2013年8月 4日 (日)

2013(平成25)年8月 あんなこと、こんなこと

2013(平成25)年8月 あんなこと、こんなこと

八月は、七月に続く、暑い季節。しかし、私にとっては、季節と戦う実感のある月。生きていると思う。そして、この暑さが過ぎると、急にさびしさが身にしみる。

一ヶ月書いてきて、8月は戦争を振り返る一ヶ月だったという思いが強い。まだまだ、我々の親祖父の代でやってきたことを知らなさ過ぎる。もっと過去を知って、日本が今後どう進むべきか考える必要があると、痛感する。
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    2013年8月 1日 (木)
    寺島実郎 経済:金融ジャブジャブ緩和の問題

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    2013年1月 8日 (火)

    世界はひとつ★アジアの統一★信長の世界戦略 

    066  織田信長の考えを秀吉が実行しているように見えるのが、朝鮮征伐と称する「唐入り」である。これの総責任者の豊臣秀吉は、老年期に入り、判断力が弱くなっている。織田信長のまだ元気だった時期にこのアジア統一をやったら、実現可能であった。と言う推論である。

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     織田信長が本能寺の変で倒れなかったら、尖閣諸島の問題、竹島の領土問題はなかっただろう。ifイフのイフだというが、黒鉄ひろしの大風呂敷の仮説を聞いてしまうのだが、織田信長の視座の高さは、そのころの武将にはないくらいの理解力である。
     現代もその目で見ると、どうだ?信長の理解力を現代にもってきて、政治家で匹敵する人物がいるだろうか?

    民主主義の時代に世界征服を視野において、領土拡大、他国の統治など考えるべくもないが、いまから500年前に、世界が統一の機関でまとまっていたら、尖閣諸島の領土問題で争うこともない。当時の日本以外の国に住む住民は虫けら同然だったかもしれないが、現代の分立国家のほうが問題だ。当時の感覚からしたらアジア統一の概念は、かなり先進的だ。

     秀吉の考え方も、信長の模倣だろうと思う。秀吉は織田信長のうわっつらを真似しただけだから、家康も秀吉の死後その計画を止めただけだ。世界的には、シーザー(カイザル)、アレキサンダー、チンギスハンの壮大な世界征服の実行者がいる。信長が本能寺の変で倒れなかったら、年齢的に見て、世界征服実行の適齢期であった、と思われる。彼らの知恵より数等倍あった。毛利さえ始末してしまえば、日本は片付いたのだ。それで終わりと思うか、それとも、コレを起点とするか。天才と凡才の分かれ目はここにある。
    084083 信長は、10年計画で明を征服して・・・と思ったらしい。その証拠は、フロイスの書簡に残っている。
    アジア諸国を従えておけば、現在の領土問題で争いは存在しない。世界、少なくともアジアは統一国家で、世界経済の中心であったかもしれない。戦力の余計なエネルギーはいらないわけだ。

    大きな立場で、歴史を見たとき、いつかは地球上を統一国家にしなければならない。行ってみれば、今まさに世界は戦国時代だろう。光秀が信長を倒してしまって、アジア統一のアイディアは消えてしまった。日本を飛び出して、信長が世界統一まで夢想しても、ほかの武将では、そこまでやれないし、考えが理解できない。

    081 宣教師ルイス・フロイスから、地球儀をもらって、ソレを眺めて、日本の存在と地球の形を即座に理解したという織田信長の理解力は、群を抜いていた。その当時、自国の一所懸命、領土拡大がせいぜいで、国内統一にまで考えつかないし、ましてや世界統一、アジア統一までは理解できないのが普通の武将だっただろう。その点で、織田信長の天才であった。ただし、そばに仕える武将は、よほど信長の気性を理解して心酔しないと、逃げ出したくなる。明智光秀は、たぶん自分のほうが頭がいい、日本を上手に治められれると思っていたに違いない。
    「近くの天才は、単なる気難し屋」
    「天才は近くにいると理解できない」

     武力的に見て、世界で一番武器が優れていた。戦国時代を100年にわたりすごし、武将の技術も進んでいた。戦国時代の終わった後、明治維新の後の武士階級の始末で困ったように、信長もソレの戦争屋たちの後始末で頭を悩ましただろう。

     エンドレスに戦争していけば、ババ抜きを外国にもっていく考え方であったか、信長なら家来に命令を上意下達、徹底できる。亀甲船で朝鮮では秀吉は失敗したが、信長には武器の優れた面、船でも優秀な工夫があった・・・歴史から見てのifイフのイフだが。もし信長を本能寺から脱出できたら、
     本能寺の地下道の脱出路がふさがれていなければ、命は助かったはず、そして信長は再起したはずだ。

    Ws000064  歴史上、日本が指導者に傑物を得たのはこのとき、ただ一回だったかもしれない。世界へ目を開いている知識人で、かつ武力を背景に持ったのは、彼以外にいただろうか。
     その意味でも、岐阜県岩村城・・・、キンカン頭とからかわれ、傷つくプライドの持ち主の光秀は、織田信長の性格を見て知性を見落としてしまったのかも。

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    2012年9月 7日 (金)

    負けて、勝つ★渡辺謙★吉田茂を演ず

    Photo NHKは土曜日に吉田茂を中心にした戦後のGHQマッカーサーとの対決したその歴史をドラマにするらしい。その吉田茂に渡辺謙を起用する。また彼が使われるとは、日本の俳優は国際的に通用する人がいないのかと思ってしまう。
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    03  吉田茂は身長1メートル55の小柄な男。生前、「世界の歴史を動かすのは小柄な男」と決まっていると嘯いていたらしい。たとえば、ナポレオン、この男も小柄であった。中国鄧小平は150センチ、わが国の吉田茂は155センチ、世界的医学者 野口英世は153センチ、作家の三島由紀夫、川端康成だって160センチなかった。

    02  吉田茂は、身の丈のことは口にしていないが、「大男総身に知恵の回りかね」ということわざの時代、前にも書いたが「徴兵検査の甲種合格153センチ以上」の時代、だが奥方は背の高い人だった。「小りん」さんは、奥方の死んだのち家に入った芸者だった人。吉田茂が死んだ後、大磯の邸宅の一部にひっそり暮らした。田中角栄の奥方のような、控えめの印象だった。

     大磯から国会へ吉田茂が通う道路を「ワンマン道路」と称して、世間の人は恐れて、今の読売渡辺恒雄どころの話ではない。社会党のダレだったか(西村)、国会の質問中に、吉田茂にコップで水かけられ「バカヤロー!」といって、国会が解散になった。水をかけたのは、カメラマンだった。(以下が正確な事実である。)
     1953年2月28日の衆議院予算委員会で、吉田茂首相と右派社会党の西村栄一議員との質疑応答中、吉田が西村に対して「バカヤロー」と暴言を吐いたことがきっかけとなって衆議院が解散。
     映像資料で見ると、吉田は席に着きつつ非常に小さな声で「ばかやろう」とつぶやいたのをマイクが拾い、気づいた西村が聞き咎めたために騒ぎが大きくなったのが実態

     松浪健四郎は、民主党議員永田寿康にやじられコップの水を浴びせたが、吉田茂にも同様な逸話がある。
     しつこい新聞記者にコップの水をかけた吉田が、さる貴い人から「気持ちはわかります」と言われたそうだ。そこで吉田は、
    「水をかけたいと思うだけなら、誰でも思います」と答え「大事なのは、(実際に)水をかけることでございます」 と切り替えしたそうだ。こういうウイットを効かせると、次の矢を放てる日本人はいない。
    ウィットとエスプリに満ちた会話をした。

     吉田茂の有名なウイットというか毒舌が、某ブログにあったのでご紹介します。
    ①「特別の健康法とか、不老長寿の薬がありますか?」
    とある人に聞かれ、すました顔で即答した。
    「はい、強いてあげれば人を食っております」。

    ②外交上の会見の場で謝罪しなくても良いのに突然
    “I am sorry” と言った。その場にいた一同は、なんだろう?と驚いていた。次の瞬間、「私は、総理です」と吉田さんの一言で、緊張したその場は、一瞬で和んだという。

    ③終戦直後のまだ国民が焼け野原で飢えと闘っているころ、吉田さ04 んはマッカーサーに「450万トンの食糧を緊急輸入しないと国民が餓死してしまう」と訴えた。結局6分の1以下の70万トンしか輸入できなかったが、餓死者は出なかった。マッカーサーが抗議して、
    M氏:ミスター・ヨシダ、私は70万トンしか渡さなかったが、
    餓死者は出なっかったではないか。日本の統計はいい加減で困る。
    01 吉田:当然でしょう。若し日本の統計が正確だったら、むちゃな戦争などいたしません。
     また統計どおりだったら、日本の勝ち戦だったはずです。
     マッカーサーは腹を抱えて笑い出したという。

     たぶん、ここまで吉田茂の毒舌ユーモアやウイット、エスプリが広がると、彼ならこういうだろう、と付け加えられてしまい、彼の言わなかったことも追加されるだろう。まあ、それはそれで、面白いかもね。

    吉田 茂(よしだ しげる、1878年(明治11年)9月22日 - 1967年(昭和42年)10月20日):日本の外交官、政治家。位階は従一位。勲等は大勲位。
    内閣総理大臣(1946)昭和21年5月22日〜昭和22年5月24日、および、(1948)昭和23年10月15日〜1954(昭和29)年12月10日まで在任。

    優れた政治感覚と強いリーダーシップで戦後の混乱期にあった日本を盛り立て、戦後日本の礎を築いた。ふくよかな風貌と、葉巻をこよなく愛したことから「和製チャーチル」とも呼ばれた。
    政治活動以外の公的活動としては、廃止された神宮皇學館大學の復興運動に取り組み、新制大学として新たに設置された皇學
    館大学にて総長に就任した。また、二松学舎では、金子堅太郎の後任として学校法人の理事長にあたる舎長に就任した。

