2012年11月30日 (金)

仏像鑑賞★如来、菩薩、明王、天、

Buddhismorg_2  仏教を信仰するとは、さとりを開くこと。
仏像のいろいろ ①七福神のなぞ 
 Amida 阿弥陀(あみだ)如来(→)による救済は、人を西方浄土=(この世よりも)修行がしやすい場所の提供である。それだけでは、さとりを開いたことにはならない。
 阿弥陀如来は、人々が浄土に来て悟りの境地に到達するまで面倒を見てくれる。という関係である。

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 その修行し悟りを求める人を菩薩(ぼさつodhisattva)という。そういう意味では、仏教の信徒はすべて菩薩である。そして、菩薩はその修行が完了すれば、みんな如来になれるのである。阿弥陀如来も修行時代は法蔵菩薩と呼ばれていた。

「仏像」を見るとき、如来、菩薩、明王、天って何?と、解らないとお楽しみも半減である。
大日如来、阿弥陀如来、
弥勒菩薩、地蔵菩薩
不動明王、愛染明王、大威徳明王、

 詳しくわかる必要は無いが、少しだけ整理できていれば理解が進む。
●如来とは・・・
25_1Iti  悟りをひらいた者、解脱した者=仏を意味する。
 仏様=お釈迦様と思っている人も多いかと思いますが、お釈迦様はいわゆるブッダ釈迦如来で、たくさんいる「如来」の中の1人。

★★代表的な如来★★
①釈迦如来(しゃかにょらい)
.あらゆる仏像の起源。お釈迦さま。

②阿弥陀如来(あみだにょらい)
.すべての人に永遠の救いの光を放つ。

③薬師如来(やくしにょらい)
.万病を治し衣食を満たす現世利益の仏。

④毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)
.無数の釈迦如来を統括中心の如来。大仏。

⑤大日如来(だいにちにょらい)
.宇宙そのものを神格化した密教の如来。

●菩薩とは・・・
Photo  まだ悟りをひらくために修行中の者を意味する。
 如来のお供というイメージも強く、釈迦三尊は普賢菩薩と文殊菩薩を従え。薬師三尊は日光菩薩と月光菩薩を従えている。阿弥陀三尊は観世音菩薩と勢至菩薩を従えている。
 特に
弥勒菩薩→は釈迦入滅五十六億七千年後に如来となり、すべての世界を救済する「仏」で、今は菩薩といえども、唯一私たちの未来を救うスーパ菩薩である。

★★代表的な菩薩★★

①観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)
2728.あらゆる現世利益願いごとを叶える。

②十一面観音菩薩
.あらゆる方向すべての人々を救いとる。

③千手観音(せんじゅかんのん)菩薩
.千本の手に無限の救済の能力を発揮。

④不空絹索観音(ふくうけんじゃくかんのん)
.完璧な網であらゆるものを救いとってくれる。

⑤如意輪観音(にょいりんかんのん)菩薩.世間と精神的な世界に財宝を与える観音。
⑥准堤観音(じゆんていかんのん)菩薩
.過去にたくさんの仏を生んだ仏母。

⑦馬頭観音(ばとうかんのん)菩薩
.天馬のようにかけめぐり悪を断ち切る。

⑧普賢菩薩(ふげんかんのん)
.仏のあらゆる御利益を授ける菩薩。

⑨弥勒菩薩(みろくぼさつ)
...五十六億七千万年後に衆生を救済する未来仏。

Monjubosatu ⑩虚空蔵菩薩(こくうぞう)
.抜群の記憶力を授けてくれる菩薩。

⑪文殊菩薩(もんじゅぼさつ)→
.智慧を司りすべての如来を指導する菩薩。

⑫地蔵菩薩(じぞうぼさつ)
...地獄の入口で人々を救ってくれる菩薩。

⑬大勢至菩薩(だいせいしぼさつ)
...智慧の光であまねく人々を照らす菩薩。

⑭日光・月光菩薩(にっこう・がっこうぼさつ)
...薬師如来の脇侍
 

「仏像」菩薩と如来の見分け方、
菩薩=様々な飾りを付けているが、
如来=悟りの境地に達して何も身に付ける必要はないので、袈裟だけをまとっている。
 ただし、例外が大日如来で、大日如来は悟りの境地としての王者の様ですので、如来像の中で唯一様々な飾りを身につけている。

●明王(みょうおう,vidyaraja)というのは・・・
密教独特の仏尊で、大日如来の命を受け、未だ仏教に帰依しない民衆を帰依させようとする役割を担った仏尊。外観は、忿怒(ふんぬ)の相で火炎を背負い、髪は怒りによって逆立ち(怒髪天)法具や装飾品は極力身に付けず、法衣は片袖を破って動き易くし武器類を手に持った姿で表現される。

★★代表的な明王★★
Hudou ①不動明王(ふどうみょうおう)
...怒りを救済にかえる大日如来の化身。

②五大明王(ごだいみょうおう)
...怒りのすがたをした五智如来の化身。

③孔雀明王(くじやくみょうおう)
...厄除け雨ごいの本尊。

④愛染明王(あいぜんみょうおう)
...煩悩をさとりにかえる愛欲の王。
※「菩薩」と「明王」は、ひとつの神格の二面として現れる(例えば、馬頭観音菩薩=馬頭明王)。

●(てん,deva)とは・・・
梵天、帝釈天、弁財天、大黒天、四天王、など比較的身近な感じのする神で・・・起源は、インド古来の宗教バラモン教から取り込まれた神々で、七福神信仰にも見られるように、勇ましかったり、縁起がよかったり、優しかったり、日本人には身近で庶民的な神様。
 天は、釈迦の教えに触れて仏教に帰依した如来や菩薩を守り、現世利益を行ないます。仁王は天部。

★★代表的な天★★
Bonten_1 ①梵天(ぼんてん)
.仏教を護る神、インドの世界創造神。
②帝釈天(たいしゃくてん)
.世界の中心に住んで仏教を護る神
③金剛力士・執金剛神(こんごう・しゅうこんごう)
門前で悪を退散させ、阿形「あ」でものの「はじまり」を象徴している。吽形「ん」を表し「おわり」を象徴し、一切の知徳の帰結,罪悪を遮断する。
④四天王(してんのう).東西南北の守護神
.東=持国天.西=広目天.南=増長天.北=多聞天.
 仏の教えを多く聞いて精通。
⑤毘沙門天(びしゃもんてん)
Photo_2.貧乏神を追い払う北方の守護神。四天王の一神,多聞天のこと。
.単独でまつられる場合には,多く毘沙門天とよばれる。
⑥吉祥天(きちじょうてん)
...幸福をさずける美しい女神。
⑦弁財天(べんざいてん)
...音楽と学問をつかさどる神。水の神,金運・開運の神様
⑧大黒天(だいこくてん)
...福の神になったインドの戦いの神
⑨十二神将(じゅうにしんしょう)


仏像のいろいろ ①七福神のなぞ

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以下の文章は、仏教に興味がにない人は、読まないほうがいい。

 私達の世界は欲望が渦巻く「欲界」で、その中に六道があり、
①地獄道・
②餓鬼道・
③畜生道・
④阿修羅道・
⑤人道・

⑥天道に区分される。

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2012年9月23日 (日)

鼠と呼ばれた男金子直吉(鈴木商店)

Photo  今、学歴がなく才能を発揮する、そういう男はめったにいない。昭和初期までは、中学へ行く人は二割もいなかった。学力とお金がそろうことは珍しい。野口英世は、才能あふれ、先生が支援したくなる人だった。こういう人は、一を学んで十を知る、という才がある。

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 金子直吉、丁稚奉公に行った先が砂糖の卸をやっていて、先輩職が金子に彼を信頼して取引を任せたら、大成功。

 入店間もない金子直吉に多くを任した。
 直吉が最初に土佐の鰹節、茶、肥料の取扱いだった。これが見事にあたった。先輩番頭は舌を巻き、主人は喜んだ。神戸の小さな砂糖の専門店はにわかに活気づいた。
 直吉は商機をよく知って樟脳や寒天なども取扱い、海外への輸出にまで乗り出すことになる。小さな砂糖問屋は、いよいよこれからというときだ。主人の岩太郎が急逝するのだった。
 さあ、どうする――。鈴木家の残された未亡人よねが店を切り盛りするには、無理があるという判断だ。しかし、よねは決然と言った。
「直吉がいてくれはる」「それに富士松もようやってくれます」――と。
 彼女は店の経営にあれこれ口出しするような女ではないが、人を見る確かな眼力を備えていた。直吉が店に入ってから事業は一転した。夫の岩太郎ではとてもここまで店を伸ばすことはできなかった――ことを、彼女はよく知っていた。

 昭和初め、台湾銀行が鈴木商店はの資金の融資を止めて、倒産した。鈴木商店の金子直吉が手がけた、帝人や播磨造船(石川島播磨重工業に継承)、日商(日商岩井に継承)など、数十社に及ぶ子会社は生き残り、現在に至っている。

 芽が出そうな仕事を見つけて、ソレを育てる才能、それは単なるサラリーマンでは、その能力は育たない。それは、商才は商才、公務員には公務員の才能がある。政治家には政治家の才能がある。内向きにコツコツやる職人的な才能がある。若い、中学生、高校生の才能を見出して、軌道に乗せてやるという先生が必要である。
 
