2009年12月20日 (日)

中津川豪商の生き方 杢右衛門と半兵衛

Photo_2 間杢右衛門ハザマモクエモンは、間家当主の代々の名前である。八代目間杢右衛門喜矩ヨシノリが中興の祖でがんばったというストーリー、だけではない、と作者は言っているが、杢右衛門のやったことが印象に残る。比較対照の、半兵衛というのは、分家、五代目間半兵衛秀矩である。

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大島栄子(中京学院大準教授)の「商人たちの明治維新」は、中津川の代表的豪商間家を掘り下げている。中津川町が発展してた過去に豪商間家が関わってきた言い伝えはいくつか、聞いているが、それがきちんと書かれたモノは少ない。

中学二年になって、間太利先生の担任になったとき、他の先生が「間家」を意識していると分かっていたが、その間先生の後ろにある歴史には、ピンと来ていなかった。「商人たちの明治維新」に書かれたものを読むと、間家の発展と同時に「夜明け前」の中津川の歴史が伝わってきた。

6代7代が差配した「丸八」がどんぶり勘定で借金まみれの状態になっていた。江戸時代の末期1843(天保14)年に、八代目が養子で迎えられ、彼の代で見事立て直した。そのあたりがドキュメンタリー風に描かれている。

Photo_3八代目杢右衛門(幼名斧次郎)喜矩   彼は、貧乏な商家(久野家)の末っ子に生まれて、大井宿(恵那)池田屋(酒造)へ丁稚修行に入り、帳簿の付け方を仕込まれて中津川は戻ってきた。その帳簿付けの才能を見込まれ、丸八の婿養子に白羽の矢が立って、婿入り。これが23才。七代目には子供がなく、養女に取っていた娘に婿として、ハ代目間家当主に座ったということだ。当主の座に坐ってみると、七代目の作った借金、番頭が隠していた借金があった。

なんだかんだと、現代の金額に換算すると、たぶん二億円~一億何千万の借金負わされていた。杢右衛門が婿に迎えられたのは、借金を負わすためだったのか、と彼は書いている。

彼が帳簿を付け始めてわかったのは、丸八の資産は188両。婿入りの翌年に書いた丸八の資産である。これは、1両を当時のレートで考えれば、1両=10万円なら、1,880万円程度である。彼が24年後に息子に家督を譲ったときの資産が16,563両であるから、100倍とは言わないまでも、借金を背負わされて、それを返してのちの16,563両だから、まあ100倍にしたといっても、過言ではない。

Photo_8 ムコ入りから隠居までの24年間には、丸八の経営危機があり、大儲けのチャンスもあった。ムコに来て6年目、寿明すめ姫が江戸へいくさい、数百人から数千人が中仙道を通ると、日常品が急激に高騰する。そういうチャンスが10数年に一度はある。塩を一気に数ヶ月分を仕入れて、数日で売りさばく。これで、数千万円に相当する金額を稼いだ。

引退時に、資産が16,563両(1867年)といっても、一両の価値は幕末は暴落しているから、まあ、これは経済学の本職に鑑定してもらわなと、よくわからないが、かなり間家の財産を増やしたことははっきりしている。中興の祖であることは間違いはない。

Photo_4 間家は、今郵便局の場所にあり、表は新町(中仙道)で裏は花木町(元役場の前)まで一帯が間家の屋敷であった。

大店の台所は、外から見えないものだが、「丸八」の場合、借金の金額も確定していなかったし、資産計算もできていなかった。そこで、八代目杢右衛門が整理を始めると、出るは出るはで、大赤字の姿がはっきっりした。

先代七代目は、仕事は番頭に任せて、東濃(東美濃地方の)文化人として俳諧で名をなす人でした。七代目は、文化教養があるから六代目に認められ婿として養子婿に来た人で、経営はあまり得意ではなかった。当時は、文化教養が町の寄り合いでは、大事だったのだろう。その後、町のインテリは、平田国学の攘夷思想が伝えられると、一斉にその討幕につながる左翼思想だろうね、その思想に町のお偉い方は染まっていく。

Photo_7丸八別荘 この池は冬は凍ってスケートができる。 商売は順調に伸びたのだが、牛方の評判がよくなかった。丸八の荷駄を扱うと、きちんとして厳しかったのかもしれないが、利益が少ないと言い出し、ストライキをされて、丸八はこれを機に、宅配業から手を引いた。そのあとは、カネ貸業に転進しこちらで大儲けした。これは不景気になると、カネを借りる人がおおくなる。担保に土地を預ける人が多く、その土地が焦げ付き、丸八のものになることが、明治以降多くなった。

Photo_9 中仙道は、東海道ほどではないだろうが、街道沿いで、通る人は宿泊しないと、次の宿場へは行かれない。一日で20キロ(五里)が標準だった昔は、歩きの早い人でも、40キロは歩くのは大変だ。中津の町は、今以上に宿泊者で賑わっていた。クルマは電車で通過する客ではないのだから、宿は儲かるし、そのために日常品が必要である。すると、商店が繁栄した。中津川の町は商店が主要産業であった。

中津川の政治的な立ち位置は、尾張藩の直轄地で、中津川宿(町方)は木曾の代官山村氏が統括していた。木曽福島には関所があり、(幕府の)代官所がおかれていた。「夜明け前」でも、問題が起こると木曾福島へ出かけるシーンが描かれている。代々山村氏が木曾一帯の代官であったが、冬の雪の多い時期は中津の尾張藩の直轄地中津川の代官詰所へ来ていた。幕府と尾張藩に勤める特殊な身分であった。冬だけでなく、中津川のほうが、経済的にも文化的な面からも魅力があったから、しょっちゅう木曽福島から中津川は来ていた。

Photo_5 三代目間杢右衛門のころに、間家には分家が三軒できている。徳川御三家みたいに、親戚ズジにご意見番のような家があった。山半、山五、いげ十という分家である。この中で、当主が八代目杢右衛門と歳が近い間半兵衛(二歳年下)が、理解者で相談相手になっている。

