飽き足らず、浪曲師になった。今でも「清水次郎長伝」を大声で語ることができる。

K616526804 1965年、日本を飛び出して、インドに渡り、そこでアンベードルカを知った。アンベードルカは、ヒンドゥー教徒のカースト制度で一番下の階級、不可触民だった。猛勉強して英国米国へ留学して、インドの憲法を起草した。1956年(昭和31年)にカースト制度のない仏教に改宗した。万民平等の仏教の魅力を多くの人に語り、50万人以上のヒンドゥー教徒、イスラム教徒を仏教に改宗させた。

Lrg_16211875 そのアンベードルカの死後、指導者を失った仏教は衰退しそうだったが、その地位に佐々井僧侶が就いて、仏教寺院を建設していった。ナグプールに1968年に来てから、インド国籍もとった。

仏教寺院を建設するときも、佐々井僧侶は建設現場に入って、シャベルを握り、汗を流し働いた。僧侶で汗を流し働く人はいなかったから、驚異の目で見られた。ナグプール市会議員になっている佐々井僧侶の教え子でもあるラフールさん(50)は、佐々井僧侶の働きに目を見張ったほうである。

Otokoichidai インドの仏教は、ヒンドゥー教に管理されていた。仏陀の生誕の地では、仏陀さえヒンドゥー教の神の一人にされていた。寺や資金さえヒンドゥー教徒の管理下におかれていた。佐々井僧侶は、仏教徒が虐げられている現状に怒りを覚え、大菩薩寺を取り戻す運動に立ち上がったのである。

Sasainagpur3oct2010_2 仏教徒数1000人と共に、全国5000キロを行進した。仏教徒に大菩提寺奪還の運動を続けた。佐々井僧侶のインドでの生活は、暑さと清貧の生活に日本人には耐え難いレベルであると思われる。しかし、彼は「インドでも、義理と人情です。そして反骨精神、弱きを助け、強きをくじく。弾圧された人をみれば、その立場に立つ側に身を置きたい」という。

1982年、日本からインドの佐々井僧侶を訪ねてきた学生小池一郎がいた。東北大の学生であったが、今は49歳のコンピュータ会社の社員である。若者の救済に技術学習に小池一郎の会社へ送りこみ、そこでコンピュータ技術者に育てあげている。

Indiasasaidemo1 「佐々井さんは、不可触民のためにカースト制度と闘っている。僧侶というより、社会運動家に見えた。」と、小池は語る。一昨年09年、佐々井僧侶は日本へ40年ぶりに日本に帰ってきた。日本の仏教を見て「インドの仏教は人々の救済のために役立っている事実を伝え、「葬式仏教」に堕している日本の仏教を活性化する手がかりになれば」と思う。

日本へ帰ってきたのは、彼佐々井秀嶺 僧侶の破天荒な人生を紹介した「破天」を著した元朝日新聞記者山際素男の死去のためである。「破天」が出版されてから、日本から若者が佐々井僧侶のもとへ来るようになった。

「もう日本へ戻ることはありません。年も年だし、体が動かなくなった。でも、やると思えばどこまでもやる。それが私の宿命なんです」 

宗教を考える① 薬師寺管主 高田好胤を思いだす  宮沢賢治 日蓮宗国柱会が発想元か 公明党の組織選挙の現状さぐる 創価学会池田大作、重篤の危機? 宗吾霊堂へ初詣 佐倉宗吾一代記 宗教 伊勢神宮の精神性は何か 幸福の科学 国政進出、第二公明党か チベット動乱で聖火拒否の善光寺僧侶 禅宗(曹洞宗 万福寺)からの贈り物 共に縁を結ぼう 結縁の勧め 語らざれば、憂いなきに似たり 五木寛之 一休宗純 宗派の垣根を越えた行動  

宗教を考える② オウム真理教が目指したもの  自殺対策に取り組む僧侶の会 週刊朝日の公明党よ!目をさませ  矢野絢也、創価学会を訴える 週刊新潮 石井一参院議員 創価学会党に噛み付く    つつしみの心 それは間違っていないが  ケルン大聖堂の威容  仏像を見て仏教を考える  顕正会VS創価学会 近親相争う カースト制度と闘う 僧侶佐々井秀嶺

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2011年1月17日 (月)

オウム真理教が目指したもの

Img87ebf38dzik1zj_2 1990年2月衆議院に選挙があり、中選挙区制度のころ、平澤勝栄の選挙区に真理党岐部 哲也が立候補。立候補のときは、ホーリーネーム=マハーカッサパだったと思う。ポスター写真には白いオウムの制服で載っていた。

1990年第39回衆議院議員総選挙真理党公認で、当時の東京都第10区から立候補している。

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麻原がかつて側近に語っていたのは、「創価学会があれだけやれるなら、オウム真理教も、そこまでできるはずだ」と。集団で、やるとそれこそ、サリン散布して国会議員を皆殺しにすることも可能であることの証明でもある。創価学会をひたすら模倣しようと思っていた、そこへ近づけないから、相当嫉妬したに違いない。

違和感ある選挙活動で、オウム真理教の信者がそろって麻原彰晃の面をつけて踊っていた。信者が号令一下、くり人形のごとく、踊る姿が哀れであった。当選するはずないと思って見たものだが、あの立候補で、麻原彰晃は本気で、半分以上当選すると思っていたらしい。

麻原彰晃を含む信者25名を立候補させたが、全員が供託金没収の惨敗となった。そのため、教団の組織が一時ガタガタになっていた。

最近では、国粋的な党是を主張して、幸福党が立候補して全員落選しているるが、あれより、票数が少なかったのではなかったと思う。1990年、全員落選後から、非合法活動が積極的になった。選挙で議席を獲得することが非現実的であるとわかったからだといわれている。

