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2012年6月13日 (水)

心に刺さったトゲ 母のネグレクト

姜 尚中(カン サンジュン)さんの『母』を見ると、在日の苦労を立派な息子に結実させたと思う。在日朝鮮人として、いやな思いをたくさんしただろうが、母と息子の間には情愛が流れている。たぶん、母オモニからイヤな思いをさせられたことはないだろう。

 世の中には、母親のネグレクトに苦しんでいる人が、意外と多い。そういう人は自分一人が悩んでいると思いがちだ。
そんなことはないと知ってもらいたい。仲間はいる、との思いで綴ってみた。本来は書くべきではないかもしれないと、思いつつ・・・。
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 高校生のとき、学校から帰って机に向かってみると、机の下の秘密の箱が壊れているように見えた。引き出しの後ろに隠し扉を作って、日記帳やいわゆる●な××などを隠していた。鍵をつけておけば、誰も見ないと思っていた。秘密の吐露ができる日記帳が唯一の語り相手であった。

 好きな子のこと、体の変化とか、親への不満とか、おっぴらにいえないことを書いて・・・・「王様の耳はろばの耳」と似たような、心の叫びを書いていた。コレは誰も見せたくなかった。その秘密を荒らされていたのだった。そんなことをやる人といえば、・・・・。血のつながらない親である。

 彼女は、オカネがなくなったと疑って、私の学校へ行っている間に、秘密基地の引き出しを鍵をそのまま、全体を壊し中を点検したのだった。これを見ていた間貸ししていた時計修理工Mさんだった。私が学校から帰ってくると、早速教えてくれた。私のことを心配してくれたのだろうが。

 自分の親にこのように疑われて、裏切り行為を受けて、傷ついていたが、それを言っては、私は家にいることができないから、コレは我慢するしかなかった。これを、「なんでこんなことをするんだよ!」と叫んで、親に向かって戦いを挑むことができれば、どんなにかスッキリするだろう、と思った。

 なさぬ仲の苦しいところである。
 コレが生みの母であるなら、一旦けんかになっても修復できるだろうが、後妻として私の上に君臨する形の母には、その文句をいう自由がなかった。彼女との間が不穏な関係になったら、高校の授業料はおろか、食事も出ないことになる。そのくらい我が家の関係は厳しいものであった。

 二階で勉強など夜遅くまで電灯をつけていると
「もったいない。財産が減る」
と、階下でブレーカーを抜いて、電気を止めることをやる気の強い人である。こんな親を親といえますか?勉強をしていてほめられる家庭ではなかった。

 高校生活をあと一年と少し我慢をして耐えてれば、この家を出て行けると思っていた。事実「ここは私の家だ。早く出ていけ!」と、事あるごとに、子供たちに向かって、後妻の母は、平気で言う人であった。
 再婚の条件に、父が母の名前で登記した家であったので、そういうことが言えたのである。40過ぎで再婚しようとすると、子連れのコブつき男には、女はそんな家にヨメに来ないということだ。そのため、父も、40代で妻を失った男には、女の歓心を買うにはそんな手しか・・・。

 「ここは私の家だ!」
 母は、機嫌が悪くなると平気で叫んだ。女の本性を見せられて育ったので、女はいざとなると、こんな具合になるのだ、と幼いころから思いしらされていた。私たち子供は、母名義の家に厄介になっているという、そういう頭で母はいた。

 私がイヤな思いをしているだけでなく、姉も、弟もつらかったようだ。年頃になって、生理で汚れたものを洗ってくれる母ではない。それを見えないところに隠しておいたのを引っ張り出し、それを人様の目に触れるようなことで、いじめているとしかいえないように泣かせていた。
 進学しないのを不思議がって、担任も家庭訪問をしてくれたのに、ガンして進学をさせなかった。M電機にタイピストとして就職し薄給なのに給与をもらうと、家には大半を入れさせられた。
 40年後、母は最後この姉に見てもらうことになり・・・、姉に仕返しされると思って・・・が多く、臨終に際して、きっと子どものころ、姉をやさしく面倒をみておけばよかった、と思ったにちがいない。 

 母は、私の大学へ行くのも大反対だったが、
「行ける子は行かせてやりなさい」
 と近所のTおばさんが説得してくれ、ギリギリになってようやく納得してくれた。大学に入ってからも、この親から学費を出してもらうのには、並大抵ではなかった。最初の入学時納付金4万2800円、東京のおばが立替て、払っておいてくれたから助かったが、一日遅れであった。
 そのころ、学費を出せるだけの家の経済状態がよくなったのではあるが、普通の親でないから、毎月何度も仕送り請求のハガキを出し、電報まで打って、ようやく母ではなく父からぎりぎりの金額を送ってもらった。それでも、ほかの兄弟よりは恵まれた。
 そうなるため、「母の日プレゼント」とか、帰省のたびに手土産は欠かさなかった。涙ぐましい努力を尽くした。家へ帰ってきた日は、外出しないで、東京の土産話を両親に話すようにした。それが一段落するまでは、友人に会いに行くのを控えた。

 このころから、母親との折り合いがよくなってきた気がした。
 過去のことをぐちゃぐちゃ言えば、不快になるに決まっているから、それは飲み込むことにした。私自身が、母と争わないこのパターンを身に付けることで、母親の性格が変わるわけではないが、マルく収まることに気づいた。

 家に残った弟は惨めな暮らしを強いられて。特に食い物は悲惨であった。弁当を持っていくにも、冷や飯の上に残り味噌汁の実を載せて、弁当としたというからすごい。コレは後から聞いて、ひっくり返った。

