2009年1月18日 (日)

60年安保、君は国会へ行ったか

42403 自治会活動に距離を置いていた私が、突如デモの中に囲まれてしまったのが、この写真である。向うにあるのが国会の衆議院宿舎がある。

42403_2 そこへ私は、岐阜県選出の国会議員を訪ねていくところだった。下宿のオバサン宅が都市計画の区画整理で、家に住めなくなるという事情があって、岐阜県の学生寮に入りたい旨を書いて、知り合いの先輩に手紙を出したら、どこでどうなったのか、家の方で自民党代議士纐纈氏の秘書から一度代議士を訪ねていくよう手紙が来たので出かけたのだ。その日、たまたま全学連と機動隊が国会前でにらみ合う場面に遭遇してしまった。

学生の側から国会の方へ通りたい、と全学連の小隊長の人にいうと、その人が機動隊の前面まで行き、私が持っていた秘書からのハガキを見せて、通り道を開けてもらい、通してもらった。

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装甲車が二重に並んで道路を封鎖して、その前に早稲田の学生など、1500名(公称)が座り込んでいた。多分同じ学部の人もいたのだろう。私の姿を見て、後日、デモに参加しないか、と誘いに来た。

01_2 私は、議員会館へ入って行き、入館許可証をもらい、国会議員の部屋へ行く。すると、議員はいたが、その人は電話中で、手で秘書に指示して、一言も口を利いてもらえないで、全部秘書が処理していた。学生寮の選考は終わっていて、中央線の八王子か高尾あたりに学生寮があるから紹介する、そんな遠方へ行けないな、と思いつつ議員会館から出てきた。そんな記憶がある。

議員会館からでて、また機動隊の後ろから来て、また学生の座り込み横を通って出てきた、さらに緊迫感が高まっていたような印象だった。私はしばらく見ていたが、キリがないので帰ってきた。

35427_2  ところが、その後、夕方以降になって、学生が機動隊の装甲車を乗り越えて、国会へ向って進んだので、機動隊と衝突した。これは翌日の新聞で知ったのだが、たしか、学生が突撃すれば、機動隊の装甲車の上に上がっていける、その程度の親しみさえ、この装甲車の並べ方には、甘さがあった。

まだ、憎しみあって、すぐ殴りあうとか、そんなイガミあうそんな雰囲気はなかった。学生も、座り込んでいても、怪我する危険を感じている雰囲気はなかった。それが、一旦、指揮官の態度で行動は変わる。

これが4月21日だったと思う。それが、1週間もすると、安保条約改定で、強行採決へ進んでいく日程にそって、世間の雰囲気もガラっと変わってくる。一番悲劇的だったのは、樺美智子さんが国会構内で機動隊の規制で倒れたところを機動隊に踏み潰されて、死んだ。

デモ隊が国会内へ乗り込んで行けたという警備の甘さ、これは最初のころは、お互いにそう厳しいガードをしていなかったから、デモ隊の数が多くなり、先鋭的な分子が先導すると、それに従って国会内に乱入できたのだろう。

64 知り合いでも、多くの人がこの国会内にいっていたという証言を聞くことができた。政治経済学部の自治会は強力で、討論会でクラスの1/2以上の賛成を獲得したと、学級封鎖して学生はデモに参加するように…と、大隈講堂前に整列して、国会前へデモ行進した。歩いて、国会へ行った。個人では行かないが、団体で歩けば行けるものだね。

05 早稲田から行進して、ここが岸信介のいる公邸だというその前でフランスデモを展開した。一文の女子と腕を組んで、結構気が合ってはなしができるようになったころ、幹部が女子学生は看護班へ参加してほしい、とその彼女を連れて行ってしまった。なんか、失望したような気分であった。その後、その子には卒業まで一度も会わなかった。名前?聞くのを忘れてしまったが、人づてに文学部で藤沢から列車通学している子だとか、言っていた。安保デモの中の一夜のロマンスだった。