 世の中にはミスマッチで才能が芽生えてこない人も多くいる。そのために、ウツになったり、自暴自棄になるということもある。自殺も、非婚率の高いのも、ソレが原因かもしれない。その人が才能を発揮するには、おせっかいでも、人生コーチがついていないと、世界最高の才能が見出せない。見てみィ!選手時代はいいコーチがついていたのが、ソレを外れて、選手を辞めたあと、技術以外の部分では、伸びていないと、強姦魔になったり・・・、自分教育が不足していると、そういうもんだ。

城山 三郎(本名は、杉浦 英一、1927年(昭和2年)8月18日 - 2007Shirotakinnei5 年(平成19年)3月22日):日本の小説家。経済小説の開拓者であり、伝記小説、歴史小説も多く出している。
愛知県名古屋市中区生まれ。名古屋市立名古屋商業学校を経て1945年(昭和20年)、現・名古屋工業大学に入学。理工系学生で兵役猶予になるが、海軍に志願入隊。海軍特別幹部練習生として特攻隊「伏龍部隊」に配属訓練中に終戦

1946年(昭和21年)、一橋大学予科入学、1952年昭和27年卒業。卒業論文は「ケインズ革命の一考察」。大学在学中に洗礼。

愛知学芸大学(現・愛知教育大学)商業科文部教官助手に就任。担当は景気論と経済原論。後に同大学文部教官専任講師。この間金城学院大学にも出講。
1954年(昭和29年)、丸山薫の紹介で、永田正男、宇佐美道雄、国司通、岩崎宗治と月一回の読書会「クレトス」を始める。名古屋の「近代批評」の同人に加わる。
1955年(昭和30年)、一橋大学経済研究所に出張。1957年(昭和32年)3月、
1963年(昭和38年)6月、日本作家代表団(団長・木下順二)参加による訪中を機に愛知学芸大を退職し、以後、作家業に専念。なお、ペンネームの“城山三郎”は、城山八幡宮(城山町)に〈3月〉に、引っ越して来たことから付けたと。
晩年は治安維持法が悪用された経緯から佐高信らとともに個人情報保護法の成立に反対の活動をした。
2007年(平成19年)3月22日午前6時50分、間質性肺炎のため、茅ケ崎市内の病院で死去。79歳没。

1957年(昭和32年):『輸出』で第4回文學界新人賞。
1959年(昭和34年) 『総会屋錦城』で第40回直木賞。
『落日燃ゆ』で吉川英治文学賞、毎日出版文化賞。
1996年(平成8年):『もう、きみには頼まない 石坂泰三の世界』で第44回菊池寛賞。
2002年(平成14年):朝日賞。

 こういう商才のある人は、宿場町とか、港町には町の中興の祖として存在する。
 中仙道宿場中津川にも、関が原で敗れた側の●●家の・・・、八代目が養子で迎えられ、その人の才覚で、傾いた家運を建て直し、隆盛になった丸八間家の八代目杢右衛門(幼名斧次郎)喜矩がその人である。

間家の歴史と中津川市
中津川豪商の生き方 杢右衛門と半兵衛
 海の町、愛知県常滑市でも、隆盛した家がある。
 廻船問屋滝田家は、一度の回船で、びっくりするほど儲かるらしく、幕末から明治大正までの歴史であるが・・・。ただ、ここの家は秀才の家系らしく、息子が東大教授であとを継がず、妹も女優になって家を出てしまい、子供もない。家系の絶えた家は市に寄贈されて、町の重要文化財になっている

やきもの散歩道 常滑とこなめ

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2012年6月29日 (金)

新・平家物語(吉川英治)公卿、武士、僧侶の戦い

Heike100 主演市川雷蔵と久我美子
 新・平家物語、主演市川雷蔵が清盛で、1955年昭和35年公開DVDを借りた。金町中央図書館のめぼしい作品はほとんど見てしまったから、今回借りたのはちょっと古い。図書は多いが、DVD作品は、1作品で図書10冊分購入金額になり揃えるには大変だろうと理解するが、作品数が少ない。  

 新平家は三部作で、これが第一部、監督溝口健二。次が新・平家物語 『義仲をめぐる三人の女』(監督衣笠貞之助)、次が『静と義経』(監督島耕二)となっている。監督がそれぞれ違う。

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第一部新・平家物語には、副題はない。現在NHK大河ドラマ「清盛」と比較して、娯楽色が強い。わかりやすくして、多くの人の興味をひこうとする意図が見える。

平清盛(きよもり) - 市川雷蔵: 平忠盛の嫡子。
時子(ときこ) - 久我美子: 貧乏貴族の娘。清盛の正室。
藤原時忠(ときただ) - 林成年: 時子の同母弟。
平泰子(やすこ) - 木暮実千代: 清盛の母。
  元・祇園の白拍子。白河上皇の寵愛を受けていた。
平忠盛(ただもり) - 大矢市次郎: 清盛の父。
朱鼻の伴卜(あけはなのばんぼく) - 進藤英太郎:

018_2   保延三年の初夏。平安京。西暦でいえば、1137年。今から八百七十六年前である。平忠盛が、西海の海賊征伐から凱旋してくるメーンストリート朱雀大路を、数百の武士の列が、行進してゆく、先頭の槍に敵将の首がくくりつけてあるのは、戦勝の帰途であることを示している。都の賑わいと雑然としたシーンから始まる。

彼らは、白河院に赴いて、西海の海賊征伐の大勝利を戦況を報告し、戦利品を献上した。忠盛は、その戦について鳥羽上皇に奏上することがあるから、拝謁を許されたいと頼み入った。鳥羽上皇の執事別当は、一蹴した。
「武士の身分で、上皇に直き直きお言葉をかけていただこうなどとは、以ての外の僭越である」

022  父忠盛の傍にいた二十才の清盛は、はげしく怒りに震えた。
 今度の遠征は、上皇のご命令である。長い間、家の子郎党は、苦労をかさねて、はげしい戦斗に勝って凱旋したのである。戦死者も数多く出ている。それに対して、「御苦労であった」とねぎらいの一言くらい、かけて下さるのが、本当ではないか。清盛は、執事別当に詰めよろうした。穏和な父忠盛は、それを押さえた。

 その夜、今出川の館にかえった忠盛は、清盛をすぐに、よびよせて、乗馬のうちの一頭を売り、酒にかえて来いと言った。
 鳥羽上皇からは、戦功に恩賞がなかったので、忠盛は武士にとって大切な乗馬を売って、家の子郎党をねぎらおうとするのである。清盛は、父の心中を思いやり、悲憤の涙をこらえながら、酒を買って来た。

 027 宴はひらかれたが、郎党たちは、忠盛の心中を思いやって、一言も発しない、一せいに口にするのは、鳥羽上皇に対する不平不満である。上皇の周囲にいる公卿に対するはげしい憎悪である。
 清盛は、彼らの間に割って入った。
『泣き言をいうな。・・・お前達の不平不満はしょせん、俺達に、まだ力がないからだ。俺達は、たとえてみれば、地の草だ。まだ、芽は見えないが、春が来れば、芽をふくのだ。・・・今は冬だ。春を待つのだ。さ、うたえ うたえ』、
 そういう清盛の頬にも、痛憤の涙が流れている。

 当時の政治と社会の情勢は、平安京に都が定められてから、三百五十年も過ぎ、宮廷での威勢を誇り、政治上の要職を独占していた藤原一門の「貴族政権」は行き詰まり始めていた。
 高い文化をほこりながら、太平安逸をむさぼり、日夜遊び暮らす生活からは、国を治める強いエネルギーは、生まれて来ない。地方では、中央政治の弱体に乗じて、実力を持つ豪族が、しきりに土地をうばい、税金を横領し、公然と反抗して来る。
 また、延暦寺、園城寺(三井寺)といった旧来の仏教団体も、荘園の大地主が僧兵の武力を背景に政治に横車を押し、町の秩序が乱れ、騒然としていた。

  藤原一門の貴族社会のリーダーも、政治上の地位と私有財産を守るために、自分たちには武力がないので、武士を登用することになった。歴史上、武士が大きな存在として、クローズアップされて来る。それが、平家と源氏の誕生である。
 それに加えて、白河法王による『院政』の開始である。退位した天皇が上皇と呼ばれ、権力を保持し続け、現天皇をないがしろにした。退位したのち仏門に入ると、法皇と呼ばれる。上皇、法皇を共に「院」とよぶ。

031  国税がとれない延暦寺などの宗教団体の私有地が大きくなり、国の財政を圧迫していた。平安時代も、現代に似たような悩みがあった。
 時の(藤原一門の)政権は、国の財政を建て直そうと、不当な土地の私有を禁じようとした。若い新米天皇の力では、政治運営は出来ないから、老練な天皇経験がある「院」が朝廷を指図して政治をとることが多くなった。これが「院政」の始まりである。

 現代でいえば、当選回数の若い議員が多い民主党や議員数の少ない自民党では政治がうまく運ばないので、各省庁の官僚が政策を立案して、実行させるようなものである。消費税を野田首相の進言して行わせるのも、「院政」に近い。「八ツ場ダム」継続、原発再稼動など、大きな政策は、現代の「院政」各省庁の官僚が進めている、と言っていい。

 天皇が、幼少であれば、問題は起らずにすむが、今、鳥羽上皇の御子崇徳天皇は、二十才近い青年で、上皇との間にはげしい感情的対立が生まれ、いさかいの兆候が現われていた。