    おいたち:1878年(明治11年)9月22日、高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士竹内綱の5男として東京神田駿河台(のち東京都千代田区
    )に生まれる。父親が反政府陰謀に加わった科で長崎で逮捕されて 母親は芸者だったらしく、竹内の投獄後に東京へ出て竹内の親友、吉田健三の庇護のもとで茂を生んだ
    実父と義父は若い武士として1868(慶応四、明治元)年の明治維新をはさむ激動の数十年間に名を成した者たちであった。

    1881年(明治14年)8月、茂3歳、旧福井藩士横浜貿易商(元ジャーディン・マセソン商会・横浜支店長)吉田健三の養子となる。
    ジョン・ダワーによると、「竹内からもその家族からも、この五男茂は余計者に扱われていた」という。 養父・健三が40歳の若さで死去し、11歳の時、茂は莫大な遺産を相続した。

     少年期は、大磯町西小磯にて義母に厳しく育てられた。
    200pxshigeru_yoshida  1889年(明治22年)2月、耕余義塾入学→1894年(明治27年)4月に卒業。同年9月から、日本中学(日本学園の前身)約1年通った、
    1895年(明治28年)9月、高等商業学校(一橋大学の前身)同年11月に退校。1896年(明治29年)3月、正則尋常中学校(正則高等学校の前身)を卒業。同年、慶応義塾・東京物理学校(東京理科大学の前身)に入学いずれも中退。
    1897年(明治30年)10月に学習院入学、1901年(明治34年)8月学習院高等学科を卒業
    同年9月、当時華族子弟などを外交官養成の学習院大学科に入学、大学科閉鎖
    1904年(明治37年)同年9月に東京帝国大学法科大学、1906年(明治39年)7月政治科を卒業、
    同年9月、外交官領事官試験に合格。合格者11人中、首席合格が広田弘毅

     外務省へ入省後は、20年の多くを中国大陸で過ごす。中国における吉田は積極論者で、軍部よりも強硬であったとされる。奉天総領事時代には、対中強硬論者政友会森恪と連携し、「満蒙分離」論を支持。1928年、田中義一内閣の下で、森は外務政務次官、吉田は外務事務次官に就任。

     外交的には覇権国英米との関係を重視し、この頃第一次世界大戦の敗北から立ち直り、急速に軍事力を強化していたドイツとの接近には常に警戒していたため、岳父・牧野伸顕との関係とともに枢軸派からは「親英米派」とみなされた。駐英大使としては日英親善を目指すが、極東情勢の悪化の前に無力だった。また、日独防共協定および日独伊三国同盟にも強硬に反対した。1939年昭和14年、待命大使となり外交の一線からは退いた。

     太平洋戦争開戦前には、ジョセフ・グルー米大使や東郷茂徳外相らと頻繁に面会して開戦阻止を目指すが実現せず、牧野伸顕、元首相近衛文麿ら重臣グループ連絡役として和平工作に従事(ヨハンセングループ)し、ミッドウェー海戦大敗を和平の好機とみて近衛とともにスイスに赴いて和平へ導く計画を立てるが、成功しなかった。
    その後、殖田俊吉を近衛文麿に引き合わせ、後の近衛上奏文につながる終戦策を検討。
     しかし書生として吉田邸に潜入したスパイ(=東輝次)によって1945年(昭和20年)2月の近衛上奏に協力したことが露見し憲兵隊に拘束。ただし、同時に拘束された他の者は雑居房、吉田は独房で差し入れ自由という待遇(親交のあった阿南惟幾陸相の配慮によるもの)40日あまり後に不起訴・釈放となった。この戦時中の投獄が、逆に戦後は幸いし「反軍部」の勲章としてGHQの信用を得る。
     スパイ(=東輝次)には
    後日談がある。
     その書生が戦後現れて、「上官の命令とはいえ申し訳ないことをしました」と詫びると、「忠実に任務を遂行したのだから、別に謝る必要はない」と激励し、就職の世話までしている

     第一回放映
     ダレの脚本だろうか、視聴者を買い被っているせいか、平家物語の官位がわからないように、多くの人には、東久邇、近衛になると、どういう位置にいた人か、よくわからない。人物を景色扱いで通すつもりだろうか。主人公だから吉田茂とダグラス・マッカーサーははっきりしているが、出てくる人物の戦前の働き、業績がわからないと、ストーリーについていけないじゃないか。
     東条英機を対立軸に立てて、枢軸国へ加担するか、英米を味方につけるか、緊張感があるストーリーにしてほしい。5回連続で、視聴者がついてくるか、心配である。
     昭和20年代の話にしても、もう少し画面を明るく、親しみやすくしてほしいものだ。薄暗くて、ダレがダレだか、特に女性の関係が説明不足のきらいがある。事実に引っ張られすぎて、展開するストーリーが散漫な印象がある。
    Shigeru_yoshida_suit_2 吉田茂を渡辺謙に依頼して、NHKは彼の演技力頼みになっている3e6a5098_2 が、吉田茂は渡辺謙でないほうがよかった気がする。第一似ていない。ネームバリューで見せようとする意図が感じられて、よろしくない。小野
    武彦のほうが吉田茂に似ていないか?

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    2012年8月26日 (日)

    「新撰組」吉村貫一郎の生き様、死に様


    000「新撰組」など、乱暴な幕府御用警察じゃないかと思いつつ、「壬生義士伝」DVDを見ていたら、その中には人間模様もあるし、派閥争いもある。固定観念でとらえると、食わず嫌いは治らないが、いい作品はそれを打ち破る。

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    024 幕末の京都、壬生で誕生した新撰組。そこへ一人の男が入隊してきた。
     盛岡の南部藩出身の吉村貫一郎(中井貴一)だ。免許皆伝の彼は、永倉新八(比留間由哲)と腕試しを近藤勇隊長(塩見三省)に指示される。
     そのとき沖田総司 (堺雅人)から「真剣でやってみたらどうですか」と声をかけられ、下手したら死んじゃう状況に追い込まれる。そんな場面で命をさらすのが新撰組だ。「刃挽きしているから大丈夫」と付け足す。039_5

     真剣でむきあって、吉村貫一郎は永倉新八に一歩も引けをとならにで、闘ってみせる。しばらく二人の試合をみた近藤勇が「そこまで」と止めるまで、真剣勝負を続けた。「吉村君、隊の師範をお願いする」と、取り立てられる。「柔和な言動に反して、吉村の剣は何人も人を斬ってきたような剣だ」と斉藤
    一(佐藤浩市) がつぶやく。
     貫一郎は、酒席で「国は南部藩で、いいところでござんす。お見しりおきを」と隣あった斉藤一に挨拶しても、知らん顔。「この田舎侍」とイジメの対象に思い「しばらく人を切っていない」と斉藤一は思って。「帰りは送ってくれないか」と貫一郎を雨の中で切り捨てようとしたが、五分の戦いで切れない。「冗談だ。腕を試しただけだ」という斎藤に、貫一郎は「こういう冗談はこれきりにして頂きたい」という。

     「隊員はみな、幕府の旗本になれる」と、近藤隊長が訓示でいうと、吉村貫一郎は喜ぶのはいいが、
    117「それで、お手当てはいかほどになるのですか?」
     当時としては、武士が銭金のことを言うのはいやしい、と思われた時代に、他の隊士に笑わるのを意に介せず、かれは処遇、つまり給与について聞いた。土方が、書類を調べて「貴兄は、400俵になる」と教えると、
     「先生方のおかげです」と平身低頭。この吉村は何かにつけてお金を欲しがり、金に汚いと思われたが、一向に意に介するふうではない。
     隊長の近藤勇も一目置く斉藤一は、そんな吉村貫一郎を田舎侍とバカにした。命知らずの新撰組の雰囲気の中にあっても、なぜ吉村はそんなに命を惜しがり、そしてお金に執着したのか?吉村と斉藤の性格は反対であったが、斉藤は徐々に吉村に興味を持つようになる。やがて、時代の変革の波は新撰組にも覆いかぶさってきた…。
    126

     新撰組内で何があったか、多少の予備知識のあることを前提に話が進むから、ストーリーが端折られている。
     伊東甲子郎が近藤の新撰組と別れ、勤皇派の別団体を作る。勤皇衛士に取り立てられると、新撰組から旗本になった場合の倍の手当てになると誘う。腕の立つ吉村貫一郎(中井貴一)と斉藤一(佐藤浩市)に誘いをかける。
     吉村は「一度主君を裏切ったから、もう裏切れない」と断る。カネに転ぶと思った吉村の意外な印象を斉藤はうける。
     斉藤一は、近藤に指示を受けていた伊東一派にもぐり込む。伊東らは近藤と土方の暗殺計画を立てる・・・・。斎藤は伊東に味方している振りして、近藤らの命を受けして、伊東一派の粛清暗殺して、近藤のもとに戻ってくる。
    それを吉村貫一郎(中井貴一)の目を通して描く。

     そのころから、時流は徳川方に不利になり、新撰組も鳥羽・伏見の戦いで敗れ123て、落ちのびていく。薩長に追われる吉村貫一郎は、新撰組本体とはぐれ、血まみれで、脱藩した盛岡藩の大阪藩邸へ頼っていく。そこの留守居役、幼馴染で親友の大野次郎右衛門にすがる。
     しかし、いくら親しい友であっても、藩の運命にかかわる救命はできない。
     大野は、「切腹」を言い渡す。
     腹が空いているだろう、と握り飯を作ってやり、差し入れるが、匂いはかぐが食べない。刃こぼれした刀では切腹はできないと大野は刀を差し出す。翌日までに切腹しないと、盛岡藩の運命に影響する。
     死を覚悟した吉村貫一郎は、もっていたカネを故郷の息子や娘に残し、差料は使わなかったからと血ぬりの文字で書き遺し、翌朝、吉村は死んでいた。死にざまについては、ここに詳しく書いてある。←クリック