その後、何回かデモに参加した。回を追うごとに参加者の人数は多くなった。6月21日は最後のゼネストを計画していたようで、電車を止めてしまうストに品川の駅フォームにデモ隊は座り込んだ。夜中ころに塩だけのおにぎりが1個ずつ配られた。何事もない、夜明けを迎え、解散して帰ってきた。

私の所属していた早稲田奉仕園のメンバーも、学生デモに参加して、頭を警棒で殴られた人とか、怪我してくる人も多かった。4月末から6月末までの、学校は授業が行われないことも多かった。

自治会の学級代表は、討論会で授業をつぶして、学生のデモ参加を促すアジ(テーション)をぶつ。3年生、4年生で話がうまい先輩を引っ張ってきてしゃべらす。一般学生は、ほっとけない気持ちでデモに参加していた。このときよく教室へ来たのは、教育学部の全学連委員長、のちの俳優山口崇であった。

そのころの自治会委員をやっていた人、その思想が左翼のバリバリなおことを語っていたから、そういう思想だったのかというと、今になって「学生時代の考えをいつまでも引きずっているわけないだろう」という。そんなパッと捨ててしまう思想で、煽られていたのか、そう思うと、いい加減なものだ。転進してしまう学生運動家を上に頂いていたのは、だまされたような気分である。

不完全燃焼のまま、40年、50年抱えてきて、いまだに「安保反対!、安保反対!」と走り回っているわが胸の内をその当時の自治会委員に、同窓会で会うごとに見せてやりたい気分である。

60年安保について参考 http://members.jcom.home.ne.jp/u33/i%20think%20030511w6a.htm

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2008年9月20日 (土)

反東條運動 松前重義に報復人事

001 昭和61年8月22日(朝日新聞) 平成20年現在、戦争体験ある生き残りの人たちは、当時若かった人たちだ。二十数年前の新聞スクラップ見ると、年齢80代半ば過ぎの人が書き残す、語っている。軍や政治、研究で中枢にいた人の話は興味がある。

松前重義は、ドイツへ留学し、アメリカへも行って、自動車工場の生産ラインを見たりして、アメリカの国力を肌身で知っていたから、戦争すること自体が無謀であると思っていた。松前は、42歳、(後の逓信省)通信院工務局長であった。日本の生産力、工業レベルを上げるために研究する中心人物。局長など高級官僚は勅任官で、赤紙ら解放されていた。天皇の許可がない限り召集されない身分であった。勅任官は通常なら少尉になる。

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それが、突然召集された。昭和19年7月18日、緊急電報で熊本第6師団工兵隊第22部隊へ陸軍二等兵として、赤紙で呼び出された。それは、明らかに懲罰召集だ。

東條内閣は崩壊して、この年、7月22日に小磯内閣が成立している。東條内閣倒閣運動で、中心人物中野正剛が自決しており、それに加わっていた松前重義も、東條一派に目を付けられていた。その東條内閣の最後のあがきだった。

戦局が形勢悪くなった戦場へ追い出して、松前を抹消してしまう意図が感じられた。召集された松前は死を覚悟した。熊本で乗せられたのは、輸送船淡路丸、その船は魚雷や砲弾を船倉に所狭しと積み込んでいた。淡路丸は機雷を一発食らえば、完全に玉砕だ。それを東條一派のたくらみで松前を乗せたとしか考えられない。

淡路丸を含む16隻の船団を組んで熊本港を出た。出港後10日で台湾、基隆港の近くまで来た。そのとき、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受けた。そこで16隻の殆どがここで轟沈された。松前の強運は、その攻撃のさ中スコールが降りだして、淡路丸はその雲にまぎれて、米艦の追撃をかわして、基隆港へ逃げ込んだのだった。

他の船に乗った人々は海に放りだされて、海に漂って助けを求めていた。何千人もの人が重油まみれになって漂っているが、護衛の駆逐艦は米軍への対潜水艦爆雷を投下作戦中だから、救助どころではない。機雷が爆発するごとに海に漂っている人が飛ぶ。人命救助は度外視の戦地だった。地獄絵図とは、このことだった。