ところが、丸八跡継ぎの八代目は、商売一筋に家の立て直しで懸命に働いて、左翼思想とか、俳諧文化とは一線を画し染まらなかった。だから、間家が持ち直したともいえる。義理の母は、当初は借金を引く受けて立て直しにがんばってくれる婿はありがたかったが、倹約倹約でうるさい上、分家の半兵衛と比べ、文化教養に見向きもしない、八代目杢右衛門は疎んじてあまり尊重しなくなった。

半兵衛(間秀矩)は、幕末東濃地方では平田派国学者の筆頭であり、文人として評価の高い知識人でした。身分は、間家の分家・山半の五代目の商人で、中津川村や役場の役人、さらに代官山村氏の御用などを務める有力者でした。

間半兵衛より、間秀矩の名で有名で、平田派門下人を組織し、京都の長州屋敷に出入りし、天狗党を通過させ、また東山道軍を下諏訪まで先導したことなどから、明治維新に功労のあった人物として有名です。「商人たちの明治維新」(おわりに)引用

ところが、分家の山半の半兵衛は、俳句もやり、国学にも理解があり、思想もしっかりもって、攘夷思想があった。村役人もやっていたが、反政府組織天狗党が塩尻峠で諏訪藩の武士と戦闘したのち、中津へ下りて来る際、落合宿に宿泊した際、杢右衛門ら村の主な役人に呼び出しがあった。

中津の財界人から寄付金を集めるようと呼び出されたのだった。杢右衛門らから寄付金を200両(大体2000万円)をあつめた。届ける役目は、国学思想の半兵衛だった。このころ、半兵衛には国学の仲間が二十人以上いた。その国学の心酔者が多いことを天狗党は知っていたようだ。

Photo_6 中津だけは、塩尻の戦いで傷ついた天狗党の戦士をかばって、内緒で治療したり、死者を葬った墓もある。これが横02178 田元綱の墓である。参考 他の宿場では、反幕府軍であるとわかっていたから、尾張藩の天領である木曾地域では、歓迎されなかったが、この中津へ来たら、炊き出しや酒が振舞われた。五平餅が出された記録はある。平田国学グループがいた中津川では、好意的な接待され天狗党は非常に喜んだらしい。が、26日 馬籠 ー27日 大井とあるから、宿泊はない。福井まで行って、彼らが頼りにしていた慶喜が討伐軍の指揮していると知って、降伏した。(参考)水戸天狗党を歓待する 

斬首の後、首級は塩漬けにされた後、水戸へ送られ、3月25日(新暦4月20日)より3日間、水戸城下を引き回された。更に那珂湊にて晒され、野捨とされた。ウイキペディア参照

追加情報:中津川市は、歴史観光を楽しむには絶好の場所です。特に江戸時代の中仙道の宿場としてはかなりいいものが残っている。中津川宿を参照することをお勧めします。

この間秀矩(間半兵衛)の孫の子、曾孫が、中津川町長を22年、昭和33年から二期8年市長を務め、30年間中津川のトップをやった間孔太郎である。私の父の「同窓会」写真で半分よっぱらった間孔太郎の姿を見たことがある。今生きていれば、110歳。

中津川会議文久二年(1862年)、江戸の長州藩屋敷から藩主毛利敬親が中山道で京都に向う途中、桂小五郎(木戸考允)が中津川宿本陣でを待ち「中津川会議」を行った。
 幕府主張の「公武合体」から、薩長中心の革命「尊皇攘夷」に藩論を変更する方針で、藩主毛利敬親を説得し、この会議によって、長州の藩論は倒幕に傾いた。
 平田国学門徒が多い中津川宿は、反幕活動には便利だったようだ。この会議開催の段取りは、平田国学門徒ら
間(半兵衛)秀矩が中心になってしたと見られる。桂小五郎は彼らの手引きで中津川宿本陣の近くにかくまわれていた。

七代目杢右衛門には子供がなくて、養女を貰って育てているから、両養子であった。間家の娘として育った姑(義理の母)が、始めはムコの頑張りに感謝をしていたが、それがいつしか家勢が戻ってくると、婿はムコだという気持ちが出て、晩年は、ムコへ手厳しいことをいう人になった。親戚や町のお偉方へ訴えをして、いじめが昂じて、杢右衛門は家を出てしまう。良家奥様だから言い分が通ったのだろう。しかし、今から見れば、姑が痴呆になっていたのだろうと推測できるが、ムコの立場はつらい。

姑が床についてしまったので、杢右衛門は町へ降りるたびに、何度か姑を見舞いに行っている。八代杢右衛門には冷静な分別がある。

分家山半の半兵衛は平田国学の急進的な反幕府思想で、この点は、島崎藤村の「夜明け前」でも蜂谷香蔵として描かれている。彼は左翼思想(尊皇攘夷)でありながら、一方では山半という商家である。尾張藩の目を盗んで生糸を横浜まで持っていき、外国商社へ販売して2000両(2億円?実質は1/5程度か)の大儲けをしている。コレを数度やって、尾張藩から処罰をされている。

藤村は「夜明け前」を書く頃、半兵衛の子孫が政治的な地位にいたので、明治政府の功労者に傷のつくような文章は残さなかた。だから、半兵衛の反幕府行為にはタッチしていないと、作者大島栄子は書いている。

「間半兵衛秀矩とその業績」水垣清(私家本)という本を教会の水垣さんのお父さんが書いている。どこまで調べてあるか、一度読んでみたいものだ。

最後十一代目、最後の間杢衛右衛門運吉は、平成7(1995)年に亡くなった。東京地裁の裁判官、弁護士をやっていて中津とは縁が薄くなっていた。

私も、学生時代、間太利先生の勧めで、一度訪ねてごらんと言われて、先方の都合を聞かないで訪ねていってことがある。運吉さん、富士登山をして帰ってきたばかりで、疲れているから会えない断られた。私の情熱不足で、再度訪ねて行かなかったのは、返す返す残念だ。

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2009年12月16日 (水)