 この総選挙でお金を使ってしまい、危機感があった。会員の団結を狙って、セミナーを石垣島で開催する。一人30万円の会費。総勢約1300人が参加したので、オウム真理教は資金面で大いに助かった。しかし、石垣島内の会場を借りてセミナーを行う予定であったが、オウム真理教という身元が割れて、会場の利用を断られた。やむえず海岸のキャンプ場で行われた。

 江東区にあったオウム真理教本部ビルの屋上から、異様なにおいがあたり一面に匂って大騒動だったのも、このころだった。葛飾区の金町、亀有あたりまで匂ってきた。そのにおいは環七道路を伝って、異様なにおいが広がってきた。そんな印象であった。夜の7時、8時ころ、私は塾で勉強を教えていたが、その異常さに勉強を一旦中止して、しばらく様子を見た。

 説明がしにくいが、ニカワを煮たような異臭が夕闇の空気に乗って、広がって来た。江東区の地元では、追い出し運動が盛んになっていたが、例のごとく、自分たちには「非はない」という説明で、騒動が大きくなっていた。後に江東区のビルを見たが、それほど目立つビルではないが、その屋上から煙のように異臭が出ていたとか、教えてもらった。

事件を起こしたり、問題がテレビで報道されると、幹部の氏名や顔が知られて。一般市民に知られるようになった。

上祐史浩:マイトレーヤ正大師 オウムの顔、外報部長。
婚約者の都沢和子とともに入信。その後彼女を麻原に献上。
村井秀夫:マンジュシュリー・ミトラ正大師 科学技術省長官。
サリン製造中心部所のトップ。TV実況中に刺殺された。
青山吉伸:アパーヤジャハ正悟師 法務大臣。オウムの弁護士。
早川紀代秀:ティローパ正悟師 建設省大臣。
武器密造や軍事訓練、テロ・ゲリラ活動を指揮。
遠藤誠一:ジーヴァカ正悟師 厚生省大臣。
「細菌兵器」研究。
新実智光:ニラレパ正悟師 自治省大臣。
教団治安維持、警察対策、麻原のボディーガード。
井上嘉浩:アーナンダ師長 諜報省大臣。
拉致・監禁や謀略工作などの裏工作を行う部隊を指揮。
土谷正実: ボーディサットヴァ・クシティガルバ師長
オウム化学研究班トップ。サリンを作った張本人。
林郁夫:ボーディサットヴァ・クリシュナナンダ師長 治癒省大臣
修行や洗脳に向精神薬を投与。オウム付属病院医師。
岐部哲也: マハー・カッサパ師長 防衛庁長官。
石川公一:  法皇官房最高幹部。麻原三女の養育係。

その他、オウム真理教メンバー:麻原彰晃 - 松本知子 - 石井久子 -- 飯田エリ子 - 都沢和子 -上祐史浩 - 村井秀夫 - 青山吉伸 - 新実智光 - 早川紀代秀 - 遠藤誠一  井上嘉浩 - 岐部哲也  -林郁夫 - 中川智正 - 土谷正実 - 大内利裕  -石川公一  -山本まゆみ - 大内早苗 - 林泰男 - 越川真一 - 岡崎一明 - 富永昌宏 - 富田隆 - 端本悟 - 広瀬健一 - 豊田亨 - 中村昇 - 平田悟 - 横山真人 - 渡部和実 - 北村浩一 - 外崎清隆 - 杉本繁郎 - 山形明 - 平田信 - 高橋克也 - 菊地直子 - 中田清秀 - 鹿島とも子 - 村岡達子 - 石井紳一郎 - 二ノ宮耕一 - 野田成人 - 杉浦茂 - 杉浦実 - 荒木浩 - 永岡辰哉 - 上田竜也 - 松下孝寿 - 田中和利(名前を見ただけで、あの人は、何をしたか、わかるほど、知名度が高い人が多い)

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参考資料 矢野絢也、創価学会を訴える 週刊新潮 伊勢神宮の精神性は何か 幸福の科学 国政進出、第二公明党か チベット動乱で聖火拒否の善光寺僧侶 禅宗(曹洞宗 万福寺)からの贈り物 共に縁を結ぼう 結縁の勧め 語らざれば、憂いなきに似たり 五木寛之 一休宗純 宗派の垣根を越えた行動 五木寛之が「親鸞」新刊を無料公開 宮沢賢治 日蓮宗国柱会が発想元か 公明党の組織選挙の現状さぐる 創価学会池田大作、重篤の危機? 宗吾霊堂へ初詣 佐倉宗吾一代記 宗教

1991年9月 - 『朝まで生テレビ!』に出演。
公称信徒数 [編集]
1985年12月 - 15人
1986年10月 - 35人
1987年2月 - 600人
ピーク時
1995年3月 - 15,400人(出家1,400人、在家14,000人)
1997年7月 -  5,500人(出家  500人、在家 5,000人)

オウム真理教の教祖である麻原彰晃(本名:松本智津夫)が救済の名の下に日本を支配して、自らその王になることを空想し、それを現実化する過程で、外国での軍人訓練や軍事ヘリの調達、自動小銃の密造や化学兵器の生産を行い武装化し、教団と敵対する人物の殺害や無差別テロを実行した。
 一連の事件で27人が死亡し(殺人26名、監禁致死1名)負傷者は6000人を超えた。特に注目される事件として、
1989年11月  坂本堤弁護士一家殺害事件、教団と対立弁護士の家族を殺害
1994年6月27日、松本サリン事件、判事殺害を目的サリンを散布 計7人の死者と数百人の負傷者
1995年3月20日、地下鉄サリン事件 5両の地下鉄車両にサリンを散布 捜査の攪乱と首都圏の混乱 計12人の死者と数千人の負傷者。

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