台湾に上陸できた松前は、台湾総督府逓信部から東京の通信院の友人Sに電話をかけ、海軍内にいる松前の親しい人に連絡してもらった。爆薬船より安全な輸送船へ中隊ごと移るように手配してもらった。ただし、憲兵隊に傍聴されたら、どんな目にあうかわからないので、すべてドイツ語でやりとりした。

松前の乗ってきた淡路丸から、安全な貨物船浦戸丸に乗り換えに成功した。案の定、その後3週間もしない間に高雄港を出たところで、淡路丸は魚雷攻撃で撃沈されてしまった。

浦戸丸を含む12隻で新船団を組み、出航した。この船団も米軍の攻撃にさらされた。台風にあったりして、松前の乗った浦戸丸だけは舵を故障で船団から10日も遅れた。順調に進んだ船団はフィリピンのルソン島近くで米軍の攻撃を受けて全滅してしまったが、故障で遅れた浦戸丸は、それが幸いして、無事マニラ港へ到着した。

マニラに着いて4日目に、南方総軍参謀のT中佐が訪ねてきた。参謀というのは、司令官のそばにいて、実質取り仕切る責任者の一人である。中佐が二等兵を訪ねてくることは、普通はありえないことだ。まあ現在で言えば、重役が新入社員を訪ねてくるようなものである。

「貴殿をよく知っている」といい、「身柄を総司令部付、軍政顧問にする。」東條首相に批判的だった南方総軍司令官寺内寿一元帥の意向もあったのだろう。司令官の許可をとっての申し出であった。「フィリピン、タイ、マレーシア、シンガポール、南方全体を視察して、日本軍の自給体制を整備、現地の軍事工場の整備、産業開発の指導をお願いしたい。」

今まで、熊本から共に来て打解けてきた二等兵仲間の戦友から離れてしまうことは身を切るほど辛かったが、南方総軍参謀T中佐や所属中隊長の勧めもあって申し出を受けることにした。T中佐は現在(昭和61年)も健在で当時のことを語っている。

東京の陸軍省に何回も、松前を召集解除にしろ、と電報を打ったが許可を降りなかった。あまりしつこいと、T中佐が陸軍からにらまれて身が危ないと忠告する人まで出た。それで、やむえずフィリピンの南方総軍司令官、寺内元帥に了解を得て、総司令部付になった。

この頃は、フィリピンに米軍が上陸して戦闘が本格化していた。現地では昇格も除隊もできないので、二等兵の身分は変わらないが、軍服はやめて私服でフィリピンのサイゴンから南方各地に飛んで、軍需生産や産業開発の指導に当っていた。T大佐のおかげで、実質的には召集解除になっていた。

科学者の立場から見ると、戦争が継続していけば、アメリカが殺人光線や原子爆弾、レーダー誘導爆弾を開発して投入してくるのは必至だ、と松前は見ていた。その話をT中佐に話すと、「そういう兵器をアメリカより先に研究開発や敵の攻撃に対する科学的な防御の方法を東京で研究してほしい」と語り合った。

1ヶ月半のアジア各地の指導をしてマニラへ帰ってくると、東京の陸軍兵器学校の勤務を命ずという転勤命令だった。T大佐のわが身の不利も考えず陸軍省へ掛け合ってくれた誠意のたまものであった。サイゴンから日本に戻った。

00008_2

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2008年5月15日 (木)

ルソン島で人肉を食う敗走日本軍

02 20数年前(昭和63年)の新聞記事をスクラップしている中から、「痛恨のルソン」と自家出版した元将校長井清さんの話が載っている。当時68歳だから、ご存命なら今年90歳になる。痛恨のルソンは300冊しか作られていないから、絶版状態になっている。

今次大戦の末期、慶応大学を6ヶ月繰り上げ卒業して、海軍通信学校へ入り、暗号解読担当になった。今ならIT技術者というところだろうか。昭和19年少尉に任官して、マニラにある南西方面艦隊司令部へ送られた。 