 「院」が、強力な政治を実行するに当って、やはり、武力が必要なものであった。社会情勢が、相当険悪になって、武力のない貴族では解決がつかない。どうしても武力を持つ武士の力を利用しなくてはならない。
 
当時は、血統と身分を重視し、身分制度が厳しく、殿中に上がれる「殿上」人と「地下」人に区別された。五位以上のものは、昇殿が許され、それ以下のものは地下人とされた。現代社会でそれを探すと、国家公務員のキャリア組、代議士で先生と呼ばれる人が、平安時代の「殿上人」に相当する。

 清盛の母、泰子は、藤原一門と血のつながっている中御門家から、忠盛に嫁いで来た。どうして、若く美しい泰子が貧乏武士の忠盛にとついだのか、不思議に思う人が多い。024
 泰子は、その生れつき、派手で見栄坊であった。粗野な武家ぐらしをきらいながら、二十年間すごして来た。子供も、清盛をはじめ、経盛、教盛、家盛と、四人もある。しかし、交際するのは、いつも藤原一門で、実家へ帰って、家をあけることが多く、世間並の妻や母とは、大分ちがう。父忠盛は、妻泰子と時にいさかいもするが大した不平も言わず、なすがままにさせている。清盛は、それが、歯がゆくてならなかった。

030 一日、清盛は、父の言いつけで、西七条の兵部権太輔藤原時信の邸へ使いに行った。
 藤原一族でも、時信は正義派の老人であった。今度の平忠盛の西海への遠征とその勝利に、命じた鳥羽院から何の恩賞もなかったことに、「院」に抗議したものだから、貴族社会上層部にきらわれ、逆に「謹慎」を命じられていた。この一件で、閑職「図書寮の役人」に左遷された。父忠盛は、それを申しわけなく思い、清盛に詫びの書状を持たせてやった。

049  時信の住居は朽ち古びた建物であり、庭にひいた水で、若い娘が、糸を染めていた。快活に働いていた娘を婢女(女中)だと思い、清盛は、横柄な口調で取次ぎを頼んだ。
 また、「その糸で衣服を織ってくれ」と気軽に言った。その娘は、微笑しながら、主人の時信へ来意を取り次いだ。

 案内された座敷へ、酒肴をはこんで来た美しい娘をみると、さつきの庭で染物をしていた婢女である。
048  清盛は、さっきとは違い、時信の前で小さくなっていた。
 時信は、「娘の時子です」と、紹介した。
 時子はおかしそうに、その清盛を見たが、その目には清盛の直情な正直さに対する好意が見えた。
「布の織るのは趣味ですか」と清盛が聞くと、
「糸を染めて、衣服を織るのは、貧乏公卿の家計をたすける一助です」
 時子の女らしからぬ実行力に、清盛はすっかり感心した。

006  NHKの大河ドラマ「清盛」とは、吉川英治の「新。平家物語」では、創作が加わっているから、時子の出現が最初から出ている。清盛も、先妻を亡くしている史実は出てこない。

 その帰途、清盛は、時子の弟時忠と知り合い、二人で都の裏町、わんわん市場に行った。ここは生活力のたくましい庶民の群が、むき出しのままの生活をさまざまに展開している。
 「ここには、強盗も人殺しもいるかも知れんが、食べていかれれば、みな笑ってくらしている。広大な領地をかかえて遊んでいる公卿や坊主たちのほうがずっと悪党だ」 清盛の言葉に時子の弟時忠はうなづいた。
 
 その時、鳥羽上皇に仕える遠藤光遠という武士と鼻の赤い町人(五条の伴卜)が進み出て、清盛に「一献さしあげたい」と近づいてきた。
 父平忠盛が西海の海賊を心服させたと知ると、早速、伴卜は、西国はおろか海外まで、商売の手をひろげ、貿易をしようと、まず清盛に近づいた。伴卜の家の酒盛で、交友を深めた。

 清盛は、光遠と伴卜二人から、思いがけないことをきいた

 それは、清盛の出生の秘密についてである。
 母の泰子は、かって故白河法皇の寵愛をうけていた祇園の女御であった事実を告げられた。清盛の真実の父は、白河法皇か、さもなくば、・・・かも知れぬということである。
 清盛は、内心の衝撃に耐えながら、夜の道をわが家へとって返した。
 『俺の父は誰だ?』
 家に帰りつくと、忠実な老臣木工助家貞をたたきおこして、庭の闇にすわりこみ
 『爺よ、俺は誰の子だ。ほんとうのことをおしえてくれ』
 家貞が語ったのは、次のようなことである。

 二十年前、祇園の社の近くに、瀟洒な住居をかまえる美女がいた。法皇の寵姫と知って、誰いうとなく、祇園の女御とよんでいたが、法皇がお忍びで、祇園の女御に通うお供は、忠盛と従臣の家貞だった。
 ある夜、法皇の訪れと共に、女御の住居から逃げ出した怪しい僧侶があった。そのことを知った法皇は、荒々しく女御をののしり、引き止める女御をふり切って帰った。
 その途中、忠盛は、法皇から「女御を妻にするように」言われたのである。忠盛のもとへとついだ法皇の寵姫、すなわち泰子は、やがて、男の子を生んだ。それが清盛である。これだけのことでは、清盛が、白河法皇の子であるとも、悪僧の子であるとも、言い当てることはできない。
 『爺、正直に言うてくれ。』
 家貞は、清盛を寝間につれてゆき、言った。
 『和子
ワコ、真の父御が誰であろうと、和子は、まちがいなく一個の男子ではおわさぬか。心を太々とお持ちなされ。天地を父母と思いなされ』

 翌朝、泰子は、忠盛にこの家を出ると言い出した。
 昨夜、清盛と家貞の話を、泰子は、はからずも耳にして、耐え難い屈辱と憤りをおぼえたのである。清盛は心から詫びをいい、
「せめて、小さな子供たちのためにも思い止まってくれ」とすがったが、気位の高い泰子は我慢できなかった。
 「母ならば、自分の父が誰であるか知っている筈だ、子の悩みを解いてくれるのが当り前だ」と、清盛は詰めよったが、泰子は、怒って、つと立った。父忠盛は、無言である。小さな弟達が、「行かないで下さい」とすがるのもふり切り、牛車で去ってしまった。

054  僧徒の暴動
 その直後、加賀の国白山寺が廃寺となった上に、失火のため焼けてしまったので、院では、その領地をとりあげ、国の所有にしようとした。ところが、白山寺は、比叡山延暦寺の末寺であることから、領地は、当然延暦寺のもである、という訴えをおこし、白山寺の僧徒達も加わり、暴動を起こした。忠盛は『院の命令』をうけて、それを鎮圧すべく出発したが、清盛は同行することを拒んだ。

058 『もう、公卿や坊主どもの土地の番犬になるのはいやです。』
 『院直き直きに、ありがたいお言葉を頂いたのだ。その思召しに背くのか』
 その時、清盛は、口惜しげに、叫んだ。
 『上皇が、父上を御寵愛あそばれるわけが、やっと判りました。(
鳥羽)上皇も、祖父白河法皇が寵愛された藤原璋子をお后にされ、そのお腹に、今のみかど(天皇)がお生れになった。
 上皇は、みかど(天皇)を、自分の子ではないと仰せられ、上皇は、父上(忠盛)を同病憐れんで、お慈悲をおかけになっているのです。そんなお情は、頂きたくありません。』

 『清盛、口がすぎるぞ。思い上がったか』
 こうした不和のまま父忠盛は、清盛を残して、加賀の国へ出発した。

 それを知った五条の伴卜は、
「父上と喧嘩されてはいけません。(貴族政権は)もう、あなた方武士の力がなくては、どうにもならないところへ来ているのだから、自分達(=武士階級)の力を信じなさい」
 事実、公卿たちも、ようやく武士の力を無視できず、忠盛が加賀の白山の騒動を無事に治めたので、鳥羽上皇は、彼を地下の武士から初めて殿上人に昇進させた。公卿の仲間入りさせた。

 しかし、清盛は、その程度の父の出世が、喜べなかった。鳥羽上皇の「お慈悲」である。父ひとりが、そんなお情に預かっても、武士全体の地位が向上したわけではない。武士の実力にふさわしい地位を、貴族からかちとらねばならない。と、叫んだ。

 それを聞くと、伴卜は、はたと膝をうった。清盛の考え方が気に入った。
「あなたの一生に賭けよう、あなたの一生を売って下さい」
「よし、売ってやろう、その代り、高いぞ」
 と半ば冗談のようにして、清盛は絹の色糸二十貫を伴卜からせしめた。これを、時子の家へ運んだ。

『どうか、お役に立てて下さい』
 時子は、おどろき、呆れた。清盛は、時子の、今織っている狩衣が、清盛のものだと知ると、思わず顔を赤らめた。時子の気持ちは、もう清盛の若々しい心に傾いていたのである。