    吉村 貫一郎(天保11年(1840年) - 慶応4年1月3日(1868年1月27日))。
    盛岡藩出身。新選組諸士取扱役兼監察方及び撃剣師範。北辰一刀流、新0001_2当流。ただし盛岡藩に吉村貫一郎という人物の記載は一切無く、嘉村権太郎が本名と推測されている。
    慶応4年(1868年)正月、鳥羽・伏見の戦いに参戦したが、戦死したのか、脱走したのか、以後の消息は途絶える。御香宮の戊辰東軍戦死者霊名簿には「正月六日淀ニ於テ戦死 諸士調役 嘉村権太郎」とある。 また、嘉村家の過去帳には「明治三年一月十五日没」とある104
    という。
     鳥羽・伏見の戦いの後、新選組が大阪を離れている事を知った吉村は路頭に迷い盛岡藩邸に帰藩を願う。差配役の大野次郎右衛門は武士にあるまじき行為として切腹を申し付け、盛岡藩邸の中で切腹して果てた。切腹した部屋には、二分金十枚と紙切れが置いてあり、紙切れには家族への送金を願う文が記してあった、という。但し、大野次郎右衛門なる人物は架空の人物であることがわかっており、また、妻子も見つかっていない。

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    2012年7月19日 (木)

    パラオで第14師団59連隊 米軍と休戦協定結ぶ

     旧日本軍は捕虜になることは、簡単にいえば、禁じられていた。代わりに敵軍の捕虜も殺された。「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」と、戦陣訓をたたき込まれて、捕虜になるより、決死の突撃をして死ね!というのが、当時の常識であった。当時の命は、一枚のはがきより軽かった。
     今の自衛隊は、命大事、「戦闘機乗りは一人教育するのにいくらかかっているのだと思う?」と、逆質問を受けるように大事にされすぎて、危険なことをさせられない。一機100億円の戦闘機は水没させても、パイロットは無理させない。

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     投稿記事によると、パラオで終戦を迎えた第14師団の師団長は上陸した米軍と「休戦協定」を結んで、飢餓状態にあった兵士に、食糧供給を求めた。その時の主計中尉の体験記が朝日新聞「声」語り継ぐ戦争に書かれていた。92歳の鈴木健という方の手記。
     当時の頭のいい人は、戦場に出ない職場として人気があったのが「主計」である。中曽根康弘も主計中尉であった。慶応の塾長小泉信三の息子も主計中尉であったが、戦死した。

    パラオは、日本の真南約2700kmの太平洋に浮かぶ、小さな島嶼国家でMappalau1 す。西800kmにフィリピンのミンダナオ島、北東1200kmにはグアムがあります。
    1914年の第一次大戦の時に日本がドイツに宣戦布告して無血でこの地を占領しました。日本はここに南洋庁を置いて南方の統括拠点とし、2万人を越える日本人が移住しました。この時期に町も近代化しました。しかし第二次大戦ではアメリカの攻撃対象となって激戦地となり、1944年のペリリューの激戦では双方で2万人を越える死傷者が出ました。戦後はアメリカの信託統治となり、1994年に独立を果たしています。産業は観光が 重要な位置を占め、美しい海を背景にダイビングやフィッシングを中心としMappalau2た観光客を惹きつけています。
    面積 : 458k㎡(屋久島程度)
    人口 : 2万人(2010年)
    人種 : パラオ人(7割)、その他フィリピン系
    言語 : パラオ語、英語。年配の人で日本語を話せる人もいます。
    宗教 : カトリック(4割)、プロテスタント(3割)、その他新興宗教、土着の宗教など

     日本兵は、日本側の教育しか知らないと、捕虜の扱いがどうなっているか知らないまま、死に追いやられていたが、大学出て勉強している人は、捕虜が虐待されることはないと知っている。沖縄宜野湾市の友人は、逃げ惑っているとき、日本軍の学徒兵の将兵に米軍に投降するように指示された。おかげで助かって今があるという話を聞いた。その将兵は、自分は投降しないで最後まで戦って戦死されたのだとか。

     投稿者鈴木健氏の上司師団長は、アメリカ軍と休戦協定を結んで、将兵の命を救った。アメリカ軍としては、日本軍は実質捕虜であることに変わりはないから、それを認めたのだろう。Wikipediaには、休戦協定を結んだ話はなく捕虜としてしか扱っていない。

    「我々は降伏したが捕虜ではない。武器は放棄するが軍隊として存続させていく。兵士たちは飢餓寸前で、人道的な立場から食料援助をうけたい」米軍との交渉が実を結び、缶詰などの食料が空港に運ばれた。空港からジャングルへ運び、各隊に分配した。
     驚いたのは、ドラム缶のような大きな牛缶、日本米よりうまいカルフォルニア米だった。栄養はもちろん、とにかくうまい。生まれて始めての食べ物ばかりであった。我々の食べ物といったら、携帯の乾パンのみ。米軍は、乾パンとチョコレート、ガム、タバコなどが一包みになっている。
     これだけでも勝負は決していた。なにしろ、当時はトカゲ、カタツムリが最上の食料であったのだから、私の任務である食料の供給は途絶えて久しかった。」
     45年八月十五日以降、餓死寸前から安堵感と共に食料事情が一変したのである。帰国までは、(戦闘の恐れがないので〉毎日のようにジャングルの宿舎で、郷土の歌の競演などしていた。八月十五日以前と比べると、天国と地獄である。

     という趣旨の投書で、米軍へ投降を勧めなかった日本の軍部の誤りは、現代の原子力発電を推進する日本指導者と何か似ていて仕方がない。

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    戦争って何?1赤紙召集令状のからくり 戦争の影響 女たちの不幸  加藤登紀子 遠い祖国 キャリアの失言と愚将牟田口廉也  終戦 荒廃した国土 忘れるな 講和条約 日本は占領されていた 戦争の影響 疎開、食料など 日本軍の関与 集団自決、慰安婦問題 反東條運動 松前重義に報復人事 なぜ東條内閣ににらまれたか 松前重義 ミズーリ艦降伏調印 責任者の責任 大郷村兵事書類から戦争を見る ポツダム宣言 阿南惟幾VS東郷茂徳 満州からの引き揚げ 1  引揚げはこうして実現した。葫蘆ころ島

    戦争って何?2 
    関東軍 機密費戦費まかなう阿片
    戦争を知る人たちの記録
    戦争体験を聞く 喉元を過ぎれば


    戦争の記憶が薄れるご時世 1 
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    シベリア抑留日記
    後満州引き揚げ 故郷への道
    我が子を手にかけ 満州引揚げ
    ソ連兵強姦の現実 手記 文藝春秋

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    2012年7月11日 (水)

    平治の乱で公家藤原信頼(塚地)名演技

    014 NHK大河ドラマ「清盛」平治の乱で、公卿藤原信頼を演じた、ドランクドラゴンの塚地武雅、お笑い芸人が起用されていた。
     彼の演技か、地か、よくわからないが、平安時代の公卿のイメージを完璧に表現されていた。あんな愚かしい表情を公卿がしたか、そりゃわかりませんが、政治を行う能力を失いながら、権謀術数だけは長けている姿は、あの時代をよくあらわしていた。

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     反信西派が形成されたことが、平治の乱の原因である。
     信西一門・二条親政派・後白河院政派・平氏一門というグループがそれぞれ形成された。『平治物語』では、藤原信頼が“近衛大将”を希望したが、信西が断ったために確執が生まれた、とする。しかし『愚管抄』にはその話は書かれていない。院近臣の身分で“近衛大将”に任じられるのは常識的に無理なことから事実かどうかは疑わしい。
     信西一門の政治主導に対する反発が、平治の乱勃発の最大の原因と思われる。二条親政派と後白河院政派は互いに激しく対立していたが、信西の排除という点では意見が一致し、信西打倒の機会を伺っていた。一方、清盛は自らの娘を信西の子成憲に嫁がせ、信頼の嫡子信親にも娘(後の藤原隆房室)を嫁がせ、両派につながりがあり、中立的立場にあった。平治元年(1159年)12月、清盛が熊野参詣に赴き、京都に軍事的空白が生まれた隙をついて、反信西派はクーデターを起こした。

    Wikipedia 参照

    「平治の乱」の前に行われた「保元の乱」では、崇徳上皇方は総崩れとなり、総大将の藤原頼長(山本耕史が演じた)は、怪我がもとで死に至る。そして、新体制は勝者となった後白河天皇は、まもなく、息子の二条天皇に皇位を譲って後白河院政を敷き、政治の実権を握る。
    Icon1569919082973122579__1_bigger ここで力を持ったのは、後白河上皇を助け、権勢を奮ったのが信西(しんぜい、藤原通憲、阿部サダヲが名演)藤原一族であるが、 藤原主流派とは違う家柄である。彼は、藤原主流の能力のない家柄だけで出世する世を変革しようとしたので、清盛もその意気を感じて、平家としても信西についていこうとした。

     ただそうなると、信西の改革は、今までいい目を見てきた「旧保守」藤原主流には好まれないのは、当然である。

    25 『平治物語』によれば、信西の頭脳は「当世無双の宏才博覧なり」、『愚管抄』でも「学生抜群の者」と評価されている。NHKの「清盛」でも宋から使わされた使者と中国語で会話を交わせるシーンが挿入したあった。語学力もあり才能は抜群。

     そんな信西は、権力は強まり、「保元の乱」の論功行賞や今までの人事とは違うやり方をする。ただ、信西は、行政改革、内部の改革のつもりだったが、ただ信西の思い通りにされて、おもしろくない勢力が、信西の追い落としを考える。それが、藤原信頼(ドランクドラゴン塚地武雅の役)である