中津川市 記憶の案内ボランティアⅡ

1 昭和22年か、昭和23年にO家の隣りに、加子母から中津の町へ買出し2に来ていたNさんが引っ越してきた。

中津へ住み着いてからも、おじさんは通称ヤミ籠を背負って、電車で加子母へ行商に行っていた。当時、ちょうど湯川秀樹がノーベル賞を受けたころで、内木のおじさん、風貌が湯川秀樹に似ているな、と思ったものだ。

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おばさん、乳飲み子をかかえて、何か、お金になる仕事をと店先で貸本屋を始めていた。古本を持っていくと買取ってくれるので、古本「少年」を4冊持っていったら、少なくとも10円にはなるかと思ったら、4円だといわれて、ガックリしたが、家に置いておいてもじゃまだからその値段で買ってもらった。おばさん、商売はしっかりしていた。

玄関から裏庭まで土間でつながっていたから、子供は通り道に利用して、平気に通り抜け道に利用した。町へ住み着いたばかりで、遠慮もあったから、子供の通行に文句も言えない様子だった。私が土間を通り抜ける時見たら、親子で昼ごはんの最中であったのを見て、アレいけない時に通ってしまった、と思ったものだ。それから、他人の家の中の土間を通り抜けるのは、遠慮した。

大家さんの家は、娘のS子さんが表の部屋でミシンを踏んで、洋裁の仕事をしていた。恵那精麦の工員さんが次から次と、彼女を目当てにやってきていた。その中でTさんと結婚した。私も時々S子サンに呼ばれて、何かと思ったら、小学生くらいの子のサイズあわせの体型に利用された。ありがとう、ってお菓子をもらったのだが。

そのうちにNさんは、Sさんの洋裁していた大家宅を買取り、今まで住んでいた家は貸家にして、家を建てた。加子母から出てから十年くらいで二階建ての家を作って、生鮮食品の店を始めた。建て大工は、近藤家具に後妻に来た人の弟で、初めて大工として建てたのだと聞いている。建前では、餅を投げがあった。道路に人だかりができた。ウチのまん前だから、ウチの家に向かって投げてもらった。二階の屋根を越えて裏庭に届くように投げてもらっていた。

それまでは、本町の八百常で魚と野菜を売る店が一番繁盛していたが、Nさんの食品品店は、二番手で出発して、横町の揚げ物やに挟まれて、健闘していた。揚げ物屋の前はアイスキャンディをやっていた。八百常は、息子は大学で写真科を出て、町の写真屋をやって、魚常、八百常は止めてしまったが、Nさん食料品店は、息子の代になり、三階建てビルになっている。

近藤家具の一隅を借りて住んでいたのが、木材業を営む松村家だった。奥さん同士が年頃が似ていたし、店をやっているのも似ていた。お互いに9時か、10時で店をしまうが、そんな目で向かえの二階が自分の部屋だった兄貴は、受験勉強しながら、見ていた。

木材業の松村家は、昭和26年ころに、竪清水町にちょうど空き地があったところに家を建てた。成瀬で軒を借りて、アンドウ親子がラジオ修理をやっていた。親父さんが大型オートバイに乗って、安藤ラジオ店へ通っていたから、順調に見えた。ところが、脳溢血か、そんな感じで突然親父さんが倒れて亡くなった。そのオートバイを売りに出したら、木材屋の松村家のおじさんが買ったのだろうか、そのオートバイに乗っていた。

夏になると、アイスキャンデーの店がはやった。横町のエハラ美容院の隣りにアイス屋があり、よく買いにいった。向かえの熊崎先生宅では、焼き芋をヒラ釜で焼いて売っていた。丸ごと焼く焼き芋ではなく、5ミリ~8ミリのスライスして厚さで焼いて、子供でも買い安い値段にしていた。先生のお母さんの仕事だった。

昔中津には競馬場があった。昔の中津の町は、先進的だったね。今も西山を競馬場と呼ぶが、そこで競馬の開催をしていた時期がある。昭和のはじめらしいが、そこで、熊崎先生のおばあさんが、いまならポップコーンか、ポッキーだろうが、昭和のはじめ、焼き芋を競馬場内で売っていたという。聞いた話だが。中津の競馬は短期間で、中止になり、競馬を開催する権利を笠松に譲った。

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2009年12月15日 (火)

中津川市 記憶の案内ボランティアⅠ

01 昭和20年代から昭和30年代初頭の(岐阜県)中津川なら、詳しいから、その辺を案内してみたい。

町の中央に中仙道通りが貫いて、昔の宿の名残があちこちに残っていた。

通りの家は、空襲も火災もなかったから、きっと明治以前からの建物がたくさんあって、それらの家は、玄関から奥まで土間でつながっていて、裏庭がある家の構造になっていた。

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No Nakatsu City Who? Where? という向きにには、岐阜県の地図を見て、中津川の認識をもって、そのまた、顕微鏡で見る気持ちで中山道本町をご案内したい。

中仙道が、西(地図左)美濃坂本から右(東)馬籠へ向かいます。中津宿に入ると、枡形(道を直角に曲げる敵防御)を過ぎたところが、本町になる。枡形に入ると、江戸時代なら、宿場町の雰囲気が濃厚にしただろう。

中津川市(なかつがわし):人口82,117人(2009年10月1日) 岐阜県の南東部に位置する都市であり、東濃東部の中核都市である。岐阜市からは遠く、長野県に接するが、江戸時代尾張藩の指示を受けていた関係で、経済・交通および文化面では愛知県の影響が大きい。山地が多く、清流が市内を流れ、木曽川水系においても水の綺麗さの点では有数の地である。ウィキペディア(Wikipedia)

800pxnakatsugawacity 中津川市の中心部は、かつて中山道の宿場・中津川宿として栄えた。ここは宿場町の歴史ある家屋が軒を並べている。中津川と四ツ目川は恵那山、前山を源流とする勾配の大きな急流河川で、過去に幾度となく氾濫してきた。四ツ目川とは、四回目の氾濫を意味する説がある。宿場町(本町)は中津川駅よりも20m程、高い場所にあり、1932年(昭和7年)の四ツ目川の氾濫ににもも助かった。ウィキペディア(Wikipedia)