 加賀の国から凱旋した父忠盛は、上皇の思し召しにより、昇殿を許され、初めての武士の昇殿である。公卿、貴族の仲間入りである。
 一家一門の名誉と、みんなは喜んだが、清盛は苦々しい顔をしていた。
 父が衣冠束帯に威儀を正して、昇殿したその朝、時子の父藤原時信がかけこんで来た。
「公卿の中には、“武士の昇殿を許せない”と、その夜、忠盛を闇討ちにする計画がある」というのだ。
 それを聞くや否や、清盛は、公卿たちに対するはげしい憎悪と父親に対する愛情とが、同時に沸いた。彼は、老臣の家貞と共に、禁制を無視して御所の庭に忍んだ。そして、忠盛を闇討ちにしようと企んだ現場で、公卿たち首謀者を威嚇して、父の窮地を救った。

 鳥羽上皇は、清盛が昇殿した父忠盛の窮地を救った武勇をめでられた。
 御所に忍びこんだことには何の咎めもなく、忠盛と清盛父子は、晴れ晴れとした笑顔をみせて和解した。

 『清盛は、わしのことなど、もう心にかけていまいと思うたが』
 『父上のお命は、もとより惜しうございましたが、武士の力を公卿どもに思い知らせてやりたかったのです』


 ところが、時子の父時信がこの闇討計画を洩らしたかどで、政権中枢の藤原氏から罰が与えられた。藤原の姓を奪いとられる「放氏の罰」として、追放されたのである。
 このことは、かえって清盛と時子を近しく結びつけ、二人は結婚した。時信の一家は、その後、「藤原」から「平」の姓を名乗ることとなった。

 忠盛は刑部卿(法務大臣)という官職にのぼり、清盛も「左兵衛佐さひょうえのすけ」(政務次官=副大臣)となり、ようやく幸福な日が訪れて来たかに見えた。

 ところが、紫野今宮神社の例祭で、時子の弟時忠と、老僕家貞の子平六が、叡山の荒法師から喧嘩しかけられたが、逆に彼らをさんざん打擲したという事件が起こった。直ちに法師たちが自宅に押し寄せ、二人の者を引きわたせと迫ったが、清盛は、「非はそちらにある、二人は引き渡せぬ」とつぱねた。清盛には、叡山の真意がわかっていた。

 鳥羽上皇は、騒動が起きた加賀白山の荘園を比叡山延暦寺が所領を主張したが、騒ぎを収めた父忠盛に与えたのである。それを比叡山は認めず、恨みに思い、隙あらば、とり返さんとしていた。
 時忠、平六の若い二人をわなにかけ、彼らに非があるという形を作った。が、叡山の提訴は、鳥羽院の御所に於いても拒絶された。ついに、彼等は、最期の手段、「神輿ぶり」に訴えようとした。こうなっては、朝廷の権威面目に関する大事件である。(「神輿ぶり」=比叡山延暦寺の僧徒が、朝廷に強訴するとき、日吉(ひえ)神社の神輿を先に立てて入京すること)

028 当時の政権トップ、左大臣藤原頼長らは、清盛に「問題を起こした時忠、平六の二人を叡山の要求通りに引きわたし、事を収めるように」と命じた。父忠盛は、病中であったが、病を冒して御所に伺候して、「非は叡山にある」と述べた。
 しかし、公卿たちは、「命令をきかねば官職を剥奪する」といい、大勢の見ている前で、政権トップの頼長は父忠盛を御殿の階
きざはしから蹴落した。
 「この事件の解決は、清盛一身に引き受けよう」と、
 憤激した清盛は言い放ち、父をつれて、邸へ戻った。その途中、忠盛は、病気の急変と憤激のため、一本の古扇をにぎりしめてたまま牛車の中で息絶えた。
 清盛は忠盛の遺骸を葬り、叡山の神輿が僧兵に担がれ下山する機会を、密に待っていた。

 母の泰子が父の死を知り弔問に現れ、忠盛の遺骸に焼香すると、清盛に向かい、
065「あなたは、白河院の御子に間違いない、その証拠は、忠盛殿の持っておられた扇です。御所に行って、主上をはじめ皆さまに(殿上人になれるように)お願いしましょう」と、すすめる。
 それは、母として子の身の上を念ずる親子の人情である。が、清盛は、

『わたしは、平忠盛の子です。体内の白河さまのお血は一しずくもありません。天地に生をうけた一個の男の子として自分の運命を掴み取ります』
と、毅然として言い放ち、「白河院の子」と名乗って、出世させようとする母を止めた。

Ws000063 僧兵、荒法師たち千人以上、神輿を奉じて、祇園の林に到着した。今にも、院の御所に押し寄せてきた。それを聞いた清盛は、甲冑に身をかため、強弓を小わきに、一人、立ち上った。
 清盛は、果して、何を以って至高の神輿にあたろうとするのか。彼の前途に待つは、風か、雨か、雲か。 (映画公開当時のパンフレット参考)

「平家物語」のまだまだ始まりであるが、清盛が公卿たち貴族政権を引きずり下ろし、清盛が力をつけ始める様子を描いた娯楽映画である。しかし、歴史を学ぶ上では、このようなストーリーを知っていると、平安時代が映像として理解できる。

 清盛は保元・平治の乱を経て、源氏を一掃し、娘徳子を高倉天皇の中宮へ送り、天皇家との婚姻関係によって安徳天皇の外戚となり、一門の官職独占を図った。政体は貴族時代と同じスタイルを踏襲した。
 その“平家にあらざる者は人にあらず”とまでいわれ、平家一門の栄耀栄華を謳歌したが、その
没落も早かった。
  その歴史は、琶法師らによって『平家物語』で伝えられた。週刊朝日連載の
吉川英治の大河小説『新・平家物語』(昭和25~32)は、満州事変から太平洋戦争終結まで十五年戦争を潜り抜けて来た国民に感慨とともに語られた。

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2011年9月13日 (火)

滝沢馬琴の生き方、几帳面な日記マン

6820 失明後、長男の嫁が代筆する図(鏑木清方)  

 滝沢馬琴は、明和4年(1767年)、江戸深川(現・江東区平野一丁目)の旗本・松平鍋五郎信成(1000石)の屋敷において、同家用人滝沢運兵衛興義・門夫妻の五男として生まれる。ただし、兄二人が早世、長兄興旨、次兄興春、妹2人の三男として育った。

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 安永4年(1775年)、馬琴9歳の時に父が亡くなり、長兄の興旨が17歳で家督を継いだが、主家(松平家)は俸禄を半減させた。翌安永5年(1776年)その措置に不満の長兄興旨は、10歳の三男馬琴に家督を譲り、松平家を去って戸田家に仕えた。母と妹も長男興旨とともに戸田家に移ったため、松平家には馬琴一人が残ることになった。次兄の興春は、これより先に他家に養子に出ていた。

 馬琴は主君の孫・八十五郎(やそごろう)に小姓として仕えたが、この八十五郎はかんしゃくもちでちょっとのことで、荒れ狂い、手がつけられない。主従の生活に耐えかね、安永9年(1780年)、14歳の時に松平家を出て母や長兄と同居した。

天明元年(1781年)、叔父のもとで元服して左七郎興邦と名乗った。長兄興旨(俳号・東岡舎羅文)とともに越谷吾山に師事して俳諧を深めた。17歳ではじめて馬琴の号を用いて、吾山撰の句集『東海藻』に3句を収録している。天明7年(1787年)21歳の時には俳文集『俳諧古文庫』を編集。また、医師の山本宗洪・山本宗英親子に医術、儒者黒沢右仲・亀田鵬斎に儒書を学んだが、馬琴としては、医術よりも儒学を好んだ。

馬琴は、兄と母にいる戸田家に同居し、長兄の勤務先である戸田家の徒士になったが、自身の自尊心の強い性格から長続きせず、その後は、武家の渡り奉公を転々とした。この時期の馬琴は放蕩無頼の放浪生活を送った。のちの回想録に「放逸にして行状を修めず、故に母兄歓ばず」書いている。天明5年(1785年)、母の臨終の際、馬琴の所在がわからず、兄たちの奔走でようやく間に合った。また、貧困の中で次兄が急死など、馬琴の周囲は不幸が続いた。

医師のところで勉強したように書かれているが、実際は、放蕩三昧で遊びまわったツケで、梅毒のかさぶたが悪化し、それを治したいのが理由で、このころ医師に入門したようである。治療をして、ついでに山本宗洪・山本宗英親子に医術を教えてもらった。というのが事実に近い。

儒学など文系、文章を書くのが好きだった馬琴は、寛政2年(1790年)、24歳の時に山東京伝の弟子になろうとしたが、断られたが、出入りすることを許された。そこで、将来を託す仕事にようやくたどり着いた。江戸時代の年齢としては、晩生の出発である。

Otsu12黄表紙(きびょうし):江戸時代中期の1775年(安永4年)以降に流行した草双紙(一種の絵本)のジャンルの一つ。

 寛永3年(1791年)正月、「壬生みぶ狂言」を題材に黄表紙『尽用而二分狂言』(つかいはたしてにぶきょうげん)を刊行、戯作者として出発した。入門して一年、文章のセンスがあったので、作品が売れたと思われる。

Mtgwchgtjuu2jtg5jthcjuu5jthfjtk2y_2  この年、師匠の京伝が「手鎖の刑」を受け、戯作を控えることとなった。京伝は50日、手錠をはめたまま暮らす刑で、一週間に一回程度、役人が手錠をはずしていないか、調べに来た。手錠に紙がはってあり、その紙を破いていないか見るのであった。コレでも、微罪のほうである。