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その時、戦局はすでに形勢は悪く、マニラはアメリカ軍に占領されて、指令本部を北へ北へ移動することになった。ジャングルのなかへ逃げ込む形になり、日本軍はアメリカ02_2 軍に追い立てられるように、ルソン島のジャングルに入り込んで行かざるを得ない状態であった。地図を見ると、平坦に見えるが、集落以外は全部熱帯雨林のジャングルといってもいいくらいである。

物量に勝るアメリカ軍に艦砲射撃を浴びせされて、制空権も制海権も失い、持久戦で戦い続けたが、補給もままならない日本軍は、武器も遅れているし、砲弾もない。こちらが一発撃つと向うから数百発打ち返されてしまう。命を永らえることさえままならなない。食べるものもなく、コガネムシのような虫を火であぶり塩で食う。それをうまいと思い、ネズミはヘビはご馳走だった。兵士たちの戦争NHKルソン島死闘 参照してください。 白骨街道

123 敗走に敗走を重ねていたとき、栄養失調で死を目の前にして人間が取った行動とは、動物なら共食いが起こったということだろうか。NHKの放送では、そのことを漠然と、他人の話、伝聞の話としか紹介してしか語られていなかったが、長井さんの本には、自分が食った体験が書かれている。

部下が出かけて行ったら、銃声が響いてきた。しばらくすると、肉の塊を持ってきた。それを見た私は「煮ろ」と指示した。煮あがった肉片を先ず隊長の私が試食する。噛んでもかみけれない固い肉だったが、それを飲み込んだ、と記述している。この肉は、衰弱していた兵士を銃殺して、太股からそいできた肉だった。食わなければ、生延びられない現実があるとき、責められるか、難しい問題である。

02_36302 アメリカ兵捕虜の首を切る話もある。もう、戦場体験のある日本人はいなくなるだろう。昭和63年の段階で、長井さんは、脳梗塞と心筋梗塞で倒れ、後がない、時間がないと夢中で書いた出版らしい。

戦争の側面は、戦闘に参加した部分だけではないが、戦闘に参加した経験談を語る人が少なくなるのは事実である。00008_2 戦争の悲惨さは戦闘だけではない。

兵士たちの戦争NHKルソン島死闘  ルソン島で人肉を食う敗走日本軍    初年兵を死地にやった上官   ある憲兵の記録 日本人のDNA    戦争を知る人たちの記録    ビルマの竪琴(竹山道雄)VTR見る  硫黄島からの手紙 映画館で見た   終戦 荒廃した国土 忘れるな   講和条約 日本は占領されていた  白骨街道 戦争の影響 疎開、食料など 日本軍の関与 集団自決、慰安婦問題 被爆死体片付けた 広島高師の学生 美しい国 命をかけた祖国  戦争を知る人たちの記録  レイテ戦記  レイテ戦記2  レイテ戦記3

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2008年5月 4日 (日)

石田純一と松原千明の結末

03_2 昭和63年頃の石田純一 - Wikipedia話だ。これは松原千明と秘密裏にイタリアで結婚して帰国した写真だろう。結婚とは聞こえはいいが、婚前旅行をおっぴらにしただけ。彼は男と女の関係をアメリカ並に先取りしているから、日本人はびっくりする。松原千明 - Wikipedia

このときは、まだ靴下を履いているようだ。彼は自分の運動能力、見た目のよさをすべて女性を獲得する方に利用しているワンマンに見えるが、近づくと、アメリカ仕込みで身についている優しさ、レディファーストから彼にコロっといかれる。スケベで女たらしであっても、あまり悪く言われないのも、このレディファーストのなせるわざか。

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Photo_6セックスに関しても、自分の見方を既にこのコロから表現している。「オレの下で女がどう変わるかみたい」セックスの最中の女の変化を見るのが好きなのだ。

「あなたの体から離れられない」女にこう言わせたいといちも思っている。

これで松原千明ともだめにして、結婚には向いていないんだろう。ずいぶん年下の某さんは同棲していたのに出て行かれている。戻ってくるような話もあるが、石田と同じ性格で男をトッカエひっかえするタイプでは、どうするんだろうね。

_0_22339088_2結婚に拘る必要はないが、既に子供は大きい子もいるし、隠し子もいるようだから、結婚制度の外で十分楽しめるから、石田は石田。女には危険物のようなもの。

石田が落ち着いた後、彼、逆襲されて、足腰が立たなくなったら苛められるだろう。まあ、それだけ以上に女を遊んだから、仕方ないと諦めもつくだろうか。よく人生プラス、マイナスでセロになるというが、彼の人生、どう見てもプラスだろう?