枡形の入口に丸三の間酒造までが下町で、曲がったトコからが横町である。小栗屋、白木屋、向いが杉本屋など、江戸時代は、宿を営んでいた。昭和も20年代には、その痕跡はよく探さないと見つからないほどになっていた。

白木しらき屋のY君は5年生で同じクラスになったので、よく遊びに行った。洋装店でには数台のミシンがならんで、お針子さんが数人がミシンを掛けていた。色白の品のいいお母さんも一緒に働いていた。既製品やつるしの品が普及するまでは繁盛していた。一番ベテランお姉さんお針子さんの顔は覚えている。

その昔は、家つくりからしても、宿だっただろう。家の柱は太くて黒光りしていた。一階奥には中庭があり、敷地は広かった。江戸時代まで遡って説明できる人はいなかったから、聞くこともなかった。庭の奥に土蔵があったのは、おぼろげに知っていた。高校生になると、彼も知らなかったことを発見したように、「蔵の二階に隠し部屋があった。バクチ部屋だったらしい」とY君から聞いた。

宿場のどこかには、賭場を開いているのは、映画テレビの当時でも、賭博はご禁制であったから、善良な人には影響を及ぼさないよう役人が監視の目を光らせていたから、隠し部屋があったのだろう。

Honmachi3470_2 枡形を抜けて真っ直ぐの本陣がある宿場通りに入ったところが、ウチの敷地である。馬宿をやっていた跡地が、ウチの家だった。馬宿となれば、建物は屋敷はあまりしっかりはしていない。ただ、敷地から一段低い石垣が家の下にあった。馬をつなぐ、地下駐車場風になっていた。昭和20年代、「下屋したや」と呼んでいたが、味噌を作る桶など、物置に使っていた。めった奥へは入っていかなかったが、どういう由緒の家だったか、大人になるまで知らなかった。

わが家が大正二年頃に、杉野調町のマル仙から移って、米の精米販売の店を始めた。この米屋も「米穀統制令」が昭和17年に出されて、戦争中は米屋十数軒がわが家の家屋を使って合同米屋となった。米屋のわが家はなくなった。参考

戦後繁盛していたのが、向かえの「近藤家具」だった。ホンダの原付バイクを買ったのも、テレビを買ったもの、本町で一番だった。多分昭和25年だったと思う。バイクは荷物運びに利用したが、兄テルちゃんの趣味みたいなもので、中学生や小学生にタダで試乗させていた。

近藤の家は、テレビが見られるとあって、夕食時には、部屋一杯になるほど、子供が集まってきた。それでも、兄貴のテルちゃん、弟のアキちゃんは文句いわなかった。お母さんがなくなり、それから、時代の流れが手作り家具の時代でなくなった。人のいいテルちゃん、技術はあっても営業が苦手だったのか、いつの間にか、田口医院の駐車場になってしまった。

そのころは、田口さんは、近藤家具の隣りに、表はずーっと格子が続くシモタ屋で十一屋と呼んでいたが、部屋数だけは多くあった。おばさん一人で管理していた。息子がいると聞いていたが、私が中津を出る頃に医院を開業した。玄関を入ると、奥まで十メートルくらい、もっとあるような土間が続いていた。奥が台所で、水甕に水をいれて使っていた。参考

林さんが一家で住んでいた時期もあったが、林さんのお父さんは、商売に長けた人で、そのころはいろんな商売を試行錯誤していた。今は新聞販売に落ち着いたが、それまでに、珪藻土から切り出したコンロを販売したり、名古屋の生地を仕入れて端布を販売していた。子供用のベビースクーターを5,6台仕入れて、子供に30分5円で貸し出した。

Photoベビースク-ター 色は青、これより大きく、バネとチェーンがついてこげる ベビースクーターなど、今説明しても、実物がないから、伝えにくいが、町の中に若者が足でけって進むあれの少し大きめのモノ。それを自転車のチェーンがあってこぐと自走する。自転車に乗れたら乗れるようだが、案外バランスがうまく行かない。大体、本町から出て、横町回って、横清水を通って、大山文具の前を通って本町へ戻る。これをフタ回りで30分5円になったような記憶だ。

南小学校の運動場の回りを名前もない川が流れていたが、その川は市内を抜け、中津川に合流する。その川が、田口家の庭と家屋の下を流れていた。もちろん、今も、流れている。友だちがひと夏下宿したとき、白木屋と同じく、屋敷の中に広い庭があった。

いやはや、ここまで書いても、本町の入口だ。まだ、向かえが松村、小栗、内木、吉田、可知、佐々木、大鋸、西陶園、曽我さん。野沢、鷲見、岩田歯科、渡辺、小池、加藤ポンプ、則武、成瀬、工藤下駄屋。18年間に、それぞれ一軒ずつ思い出がある。

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2009年12月 5日 (土)

中津高校OB会から、大中津川市OB会構想

51 駅前のメイン通りに、こんな塾の掲示がデカデカと出ていた、恥ずかしげもなく。

わが町中津川市から多治見市、恵那市へ優秀な高校生が流出していることを公表していいのか!中津の町が、多治見、恵那に負けて、屈辱でないのか。中津の高校生は、抜け殻しか地元の中津高校へ行っていない、と言っているようなものだ。

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塾はその地元の意識レベルに合わせているだけだが、中津川市民は、こんなアホな意識しかないのか。わが出身地中津川市住民のレベルにがくり来る。(第三者であるゆえに、勝手な言い分が出る)

03 格差社会の流れだろうが、交通が便利になると、地元の商店街を見捨てて、大型スーパー、アピタへお客を取られてしまっているのと同じだ。地元の高校より都会の偏差値の高い、国公立大への入学者の多い高校を選ぶ。自分もその中へ入れると始めからそう思ってしまう。

02 東京に中津高校OB会がある。その中の人材が段々枯渇しているのは、そのせいか、と思ってしまう。中津高校OB会に来るのは、ふるさとのなまりを上野駅へ聞きにきた石川啄木のように、多くの中津高校卒以外の中津川市出身者が来ている。名古屋の旭が丘高、松本深志高ヘいったな同級生も、来ていた。中津の人に会いたい、昔の中津に会いたい、とういう気持ちが、歳と共に、高まってくる。