 この年秋、馬琴は洪水で深川にあった家を失い、京伝の食客となった。馬琴は実力が認められ、そのころ京伝の草双子本の代作を手がけ、江戸の出版社にも馬琴の名前が知られるようになった。
 寛政4年(1792年)3月、耕書堂(蔦屋重三郎)に見込まれ、手代として雇われた。武士だったものが、商人に仕えることを恥じた馬琴は、武士としての
名を捨て、通称を瑣吉に、諱いみなを解に改めた。諱いみな=人の本名(名)
字あざな=普段呼ぶ名称

 27歳の馬琴は、寛政5年(1793年)7月、蔦屋や京伝にも勧められて、三歳年上の履物商「伊勢屋」会田家の未亡人百(30歳)の婿となり、名を会田清右衛門と改める。
 伊勢屋(現・千代田区九段北一丁目築土神社)の家業には一切興味を示さず、近所の子供に手習いを教えたり、長屋の家守(家作の管理)をして生計を立てた。書家加藤千蔭に入門して書を学び、噺本・黄表紙本の執筆を手がけている。寛政7年(1795年)に百の母が没すると、履物商もやめ、気兼ねなく文筆業に打ち込む。姓も滝沢に戻した。

 結婚の翌年寛政6年(1794年)長女幸(さき)、寛政8年(1796年)二女祐(ゆう)が生まれた。のちの寛政9年(1797年)長男鎮五郎(のちの宗伯興継)、寛政12年(1800年)三女鍬(くわ)が生まれ、馬琴は合わせて1男3女の父親となった。

 寛政8年(1796年)30歳のころより、馬琴の本格的な創作活動がはじまる。この年耕書堂から読本『高尾船字文』が刊行された。これが馬琴の出世作となった。通俗的で発行部数の多い黄表紙や合巻などの草双紙も多く書いた。ほぼ同時代に活躍したのが、大坂では上田秋成である。享和2年(1802年)5月から8月にかけて、馬琴は関西地方を旅行し、太田南畝の紹介状をもらい、山東京伝の書画(売却して旅費に当てる)を受け取り、関西の文人と交流し、物語ゆかりの名所をめぐり、馬琴は私的な旅行記『羇旅漫録』を記している。

文化元年(1804年)刊行した読本『月氷奇縁』は名声を博し、読本の流行をもたらした。一恩人山東京伝と読本の執筆をめぐって対抗することとなった。文化4年(1807年)から刊行が開始された『椿説弓張月』や、文化5年(1808年)の『三七全伝南柯夢』によって馬琴は名声を築き、他方、京伝が読本から手を引いたことで、読本は馬琴の独壇場となった。文化11年(1814年)に、『南総里見八犬伝』肇輯が刊行された。文化13年(1816年)恩人であり競争相手でもあった京伝が没する。『南総里見八犬伝』の執筆には、文化11年(1814年)から天保13年(1842年)までの28年を費やし、馬琴のライフワークとなった。

 一人息子の興継は、山本永春院に就いて医術を修め、文化11年(1814年)には宗伯と名乗る。文政元年(1818年)、馬琴は神田明神下石坂下同朋町(現・千代田区外神田三丁目、秋葉原の芳林公園付近)に家を買い、ここに滝沢家当主として宗伯を移らせた。

長男宗伯は、文政3年(1820年)には陸奥国梁川藩主(のち北海道松前藩主)松前章広出入りの医者となった。老公松前道広が馬琴の愛読者であった縁で就職した。宗伯が俸禄を得たことで、武家としての滝沢家の再興を悲願とする馬琴の思いは半ば達せられたが、宗伯は多病で虚弱体質であった。

文政7年(1824年)、58歳の馬琴は、神田明神下の宗伯宅を増築して移り住み、宗伯と同居した。馬琴は隠居となり、剃髪して蓑笠漁隠と称するようになった。長女幸(さき)に婿養子を迎え、清右衛門と名乗らせて元飯田町の家財一切を譲り、分家させたのもこの時である。馬琴は、文人を集めた「耽奇会」「兎園会」なども主宰した。

馬琴は家の庭には、柿、朝顔、ざくろなど果樹を植え、現金収入を増やそうとした。武士出身にしては、こういう収入源を増やす算段は目端が利いたというか。細かい人のようだった。庭には、畑があり、インゲン豆、ぶどう、梅もつくっていた。取れたぶどうは110房で、それを金二朱銭148文で売った。朝顔はかご二杯で金一分で売った。便所の汲み取りも、6人(大人4人、子供2人)でなすを250個持ってきたら、「子供二人で大人一人分だから、なす300個」と主張して百姓を納得させた。ただし、使用人が一人減った年には、ナスの本数を減らした。その几帳面さは驚く。

長屋を持っていて、その家作から収入が上がるようにしていた。この長屋の不動産は、武士階級に副収入としては安定していたので、当時、不動産売買は高額な取引になっていた。

こうして、銭に細かくなったのは、医師となった長男宗伯は妻と子供二人を残して若くして亡くなったので、馬琴の世話になっていた。使用人が6人いたから、収入については細かくなったようだ。(図解「江戸の四季と暮らし」参照)

Bakin2 天保4年(1833年)、67歳の馬琴は右眼に異常を覚え、まもなく左眼もかすむようになる。天保6年(1835年)、宗伯が死去するなど、家庭的な不幸も相次いだ。馬琴は孫の太郎に滝沢家再興の希望を託し、天保7年(1836年)には四谷鉄砲組の御家人株を買っている。御家人株購入のため、馬琴は蔵書を売り、気の進まない書画会を開いた。神田明神下の家も売却して四谷信濃仲殿町(現・新宿区霞岳町)に移住することとなった。

天保10年(1839年)、73歳の馬琴は失明し、執筆が不可能となった。このため、故宗伯(息子)の妻みち(土岐村路)が口述筆記をする。お路に文字を教えながら、秘書としての能力を育てた。お路が馬琴の作家生活に欠かせない存在になるのに対して、妻のお百が嫉妬し、家庭内の波風は絶えなかったが、そのお百も、天保12年(1841年71歳)に没した。

当時の人は、文字を知らないのは学習の機会がなかっただけで、能力がないわけではない。覚えれば力をつける人がいた。現代は能力がないのに勉強しようとするから、逆に苦痛が伴うのだろう。

天保12年8月、『八犬伝』の執筆が完結し、天保13年(1842年)正月に刊行される。馬琴は「回外剰筆」において、読者に自らの失明を明かすとともに、お路との口述筆記の辛苦を書き記している。滝沢一族と自らの歴史の記録『吾仏乃記』は、文政5年(1820年)に滝沢家の家譜が書き上げられ、その後20年間にわたって書き継がれていくことになる。馬琴は非常に精緻な日記を書き残した。散逸や、関東大震災による焼失を経て、中年以後の日記が残っており、貴重な資料となっている。馬琴の失明後は路が日記を代筆し、死後も書き継いだ。『路女日記』として刊行されている。

H1011041 曲亭 馬琴(きょくてい ばきん、明和4年6月9日(1767年7月4日) - 嘉永元年11月6日(1848年12月1日))嘉永元年(1848年)82歳で死去する。命日の11月6日は「馬琴忌」とも呼ばれる。
法名は著作堂隠誉蓑笠居士。墓所は東京都文京区の深光寺

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2011年7月17日 (日)

イギリス人の成り立ち 簡単に見る

Img20090923154004044 :古代イングランド(先住民)は、余り問題ではなく、次の時代、地中海からイベリア人+中央ヨーロッパからビーカー人の侵入。その後、紀元前6、7世紀から前2、1世紀にかけて、もともとドナウ川、ライン川流域地方を中心に定住していたケルト人が西に移動を始め、フランス、スペイン、北イタリア、バルカン半島、そしてブルタニア(英国のローマ名)に広がって行った。参考文献(風土記イギリス:新人物往来社)

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イングランドでは、イベリア人、ビーカー人、ケルト人が入り混じっていく。ブリトン人とはローマ時代のケルト人の呼び方。

Photo_2 ケルト人参考は、紀元前8世紀ころよりスイス、オーストリア地方に独特 の文化を作りあげ、その後、
 東方ケルト人:イステル(ダニューブ、ドナウ)川を経て、ギリシャ、トルコへ
 中央ケルト人:フランスを経て、イベリア半島北部へ
 
島のケルト人:ブリテン島(イギリス)へ、その後フランスブルターニュ半島へ488317820xp2
488317820xp1  ケルト人
は、ヨーロッパ各地に展開した民族です。紀元前3~2世紀ごろが最盛期で、ローマやギリシャなどとも戦いました。こよなくワインを愛し、独特の美術を育てた民族でした。

その後、ローマ帝国によってブリトン人(ケルト人)は支配されるようになります。117年にローマ皇帝ハドリアヌスがイングランド北部に「ハドリアヌスの長城」を築き、これがローマ帝国最北端の境界でした。ケルト人らは追い出され、周辺スコットランド・ウエールズなどへ移っていく。ローマ帝国が強力な間は、各地に要塞をつくり、イングランドに定住する。

日本でいうと、大和朝廷が東北の蝦夷との境界に柵を置いたのと同じ様な考え方と見える。 

 注意単語
デーン人(ノルマン人)
ブリトン人(ケルト人)
ブルタニア(英国のローマ名)
ブリテン島(イギリス)
ユグノー(プロテスタント)
イステル(ダニューブ、ドナウ)川

