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2012年7月11日 (水)

平治の乱で公家藤原信頼(塚地)名演技

014 NHK大河ドラマ「清盛」平治の乱で、公卿藤原信頼を演じた、ドランクドラゴンの塚地武雅、お笑い芸人が起用されていた。
 彼の演技か、地か、よくわからないが、平安時代の公卿のイメージを完璧に表現されていた。あんな愚かしい表情を公卿がしたか、そりゃわかりませんが、政治を行う能力を失いながら、権謀術数だけは長けている姿は、あの時代をよくあらわしていた。

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 反信西派が形成されたことが、平治の乱の原因である。
 信西一門・二条親政派・後白河院政派・平氏一門というグループがそれぞれ形成された。『平治物語』では、藤原信頼が“近衛大将”を希望したが、信西が断ったために確執が生まれた、とする。しかし『愚管抄』にはその話は書かれていない。院近臣の身分で“近衛大将”に任じられるのは常識的に無理なことから事実かどうかは疑わしい。
 信西一門の政治主導に対する反発が、平治の乱勃発の最大の原因と思われる。二条親政派と後白河院政派は互いに激しく対立していたが、信西の排除という点では意見が一致し、信西打倒の機会を伺っていた。一方、清盛は自らの娘を信西の子成憲に嫁がせ、信頼の嫡子信親にも娘(後の藤原隆房室)を嫁がせ、両派につながりがあり、中立的立場にあった。平治元年(1159年)12月、清盛が熊野参詣に赴き、京都に軍事的空白が生まれた隙をついて、反信西派はクーデターを起こした。

Wikipedia 参照

「平治の乱」の前に行われた「保元の乱」では、崇徳上皇方は総崩れとなり、総大将の藤原頼長(山本耕史が演じた)は、怪我がもとで死に至る。そして、新体制は勝者となった後白河天皇は、まもなく、息子の二条天皇に皇位を譲って後白河院政を敷き、政治の実権を握る。
Icon1569919082973122579__1_bigger ここで力を持ったのは、後白河上皇を助け、権勢を奮ったのが信西(しんぜい、藤原通憲、阿部サダヲが名演)藤原一族であるが、 藤原主流派とは違う家柄である。彼は、藤原主流の能力のない家柄だけで出世する世を変革しようとしたので、清盛もその意気を感じて、平家としても信西についていこうとした。

 ただそうなると、信西の改革は、今までいい目を見てきた「旧保守」藤原主流には好まれないのは、当然である。

25 『平治物語』によれば、信西の頭脳は「当世無双の宏才博覧なり」、『愚管抄』でも「学生抜群の者」と評価されている。NHKの「清盛」でも宋から使わされた使者と中国語で会話を交わせるシーンが挿入したあった。語学力もあり才能は抜群。

 そんな信西は、権力は強まり、「保元の乱」の論功行賞や今までの人事とは違うやり方をする。ただ、信西は、行政改革、内部の改革のつもりだったが、ただ信西の思い通りにされて、おもしろくない勢力が、信西の追い落としを考える。それが、藤原信頼(ドランクドラゴン塚地武雅の役)である

 若い時は後白河天皇と男色関係にあったと噂される藤原信頼である。
 源義朝も平清盛も、保元の乱では後白河天皇側について、勝利した武士であったが、しかし、現政権の中心人物信西は、源義朝より平清盛のほう重用した。源義朝が出世できていなかった不満を感じていた。さらにそこに、二条天皇の側近たちが加わる。

Ws000004 こうして、二条天皇の側近+藤原信頼+義朝の反信西グループが、現体制打倒で結集した。ちょうど、清盛一行が熊野詣に出かけたスキを狙って、平治元年(1159年)12月9日、クーデターを決行。
 後白河上皇のいた院御所・三条殿を襲撃して、後白河上皇の身柄を確保、その三条殿に火をかけた。さらに二条天皇のいる内裏へと向かい、ここで、天皇と上皇を拘束した。これが平治の乱である。

 藤原信頼や義朝が三条殿を襲撃した時には、すでに信西は逃げたあとだった。
 信西は、清盛がこの異変を聞きつけて熊野から引き返して来る到着するまで、時を稼ごうとして、自らの所領のある宇治田原へと逃げた。宇治田原に到着した時、すでに藤原信頼派の追手が、すぐそこまで来ているとの知らせだった。
「もはや逃げ切れない・・・」と悟った信西は、コレは有名なシーンであるが、
 従者に穴を掘らせて、その中に入り、節を抜いた竹筒を穴の外へ出して生き埋めにしてもらい、即身仏になるべく隠れたが、従者がすぐに追手に捕まり、信西を埋めた場所を白状してしまった。
 信西は、やむなく、刀を取って自害、時に平治元年(1159年)12月13日、信西・54歳の冬。

「保元の乱」では藤原頼長が死に、「平治の乱」信西が死んだ。体制を変革しようとした中心人物が、二人とも、道半ばにして倒れた。体制を変えようと権力を握って、保守体制の有象無象を相手に仕事を進めたが、その体制側の策謀で失敗した。
 今の「官僚体制を打倒!」というスローガンで「民主党政権」を樹立したが、保守三党合意をして、官僚主導の政権に戻った現代に似ている。いつの時代も、一歩進んで一歩か、一歩半戻るのが、歴史の示すところだ。

 このあと、清盛政権は、公卿の政治から一線を画した新しい体制になる。これは、藤原頼長の改革、信西の改革を参考にして、あとは、清盛の知恵が現れる。

007  最初の知恵は、源義朝(頼朝、義経の父)の白軍に戦いを挑むのであるが、赤軍の清盛は知恵を働かせて、すぐには義朝軍を攻めずに、宴会を連日おこなって、油断をさせた。
 004
囚われの天皇と院への忠誠書(名簿)を提出して、天皇の意のまま忠誠を誓うと奉書を提出した。
 次に、平家へ参謀となっている藤原信頼と謀議をした平家ゆかりの公家がきた。「意ならず、向こうへ加担しているが・・・」と、もし平家が勝った場合の保険をかけにきた。

 清盛は、二人を脅して、天皇と院を脱出させて、六波羅(平家の陣)へ脱出を仕組んだ。この計画が成功するまでは、一切源義朝軍には手出しをしなかった。院と天皇が六波羅(平家の陣)へ脱出したのを見て、「源義朝は逆賊である」という名分ができて、大いに官軍風を吹かせ、一気呵成に攻撃を開始した。清盛の老獪さが出ている。人間老獪出ないと歴史が動かない。民主党にはこれがたりない。

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コメント

信西は、行政改革、内部の改革のつもりだったが、ただ信西の思い通りにされて、おもしろくない勢力が、信西の追い落としを考える。それが、藤原信頼である。

投稿: ドランクドラゴン | 2012年9月25日 (火) 22時20分

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