04中津高校OB会という名称では、中津川市出身者を捉えられない。中津に一度でも住んだ人なら、OKにして、中津商業、中津工業、中学だけで高校へ行かなかった人も含め、中津川市OB会という形にしないと、抜け殻中津高校では人材が枯渇する。今中津高校から関東の大学へ多くは来ていない。

01 多分、中津市内から全入していた時代の「中津高校関東OB会」役目は、第一回生~四,五回生が冥界へ入り始めて、そろそろ終わりかな・・と感じる。中津高校OB会は衰退する。

そろそろ、「大・中津川市・OB会」と改称して、包括的に高校から市出身OBを拾いあげて、「なまり懐かし」というテーストを味付けていかないと、生きる道はない。

05 会の運営も、幹事会も意識を改革しないといけない。
Aテーブル:四つ目川東、
Bグループ:四つ目川と中津川の間、
Cテーブル:中津川の西、
Dグループ:美濃坂本、
Eグループ:中央本線利用者、
Fグループ:北恵那鉄道沿線、
Gグループ:その他 
 あるいは、小学校や中学単位でもいい。あるいは、年齢で、20代、30代、40代、50代、60代、70代と分けて、おしゃべりをしてもらう。伴侶や子供も含めて、中津川市はこんなところとPRしたら、参加者が多くなるだろう。
活動も、皇居散歩やウオーキングとか、運動会をやるような、外アウトドア活動で楽しむのもいい。

旧姓須沢須美子さんを探してください。  中仙道中津川 もっと知ろう:  高校選択のポイント 中津高校、ガンバレ!  中津高校OB会から、大中津川市OB会構想  中津高校OB会アルバム平成21年 更け行く秋の夜 16,7頃を回想 閑話閑題 1 中学生時代のワル 間家の歴史と中津川市  空中戦でB29遁走 昭和20年1月9日 先生の名前を覚えていますか 中津川市 市長選の結果、分析 二八に帰るすべもなし 中仙道中津川 もっと知ろう  初恋の洋子ちゃん、今いずこ  文化新進会 戦後中津川市に新風  http://www21.atwiki.jp/nakatsugawa/

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2009年12月 3日 (木)

旧姓須沢須美子さんを探してください。

5254352_3 今から5年前、「中津川の文字を見ると想いだします青春!」と、急に古い記憶が甦ってきたというメールをもらった。そのあと、旧姓須沢須美子さんを探してください。と問合せを受けた。その須沢須美子さんは、私の家から近い桃園町にいた方だということはわかっていた。中津高校第6回卒業生(現姓新井須美子)だと、名簿で突き止めた。

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3H0000052037 それは今から5年前の話である。私のホームページには、中津川ファンクラブで書いた記事を主体にしたコーナーがある。それを見て、「中津川という文字を見ると、胸が熱くなる」という石川県出身の男性からメールをもらった。

その人は、中津川市の女性と文通をしていたので、中津の山河が目に浮かぶというのだった。彼女からの最初の手紙は「木曽路はすべて山の中・・・」と藤村の夜明け前の一文が書いてあった。それ以来、大学生頃まで文通を続けていた。

Murasebp6034640 それが、お互いに就職して、文通が途切れたころに、彼女のほうから、男性の就職先(熊本市)へ電話があった。たまたま、外出中で、帰ってから聞くと、(詳細は以下の文参照)。それを以後、音沙汰がない。新婚旅行で立ち寄った熊本で、文通相手の彼に電話をするというのは、罪つくりだが。

遠い昔の事となりましたが、私が石川県の高校生時代(S27-29年)中津川市桃園町に住むSumikoさんと文通をしていました。
 私が旺文社の「中学時代」に切手収集が趣味と住所を載せたのが手紙をいただくきっかけだったと記憶しています。お会いしたことは無く 電話などで話した事も有りません。高校卒業してからは、いつしか文通は途切れていました。それから何年か経ち、私の勤務するS化学熊本出張所へ私が外出中にS.Sumikoさんという人から電話が有ったと女子社員が教えました。熊本駅の公衆からだったと聞き、私が慌てて駅へ自転車に飛び乗って行こうとすると、女子社員が笑いながら新婚旅行の途中と言っておられたよと話した。それを聞いて何故か私はガクットと力が抜けてしまった。

319508  問合せられた私は、手元の同窓会名簿で調べた。1985年の名簿だったから、お知らせしたのは、今の姓は新井、大阪吹田に住んでいて、電話は06-▲▲▲-××71までわかった。それをお伝えして、彼は、その番号へ電話したが、その住所には住んでいない、とがっかりしたメールがきた。中津の須沢という姓なら、電話帳で一軒ずつ当ってみれば、兄弟親戚か誰か、消息を知っているだろうと思うが、そこまではできなかった。

H0000052036彼女は、高校を卒業後、本州製紙山林部へ勤め、職場結婚をしたという。職場結婚というのは、好かれるタイプの方なんだな、と思う。

今なら、個人情報をむやみに公開しないから、こういう知り合いは少ないだろうが、昔はどんな雑誌にも、「ペンフレンド求む」というコーナーは、人気コーナーである。「中学生時代」は、まだ、昭和26年ころは学年別になっていなかったから、一年生から三年生が買っていた。だから2年下の人からも手紙が来たワケだ。

4_2今なら、写メールで写真を送るのは簡単だし、声聞くのも簡単だ。会いにいくのも、ハードルは低い。ところが、文通友だちに会う事はほとんど想定していいなかった。今で言うなら、バーチャル仮想空間という意識だった。

携帯電話があれば、あんな行き違うことなかったのに、と思うことがよくあった。電話しても、本人が出てくれる確率が低い電話をかけるのは勇気がいるし、約束した電話も、当日の場所設定がピンポイントで決めにくい。駅の改札など、すぐ近くにいても会えないことも、案外ある。とくに初対面の場合は顔を知らないから、なかなか会えないことがある。