 母は、子供の洗濯物は洗わない。親と子は食べ物が別など母の所業は、人様にいえるようなものではない。死んでしまった母を悪く言っても仕方ないが、このことを知って、今苦しんでいる若者の助けになるかもしれない。今、もう、私は「恩讐の彼方」と言う気持ちであるが、それ(親を憎む気持ち)が抜けられないといつまでもいつまでも、トゲは抜けない。

 ただ、時々、親から教えられなかったもの、(常識に)欠落したものにぶつかることが、ときにはある。そのとき、私が5歳のとき亡くなった生みの母を思い、40年つきあった育ての母を思出だす。私自身、多少の性格上の「難」があると感じることがある。自分の半生には、多くの積み残しを感じる。

 しかし、それは誰にでもある。そう割り切って、反省はしても悩まないことにする。引きずらないこと。それは、個性だ。
 
お坊ちゃまで育った人でも、奇妙な発想をして『宇宙人』といわれて、かえって巷間の人とはちがうようになることもある。口に出さなきゃ、普通に人に見える。これを「語たらざれば、憂いなきに似たり」と五木寛之も言っている。


語らざれば、憂いなきに似たり 五木寛之 -
母と私の絆『昭和』に決別
第五福竜丸のマグロを食べた家 2007.03.07
幼い子を孤独にしてはいけない: nozawa22
太平洋戦争私の失ったもの
おとなの知恵で、丸く治まる: nozawa22

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コメント

「語らざれば、憂いなきに似たり」と、静かにがんばる人へ。
 http://youtu.be/yf6J_thlEbQ
  「笑って笑って 」奥華子
♪笑って笑ってあるいていれば
♪何処かであなたが待っている
♪笑って笑って愛を探して
♪あなたのもとへゆこう

同じ経験をしていないと、気持ちがわからないことは多い。語る気持ちをきくと、わかることは、多い。わかる仲間をつくると心強いと思う。
すっぱ様
 奥華子という歌手は初耳です。非登校とか、そいういうテーマを歌っているのでしょうかね。

投稿: すっぱ | 2012年6月17日 (日) 08時29分

奥華子は、
【1978年生まれ。千葉県船橋市出身音楽大学器楽科(トランペット)卒。5才でピアノ、9才の時にトランペットを始める。2004年2月からキーボードと歌だけの路上ライブかを始める】
という人です。
「笑って笑って」は、
【この曲は路上ライブを始めてからできた曲で、電車から降りてくる人を見て、みんなそれぞれの思いで、それぞれ抱えながら、一生懸命生きているんだと思いました。”笑って笑って”・・・なんでもない言葉だけど私が歌いたいものが詰まっています】
だそうな。
音楽ディレクター曰く、
【唸るほど歌が上手い訳ではない。でも、歌い始めた瞬間、街行く人は思わず足を止め、聴き始めた瞬間、切なさ、懐かしさ、涙、愛する人、あの日の思いで、生きるということ・・・たくさんのことを考える。そして、心が少しキレイになった気分になる、奥華子が丁寧に紡ぎだす世界は、痛いほどやさしい。僕も彼女の魅力にとりつかれてしまった一人です。かみしめられる音楽、皆が歌える音楽が少なくなりつつある中、「歌力」のある彼女のそれは、きっと多くの人にとって宝物になると信じています】
だそうな。
テレビであまりみないから私もこの曲しか知りませんが、ラジオで番組をもっていて、トークもおもしろいシンガー。

投稿: すっぱ | 2012年6月20日 (水) 16時45分


語らざれば、憂いなきに似たり 五木寛之 -
母と私の絆『昭和』に決別
第五福竜丸のマグロを食べた家
幼い子を孤独にしてはいけない:
太平洋戦争、私の失ったもの
おとなの知恵で、丸く治まる:

投稿: 育ての母 | 2012年9月 7日 (金) 23時24分

 五年ぶりにコメントいたします。
 野沢さんのブログになんども救われていました。いまでもネグレクトの傷は癒えませんが
「語らざれば憂いなきに似たり」を思い出しては、人に語って同情を買うことはなくなりました。
 いまは「人間万事塞翁が馬」を心において
人生は終わるまで分からないと感じます、
だから今をただ生きています。
 野沢さんもきっと心安らかでありますように。

 明日香さん
 お元気でしたか。
 ほんとに元気なのか、と何か、気になります。私はサンマと同じ誕生日で、彼のいう「生きているだけ、まるもうけ」で、イマルと名付けたという発想が気に入っています。

 元気のないときは、引きで人生を見ると、意外と効果があると、思っています。
 「引き」で見るというのは、幽体離脱と同じで、自分の人生を別の離れた場所から「苦労している自分」を見ているわけで、「おう!やっとる、やっとる。もうちょっとすると、峠を越せるぞ!」と遠景を見て教えてやれる。
 基本的には、人生はいいことと悪いことの半々だと思う。スターになって華やかなことができるのは、抽選で当たるようなもの。
 例えば、人口500人の同級生の中で、(例えば)スターは一人要る?ましてや10人もいらないでしょう。その割合で考えると、一万人に一人しか光は当たらない、と私は思っている。
 「人生とは重き荷を背負って、遠き道を行くがごとし」と徳川家康は言っている。実に見事に核心を突いた箴言だと思う。店主

投稿: 明日香 | 2017年10月 2日 (月) 22時23分

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