« 娘たちのちいさな家出 経験で育つ子供 | トップページ | 韓国ドラマ“イサン” ソンヨンが王の側室に »

2012年8月26日 (日)

「新撰組」吉村貫一郎の生き様、死に様


000「新撰組」など、乱暴な幕府御用警察じゃないかと思いつつ、「壬生義士伝」DVDを見ていたら、その中には人間模様もあるし、派閥争いもある。固定観念でとらえると、食わず嫌いは治らないが、いい作品はそれを打ち破る。

んだら クリック」よろしくね!
   ↓   ↓   ↓   

人気blogランキングへ 今後とも、継続的に追読して頂けると、嬉しく思います。 
ブログ村

024 幕末の京都、壬生で誕生した新撰組。そこへ一人の男が入隊してきた。
 盛岡の南部藩出身の吉村貫一郎(中井貴一)だ。免許皆伝の彼は、永倉新八(比留間由哲)と腕試しを近藤勇隊長(塩見三省)に指示される。
 そのとき沖田総司 (堺雅人)から「真剣でやってみたらどうですか」と声をかけられ、下手したら死んじゃう状況に追い込まれる。そんな場面で命をさらすのが新撰組だ。「刃挽きしているから大丈夫」と付け足す。039_5

 真剣でむきあって、吉村貫一郎は永倉新八に一歩も引けをとならにで、闘ってみせる。しばらく二人の試合をみた近藤勇が「そこまで」と止めるまで、真剣勝負を続けた。「吉村君、隊の師範をお願いする」と、取り立てられる。「柔和な言動に反して、吉村の剣は何人も人を斬ってきたような剣だ」と斉藤
一(佐藤浩市) がつぶやく。
 貫一郎は、酒席で「国は南部藩で、いいところでござんす。お見しりおきを」と隣あった斉藤一に挨拶しても、知らん顔。「この田舎侍」とイジメの対象に思い「しばらく人を切っていない」と斉藤一は思って。「帰りは送ってくれないか」と貫一郎を雨の中で切り捨てようとしたが、五分の戦いで切れない。「冗談だ。腕を試しただけだ」という斎藤に、貫一郎は「こういう冗談はこれきりにして頂きたい」という。

 「隊員はみな、幕府の旗本になれる」と、近藤隊長が訓示でいうと、吉村貫一郎は喜ぶのはいいが、
117「それで、お手当てはいかほどになるのですか?」
 当時としては、武士が銭金のことを言うのはいやしい、と思われた時代に、他の隊士に笑わるのを意に介せず、かれは処遇、つまり給与について聞いた。土方が、書類を調べて「貴兄は、400俵になる」と教えると、
 「先生方のおかげです」と平身低頭。この吉村は何かにつけてお金を欲しがり、金に汚いと思われたが、一向に意に介するふうではない。
 隊長の近藤勇も一目置く斉藤一は、そんな吉村貫一郎を田舎侍とバカにした。命知らずの新撰組の雰囲気の中にあっても、なぜ吉村はそんなに命を惜しがり、そしてお金に執着したのか?吉村と斉藤の性格は反対であったが、斉藤は徐々に吉村に興味を持つようになる。やがて、時代の変革の波は新撰組にも覆いかぶさってきた…。
126

 新撰組内で何があったか、多少の予備知識のあることを前提に話が進むから、ストーリーが端折られている。
 伊東甲子郎が近藤の新撰組と別れ、勤皇派の別団体を作る。勤皇衛士に取り立てられると、新撰組から旗本になった場合の倍の手当てになると誘う。腕の立つ吉村貫一郎(中井貴一)と斉藤一(佐藤浩市)に誘いをかける。
 吉村は「一度主君を裏切ったから、もう裏切れない」と断る。カネに転ぶと思った吉村の意外な印象を斉藤はうける。
 斉藤一は、近藤に指示を受けていた伊東一派にもぐり込む。伊東らは近藤と土方の暗殺計画を立てる・・・・。斎藤は伊東に味方している振りして、近藤らの命を受けして、伊東一派の粛清暗殺して、近藤のもとに戻ってくる。
それを吉村貫一郎(中井貴一)の目を通して描く。

 そのころから、時流は徳川方に不利になり、新撰組も鳥羽・伏見の戦いで敗れ123て、落ちのびていく。薩長に追われる吉村貫一郎は、新撰組本体とはぐれ、血まみれで、脱藩した盛岡藩の大阪藩邸へ頼っていく。そこの留守居役、幼馴染で親友の大野次郎右衛門にすがる。
 しかし、いくら親しい友であっても、藩の運命にかかわる救命はできない。
 大野は、「切腹」を言い渡す。
 腹が空いているだろう、と握り飯を作ってやり、差し入れるが、匂いはかぐが食べない。刃こぼれした刀では切腹はできないと大野は刀を差し出す。翌日までに切腹しないと、盛岡藩の運命に影響する。
 死を覚悟した吉村貫一郎は、もっていたカネを故郷の息子や娘に残し、差料は使わなかったからと血ぬりの文字で書き遺し、翌朝、吉村は死んでいた。死にざまについては、ここに詳しく書いてある。←クリック

吉村 貫一郎(天保11年(1840年) - 慶応4年1月3日(1868年1月27日))。
盛岡藩出身。新選組諸士取扱役兼監察方及び撃剣師範。北辰一刀流、新0001_2当流。ただし盛岡藩に吉村貫一郎という人物の記載は一切無く、嘉村権太郎が本名と推測されている。
慶応4年(1868年)正月、鳥羽・伏見の戦いに参戦したが、戦死したのか、脱走したのか、以後の消息は途絶える。御香宮の戊辰東軍戦死者霊名簿には「正月六日淀ニ於テ戦死 諸士調役 嘉村権太郎」とある。 また、嘉村家の過去帳には「明治三年一月十五日没」とある104
という。
 鳥羽・伏見の戦いの後、新選組が大阪を離れている事を知った吉村は路頭に迷い盛岡藩邸に帰藩を願う。差配役の大野次郎右衛門は武士にあるまじき行為として切腹を申し付け、盛岡藩邸の中で切腹して果てた。切腹した部屋には、二分金十枚と紙切れが置いてあり、紙切れには家族への送金を願う文が記してあった、という。但し、大野次郎右衛門なる人物は架空の人物であることがわかっており、また、妻子も見つかっていない。

んだら クリック」よろしくね!
   ↓   ↓   ↓   

人気blogランキングへ 今後とも、継続的に追読して頂けると、嬉しく思います。 
ブログ村

|

« 娘たちのちいさな家出 経験で育つ子供 | トップページ | 韓国ドラマ“イサン” ソンヨンが王の側室に »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 娘たちのちいさな家出 経験で育つ子供 | トップページ | 韓国ドラマ“イサン” ソンヨンが王の側室に »