     若い時は後白河天皇と男色関係にあったと噂される藤原信頼である。
     源義朝も平清盛も、保元の乱では後白河天皇側について、勝利した武士であったが、しかし、現政権の中心人物信西は、源義朝より平清盛のほう重用した。源義朝が出世できていなかった不満を感じていた。さらにそこに、二条天皇の側近たちが加わる。

    Ws000004 こうして、二条天皇の側近+藤原信頼+義朝の反信西グループが、現体制打倒で結集した。ちょうど、清盛一行が熊野詣に出かけたスキを狙って、平治元年(1159年)12月9日、クーデターを決行。
     後白河上皇のいた院御所・三条殿を襲撃して、後白河上皇の身柄を確保、その三条殿に火をかけた。さらに二条天皇のいる内裏へと向かい、ここで、天皇と上皇を拘束した。これが平治の乱である。

     藤原信頼や義朝が三条殿を襲撃した時には、すでに信西は逃げたあとだった。
     信西は、清盛がこの異変を聞きつけて熊野から引き返して来る到着するまで、時を稼ごうとして、自らの所領のある宇治田原へと逃げた。宇治田原に到着した時、すでに藤原信頼派の追手が、すぐそこまで来ているとの知らせだった。
    「もはや逃げ切れない・・・」と悟った信西は、コレは有名なシーンであるが、
     従者に穴を掘らせて、その中に入り、節を抜いた竹筒を穴の外へ出して生き埋めにしてもらい、即身仏になるべく隠れたが、従者がすぐに追手に捕まり、信西を埋めた場所を白状してしまった。
     信西は、やむなく、刀を取って自害、時に平治元年(1159年)12月13日、信西・54歳の冬。

    「保元の乱」では藤原頼長が死に、「平治の乱」信西が死んだ。体制を変革しようとした中心人物が、二人とも、道半ばにして倒れた。体制を変えようと権力を握って、保守体制の有象無象を相手に仕事を進めたが、その体制側の策謀で失敗した。
     今の「官僚体制を打倒!」というスローガンで「民主党政権」を樹立したが、保守三党合意をして、官僚主導の政権に戻った現代に似ている。いつの時代も、一歩進んで一歩か、一歩半戻るのが、歴史の示すところだ。

     このあと、清盛政権は、公卿の政治から一線を画した新しい体制になる。これは、藤原頼長の改革、信西の改革を参考にして、あとは、清盛の知恵が現れる。

    007  最初の知恵は、源義朝(頼朝、義経の父)の白軍に戦いを挑むのであるが、赤軍の清盛は知恵を働かせて、すぐには義朝軍を攻めずに、宴会を連日おこなって、油断をさせた。
     004
    囚われの天皇と院への忠誠書(名簿)を提出して、天皇の意のまま忠誠を誓うと奉書を提出した。
     次に、平家へ参謀となっている藤原信頼と謀議をした平家ゆかりの公家がきた。「意ならず、向こうへ加担しているが・・・」と、もし平家が勝った場合の保険をかけにきた。

     清盛は、二人を脅して、天皇と院を脱出させて、六波羅(平家の陣)へ脱出を仕組んだ。この計画が成功するまでは、一切源義朝軍には手出しをしなかった。院と天皇が六波羅(平家の陣)へ脱出したのを見て、「源義朝は逆賊である」という名分ができて、大いに官軍風を吹かせ、一気呵成に攻撃を開始した。清盛の老獪さが出ている。人間老獪出ないと歴史が動かない。民主党にはこれがたりない。

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    2012年6月29日 (金)

    新・平家物語(吉川英治)公卿、武士、僧侶の戦い

    Heike100 主演市川雷蔵と久我美子
     新・平家物語、主演市川雷蔵が清盛で、1955年昭和35年公開DVDを借りた。金町中央図書館のめぼしい作品はほとんど見てしまったから、今回借りたのはちょっと古い。図書は多いが、DVD作品は、1作品で図書10冊分購入金額になり揃えるには大変だろうと理解するが、作品数が少ない。  

     新平家は三部作で、これが第一部、監督溝口健二。次が新・平家物語 『義仲をめぐる三人の女』(監督衣笠貞之助)、次が『静と義経』(監督島耕二)となっている。監督がそれぞれ違う。

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    第一部新・平家物語には、副題はない。現在NHK大河ドラマ「清盛」と比較して、娯楽色が強い。わかりやすくして、多くの人の興味をひこうとする意図が見える。

    平清盛(きよもり) - 市川雷蔵: 平忠盛の嫡子。
    時子(ときこ) - 久我美子: 貧乏貴族の娘。清盛の正室。
    藤原時忠(ときただ) - 林成年: 時子の同母弟。
    平泰子(やすこ) - 木暮実千代: 清盛の母。
      元・祇園の白拍子。白河上皇の寵愛を受けていた。
    平忠盛(ただもり) - 大矢市次郎: 清盛の父。
    朱鼻の伴卜(あけはなのばんぼく) - 進藤英太郎:

    018_2   保延三年の初夏。平安京。西暦でいえば、1137年。今から八百七十六年前である。平忠盛が、西海の海賊征伐から凱旋してくるメーンストリート朱雀大路を、数百の武士の列が、行進してゆく、先頭の槍に敵将の首がくくりつけてあるのは、戦勝の帰途であることを示している。都の賑わいと雑然としたシーンから始まる。

    彼らは、白河院に赴いて、西海の海賊征伐の大勝利を戦況を報告し、戦利品を献上した。忠盛は、その戦について鳥羽上皇に奏上することがあるから、拝謁を許されたいと頼み入った。鳥羽上皇の執事別当は、一蹴した。
    「武士の身分で、上皇に直き直きお言葉をかけていただこうなどとは、以ての外の僭越である」

    022  父忠盛の傍にいた二十才の清盛は、はげしく怒りに震えた。
     今度の遠征は、上皇のご命令である。長い間、家の子郎党は、苦労をかさねて、はげしい戦斗に勝って凱旋したのである。戦死者も数多く出ている。それに対して、「御苦労であった」とねぎらいの一言くらい、かけて下さるのが、本当ではないか。清盛は、執事別当に詰めよろうした。穏和な父忠盛は、それを押さえた。

     その夜、今出川の館にかえった忠盛は、清盛をすぐに、よびよせて、乗馬のうちの一頭を売り、酒にかえて来いと言った。
     鳥羽上皇からは、戦功に恩賞がなかったので、忠盛は武士にとって大切な乗馬を売って、家の子郎党をねぎらおうとするのである。清盛は、父の心中を思いやり、悲憤の涙をこらえながら、酒を買って来た。

     027 宴はひらかれたが、郎党たちは、忠盛の心中を思いやって、一言も発しない、一せいに口にするのは、鳥羽上皇に対する不平不満である。上皇の周囲にいる公卿に対するはげしい憎悪である。
     清盛は、彼らの間に割って入った。
    『泣き言をいうな。・・・お前達の不平不満はしょせん、俺達に、まだ力がないからだ。俺達は、たとえてみれば、地の草だ。まだ、芽は見えないが、春が来れば、芽をふくのだ。・・・今は冬だ。春を待つのだ。さ、うたえ うたえ』、
     そういう清盛の頬にも、痛憤の涙が流れている。

     当時の政治と社会の情勢は、平安京に都が定められてから、三百五十年も過ぎ、宮廷での威勢を誇り、政治上の要職を独占していた藤原一門の「貴族政権」は行き詰まり始めていた。
     高い文化をほこりながら、太平安逸をむさぼり、日夜遊び暮らす生活からは、国を治める強いエネルギーは、生まれて来ない。地方では、中央政治の弱体に乗じて、実力を持つ豪族が、しきりに土地をうばい、税金を横領し、公然と反抗して来る。
     また、延暦寺、園城寺(三井寺)といった旧来の仏教団体も、荘園の大地主が僧兵の武力を背景に政治に横車を押し、町の秩序が乱れ、騒然としていた。

      藤原一門の貴族社会のリーダーも、政治上の地位と私有財産を守るために、自分たちには武力がないので、武士を登用することになった。歴史上、武士が大きな存在として、クローズアップされて来る。それが、平家と源氏の誕生である。
     それに加えて、白河法王による『院政』の開始である。退位した天皇が上皇と呼ばれ、権力を保持し続け、現天皇をないがしろにした。退位したのち仏門に入ると、法皇と呼ばれる。上皇、法皇を共に「院」とよぶ。

    031  国税がとれない延暦寺などの宗教団体の私有地が大きくなり、国の財政を圧迫していた。平安時代も、現代に似たような悩みがあった。
     時の(藤原一門の)政権は、国の財政を建て直そうと、不当な土地の私有を禁じようとした。若い新米天皇の力では、政治運営は出来ないから、老練な天皇経験がある「院」が朝廷を指図して政治をとることが多くなった。これが「院政」の始まりである。

     現代でいえば、当選回数の若い議員が多い民主党や議員数の少ない自民党では政治がうまく運ばないので、各省庁の官僚が政策を立案して、実行させるようなものである。消費税を野田首相の進言して行わせるのも、「院政」に近い。「八ツ場ダム」継続、原発再稼動など、大きな政策は、現代の「院政」各省庁の官僚が進めている、と言っていい。

     天皇が、幼少であれば、問題は起らずにすむが、今、鳥羽上皇の御子崇徳天皇は、二十才近い青年で、上皇との間にはげしい感情的対立が生まれ、いさかいの兆候が現われていた。

     「院」が、強力な政治を実行するに当って、やはり、武力が必要なものであった。社会情勢が、相当険悪になって、武力のない貴族では解決がつかない。どうしても武力を持つ武士の力を利用しなくてはならない。
     