新婚旅行で立ち寄った熊本駅から電話を貰って以降、一切音信不通のまま、40年数、彼は今、私の「故郷郷愁」中津川から、刺激を受け、高校生時代50年前の文通した彼女を思い出し、胸にツンとくる想いをどうしようもなくなった、というわけだ。」

私の高校卒業の時、その中津川市から、心のこもるお祝いの言葉を書いて送っていただいた手紙には、押花にした四つ葉のクローバーが添えられていました。人はだれでも、青春の頃に抱いた夢は美しいもの・・ですねぇ。私が、青春の夢として抱き、終生懐かしく想い出す人は、自然に恵まれた美しい中津川のイメージと共に心に刻まれています。
 残されたこれからの人生におきましても私は、須美子さんのお幸せを祈りつつ、青春時代の 美しい 懐かしい 想い出として、ひそかに心に抱いて生きて行こうと思います。本当に有難うございました。

私が乙脇孝一さんの願いを叶えてあげられなくて、つい懐かしい思い出をひそかに心に納めさせてしまった。それでいいのか、彼は70代なかば、今須沢須美子を見つけなければ、一生そのママになる。

中津高校同窓会幹事会へ招待されたので、話のついでにみんなに話してみたいと、急に思った。問い合わせてくれた乙脇孝一さんの願いをみんなに話して、探してあげたら、きっと喜んでくれるだろう。コレは、男のロマンだし、人生のおまけみたいな気持ちだ。

私も、小学校二年で転校した岡部洋子さんの消息を知りたい。そんな気持ちにさせるエピソードだ。

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2009年11月30日 (月)

中津高校OB会アルバム平成21年

3703  東京へ出てきている同窓生は千人以上いるだろうが、同窓会活動に積極的な人は限られている。同窓会が11月にあって、その写真をホームページに載せてほしいという依頼で、みんなが見られるように、40枚ほどの写真を懇親パーティの記念アルバムへアップした。

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2110 同窓会幹部のAさんからCDを送ってもらい、今までは平成18年のものと取り換えた。出席者全員が載るようにしたいが、やはり目立つ人というのがいる。あまり目立たない人もいる。目立たない人ほど、自分がどう写っているか、知りたいという願望は強い。

カメラワークとしては、テーブルごとにアルファベットの旗が立っているグループごとに写真をまとめようと思ったが、みなさん、記号通りに座っていないから、モレている。

G_3615_2 多くの人は故郷中津川を離れて、数十年、故郷が懐かしい。この懐かしい気持ちに応えてくれるように同窓会へ行っても、その話題が案外少ない。できれば、社会的な地位が高くなった人がしゃべっても、学年が違うと親しみがもてない。

高校の同窓なら、「どこの町の中学を出て、昭和何年ころ、こんな事件があったね。・・・私はどこの家の息子です」という話が聞けたら、楽しいのに、そいう気持ちをくんだプログラムがないものだ。ひとりで行くと、口をきく相手がいないで帰っていく人もいるだろう。そうすると翌年は出席したくない気持ちになる。一人一人が何か、誰か、親しげに話すチャンスがあると、満たされるかも。

Pb110017 中津川市は、昭和24年緑町が舗装道路になった。片側ずつセメント舗装したが、西大田町、西新町はアスファルトで舗装した。すると、町中でローラースケートが大流行して、どこの家でも、男の子のいる家はローラースケートを買った。女の子もやったかのしれないが。値段は450円から470円くらいだった。ローラのついた装置を靴の下にはめ込むローラースケートで、今もそうだろうか。

明るいうちは小学生がガラガラ走り回り、夕方から夜になると中学生から高校生が街中を走りまわっていた。町中うるさくなっていたが、大人たちは今ほご交通量が多くなかったから、甘かった。10時以降は禁止とか厳しく規制していたが、昭和30,31年ころまで流行していた。それが急にパタリとローラースケートは道路でやらなくなった

メンコ(中津川市では、パンパンと称する)は、流行があって、数か月はやると、いつの間にか、やらなくなり、ビー玉(中津川市では、ラムネ)になっている。その次はタコ上げが流行する。というように1年か、2年でサイクルが回っていて、1年か2年で、次のはやりがくる。そういう思いでが18歳の年まで、私の人生は羊羹を切るように、私の記憶の中には中津川市の存在がきっちり残っている。そんな思い出を交換するように語りあえる同窓会をやりたいものだ。

同窓会へ出席する前は、人は偉くなっているように思え、オレはしがない・・・だとか、思い込みで気後れがある。人には内気なキズつきやすい人がいる一方、強気一辺倒な会の進行に積極的にかかわるタイプもいる。でも、時間がたって打解けてくれば、強気も内気も、同郷の親しみが出るまでの時間差であるのに気づく。

そうしたら、8月のギオン場(おいでん祭)のときは何組?私は本町、竪清水、横清水、国道の連合で「中清組」だった。とか、共通するキーワードで話が盛り上がるはずだ。それとも、幼少のころの記憶は失っているだろうか。

蛮声でうるさいのが仕切るより、知恵ある人が出てきてほしいが、200人以上集まると、ただうるさいだけで実りある歓談はできない。懇親の薄くなっている。以前には、同窓の誰かが講演をしてその意味があったが、同窓会も世代が降りてくると狙いが変るようだ。

1万円バイキングだが、話に夢中になっていると、食べないうちに、食べたい食べ物がなくなる。5000円で十分ごちそうが食える時勢に、同窓会バイキングの1万円は少々高い。田舎の土産物を配るのも、射幸心を煽るようで少し考えた方がいい。人数を集まると、適当な会場がない、という要素を考慮すると、そういうことになるのかもしれないが、政治家パーティのような印象がある。

中津高校OB会から、大中津川市OB会構想  旧姓須沢須美子さんを探してください。   中仙道中津川 もっと知ろう:  高校選択のポイント 中津高校、ガンバレ!