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2008年4月16日 (水)

戦前の日本の姿を伺う記事

1今から22年前、 1986年(昭和61年)の切り抜きからの私のアーカイブス宝庫から見つけた記事である。

投書した平川善三さんは、当時72歳、今ご存命なら94歳である。戦争に行ってその事実を見ていた人である。今から20年前なら多くの戦争体験者が発言していたし、投書して、戦争へのブレーキになっていた。それから20数年も経つと、戦争を肯定してはばからない人が出ても、それをいさめる重みのある発言をする人がいない。下手に発言すると、非国民呼ばわりされたり、臆病者、意気地なしと言われる。

格闘技に女子ファンが増えたり、バーチャルゲームでは殺すのが当たり前だったり、感覚が麻痺した青年層が増えて、生死の感覚が麻痺している。

バーチャルではなく、目の前で人を殺すという体験を中国大陸でしたり、見たりした人が書いた文章は、この人の文章にあるように重みがある。

自分の国を独立した国にと願って、八路軍に所属していた若いお父さんが、日本軍に捕まって連れてこられる。彼は死を覚悟できてきるらしく、処刑を恐れていない。そんなシーンが浮かぶ。

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銃を構えた軍曹あたりの兵役3,4年の下士官が三メートルくらいの距離から狙いを定めて2発、3発と捕虜の頭を吹っ飛ばした。

父である捕虜と一緒にいた3,4歳の男の子、父と離されて部屋で遊んでいる。投書した兵士を見て「お父ちゃんは?」と聞く。その姿を想像するだけで、涙が禁じえない。

1986年(昭和61年)の記事の横にスクラップしたあるのは、御茶ノ水女子大学名誉教授の尾鍋輝彦(当時77歳、今年100歳)の投書である。

02 尾鍋さんは、昭和13年1月、成城高等学校で教えていた。クラスの中で張炳賛(チャン・ビョウン・チャン)という朝鮮人生徒が質問した「先生、朝鮮は独立するべきだと思いますが」とはっきりと言った。

先生は「それはそうだが、だが大きい声で言うなやよ」としか答えられなかった。その時、彼はニコッと笑った。50年ほど音信がなかった。ある日新聞を見ると、「韓国財界人が急死。韓日協力委員会で来日中であった」とある。その彼が、韓国の財界代表で来日していたのだ。

時代を表すエピソードが見える。朝鮮と日本の関係、朝鮮人の立場、日本人の規制に押し込められた立場、みんな見える。しかし、時とともに、時代の証言者たちは去っていく。死んでしまう。人間はゼロから知ることを始めなければならない。

声高に意見を述べるとそれがオピニオンリーダーのようになってしまう。もっと遠慮がちに思慮しながら時代を前に進めるためには、どうすればいいのだろう。

その横のスクラップは「新自ク解党」という記事がある。新自由クラブが再び自民党へ戻ったという記事である。

戦前の空気伝える記事 強国日本、昭和13年の空気を嗅ぐ

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2008年3月13日 (木)

プット元首相、暗殺されて考えること

6103_2 昭和61年プット女史がパキスタンの首相をやっていた後、逮捕されていた。反対勢力の軍事政権が権力を握ったとたん、この憂き目に。その後、長く亡命生活をよきなくされて、ようやく母国へ帰った。