01 ローマ帝国が弱体化するに従って、375年にゲルマン民族の大移動が始まり、ライン川下流地方のアングロ・サクソン人がイングランドに押し寄せてきた。ブルタニアにも5世紀から6世紀にかけてゲルマン人の一部族サクソン人、アングル人、ジュート人が侵入してきた。この3部族が「アングロ・サクソン」です。このころはスコットランドからピクト人、アイルランドからスコット人なども侵入してきました。この5世紀末から6世紀の時代、アングロ・サクソン人の侵入と戦ったのが、かのアーサー王と言われています。

その後アングロ・サクソン人によって9世紀(829年)イングランド王国が成立、またこの頃、ピクト人とスコット人によってスコットランドに統一王国ができます。現代のイングランド人の人種的基礎である。彼らは7つの王国を作り、その後ひとつに統一する。

バイキングで有名なデーン人(ノルマン)のギョーム(ウイリアム)が11016年、アングロサクソン帝国を滅ぼす。彼らは、底の浅い船を駆使して、イングランド内部まで攻め込み、1066年にはノルマン軍がイグランド王国を征服します。イングランド王国は16世紀にウェールズを、17世紀にスコットランドを、そして19世紀にアイルランドを併合して現在に至っています。

以上の歴史を踏まえると、英国人の祖先はケルト人、ローマ人、アングロ・サクソン人、ピクト人、スコット人、デーン人、アイルランド人、ノルマン人)ということになります。

Images しかし、その後も、イギリスへいろいろの人種がやってきている。
15世紀末、1480年90年代にスペインからユダヤ人が、17世紀1600年代にはフランスから新教徒ユグノー(プロテスタント)が迫害からのがれてやってきた。19世紀1800年代には政治的な理由でイタリアから移民してきた。20世紀には、労働力不足でカリブ海領域、アフリカ、、インドから移民としてやってきた。イギリス大英帝国植民地から移民が続いた。

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    2011年1月29日 (土)

    12万年前の人間たちの知恵と勇気

    12_4日本経済新聞にも、朝日新聞にも載っていたが、歴史の常識では、6万年前にアフリカから現代人の祖先がスエズ運河近くの部分からアラビア半島へ出て行った、と考えられていた。それは、血液型の話でも、そう信じていたが、いやいや、現代人の祖先は、12万年前からもっと知恵も勇気もあっただろうという推理が、証拠に基づいて研究が発表された。これは、ワクワクする。面白いぞ。AB型(血液型)はなぜ少ないか

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    250mann_212_3類人猿から数えれば、数百万年はあるが、現生人という観点から見ると、12万年が限界かもしれない。今のような姿形という点で同じような人が生まれたとして、このころと知能も、体格も、習慣も似ているなら、技術が進歩していないだけで、現代人が、文明に触れない絶海の孤島に数百人単位で置かれたら・・・と考えると、どうなんだろう。

    Ws000005 今の文明を中国の殷時代、あるいはエジプト文明、チグリス・ユーフラテスの文明の歴史、4000年でしょう。日本だけに限れば、大目に見て2500年か。世界の歴史4000年でみれば、12万年というのは、30倍の長さである。現生人は、地球上で今の歴史程度のことを30回繰り返すだけ生きている。そう思うと、いまの知能がある人たちが、前人の知恵を受け継がなくても、何か考えて何か発明していても、不思議ではない。目の前は海だ。紅海とインド洋だ。飛行機は無理にしても、船は工夫できるだろう。

    現状を改革するため、未知の地へ冒険に出ていく人もいるだろう。千年単位といわなくても、百年で考えても、海に向かって出て行く人いるに違いない。昔も今も、青年は荒野を目指す。間寛平が「アースマラソン」をやりぬいたように、石器とやじりを持って、未知に向かって走り出した人はいただろう。狩猟時代の人間のオスは、獲物を求めて一日100キロくらい走ったといわれている。

    それを先史研究家の描いた「人類の進出地図」である。0

    上の図は、いままでにわかっていた人類の発展ルートである。しかし、今回その歴史にアフリカのつのの部分から、アラビア半島へ渡ったのではないか、という研究を発表した

    1212_2 これまでの研究で、現生人類はアフリカで誕生し、二つのルートで勢力を広げたことが分かっている。ナイル川周辺を通ってヨーロッパへ移動した北ルートと、アラビア半島を経て東南アジアへと広がる南ルートだ。南ルートの移動がいつごろから始2011012701まったのか、 これまではっきりしていなかった。
     調査チームは、アラブ首長国連邦のジェベル・ファヤ遺跡を2003年から10年にかけて調べた。出土した石器の特徴や地層を分析した結果、アフリカで出現した現生人類の遺跡と似ており、約12万年前にアフリカから南ルートのアラビア半島に渡っていた、と結論づけた。(以上引用文)
    http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20110128001&expand&source=gnewshttp://www.asahi.com/science/update/0128/TKY201101270529.html

    Ws000004今回の研究(南ルート)が新しいルートである。孤島にいた現生人の祖先が、天気のいい日には、遥か向こうに見えるアラビア半島に向かって「行ってみたいな」と思い、船を作って漕ぎ出したのだろう。それは宇宙船に乗って月面探査や宇宙ステーションに行く以上の、水サカズキがあったか知らないが、危険を冒して出発したら、意外と生存に適した場所があったのだろう。

    そこで数世代の歴史を刻み、その外洋にでてきた 2011012702gDNAの子孫がまた次の適地を求めて、出発して出かけたのか。その歴史の長さは、100年の単位ではなく、千年単位かもしれないし、万年の単位で移動したのか、それは今後の研究に待つしかないが、人間の移動と定着は、繰り返した。その理由は、弱肉強食の原理で、逃げ出したのかもしれないし、攻め込んだのかもしれない。文明と知恵のある人たちが先へ先へと進んでいった。

    12_5 日本という列島へ島伝いにたどり着いた人々は、きっと、勇敢で知恵のある人々がまず到達したとは、想像できる。だから、万葉集のころの日本人は、おおらかで、あけっぴろげの屈託がない。それは、海を渡ってきた海洋の民族の自信があり、「女は太陽」だったのかもしれない。

    日本が列島として切り離される前には、縄文時代の前だろうが、 シベリアから食料のマンモスを追いかけて定住した人々もいたはずだ。海からきた海洋族と古くから住んでいた古代日本人の混合が始まっ たとも考えられる。これが、「海彦と山彦」の話の素地かもしれない。

     4000年昔の殷の時代より昔にも、人がいなかったはずはない。北京原人の骨は発見されているのだから、その後の人はずっと中国は人がいたはず。有史以前の6万年の痕跡はあるし、今回発見された遺跡は12万年前に人はいた。それも現生人の祖先だというから、知能は発達していただろう。ただ文明が発達していないから、知らないことは多いだろうが、考えることは、今の現代人と同じはずだ。12万年の間に、4000年が30回ある。この中で、どんな歴史が展開したか、考えるだけでもワクワクするというか、想像もつかない

    関連:AB型(血液型)はなぜ少ないか  江戸時代 私の祖先は何人いたか

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    2010年12月27日 (月)

    羽田空港江戸村、日本の縮図

    9129 羽田が国際空港として、新装なって一ヶ月、国際空港だと宣伝は盛んにされているから、どんなものか、確かめに出かけた。高砂からスカイアクセスが便利だと駅員に勧められて乗った。確か1本で乗り換えなしにつく。所要時間は40分から50分だ。景色はあまりよくないが、高いが、高砂→羽田までのスカイアクセスは特急料金がない。

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    9149 中国も韓国も外国ではあるが、国際空港のわりにヨーロッパ系の人がいない。韓国、中国の人が多そうである。江戸と冠した町並みがあるかと思うが、映画のセットのようなつくりで、アレは頂けいない。全然歴史を感じさせない。歴史を日本の侮辱している。

    _9174中部国際空港も江戸を模した町並みを商店街にしているが、まだこっちはゆとりがある。通りの幅が広く感じられたが、羽田の町並みは、妙に窮屈だ。各出店が売らんかなの精神が目立って、まるでヨーカ堂の専門店の出店のように売り上げを管理されているのか、ゆとりがない。

    9100 まるで、ベニヤ板でつくった店舗のように囲われて、そこへいかに人波を囲い込み、売り上げをいかに多くするか、その計算が先に立って、人間がえさをついばむ感じ。出店した店も早く元をとろうとしている。効率ばかりが見えて、最小投資で最大利益を推し進めた結果で町並みが作られている。その究極の町並みである。

    9096  中部国際空港の江戸町並みには、浴場もあった。イベント広場もあった。空港の中に航空の歴史の広場など、利益を追求しない余裕があrった。そういうゆとりがあった。羽田には、日航の倒産という現実を突きつけられて、完全に余裕を失っているのか、人と見ればお金が歩いているように見られている。そんな感じで、数ヶ月後には、乗客以外が減るだろう。

    9110 90989102成田の豪華な空港を見たあとだと、羽田の国際カウンターがやけに暇そうで、大丈夫かな・・・そんな感じで見てしまた。

    江戸の町を再現と言う意味ではないかもしれないが、江戸を全然感じさせない。あれを日本文化と外国人に思わさせたら、この街づくりのコンセプトを考えた人は、よほどの歴史を知らない、日本文化をバカにしている。