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2009年11月20日 (金)

役立っていた新聞紙 昭和20、30年代 

昭和30年代前半までは、田舎の便所、多くのボットン便所には、新聞紙を切ってそれを備えてあった。「よく揉んで使え」と言われていた。昭和20年を境にモノがまるでない時代だったから、ウンコ紙に上等なちり紙を使えるはずはないから、新聞紙が大活躍だった。

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新聞紙を溶かせば、紙粘土になったから、工作で指人形の頭をこれで作った。中津川の本州製紙工場で出る紙を溶かしたヘドロを馬車に積んで捨てにいく途中、街中を通っていたが、紙の溶けた水と共にソレを落としていた。今なら流していけない製紙のヘドロを中津川に流していた。そのヘドロ水を「アク水」と呼んでいた。ヘドロは中津川から木曽川に流されて伊勢湾に堆積したはずだ。

中津川市で(恵那山寄り尾鳩の)本州製紙の排水が合流すると、当時中津川の清流がヘドロの川になってしまっていた。本州製紙王国を築いていたから、中津川市もあまり強くいえなかった。ずーっと長く、このヘドロの川を容認していたが、昭和40年ころになって、本州製紙も時流に逆らえなくなったのか、ヘドロを流さなくなった。

市が強く言えなかったのは、マルサン酒蔵がイモ焼酎を仕込み始めると、そのにおいが煙突から市内いっぱいにしていた。小学校の教室にいても、結構匂っていた。今も匂っているのだろうか。

本州製紙の中津川工場、かなり儲かっていたが、それを捕捉されないように、税務署の査察が入った時、天井裏へ帳簿を隠して、きわどいことをやったんだ、と工場長の息子がその内幕をあるとき語っていた。昭和20年代から30年代だろうか。

ちり紙交換の前、昭和21年ころ、新聞紙がたくさんたまったら、ノート帳面に交換してもらった記憶がある。とにかく紙がないから、紙は貴重だった。教科書がなかった。上級生のお下がりを使ったのが昭和21年だ。その次の年は、今週刊誌をどう作るか知らないが、新聞紙状の紙を折りたたんで、一冊、単元ごとに配布された。それをホチキスもないから、布針で和とじをした、と思う。

新聞紙は、意外なところで使われていた。帽子や運動靴も抽選でクラスに6足とか、とにかく運がよくないと買えなかった。家が貧しくて買わない子もいるが、私は野球帽がほしかったが、当らなくて、学生帽だった。その学生帽の頭生地裏には新聞紙が入っていたのを裏地が破れたときに気づいた。汗取りの部分にも新聞紙を使っていた。

町の八百屋、魚屋の包装紙は、新聞紙の袋だった。この袋の糊付けが内職になっていた。袋貼りを6年生のとき、クラスでやった。なんでかというと、N尾君とN瀬君が講堂で正面衝突して、N瀬君、前歯永久歯を折ってしまったので、これが学校保険がない時代だったのだろうね、それを家庭に負担させてはいけないと澤田先生が生徒に呼びかけて、多分いくらにもならなかっただろうが、新聞紙の袋貼りをやった。あのとき先生が八百屋へ持っていった、はずだ。新聞紙はそんな役目も担っていた。

中1夏休みの自由研究か、社会の宿題で地図を立体化した模型を新聞紙を溶かして、木枠の上の九州を書いて、その上に紙を溶かした粘土で阿蘇山などを盛り上げ作成して提出した。新聞紙をいろんなものに造り上げた。

新聞紙は、ちり紙交換に出すだけだが、昭和30年代までは、いろいろなものに利用された。

今でも同じだろうな、と思うのは畳下の敷くのは新聞紙だ。今はマンションなんか、畳上げて日干しする大掃除が行われないから、新聞紙は敷かないかも。あの古い新聞を掃除中に読みだすお父さんがいて、女性陣が文句をいう、そういう光景は大掃除時期の風物詩だった。田舎の町では一斉にやっていたような記憶があるが、大掃除というのは廃れたかな。

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2009年10月15日 (木)

暮色の東京へ人々が戻る

7965 中央線中津川をライナーで出たのは、2時38分。そして、新幹線は名古屋を出て浜名湖へ。浅い干潟が見えてくる。新幹線は早いから、一瞬に後へ後へと飛んでしまう。

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Ob7956 逆光になってあまりはっきりしないが、中学時代の元気な仲間が集まった。 数時間のおしゃべりに花が咲く。

7973天気がよかったはずなのに。曇り空に富士山がかすむ。

7977 ネオンの灯りと共に東京が近づいてくるそんな感じである。都会の中は、誘惑と甘美な夢とが財布の中を狙う。サラ金など、縁がないと思っているうちが花、この誘蛾灯のように、カネ貸すぞー!と近づく。借りた金は使いでがない。あっという間に消える。それを繰り返す。7983

灯りがビルにともると、急にビルの影が大きくなる。あそこの灯のもとに人が働いているのか。

7985

新幹線のぞみは、名古屋から東京まで1時間40分くらいで到着する。早いものだ。

昭和30年代、混雑した準急東海2号で名古屋から乗ると、8時間、立ちっ放しだった記憶が甦る。きつかった。もう、他人の迷惑顧みず、坐っている乗客のてすりに腰掛るのも、持たれかかるところの無い人もおおいから、競争、奪い合いだった。

7987 東京駅に近づくと、ネオンの広告が、待っていましたとばかりに、目に入ってくる。油断していると飲み込まれてしまうほどの、次から次に、サラ金、飲み屋、薬、学校、宝飾・・・これでもか、これでもか、と目に飛び込んでくる。

7988 統計によれば、半数の人はこれらの広告の影響をうけて、それに反応してしまっている。携帯の待ち受け画面を変更もしていないのに、細木数子の携帯へ毎回定期的に運勢を知らせるシステムの広告が入ってきている。油断もスキもありゃしない。

吸い上げている側とその犠牲になる資金源側に分化している社会に戻ってきていると、自覚する。東京は、こんな刺激の強いのだと、構えて改札へ向う。

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2009年10月 5日 (月)