    当時は、血統と身分を重視し、身分制度が厳しく、殿中に上がれる「殿上」人と「地下」人に区別された。五位以上のものは、昇殿が許され、それ以下のものは地下人とされた。現代社会でそれを探すと、国家公務員のキャリア組、代議士で先生と呼ばれる人が、平安時代の「殿上人」に相当する。

     清盛の母、泰子は、藤原一門と血のつながっている中御門家から、忠盛に嫁いで来た。どうして、若く美しい泰子が貧乏武士の忠盛にとついだのか、不思議に思う人が多い。024
     泰子は、その生れつき、派手で見栄坊であった。粗野な武家ぐらしをきらいながら、二十年間すごして来た。子供も、清盛をはじめ、経盛、教盛、家盛と、四人もある。しかし、交際するのは、いつも藤原一門で、実家へ帰って、家をあけることが多く、世間並の妻や母とは、大分ちがう。父忠盛は、妻泰子と時にいさかいもするが大した不平も言わず、なすがままにさせている。清盛は、それが、歯がゆくてならなかった。

    030 一日、清盛は、父の言いつけで、西七条の兵部権太輔藤原時信の邸へ使いに行った。
     藤原一族でも、時信は正義派の老人であった。今度の平忠盛の西海への遠征とその勝利に、命じた鳥羽院から何の恩賞もなかったことに、「院」に抗議したものだから、貴族社会上層部にきらわれ、逆に「謹慎」を命じられていた。この一件で、閑職「図書寮の役人」に左遷された。父忠盛は、それを申しわけなく思い、清盛に詫びの書状を持たせてやった。

    049  時信の住居は朽ち古びた建物であり、庭にひいた水で、若い娘が、糸を染めていた。快活に働いていた娘を婢女(女中)だと思い、清盛は、横柄な口調で取次ぎを頼んだ。
     また、「その糸で衣服を織ってくれ」と気軽に言った。その娘は、微笑しながら、主人の時信へ来意を取り次いだ。

     案内された座敷へ、酒肴をはこんで来た美しい娘をみると、さつきの庭で染物をしていた婢女である。
    048  清盛は、さっきとは違い、時信の前で小さくなっていた。
     時信は、「娘の時子です」と、紹介した。
     時子はおかしそうに、その清盛を見たが、その目には清盛の直情な正直さに対する好意が見えた。
    「布の織るのは趣味ですか」と清盛が聞くと、
    「糸を染めて、衣服を織るのは、貧乏公卿の家計をたすける一助です」
     時子の女らしからぬ実行力に、清盛はすっかり感心した。

    006  NHKの大河ドラマ「清盛」とは、吉川英治の「新。平家物語」では、創作が加わっているから、時子の出現が最初から出ている。清盛も、先妻を亡くしている史実は出てこない。

     その帰途、清盛は、時子の弟時忠と知り合い、二人で都の裏町、わんわん市場に行った。ここは生活力のたくましい庶民の群が、むき出しのままの生活をさまざまに展開している。
     「ここには、強盗も人殺しもいるかも知れんが、食べていかれれば、みな笑ってくらしている。広大な領地をかかえて遊んでいる公卿や坊主たちのほうがずっと悪党だ」 清盛の言葉に時子の弟時忠はうなづいた。
     
     その時、鳥羽上皇に仕える遠藤光遠という武士と鼻の赤い町人(五条の伴卜)が進み出て、清盛に「一献さしあげたい」と近づいてきた。
     父平忠盛が西海の海賊を心服させたと知ると、早速、伴卜は、西国はおろか海外まで、商売の手をひろげ、貿易をしようと、まず清盛に近づいた。伴卜の家の酒盛で、交友を深めた。

     清盛は、光遠と伴卜二人から、思いがけないことをきいた

     それは、清盛の出生の秘密についてである。
     母の泰子は、かって故白河法皇の寵愛をうけていた祇園の女御であった事実を告げられた。清盛の真実の父は、白河法皇か、さもなくば、・・・かも知れぬということである。
     清盛は、内心の衝撃に耐えながら、夜の道をわが家へとって返した。
     『俺の父は誰だ?』
     家に帰りつくと、忠実な老臣木工助家貞をたたきおこして、庭の闇にすわりこみ
     『爺よ、俺は誰の子だ。ほんとうのことをおしえてくれ』
     家貞が語ったのは、次のようなことである。

     二十年前、祇園の社の近くに、瀟洒な住居をかまえる美女がいた。法皇の寵姫と知って、誰いうとなく、祇園の女御とよんでいたが、法皇がお忍びで、祇園の女御に通うお供は、忠盛と従臣の家貞だった。
     ある夜、法皇の訪れと共に、女御の住居から逃げ出した怪しい僧侶があった。そのことを知った法皇は、荒々しく女御をののしり、引き止める女御をふり切って帰った。
     その途中、忠盛は、法皇から「女御を妻にするように」言われたのである。忠盛のもとへとついだ法皇の寵姫、すなわち泰子は、やがて、男の子を生んだ。それが清盛である。これだけのことでは、清盛が、白河法皇の子であるとも、悪僧の子であるとも、言い当てることはできない。
     『爺、正直に言うてくれ。』
     家貞は、清盛を寝間につれてゆき、言った。
     『和子
    ワコ、真の父御が誰であろうと、和子は、まちがいなく一個の男子ではおわさぬか。心を太々とお持ちなされ。天地を父母と思いなされ』

     翌朝、泰子は、忠盛にこの家を出ると言い出した。
     昨夜、清盛と家貞の話を、泰子は、はからずも耳にして、耐え難い屈辱と憤りをおぼえたのである。清盛は心から詫びをいい、
    「せめて、小さな子供たちのためにも思い止まってくれ」とすがったが、気位の高い泰子は我慢できなかった。
     「母ならば、自分の父が誰であるか知っている筈だ、子の悩みを解いてくれるのが当り前だ」と、清盛は詰めよったが、泰子は、怒って、つと立った。父忠盛は、無言である。小さな弟達が、「行かないで下さい」とすがるのもふり切り、牛車で去ってしまった。

    054  僧徒の暴動
     その直後、加賀の国白山寺が廃寺となった上に、失火のため焼けてしまったので、院では、その領地をとりあげ、国の所有にしようとした。ところが、白山寺は、比叡山延暦寺の末寺であることから、領地は、当然延暦寺のもである、という訴えをおこし、白山寺の僧徒達も加わり、暴動を起こした。忠盛は『院の命令』をうけて、それを鎮圧すべく出発したが、清盛は同行することを拒んだ。

    058 『もう、公卿や坊主どもの土地の番犬になるのはいやです。』
     『院直き直きに、ありがたいお言葉を頂いたのだ。その思召しに背くのか』
     その時、清盛は、口惜しげに、叫んだ。
     『上皇が、父上を御寵愛あそばれるわけが、やっと判りました。(
    鳥羽)上皇も、祖父白河法皇が寵愛された藤原璋子をお后にされ、そのお腹に、今のみかど(天皇)がお生れになった。
     上皇は、みかど(天皇)を、自分の子ではないと仰せられ、上皇は、父上(忠盛)を同病憐れんで、お慈悲をおかけになっているのです。そんなお情は、頂きたくありません。』

     『清盛、口がすぎるぞ。思い上がったか』
     こうした不和のまま父忠盛は、清盛を残して、加賀の国へ出発した。

     それを知った五条の伴卜は、
    「父上と喧嘩されてはいけません。(貴族政権は)もう、あなた方武士の力がなくては、どうにもならないところへ来ているのだから、自分達(=武士階級)の力を信じなさい」
     事実、公卿たちも、ようやく武士の力を無視できず、忠盛が加賀の白山の騒動を無事に治めたので、鳥羽上皇は、彼を地下の武士から初めて殿上人に昇進させた。公卿の仲間入りさせた。

     しかし、清盛は、その程度の父の出世が、喜べなかった。鳥羽上皇の「お慈悲」である。父ひとりが、そんなお情に預かっても、武士全体の地位が向上したわけではない。武士の実力にふさわしい地位を、貴族からかちとらねばならない。と、叫んだ。

     それを聞くと、伴卜は、はたと膝をうった。清盛の考え方が気に入った。
    「あなたの一生に賭けよう、あなたの一生を売って下さい」
    「よし、売ってやろう、その代り、高いぞ」
     と半ば冗談のようにして、清盛は絹の色糸二十貫を伴卜からせしめた。これを、時子の家へ運んだ。

    『どうか、お役に立てて下さい』
     時子は、おどろき、呆れた。清盛は、時子の、今織っている狩衣が、清盛のものだと知ると、思わず顔を赤らめた。時子の気持ちは、もう清盛の若々しい心に傾いていたのである。

     加賀の国から凱旋した父忠盛は、上皇の思し召しにより、昇殿を許され、初めての武士の昇殿である。公卿、貴族の仲間入りである。
     一家一門の名誉と、みんなは喜んだが、清盛は苦々しい顔をしていた。
     父が衣冠束帯に威儀を正して、昇殿したその朝、時子の父藤原時信がかけこんで来た。
    「公卿の中には、“武士の昇殿を許せない”と、その夜、忠盛を闇討ちにする計画がある」というのだ。
     それを聞くや否や、清盛は、公卿たちに対するはげしい憎悪と父親に対する愛情とが、同時に沸いた。彼は、老臣の家貞と共に、禁制を無視して御所の庭に忍んだ。そして、忠盛を闇討ちにしようと企んだ現場で、公卿たち首謀者を威嚇して、父の窮地を救った。

     鳥羽上皇は、清盛が昇殿した父忠盛の窮地を救った武勇をめでられた。
     御所に忍びこんだことには何の咎めもなく、忠盛と清盛父子は、晴れ晴れとした笑顔をみせて和解した。