    近くの公園を回ってみると、樹木が切られていた。公園の中心にあって大きい木があったのが、その木が切られ、そこがきれいな道で通りやすくなっていたが、人間には便利ではあるが、その人間を見下ろすでかい木がいなくなって、これでいいのか、と思った。自然を征服してく人間であるように思うが、木の偉大さを忘れてしまう。

    羽田空港の設計は一体だれがしたのだろう。採算の極致か、あんな面白くない町で人は満足するのか。バカじゃないか。設計者は、自分はこの中の店でする食事に満足できるのか。

    ゆとりがない。どうせなら、ヨーカ堂のショッピングモールを誘致して天井の高い堂々とした店を並べてほしいよ。あるいは、江戸時代の大名屋敷の庭を広げてみせないと、日本文化を誤解する。あんな江戸屋敷では酸欠状態になる。並んだ商品もみみっちい。あれでは、一年もたたないうちに売れない店が撤退してしまう。

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    2010年12月12日 (日)

    浅野内匠頭の癇癪持ち、吉良上野介

    Photo 元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)、江戸城内の松の廊下にて浅野長矩(浅野内匠頭、赤穂藩藩主)が、吉良義央(幕臣高家肝煎)に切りつけた事件。翌年元禄15年(1702年)12月14日、吉良邸へ討入り。彼らは、悪いことをした意識は薄く、主君の仇討ちをしたと、堂々と行進して帰って行ったらしい。

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    事件から敵討ちまで、一年半、江戸中に「吉良邸へ討入りがあるぞ」と言ううわさは流れていた。だから、討入り後、すぐに江戸中に広まったで、すぐ義士とされた。

    大人たちが、忠臣蔵というと、映画になればヒットするというが、子どもには、ちっとも面白くない。進駐軍も、忠臣蔵の敵討ちの考えの映画は許していなかった。

    史実というより、敵討ちの考え方に、国民が「溜飲を下げる」気持ちよさを求めているのだろう。

    Photo_2 この事件後、江戸市民の義挙を賞賛する声に押されて、幕府内の議論もいろいろあった。浅野内匠頭は殿中抜刀の咎で、切腹を命ぜられて「切腹」している。そこから、それを敵討ちにはならない。従って、討入りした全員47人は切腹という結論に至る。江戸市民の世論の後押しなどあり、当局者も迷ったようだ。

    江戸市民の敵討ちが、常識だったから、芝居小屋に掛けると、ヒットした。しかし、内乱に相当する討入りを許したら、幕府は瓦解してしまうという視点から、「元禄赤穂討入り事件」を芝居に掛けることは禁じられていたが、人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』では、時代を変え、場所を変え、登場人物を変えて、ヒットさせてしまった。

    元禄14年(1701年4月21日)、吉良義央に切りつけた直後、傷の手当てをした医師栗崎道有の『栗崎道有記録』によると、浅野長矩は癇癪かんしゃく持ちであったと記す。 また旗本伊勢貞丈が書いた『四十六士論評』(弟の浅野長広か、浅野長純から聞き取った話)によると「内匠頭は性格が甚だ急な人で、吉良に賄賂を贈るべしと家臣にすすめられ、内匠頭は『武士たる者、追従をもって賄賂を贈り、人の陰を持って公用を勤めることはできない』と述べた」とその剛直さを記している。さらに室鳩巣は著作『赤穂義人録』の中で「長矩、人となりは強硬(「武骨者」と傍注)屈下せず」と頭を下げることを好まないと記している。

    全国大名の素行を幕府隠密が取り調べた記録がある。『土芥寇讎記』には、長矩について「智有って利発なり。家民の仕置きもよろしい故に、土も百姓も豊かなり」と褒める。

    一方で、「女色好むこと、切なり。故に、色能き婦人を捜し求めだす輩、出頭立身す。いわんや、女縁の輩、時を得て禄をむさぼり・・・。 昼夜閨にあって戯れ、政道は幼少の時より成長の今に至って、家老に任す」しかし、実際には長矩に側室は一人もおらず、この記述は事実ではない。この書、史料価値は高いとはとても言えない。 
     長矩は、感情が激した時に胸が苦しくなる「痞(つかえ)」という精神病を持っていたという逸話があるが、真相は不明。

     延宝8年(1680年)6月26日には、第四代将軍・徳川家綱葬儀中の増上寺において、長矩の母方の叔父・内藤忠勝も永井尚長に対して刃傷に及んで、切腹および改易となっていることから、母方の遺伝子説を唱える者もいる。

    吉良 義央(きら よしひさ)寛永18年(1641年)~元禄15年(1702年)享年63(満61歳没)。江戸時代前期の高家肝煎。元禄赤穂事件の一方の当事者であり、同事件創作作品『忠臣蔵』では敵役として描かれる。幼名は三郎、通称は左近。従四位上左近衛権少将、上野介(こうずけのすけ)。吉良上野介と呼ばれる。

    吉良上野介が浅野内匠頭に行った“苛め”の内容
    ①勅答の儀の礼服は、烏帽子大紋なのに長裃でいいと嘘を教えた。
    ②勅答の儀の時刻につき、吉良が嘘を教えた。
    ③料理は「精進日であるから精進料理にせよ」と吉良が嘘を教えた。
    ④増勅使参詣に畳替えが必要なのに長矩にだけ教えなかった。
    ⑤用意した墨絵は「勅使様に無礼である」と金屏風に変えさせた。
    ⑥吉良が上からの指図書を長矩に見せなかった。
    ⑦勅使を迎える位置を尋ねたのに吉良は教えてくれなかった。
    以上の“苛め”の内容、浅野内匠頭は二度目の勅使饗応役であった経験を考えれば、不自然なものが多く、また長矩が失敗すれば上役である吉良も責任を問われる。従って、吉良がこのようなことをするとは思えない。

    義央は指南役に任命されたが、義央は朝廷への年賀の使者として京都におり、帰途に体調を崩して2月29日まで江戸に戻らなかった。この間、2度目の饗応役であった浅野は過去の経験をもとに饗応準備をしていたが、かつてとは変更になっていることもあって手違いを生じていた。ここに擦れ違いが生じた、と見る向きもある。

    Photo_3 赤穂浪士の討ち入り行為を義挙として江戸の武士には賞賛するものもいた。本来、徒党を組んでの討ち入りは死罪に値するものの、忠義を奨励していた将軍綱吉や側用人柳沢吉保をはじめとする幕閣は死罪か切腹か助命かで対応に苦慮した。幕閣の中にも「夜中に秘かに吉良を襲撃するは夜盗と変わる事なし」と唱え、磔獄門を主張した者もいた(『柳沢家秘蔵実記』)。
    その一方で、大目付仙石伯耆守久尚、町奉行松前伊豆守嘉広、勘定奉行荻原近江守重秀などのようにこの主君仇討ち事件に大いに感激した幕閣もいて、その内部でも意見の違いがあった。彼らを中心に構成する将軍の諮問機関である幕府評定所は12月23日(2月8日)に
    一、内匠頭には少々存念があったようなので、その意を家臣が達するためにやむをえずに大勢で示し合わせた場合は徒党とは言いがたい。
    一、内匠頭家臣達は真の忠義者であるので、このままお預りにしておき、いずれは赦免すべき。一、吉良上野介家臣達で戦わなかった者は侍とは認められないので斬罪に処すべき。
    一、上杉綱憲は父親の危機に何もしなかったので領地召し上げにするべき」という浅野家寄りの意見書を将軍綱吉に提出したともいわれている。

    学者間でも議論がかわされ、林信篤や室鳩巣は義挙として助命を主張し、荻生徂徠は「46士の行為は、義ではあるが、私の論である。長矩が殿中もはばからないで罪に処されたのを、吉良を仇として、公儀の許しもないのに騒動をおこしたことは、法をまぬがれることはできない」と主張した。この荻生の主張が採用され、浪士には切腹が命じられた。
    「浅野は殿中抜刀の犯罪で死罪なのに、吉良を仇と言うのはおかしい。幕府の旗本屋敷に乗り込み多数を殺害する騒動には死罪が当然」というのが江戸幕府の見解ということになる。

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    2010年7月21日 (水)

    試案日本語TOEIC検定、辞苑から出題

    日本語TOEIC検定というのは、私の試案である。これをたたき台にして、地方自治団体で、あるいは文部科学省あたりで考えたらどうだろうか。

    日本語TOEIC検定500点とれるなら、(2年以内の目標)帰化を認める。また、成人式では600点(成人後1年以内)、結婚するには650点(新婚2年以内)、企業就職には700点(キャリア規定)、課長になるには850点(キャリア規定)、重役になるには950点(キャリア規定)、とか。

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    その基礎になるテキストは、辞書会社の回し者と思われそうだが、広辞苑〈あるいは、明解国語辞典)からの出題と限定する。年に二回(春と秋)、日本全国で実施したら、すると、広辞苑出版社はこれで、一気に売上が伸びる。これは、辞書出版社が共同してやったら、辞書の重要が急激に増える。

    これは、テレビ機器製造会社や、自動車製造会社には、恩恵を与える政策があるなら、辞書会社に恩恵を与えることはも可能である。日本人の知性を増進させる、いい政策であると思う。

    初級、中級、上級とスパー級を作って、日本人の履歴書にこの点数が書けるように仕向けたら、時代が変わる。日本人の意識がかわるし、外国人の日本語能力が明確になる。日本語辞書の会社にとっては、最高のアイディアだ。