帰国したのは最近のできごとだからよく知られているが、一年も経たないうちに暗殺された。なんでこうなるの?パキスタン人にしては、西洋的な美貌の持ち主で、父プット首相からの政治的な地盤、看板、かばんを引き継ぐ二世議員であるが、命がけだ。民衆の支持がないと政治家は続かない。身の危険を感じながら行動をする点では、日本の政治家と違う。

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このパキスタンも、イランも、イラクも、イスラム教を信じている人が多い。女性は顔を隠して、肉親以外の人は実際の顔を知られていない。パキスタンから来た男性は、4人まで妻を持てるという意識がある。それは第一妻が承認すれば、次の妻が持てる。それに養うだけの経済力があること、すべての妻を公平に扱うことが定められている。

6103_3 パキスタンは、イスラムのシーア派が多い。イランの人の方が、戒律をきちんと守る傾向がある。日本へ来て、西洋の自由を味わうと、ブタ肉はさすが食べるようにはならないが、お酒は禁を破って飲む人は出る。しかし、日に三度地面に頭をつけるお祈りはしなくなる。

プット女史は、イギリス人の夫を持っていたから、生活は西洋風になっていたようだ。ミャンマーで自宅軟禁されている民主化運動指導者アウン・サン・スー・チーさんと似ている。

女性がこう、逆境にめげずにがんばっていれるのは、何故か。女性しか、活動できない社会で、男性政治家はつぶされているのではないか。

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2008年3月 2日 (日)

満蒙開拓青少年義勇軍を知ろう

01_2 満蒙開拓青少年義勇軍といっても、知らない人が多くなった。大正生まれ、昭和の始めに生まれた人は、軍隊に入って戦うか、満州で開拓するか、それを政府は煽った。

この満蒙開拓青少年義勇軍の隊員になるには、茨城県に学校があって、所長には、加藤完治という有名人がなっていた。日本の発展の基礎は、満州にあり、「日本の生命線」と謳い上げていた。富士仰角( 2008年12月25日)さん、所長名の訂正、ありがとうがおざいました。

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01_3 農作業を知らない青年も、一年間教育されると、満州で土地を与えられ、働いてやっていけるようになると、今度は内地から嫁を呼び寄せる。そんなプランを描かれていた。嫁になる女性も写真見合いで、決まると単身満州に渡る人も多かったと聞いている。生活の必死さが、農村から脱出するきっかけにしようとした。

昭和19年、岐阜県美濃加茂市出身のSさん、この満蒙開拓青少年学校(内原訓練所)で一年間学んだが、赤紙が来たので軍隊へ入ったと語っていた。同期では満州へ行った人が多かったが、軍隊へ入ったSさんは房総で壕を掘って、米軍の上陸に備えていた、そうだ。農業手ほどきをうけて、戦後はずっと野菜関係の市場情報を扱う雑誌を発行していた。

戦前、田舎の両親の下にいることは、仕事がなく稼げないから、親不孝であると思う下地があり、政府、国家は国民に声を掛け進んで外地に行くように仕向けた。当時人口8000万日本人のうち、600万の人が外地で暮らしていた。日本は、朝鮮、台湾、樺太を領有して、大日本帝国は、「ああ一億の民」と言っていた。

C0051620_2112511 満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所(06.4) 参照して頂くと、当時の満州の荒野がまるで日本の領土として映っている説明文が掲載したある時代錯誤がある。靖国神社の思想だ。 

 満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所 義勇軍は重要国策の一つとして昭和12年11月30日の閣議決定に基づき、昭和13年1月設立され、昭和20年の終戦まで存続した。
 設立の狙いは、当時、、建国日浅い満州ー現在の中国東北部一帯に拡がる未墾の沃野に青少年を送出し、将来大規模経営の農業者を育成し豊かな農村を築きあげ、日満一体、民族協和の実をあげることにあった。