     『清盛は、わしのことなど、もう心にかけていまいと思うたが』
     『父上のお命は、もとより惜しうございましたが、武士の力を公卿どもに思い知らせてやりたかったのです』


     ところが、時子の父時信がこの闇討計画を洩らしたかどで、政権中枢の藤原氏から罰が与えられた。藤原の姓を奪いとられる「放氏の罰」として、追放されたのである。
     このことは、かえって清盛と時子を近しく結びつけ、二人は結婚した。時信の一家は、その後、「藤原」から「平」の姓を名乗ることとなった。

     忠盛は刑部卿(法務大臣)という官職にのぼり、清盛も「左兵衛佐さひょうえのすけ」(政務次官=副大臣)となり、ようやく幸福な日が訪れて来たかに見えた。

     ところが、紫野今宮神社の例祭で、時子の弟時忠と、老僕家貞の子平六が、叡山の荒法師から喧嘩しかけられたが、逆に彼らをさんざん打擲したという事件が起こった。直ちに法師たちが自宅に押し寄せ、二人の者を引きわたせと迫ったが、清盛は、「非はそちらにある、二人は引き渡せぬ」とつぱねた。清盛には、叡山の真意がわかっていた。

     鳥羽上皇は、騒動が起きた加賀白山の荘園を比叡山延暦寺が所領を主張したが、騒ぎを収めた父忠盛に与えたのである。それを比叡山は認めず、恨みに思い、隙あらば、とり返さんとしていた。
     時忠、平六の若い二人をわなにかけ、彼らに非があるという形を作った。が、叡山の提訴は、鳥羽院の御所に於いても拒絶された。ついに、彼等は、最期の手段、「神輿ぶり」に訴えようとした。こうなっては、朝廷の権威面目に関する大事件である。(「神輿ぶり」=比叡山延暦寺の僧徒が、朝廷に強訴するとき、日吉(ひえ)神社の神輿を先に立てて入京すること)

    028 当時の政権トップ、左大臣藤原頼長らは、清盛に「問題を起こした時忠、平六の二人を叡山の要求通りに引きわたし、事を収めるように」と命じた。父忠盛は、病中であったが、病を冒して御所に伺候して、「非は叡山にある」と述べた。
     しかし、公卿たちは、「命令をきかねば官職を剥奪する」といい、大勢の見ている前で、政権トップの頼長は父忠盛を御殿の階
    きざはしから蹴落した。
     「この事件の解決は、清盛一身に引き受けよう」と、
     憤激した清盛は言い放ち、父をつれて、邸へ戻った。その途中、忠盛は、病気の急変と憤激のため、一本の古扇をにぎりしめてたまま牛車の中で息絶えた。
     清盛は忠盛の遺骸を葬り、叡山の神輿が僧兵に担がれ下山する機会を、密に待っていた。

     母の泰子が父の死を知り弔問に現れ、忠盛の遺骸に焼香すると、清盛に向かい、
    065「あなたは、白河院の御子に間違いない、その証拠は、忠盛殿の持っておられた扇です。御所に行って、主上をはじめ皆さまに(殿上人になれるように)お願いしましょう」と、すすめる。
     それは、母として子の身の上を念ずる親子の人情である。が、清盛は、

    『わたしは、平忠盛の子です。体内の白河さまのお血は一しずくもありません。天地に生をうけた一個の男の子として自分の運命を掴み取ります』
    と、毅然として言い放ち、「白河院の子」と名乗って、出世させようとする母を止めた。

    Ws000063 僧兵、荒法師たち千人以上、神輿を奉じて、祇園の林に到着した。今にも、院の御所に押し寄せてきた。それを聞いた清盛は、甲冑に身をかため、強弓を小わきに、一人、立ち上った。
     清盛は、果して、何を以って至高の神輿にあたろうとするのか。彼の前途に待つは、風か、雨か、雲か。 (映画公開当時のパンフレット参考)

    「平家物語」のまだまだ始まりであるが、清盛が公卿たち貴族政権を引きずり下ろし、清盛が力をつけ始める様子を描いた娯楽映画である。しかし、歴史を学ぶ上では、このようなストーリーを知っていると、平安時代が映像として理解できる。

     清盛は保元・平治の乱を経て、源氏を一掃し、娘徳子を高倉天皇の中宮へ送り、天皇家との婚姻関係によって安徳天皇の外戚となり、一門の官職独占を図った。政体は貴族時代と同じスタイルを踏襲した。
     その“平家にあらざる者は人にあらず”とまでいわれ、平家一門の栄耀栄華を謳歌したが、その
    没落も早かった。
      その歴史は、琶法師らによって『平家物語』で伝えられた。週刊朝日連載の
    吉川英治の大河小説『新・平家物語』(昭和25~32)は、満州事変から太平洋戦争終結まで十五年戦争を潜り抜けて来た国民に感慨とともに語られた。

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    2012年6月19日 (火)

    平田国学と岩倉具視、裏切りも 想定内

     たぶん、数千年前「殷」の時代の人間も、たぶん同じことを考えたことだろう。
     オレと同じことを言って、むなしさに倒れていったのかも知れない。
     「何度言っても
    同じだ!それで政治はいいのか・・・・」と言いながら、なお、私はそれに向かって、扉を叩いている。

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     唐突に聞こえるかもしれないが、これは、源泉を辿れば、平田篤胤の国学史観にある。
     平田 篤胤(ひらた あつたね、1776年10月6日(安永5年)-1843年11月2日(天保14年)):江戸時代後期に国学者・神道家・思想家・医者。出羽久保田藩(現在の秋田市)出身。成人後備中松山藩士の兵学者平田篤穏の養子となる。復古神道(古道学)の大成者であり、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人(うし)の中の一人。その思想は水戸学同様尊皇攘夷の支柱となり、倒幕後の明治維新変革期の原動力ともなった。その思想は後の神仏分離や廃仏毀釈にも影響を与えた

     小説『夜明け前』(島崎藤村)を読むと、幕末中津川のインテリ階級は、平田国学の影響を受けている。そのころのインテリは、句会と称して、週一で談合していた。幕末政局を語るのだが、平田国学の影響で、倒幕を考える水戸の天狗党を応援していた。しかし、中津川のインテリは、みな役職のある身で、問丸とか、庄屋とか、尾張藩の配下にあったから、面従腹背の態度で接した。

     本日は、プルデンシャル系G生命保険に勤めているH氏が来訪した。彼は、故郷中津川市の近郊付知出身で、同じ高校の後輩であるというつながりで会うことになっていた。

     彼は、こんなことを言っていた。小学校で先生から、音楽の時間に「インターナショナルの歌」を教えられた、と。
     立て飢えたる者よ
     今ぞ日は近し
    覚めよわが同胞
     暁は来む
    という労働歌だ。教えられたのは、多くは労働者の団結の歌だ。
     そういえば、昭和30年ころ、近江絹糸の人権ストで日本中大騒ぎだった。女工哀史の世界がマダ残っていると、驚かれた事件で、中津川近郊の労働者が共闘をしようと集まり、名古屋、岐阜から機動隊が集会の日、大挙して押し寄せ、市内は機動隊の車両と隊員であふれた。
     そんな影響もあったのかもしれないが、
    労働歌を授業中に教えられたと語っていた。

     中津川市では、校長の指示など無視して、綴り方教育が行う先生がいた。また、作文集をつくったり・・・、今民主党幹事長輿石さんと同じ位の年齢の先生は、そのころは、自分の考えを生徒に教える指導ができた。父兄の文句もあまり強くなく、陰でいわゆる「アカ」と先生の陰口をいう程度であった。が、昭和30年以降は、私の印象では、そういう先生は、郊外の学校へ追いやられて赴任させられたように見えた。

     昭和40年代にそういう教育を受けたH氏は、いまだに、保守系の自民党を支持したコトは一度もない。いつも革新系を支持してきたという。教育の影響だ。

    「中津川市には、どうして革新系でしょうか」と聞かれて、
     それで、明治維新前後の中津川の話をした。彼は、「夜明け前」全巻読み通したというから、国学思想が、幕末中津川市の知識階級に与えた影響を話した。
     
    「夜明け前」島崎藤村 全巻読了
    赤報隊 御一新年貢半減: nozawa22
    踊らされた相楽総三と赤報隊: nozawa22

    Mino0214  そのころの庄屋など役職の知識人は、尾張藩に内緒で、倒幕運動に加わっていた。
    ら尊皇攘夷激派、天狗党の乱の残党が、諏訪近くの和田峠の激戦で破れ、中仙道を通ると、どこの宿でも、戸を閉めて、彼らを避けた。ところが、中津川宿を通過したさい、五平もちや飲み物で歓待した。

    02178
    横田元綱(和田峠の激戦で戦死)の首を中津川の有志に委託し、埋葬した碑

     天狗党の隊士が、中津の宿ではなぜ歓待してくれるか、不思議に思って尋ねたら
    「この人々残らず御同士の方々にて」(中津川の人たちは、みんな平田国学の同士です)と、平田国学を信奉している仲間として扱った。
    その後、この天狗党の残党は、ことごとく捕らえられ、琵琶湖近くで斬首される。

     その後、明治維新、昭和になって中津川市の市長になった人も、この幕末の知識人の子孫であり、平田国学がそのまま新政府の方針になったとはいえないが、中津川では、幕末の国学=反幕府で、その意識がめんめんと地下水のように伝わっているという歴史がある、というのが、私の解釈である。

    だから、戦後の生活綴り方教育につながったし、労働組合左翼運動にも関連しているのではないか。それが、先生たちの左翼思想にも伏流水のように現れてきたようだ。


     長州藩の方向変換にかかわる「中津川会議」をお膳立てしたのは、半兵衛(間秀矩)である。彼は、幕末東濃地方では平田派国学者の筆頭で、文人として評価の高い知識人である。その子孫が、昭和廿年代に市長を務めた。