    Img_4081その方に 偽りをもって検校の位を受け、あまつさえ 貧しき人に金を貸し。不当の金利を取りたておったは、不届き至極。家財没収の上、江戸十里四方払い申しつくるものなり。」と、『御宿かわせみ』で、田村高広扮するお役人が判決を述べる。

    検校=盲官の最高位の名称検校。平家琵琶、あんま以外、金貸しで不当な金利で金儲けすることが多かった。

    「あまつさえ」剰え=そのうえに、それだけでなく。そんな意味で、つかわれている。「剰え」と漢字で書かれては読めやしない。「御宿かわせみ」見ていたら、聞いたことはあっても、最近使われないし、意味もよくわからないことばがチョクチョク出てくる。江戸末期の時代をどうやって考証しているのか、作者はよく知っている。

    豊かな日本語が貧弱になりつつあるかな、と私は危惧しているが、ときどき江戸時代、明治には普通に通じていた言葉が消えていくのを感じる。

    なかんずく=就中(意味:その中でも)
    とにかく  =兎に角(意味:さておき)
    ふじつ   =不日(意味:ちかいうち)

    以上列挙した言葉は、あまり現代では使われ率が少なくなったが、人は、難しい漢字や言葉を知っていたりすると、使いたくなる。なかなか平易な言い回しをしないものだ。相手に応じた言葉を選択するのが、一番望ましい。

    日本人の教育では、英語は懸命に勉強するが、とくに学校卒業後、日本語をあえて勉強する人は少ない。日本語は、日本人として15年以上日本で暮すと、不自由しないから日本語はわかるから、高校生くらいは、もう日本語を勉強する必要はないと思いがちだ。

    日本人としての日本語教養は高めることが、日本文化を理解することになる。最近常用漢字を増やしたが、日常の言葉は難しくするのは考えものだ。しかし、豊かに日本語を身につけてほしいと願う。

    それには、一番提唱したいのが、「辞書を読む」ことである。中学生から高校1年ころに、明解国語辞典とか、コンサエスの辞書の項目を読む。これで、15歳、16歳で、知らない日本語がどの程度あるか、辞書でチェックする。夏休みの宿題にするといい。

    知らない単語を一度目を通しておくことで、次に出会ったときに、その単語を印象的に覚えられる。日本語辞書を一通り読みとおすと、「わからない日本語はない?!」という自信になる。

    世の中、検定試験が多くある。日本語検定には、外国人の受験者が多いが、日本人が受ける漢字検定のような「日本語検定」を受けたらどうだろう。TOEIC950点でないと、課長の昇格できないといわれるように、日本語TOEICも、必要ではないか。

    私の提案① 東京都水道局ワッペン作り直しの病根   PTA役員に 地域の老齢者を活用  下りブレーキで発電する電動自転車   国家予算の1割貯蓄から日本再建   スピーチの話し方 挨拶の仕方   中国簡体と日本略字からアジア連合   竹島、独島の最上の解決案   奨学金があれば、大学へいける。   衣食足りて栄辱を知り 優先席問題点  参政権は義務 棄権は罰金3000円   村上春樹「卵と壁」 争い避ける日本人  国民年金はセーフティネットになるか  婚活サポーター 「お世話志隊員」

    私の提案② 看護師から医師ステップアップ新制度   無税区政の樹立、杉並区長の冒険  日中韓三カ国で500漢字の共通化   ウエットコンクリート 花ゲリラのアイディア  虫の世界と人間の世界  原油高 誰が値上げの元凶か  治水とダムについての見識 宮本博司  血管外科のプロフェッショナル大木隆生  材料学者細野秀雄教授ノーベル賞候補  攻めの温暖化対策 火力発電CO2利用  人格を磨く 艱難かんなん汝を玉にする  権威には議論と批判をブッつけていく  現代社会の腸閉塞、誰が執刀するか  法人税を払わない銀行  財政再建策を 国民から募集せよ!  中国地名、人名の日本語表記で知恵

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    2010年1月28日 (木)

    黒電話からデジタル産業革命

    Photo_3 番号を回す黒電話は、覚えていますか。最近はトンと見かけなくなりましたが、昔はこの電話が普通だった。

    私は新しいモノが好きだから、契約した時、「色はどれがいいですか」と聞かれて、ピンクというか、薄い桃色の電話にした。

    もちろん、ダイヤルはギーコ、ギーコ回す式だったが、色くらいは黒でない方がいい、と思った。

    Photo_5 あるご年配の方の家にいったら、黒電話をコタツの上に出してきて、ダイヤルを回して、友人に次々に掛けて話していた。楽しそうだった。プッシュフォンでなくても、話は聞こえるし、何も不便はない。話が出来ればいいというなら、それで問題はない。

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    Photo_9 昭和20年代には、電話局の交換手に番号を告げて繋いでもらう方式だった。四角い縦長の板に電話があり、目玉のようなベルが二つついている電話だった。

    電子レンジでも、無精者の道具でしょう。ずくなしの道具だ、あんなの火を通せばいいと昔の先生だったら怒るかもしれない。すると、なくてもいい?FAXでも、手紙で送ればいいし、パソコンでも、書いて送ればいい。計算機でも、自分の手で計算すればいい。そう聞けば、そうか、人間の脳みそが退化してしまう。

    そうか、確か、計算機できてから紙に式書いて頭を使って計算していない。ワープロ、パソコンになってから自分で漢字を書かないでも変換してくれるから、任せきりになって、脳の退化が激しい。油断していると、すっかり脳は衰退する。計算機でやれば、10桁の掛け算、割り算でも、瞬く間にできる。この快感、快適さは、一度覚えたら止められない。

    確かのパソコンを必要であると思わない人には、いらない道具ではあるが、このことをすぐ伝えたいと思ったとき、相手にパソコンやメールができないと、残念だと思うことも多い。

    使わない道具として無視しても世の中は動いていくし、そういう世代は徐々に少なくなって、小学校からパソコンの授業をやっているし、これから育つ子は「読み、書き、英語、パソコン」が普通になるのは、目に見えている。

    あまり、ノスタルジックにアナログ世界にこだわっているわけにはいかない。新しいことにも順応して、取り入れることは、年寄りでも必要だ。頑なに古いものに固執しているのは、ガンコになる。新しいことを身につけると同時に「温故知新(古きをたずね、新しきを知る)」を旨としたい。

    Photo_10 しかし、製品を供給する側には、新しい需要を起こしたいから、アナログテレビを廃止し、デジタルに変えようとするが、不自由と思っていない人からテレビを取り上げ、新しいのデジタルテレビを買えというのだから、かなり、山賊、海賊と同じような部分がある。

    デジタル切り替えの2011年7月24日の停波にまだ見られるテレビを使えなくされるから、誰か訴訟するか、騒動が起こるのではないか。あるいはデジタル化は一時延期されるかもしれない。

    02 私は、今までデジタル化の歴史にくっ付いて来たけれど、大変と思わないがたいへんだった。パンライターを買って、文書作成した。次に、ワープロを買い、富士通の親指シフトを覚え、これが一番早いタイピングだと信じていたら、アレアラと思ううちに富士通は「親指シフト」を止めてしまった。折角覚えたこの私、富士通にハシゴを外されて屋根の上に取り残された感がある。

    ビデオでは、ソニーのベータは形が小さくて、性能がいいと思って買ったら、VHSの軍門に下り、ベータのビデオはいつの間にか廃棄処分されてしまった。そんな歴史がある。

    Zentai パソコンでは、まず、買ったパソコンがアップル社のMac。半年もしないうちに日本ではウインドーズでないとうまくないと気づき、買い替得ざるを得なかった。その当時まだNECのパソコン市場占有率90%近い時代だった。その後、OSはは次々95、98、ミレニアム、2000から、XP、ビスタ、セブンにバージョンアップして進化する。その進化するのはいいが、旧バージョンを古くして見捨てる営業モデルに消費者は苦しめられている。それでも、新しいテクノロジーについていくしかないのか。

    テクノロジーの進歩、改革が現実に起こって、その流れの真っ只中にいるのだから、無視した生活はできない。気づいていなかったが、18世紀に起こった産業革命と同じ。18世紀の産業革命には、蒸気機関が発明された。今はパソコン。蒸気機関車とパソコンとの違いだけで、今、IT産業革命が進行している。農場から追い出された農場労働者と同じように、多くの印刷業者に仕事がなくなり、苦しめられている。あらゆる産業に影響を与え、損している人もいるし、トクしている人もいる。好きで産業革命が起こしたわけではないが。

    「時代遅れ」の黒電話が好きだし、自動車より足で歩くほうが体にしい。古いことも好きだが、新しいことにも付いて行かないと、現代社会から振り落とされてしまう。そういう2つの気分が私の中で揺れ動いている今日この頃です。一方にだけ偏ることのない生き方が求められるわけ。

    現代の産業革命 光電話で再び騒動   ひかり電話の故障!大騒動顛末   翻訳ソフト 無料で便利 英→日、日→英  サーバーとドメインは 住宅とカギの関係  子ども見守りシステム  音声ファイル送付 データ便の説明    デジカメ パソコン技術革新 利用者グチ    光電話、転送電話の操作   宅ふぁいるか、ファイルオクール   富士通自身 親指シフトをあきらめた    迷惑メール対策、そして日本の行方   ステップアップ 社会人   ウチの得意分野 利用のお勧め  千客万来 資格取得新学習   

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