 
義勇軍の訓練期間は三ヵ年、そのほとんどは現地訓練であったが、このうち二~三ヶ月間基礎的訓練を行うためこの地に全国唯一ヶ所の内原訓練所が開設されたのである。
 敷地は40ヘクタール、三百余棟の日輪兵舎が林立し、常時数千人の若人が眉を挙げ胸を張り、とおく大興安嶺の彼方に夢を馳せながら此多に学んだ。その数8万6530名すべてが15才から19才迄の全国道府県で選抜された人達であった。
 訓練の傍ら義勇軍は、当時要請された食糧増産の為に各地の援農や奉仕作業に数多く参加した。
内原訓練所史跡保存会>(茨城県東茨城郡内原町)

青少年義勇軍を含む満州開拓移民の総数は27万人とも、32万人ともされる。ソ連の参戦でほとんどが国境地帯に取り残され、日本に帰国できたのは11万人あまりだった。ウィキペディア(Wikipedia)

洗脳は、オウムや某教団だけが行うものではない。国家が先頭にたって、指導者の都合のよい方向に国民を引っ張っていく。そういう時代は、いつでもある。その責任を誰も取らないから、各人で観察する必要がある。00008 

嗚呼 満蒙開拓団 岩波ホール盛況なり   シベリアの抑留日記  ソ連兵強姦の現実 手記 文藝春秋 怨みに徳をもって報いる 以怨報徳  戦後満州引き揚げ 故郷への道  牡丹江へ突入した避難列車の悲劇      社会保険庁の愚、旧日本軍の愚    戦争の記憶が薄れるご時世 3  戦争の記憶が薄れるご時世 2  戦争の記憶が薄れるご時世 1  

兵士たちの戦争NHKルソン島死闘  僕らの八月十五日  復員教師の人生観、厳しさ  1945年 終戦 五木寛之in平壌  被爆死体片付けた 広島高師の学生  語り継ぐ戦争体験  戦争の影響 疎開、食料など  従軍慰安婦問題 紹介ページ  日本軍の関与 集団自決、慰安婦問題  国定教科書の変遷  美しい国 命をかけた祖国  初年兵を死地にやった上官  ある憲兵の記録 日本人のDNA  

戦争を知る人たちの記録  ビルマの竪琴(竹山道雄)VTR見る  硫黄島からの手紙 映画館で見た  終戦 荒廃した国土 忘れるな  硫黄島玉砕 昭和19年(渡辺謙)  戦争体験を聞く 喉元を過ぎれば  講和条約 日本は占領されていた  戦争体験者マレー、シンガポール  靖国神社(18)0815    白骨街道 レイテ戦記 1  レイテ戦記 2  レイテ戦記3  

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2008年3月 1日 (土)

北島三郎 流しの時代と結婚

Photo 私の切り抜きが数十冊ある。その中には、世間で忘れられたような記事が載っていたりする。今回は、北島三郎の奥さん雅子さんが、北島三郎の流しの時代、結婚の経緯とそれを隠していた時代を語っている。

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4105102179 18歳で北海道の高校を出て、東京の音楽学校(今は閉校、東京声専音楽学校)へ入学して通っていたが、演歌の方に興味があった北島は、渋谷で流しをしていた。

そのころのエピソードを聞いた。演歌の流しには、ヤクザがもつ縄張り、シマがある。北島三郎、素人だったから知らずに流しの営業に行ってしまった。用心棒みたいな兄さんに連れ出された。そのズジの者数人に囲まれて、ケンカになった。流しの収入は3曲100円の時代である。当時、ラーメン一杯30円程度。と考えると、100円は今の2000円くらいだろう。

人間、実戦になってしまえば、腕力の強いのが勝ちだが、大抵ケンカの実力行使前に、言い合いがある。その時の威嚇し合いに勝つことが、ポイントだ。そのタンカをうまく切ること、これで相手をいかにビビらせることが大事だ。

今でも北島三郎は、そう大柄ではないが、何か威厳がある。若いころのサブちゃん、腕っ節も強かったかもしれないが、一番強いヤツを先制攻撃で押さえておいて、タンカを切る。これが一番の効果的な方法だ。そうすると、三下のヤッコさんたちはビビってしまう。有象無象が多そうな場合は、この方法が一番効果的である。