     中津川市では、明治幕末には、倒幕運動に強い関心を持って、明治維新を眺めていた。この半兵衛(間秀矩)は、明治新政府軍の東山道軍を下諏訪まで先導したことなど功績があった。京都の長州屋敷に出入りし、天狗党を通過させ、また東山道軍を下諏訪まで先導したことなどから、明治維新に功労のあった

     文久2(1862)年、長州藩の桂小五郎は、藩主毛利敬親を尊皇攘夷へと説得するため、中津川宿に潜んで殿の到着を待ち、その間、東濃地方の平田派国学者の筆頭であった半兵衛と接触したと思われる。
     桂小五郎が
    「公武合体」から「尊皇攘夷」へと長州藩主の頭を切り替えさせた中津川会議を開いたといわれるが、その具体的に場所を設定したのが、この半兵衛だといわれている。

     五代目間半兵衛秀矩の身分は、間家の分家・山半の五代目の商人で、中津川村や役場の役人、さらに代官山村氏の御用などを務める有力者でした。時局に敏感で明治維新の長州藩の攘夷の動きを支えようとしていた。

     間秀矩(間半兵衛)の名で有名で、近郷の平田派門下人を組織し、京都の長州屋敷に出入りし、鳥羽伏見の戦いが開戦してから18日後の慶応4年(1868)1月21日、東山道鎮撫総督軍を下諏訪まで先導したことなどから、明治維新に功労のあった

     どこの地方にも、保守対革新の対立はあるが、中津川市では、市長選では明瞭にそれが現れる。そもそも、幕末明治維新の頃には、中津川市には国学ブームがあって、村の役人など知識階級は、尾張藩に知られないように、かなり本気で倒幕活動した。
     
    鳥羽・伏見の戦いで新政府が勝ち、逃げる幕府軍を追いかける形の東山道先鋒隊(相楽総三ら赤報隊など)が、中仙道を通過する際、地元から隊に加わる人の名簿が残っている。

    (それより先に進軍した、東山道先鋒隊(相楽総三ら
    赤報隊など)が美濃国、信濃国を朝廷側に導こうとしたが、途中で新政府の方針変更で取り消され、悲劇に終わる。 )←今回はこの件は取り上げない

     というわけで、幕末の中津川知識人は、平田国学の影響で反幕府を貫き、明治新政府の側に立ったが、「夜明け前」の主人公青山半蔵は、平田国学の思想、また「年貢半減」の旗印の賛同し、新しい世が来ると信じた。
     にもかかわらず、明治政府はそのマニフェストを踏みにじる「
    裏切り」を行う。その悩みで、青山半蔵は狂ってしまう。

     
    この正直な平田国学を信奉するウブな青山半蔵には、明治政府が「新しい世」のマニフェストを裏切るのは、到底受け入れられない気持ちだったと思う。最後は、座敷牢で狂い死ぬ。
     老獪な政治家岩倉具視なら、この程度の
    裏切りも、想定内。美濃地方の青年は、この理想と現実政治のギャップについていけるか。

     中仙道沿いの美濃地方、中津川市の人なら、一度は潜る思想洗礼である。この洗礼をどう潜るか、われわれ青年の「成人式」である。

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    =夜明け前 関連資料=
    夜明け前の虚構と史実 
    「夜明け前」島崎藤村 全巻読了 
    藤村の「夜明け前」読み難いのはなぜ 
    歴史の鼓動 夜明け前の町  
    「夜明け前」の中津川で 心中事件:  
    中津川豪商 生き方 杢右衛門と半兵衛  
    中津川村最後の「庄屋」 
    水戸天狗党を歓待する

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    2012年5月24日 (木)

    NHK大河ドラマ清盛 なぜ視聴率最低か?

       なぜ「清盛」は、視聴率最低か? まず、
    ①歴史的に人間関係の背景が複雑。
    ②官位がわからない。
    ③事件・ストーリーになじみがない。
    ④画面がうす汚く、暗い。
     琵琶の音色で「祇園精舎の鐘の音・・・」というリズムを聞かせれば、なじみやすいが、それではそれを知る人には好まれても、日曜日午後八時に一般性がない。大新聞のジレンマのように、高年齢から低年齢まで、貧しい人から裕福な人まで、社会の全階層に受けようと思っていると、八方美人になると、誰にも受けないモノを作ることになる。


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    ①人間関係を理解して掛からないと、なじめない。
     まず、役者の名前から歴史上の人物を整理する。その権力の度合いを測る。その初めは、藤原頼長と保元の乱について考える。

     
    藤原摂関家(官僚のトップ機関)

    Photo_3 父  =藤原忠実(国村隼)
    長男=藤原忠通(堀部圭亮)
    次男=藤原頼長(山本耕史)

    山本耕史=頼長、周りが凡庸で彼がキレ者で、強引な手法を使
    Photo_4 01 うので、多くの人に恐れられている。ただし、彼は次男で、兄長男を差し置いて、父忠実に才能を認められて、藤原家を継がせようとしている。
     対立は、父藤原忠実+藤原頼長対長兄藤原忠通と言う図式が保元の乱に持ち込まれ、藤原頼長の失脚も大きな目標にもなった。

    008Ws000007 摂関家というのは、天皇を補佐する「摂政」と「関白」という二大役職を一緒に藤原家が独占したがゆえに、一緒にした呼称が使われるようになった。

     
     「大化の改新」以来、
     藤原家の発祥は、中臣鎌足が始祖で、中臣→藤原となり、栄耀栄華を我が物にしてきた。日本中に、藤原はもちろんのこと、加藤、佐藤、斉藤、藤村、藤井、藤沢、藤木、藤山、藤本、藤野、藤田・・・・、日本中どこへ行っても、藤原から発祥した苗字があふれている。これが藤原摂関家の威力の証明にもなっている。

     このころは、医療技術が進んでいないので、一旦流行病が蔓延すると、バタバタと死んだりする。鳥羽法皇が崩御に伴って、それをきっかけてで、保元の乱が起きた。
    Photo_2Photo_3後白河法皇夜襲した勝ち側
    →崇徳上皇、藤原頼長(夜襲否定負け側)
    後白河法皇の夜襲を掛ける側と崇徳上皇+藤原頼長の夜襲否定側。双方の作戦会議(軍議)が、カットバック方式で交互に映像化していたが、貴族の服装が似ているから、どちがどっちか、非常に判別しにくい映像であった。
    説明はあったとしても、なじみがないストーリーは、多少の説明では、なじめない。
     
    009_2保元の乱(ほうげんのらん)は、平安時代末期、保元元年(1156年)7月に皇位継承問題や摂関家の内紛により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至った政変である。

    戦いは、白河院への夜襲が午前四時、武将たち(平清盛、源義朝)が三方に分かれて襲撃。ここで、NHK大河「清盛」ではこの部分が戦いの場として取り上げていた。

    Ws000021Ws000022  当時、身分を保障されてノウノウと過ごす貴族たちが多く、頼長が役人になって回りを見渡すと、規律は乱れ、世間の不景気であり、狼藉ははびこり、賄賂は当然といった状況に手を打つ政策も行われていなかった。頼長は最初から上級に役職についた。

    024 この状況を打破するべく、貴族社会の改革に着手した。律令の根本031_2 を見直す作業にかかった。法律はあれど、それが守られていなかった。その点を頼長が官僚のトップになったときから、厳しくはじめた。貴族(今で言えば、国会議員)たちには、自分たちの規律を厳しくされるのは、総反対であった。

     この山本耕史演じる「藤原頼長」は、大河ドラマでも、言っていることは当を得ているが、キツイ。こうもきつく指示されては、いくら凡庸な人でも、カチンと来ただろう。彼は頭脳明晰さも、群を抜いていたから、並み居る官僚がバカに見えただろう。熱心であるが故の口調も、言い方の強さが、敵を多く作っていたと考えられる。
    028  時間がもったいないからと、サウナ風呂に入りながら、若い官僚に必要な文書を暗誦させ、教育するとか。出勤簿をチェックして、毎月一回提出させそれで勤務評定をしたり、遅刻の多い官僚を焼き討ちにした。少々乱暴な気配がある。それは、天皇の信頼がある間は、藤原頼長は思うようにやれていた。


    033  
    誤解を承知で、現代の日本政治の中で例えると、小沢一郎が政権の中枢で政敵を圧して政策を実行している姿を想像すると理解しやすい。多数の政敵たちが、小沢一郎の再起できないように、無罪になった裁判を検察審議会による起訴をして、無罪になってもまた控訴して、彼がいつまでも被告の立場におくようなしつこい追求を続けるような状況が、この平安時代にもやる人がいた・・・という、誤解に満ちた説明。いつの時代も、豪腕は嫌われ、現状でマアマアで過ごすリーダーが好まれるのかも。

     保元元年(1156年)7月2日、鳥羽法皇が崩御。
    074 この天皇の死の原因は、藤原忠実(父)・頼長が呪詛したからだ、とうわさがが流れた。世間のうわさは、「頼長」憎しで、天狗の面に釘を打ち込んだとか、その当時の常識水準を、反対派にうまく藤原頼長の引きずり下ろしにうまく利用された。仕組んだとも言われている。
     当時のインテリでは、そんな呪詛で病気が重くなったり、するはずがないとわかっている人がいても、人の知識不足に漬け込んで扇動していた可能性がある。

     それに利用した(反対派の)連中がやったことだ、と藤原頼長は、天皇に弁明書を提出した。しかし、後白河天皇が即位してから風向きが変わって、天皇の側は弁明書を取り上げず、うわさの側を信じた。彼は摂政を下ろされてしまった。