給食に脱脂粉乳を飲んでいたころ

02 日本が占領されて、岐阜県の片田舎にも、濃い焦げ茶色のジープとバンの中間の四駆に乗った進駐軍が来た。若い20代かと思われる米兵GIが、中津の町で数少ない英語がしゃべれる牧師さんの教会(日本基督教団)へ泊り込み、町の教育委員会へ日参して、教育改革の実行していたようだ。通訳は牧師さんもやったかもしれないが、本陣の市岡先生(のちに高校で英語を習った)が英文科出の女先生が担当したと聞いた。

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中津で戦時中も英字新聞を取っていたのは二軒だった。新聞屋から聞いた。教会のM牧師と高校の英語S先生だった。そのジープバンが走り回っていたころ、私は小学生で、給食として、脱脂粉乳を飲んでいた。飲まされていたというべきか、「まずい」と言っていた。残さないように指導されていたから、飲んでいたようなもの。あれはとか、子供の栄養不足を補うために給食を始めたらしい。

Kyusyoku 私のころは、男の子はみんな丸坊主。一級下の学年で4クラス中男子2名が長髪だったのを覚えている。あのころは、弁当を持って来られない子がかなりいたから。食うものが少なかった。昭和20年代、人件費が安くて、人を使うのはタダに近い感覚だった。昭和30年ころでさえ高校進学率は50%になっていなかった。

3d5cf60e95c47178 学校給食は、昭和22年(1947)1月20日に始まりました。日本の連合軍司令部が子供達に栄養を与えようと始まったのです。アメリカの慈善組織ララ(LARA)が援助物資を送ってきました。最初は東京、神奈川千葉の3都県(児童数25万人ほど)で試験的に始められ、のちに全国的に拡大していき、全国の都市部300万の児童が対象になりました。

Photo_2子供の栄養を考えて、「小麦」か「ミルク」のどちらかを選ぶことになりました。背を伸ばすため動物性タンパクを与えようとの結論から、アメリカの民間団体やユニセフからの寄付で、「脱脂粉乳」という粉ミルクが提供されることになりました。

脱脂粉乳はこんな金属のおわんで、飲んでいた。外側に自分の名前をコンパスの先を使って名前を書いていた。洗わないでおくと、脱脂粉乳といえども、たんぱく質や脂肪がこびりついていた。それが厄介なことだった。

ほとんどの人が不味いといっています。何故でしょう、最初は、アメリカから「生のままミルク」を運ぶ予定でしたが、船で運ぶと腐ってしまうため、脱脂粉乳という粉ミルクになりました。当時の製法では、不味いものしか出来ませんでした。今だったら絶対飲みませんね。昭和33年(1958)より牛乳が出されるようになりました。

この脱脂粉乳を生徒の人数分作ったものが給食に出されました。給食係りが大きなアルミのバケツで教室に運び、ヒシャクでひとりひとりのカップについでまわりました。(1人分の脱脂粉乳は、22グラムのミルクを180ミリリットルのお湯で溶いたのものです)出典

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2009年9月10日 (木)

高校選択のポイント 中津高校、ガンバレ!

7895 (岐阜県、中央線長野寄り)中津の駅前通りを歩いていたら、多治見北117、恵那高89、中津高校51名と、市内の予備校や塾では、中津高校より、恵那高、多治見北高へ入った生徒数を誇らしげに書いてある。中津高校へ入ったのは、恵那高、多治見北高の残りカスのような扱い。

これだと、成績のいい生徒は中津からいなくなってしまう。中津の市内は残りのカスばかりだ?これでは、中津高校の後輩卒業生はどうなる?

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より良い高校へ行きたいと思う気持ちは痛いほどよくわかる。優れた学校へ入って成績がビリ、あるいは落ちこぼれになる惨めさは、入学した本人が一番感じる。

将来奨学金を取って大学へ行こうと思うなら、主要科目を含めて5点評価で通知表の3.5、10点評価なら7以上の成績をとると、ほぼ無条件で奨学金を得られる。学内推薦は評価が4以上、4.2ならどこの私立大学でも推薦枠で受験できる。

それを考えたら、高校は背伸びせず、真ん中以上の成績で入学できる高校を受けておくに限る。特に交通の不便な遠い有名校より、自宅から近い高校で時間を無駄にしないこと、自分の好きなことに時間を費やせる生き方が気持ちを豊かにする。それで大学にみんなよりさきに推薦枠で自分の行きたい学部に入れたら、こんなにいいことはない。その上、育英資金を借りて、親の負担を軽くできる。

わが母校中津高校は、存亡の危機にあるように見えた。私たちが高校へ行っていたころは、市内の中学からみんな受験して入学するのが普通だった。ソレが、隣町の恵那高、もっと離れた多治見北高へ行くのが、できる子のトレンドになってしまっている。

多治見北117、恵那高89、中津高校51名。中津高に入るのは、まるで敗残者扱いだ。これでは、中津高校の意気が上がらないではないか。

入学した学校で優秀なら、優秀な友だちが出来ると思うのはシロウト考えである。成績のいい生徒の多くはつるんだり、教えあうことはない。蹴落として自分が上の成績になろうとする。中津で北高に行っていた子は、中津で遊ぶ仲間友だちを作っている。不思議なことに、北高へ行くのは勤め先のような扱い。

本当に優秀なら、どこへ行っても優秀な成績でオチこぼれはないが、中途半端な成績なら、優秀生徒の集まる高校はあんまりお勧めできない。中以上の成績、3.5以上の成績で奨学資金を得られる高校を選ぶ。特に4.2以上で推薦枠で受験できるではないか。大学以上で実力発揮できる人間になるほうがいい。在学中は先生に目をかけて貰えるなど、メリットは多い。

偏差値の高い高校に入学しても、その後が伸びないのでは意味がない。劣等感に苛まれるのは最悪だ。最初から高速で出ても、中盤でたるみ、最後ゴールで遅れては、何のために優秀高校を出たか、意味がわからない。

競争競争で神経をすり減らす勉強は、将来のためによくない。高校三年間で将来なにを研究するか、ナニを専門とするか、それが担任の先生と話し合える雰囲気がある学校がいい。君にとっての母校の意味がある。中津高校、ガンバレ!

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