ただし、そうそううまくいくとは限らない。丸太ン棒で顔面を殴られて、歯を数本折ってしまった例もある。それでも戦うような根性がないとヤクザのうようよしている町では、流しをやっていられない。これは、うちの親戚で歌手をやっていた人の話。その人は、最高で8人に囲まれて、死ぬかも知れないと覚悟したとか。

Kitazima_3 北島三郎は、歌手になるんだという決意が強いから、先ず学校の近くで下宿しようと探した家は、普通の家の3畳の一間。その家へ訪ねていくと、出てきたのがそこの家の娘さん。現在の奥さん雅子さんだった。

3畳の間は、台所の隣りで、何かをつくったあと、北島三郎の部屋に持ってきてくれたんだとか。18や19でお腹がいつも空いているようなころは、ガツガツしてるわね。彼女から好きになったとも、サブちゃんから好きになったとも書いてないがね。結婚を申し込んだが、親が反対されて、最初のプロポーズは失敗した。

それでも、一回目の失敗にこりずに、そのまま交際は続いた。そうこうするうちにデビューして歌手になるが、最初のレコードは渋谷界隈ですでに歌われていた隠れた演歌、艶歌で、レコード業界の人が元歌を知っていて、歌詞を変えても、卑猥なイメージが付いて回るということで、発売中止になったと言われている。『ブンガチャ節』というのが、ソレである。

1962年に開かれた村田英雄の『王将』のヒット記念パーティーで歌手としての初舞台を踏み、その後の映画出演に措いても「兄弟仁義」等の東映任侠路線で多数共演した。このような縁から後年も村田英雄を先輩歌手としてよく慕った。また1962年6月、『ブンガチャ節』(作詞・星野哲郎、作曲・船村徹)でメジャーデビューしたが、レコード売り上げも芳しくなかった。 ウイッキペディアを参照

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2008年2月29日 (金)

一美さん銃撃殺人事件 東京地裁

011 私の資料新聞切り抜き(アーカイブス倉庫)に三浦和義の裁判で検事側が証拠が乏しくて有罪に持っていくのに苦労している点を記事にしている

この記事では東京地裁であるから一審である。

共犯がいることは、最近あまり伝えられていないが、一美さん射殺の犯人がこの記事では、三浦和義と同列に書かれている。アメリカでも当然知られているだろう。

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012 裁判に新証拠、新自白があるか、と問われているが、それがないと推測されている。日本での最高裁の無罪判決を勝ち取った点から、一事不再理の原則から、アメリカで裁判をするということに新聞も、テレビもいまいちはぎれが悪い。アメリカの裁判で、日本側のメンツは丸つぶれと思う面がある。

それにしても、日本では、加害者の人権は守って、被害者の人権が無視されるといわれるように、この最高裁が無実ではないが、無罪であるというヘンナ裁判判決は、最高裁は、何を考えているのか、どの判事がこんな判決を出したんだろう。日本人は、こういう判決が出ると、ひれ伏して、神のご託宣とでも思っているよう。間違いは、間違いと叫んでいいはずだ。

真実は一つ、三浦和義が元女優矢沢某女が自首して語った真実が生かされていない点、自白して語った内容で犯行が行われている点、当然アメリカ検察当事者はこれを踏んで、追及するんだろうが、人間としての正義を貫くことになるか、注目している。アメリカで再度、裁判するのは、いいのじゃないか。

古くから、この裁判を知っている人には、当然事件は知っているが、今40歳未満の人にとっては、新しい事件を聞くよう印象だろう。日本には、赤軍派のリンチ殺人事件、浅間山荘事件、近いのではオウムサリン事件、オウム一連の事件など、若い人の近代史無関心と関連して、興味持ってもらいたいものである。

私の個人的な見解であるが、「魔女狩り」で不審な人物を殺したヨーロッパでは、犯罪を犯すDNAを将来にわたって残さないことを行ったのかな、ともふと思う。死刑でなくてもいい、遠島でも、流刑があってもいいかな、と考える。00008_2 

三浦和義事件 事件の復習  一美さん銃撃殺人事件 東京地裁

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