    081 7月5日、「上皇左府(崇徳上皇と藤原頼長)同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞に対応するため、京中の武士の動きを停止する措置が取られ(『兵範記』7月5日条)、
     法皇の初七日の7月8日には、(後白河天皇側は)藤原忠実(父)・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する天皇の御教書(綸旨)が諸国に下された。同時に、彼らの罪を確認するため、蔵人高階俊成と源義朝の随兵が東三条殿に乱入して、邸宅を没官する。

     没官:財産没収の刑で、頼長に謀反の罪がかけられた。この前後に忠実・頼長親子が何らかの行動を起こした様子はなく、圧倒的優位に立った後白河・守仁陣営が挑発したと考えられる。忠実(父)・頼長は追い詰められ、もはや兵を挙げて局面を打開する以外に道はなくなった。

    Ws000005  藤原頼長は、挙兵の正当性を得るため、崇徳上皇を担ぐことを決意。崇徳上皇方の拠点、白河北殿には、貴族では崇徳上皇側近、藤原教長や頼長の母方の縁者である藤原盛憲・経憲の兄弟、武士では平家弘・源為義・平忠正などが集結したが、摂関家の私兵集団ばっかりで、戦力は甚だ弱小で劣勢は明白だった。
     武士なら勝利の常道である奇襲をするのが当然と思って、作戦会議で源為朝は「高松殿への夜襲」を総大将藤原頼長に献策したが、頼長は「天皇の戦いにそのような卑怯な戦いができるか。堂々と戦うのだ」と武将たちの作戦を却下した。興福寺の悪僧集団など大和からの援軍を待つことに決した。

    007  頼長が自軍の奇襲を却下した夜、11日未明、天皇方についた清盛たちは、白河北殿へ夜襲をかける。白河北殿は炎上し、戦いは数に勝る天皇方の勝利に終わった。
     崇徳上皇方は総崩れとなり、総大将の藤原頼長は馬にて御所から脱出。頼長は逃げる途中、敵の放った矢が首に刺さり重傷を負う。 出血による衰弱に苦しみながら、12日嵐山方面、13日には舟で桂川を渡り、巨椋池を経て木津へと逃亡を続ける。
    090  奈良に逃れていた父忠実に対面を望むが、これを拒まれた。「天皇の軍が惨めな負け方をするはずがない」と、藤原頼長に一切の同情はしなかった。この父の冷酷な態度には驚く。
     頼長は、それを聞いて舌を噛み切り、失意のうちに死んだ。遺骸は奈良の般若野に埋葬されたが、藤原信西の命によって「頼長の死」の確認にため、墓をあばかれ、検視されるという恥辱を受ける。掘り出されたのち、遺骸を放置されたままだったという。

     頼長の死後、頼長の長男師長、次男、三男、四男は全て配流。長男師長を除く三人はそれぞれの配所にて亡くなった。唯一生き残って都に戻ることが出来た師長は、後に太政大臣にまで昇進するものの、平清盛によって再び配流され、波乱の生涯を送っている。

    保元の乱 勝った側

    Photo_7 貴族  藤原忠通(頼長の兄)…関白
    信西
    徳大寺実能…内大臣。頼長の室・幸子の父。守仁親王の東宮傅

    武士(北面・検非違使・京武者)

    Photo_8 平清盛…安芸守。伊勢平氏正衡流
    源義朝…下野守。河内源氏
    源義康…右衛門尉。足利氏の祖
    源頼政…兵庫頭。摂津源氏
    平盛兼…和泉守。伊勢平氏貞季流 平信兼…盛兼の子

    源光保…出雲守。鳥羽法皇の寵妃・土佐局の父。美濃源氏
    源重成…式部大夫。清和源氏満政流 源重貞…重成の弟

     保元の乱が終結、頼長は死後も罪人として扱われた。頼長の子師長が帰京を許され、後白河の側近になっても変わることはなかった。
     その後、延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀といった大事件が勃発し、朝廷ではこれを保元の乱の怨霊であると恐れ、崇徳上皇の追号が「崇徳院」に改められ、同時に頼長には正一位・太政大臣が追贈された(『百錬抄』)。

     NHKの歴史ヒストリアで「悪の華」平安時代の藤原頼長、として紹介していた。 藤原頼長は、相当憎まれているが、その業績をさらっておきたい。
     苛烈で他人に厳しい性格であり「腹黒く、よろずにきわどき人」とも評され、「悪左府」と呼ばれた。
    047  その日記『台記』には、男色の記録が数多く記されている。東野治之、五味文彦の研究でその詳細は明らかにされ、頼長が稚児や舞人、源義賢ら武士や貴族たちと男色を嗜んでいたことも書かれており、当時の公家の性風俗を知る上で貴重なものとされる。

    (ブログ読者のみなさん、平安時代と現代では常識が違うから、男色など性風俗は、現代感覚で判断しないように。)

     男色相手として、随身の秦公春・秦兼任のほか、貴族では花山院忠雅・藤原為通・四条隆季、徳大寺公能、藤原家明、藤原成親、源成雅の名が特定されているが、五味はうち4人までが、院近臣として権勢を誇った藤原家成の親族である。つまり、敵方の家臣であることを指摘している。
     女との恋愛駆け引きがない時代では、男を口説き男色に至ることが恋愛であった。彼らの利害も表裏一体になっていた様子。

     私的報復の記録も多く、太政官の官人を殺害した犯人が恩赦で釈放されたことを藤原頼長は怒り、自分の部下に暗殺させて「天に代わって之を誅するなり」(『台記』久安元年12月17日条)と記している。

     同日記は、頼長の記録で、保延2年(1136年)から久寿2年(1155年=保元乱の前年)まで19年にわたる。ただし、自筆原本は存在しない。保元の乱前夜の摂関家や当時の故実を知る上で優れた史料である。
     また藤原忠通のもとに、鸚鵡おうむと孔雀が献上された際に、「鸚鵡の舌は人間の舌に似ているから、よくものを言う」「鳴声は、中国から渡来したものなので中国語を話し、日本人には聞いてもわからないのだろう」と考えた。平安期の鸚鵡観察記事は、珍しい資料である。
     日記『台記』は、孤高の英才政治家の栄達と失脚の記として、官界の実態を活写している。
    (現代語訳は出版されていない様子)

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    2012年2月14日 (火)

    金華山岐阜城下 七五三の記念写真を撮る

    4758 Gifujyo この連休は、イギリスから娘家族が来ているので、もう一人の娘家族と、七五三の記念写真を撮っていないから、数ヶ月遅れで記念写真をと岐阜城下に集まった。

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     この岐阜城は 金華山(稲葉山)の上にある山城である。たくさんのエピソードを残した戦国時代の斎藤道三の居城で、特に岐阜城の名を天下に示したのは、永禄10年(1567年)8月、織田信長公がこの城を攻略し、この地方一帯を平、地名を「岐阜」に改称。天下統一の本拠地とした。ここからは、壮大な眺望を楽しむことができる。

     一つのエピソードを紹介する。信長が岐阜城を攻略する三年前に、岐阜城が奪われた事件がある。
    498pxtakenaka_shigeharu_2竹中重治像/禅幢寺所蔵  1564年(永禄7年) 斎藤氏の家臣であった、竹中重治(=半兵衛)と弟・重矩、(義理の父)安藤守就が造反し、龍興の居城・稲葉山城(後の岐阜城)を16人の部下とともにわずか1日で稲葉山城を奪取した。城主龍興らは城を捨て、竹中らが城を半年間占拠する。

    竹中重治(=半兵衛):(生誕 天文13年(1544年)-死没 天正7年6月13日(1579年7月6日) 、後に豊臣秀吉の参謀となって、黒田孝高(黒田官兵衛)とともにと並び称された。戦国時代を代表する軍師としても知られ、織田信長の家臣である羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の参謀として活躍。

     竹中半兵衛は、体が弱く、やせて女性のようで、出陣するときも静かに馬に乗っているだけだったという(漢の劉邦の謀臣・張良のイメージ)。主君の龍興をはじめ斎藤家臣団から嘲弄され、イジメられていた。龍興の寵臣、斎藤飛騨守に櫓の上から小便を顔にかけられたことがあった。数日後、飛騨守が龍興居室の宿直を務めていたとき、竹中半兵衛は稲葉山城に詰めていた弟重矩の看病のためと称して、数箱の武具を隠しもって入城し、そして弟重矩の居室で武装して、宿直部屋に居た飛騨守を惨殺して稲葉山城を乗っ取った、とされている。

     竹中半兵衛が稲葉山城奪取を知ると、織田信長は城を譲り渡すように要求したが、半兵衛はその申し出を断り、半年後8月には稲葉山城を龍興に返還した。この欲のなさが、竹中半兵衛の生涯を通した真骨頂である。

     その後、半兵衛は斎藤家を去り、東浅井郡草野に3,000貫の禄で、北近江の浅井長政の客分として過ごしたが、約1年で旧領岩手へ帰り、隠棲した。信長は、浪人していた半兵衛を家臣として登用したいと考え、木下秀吉(後の豊臣秀吉)に勧誘を命じた。秀吉は何度も半兵衛を尋ね、「三顧の礼」で半兵衛を誘った。半兵衛は、信長に直接仕えることは拒絶したが、秀吉の天性の才能を見抜き、秀吉の家臣となると約束したとされる。

    4843 4847 女の子は7歳、男の子は5歳で、これが子供の祝いの最後になる。写真屋さん、最近は子供写真館は、一種の撮影所になっている。派手な衣装をつけるし、美容師さんが髪形も整え、化粧して、結婚式並み、反射鏡レフ板を助手がもって野外の写真を何枚も撮る。この子らの母親も、相模原大山の写真館で、ちょうど30年前に撮った記憶がある。歳月は風のごとくである。

    そのあとは、撮った写真をパソコン上で、客に見せ、どの写真を残して現像するか決めるなど、時代は変わった。

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