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2012年6月29日 (金)

新・平家物語(吉川英治)公卿、武士、僧侶の戦い

Heike100 主演市川雷蔵と久我美子
 新・平家物語、主演市川雷蔵が清盛で、1955年昭和35年公開DVDを借りた。金町中央図書館のめぼしい作品はほとんど見てしまったから、今回借りたのはちょっと古い。図書は多いが、DVD作品は、1作品で図書10冊分購入金額になり揃えるには大変だろうと理解するが、作品数が少ない。  

 新平家は三部作で、これが第一部、監督溝口健二。次が新・平家物語 『義仲をめぐる三人の女』(監督衣笠貞之助)、次が『静と義経』(監督島耕二)となっている。監督がそれぞれ違う。

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第一部新・平家物語には、副題はない。現在NHK大河ドラマ「清盛」と比較して、娯楽色が強い。わかりやすくして、多くの人の興味をひこうとする意図が見える。

平清盛(きよもり) - 市川雷蔵: 平忠盛の嫡子。
時子(ときこ) - 久我美子: 貧乏貴族の娘。清盛の正室。
藤原時忠(ときただ) - 林成年: 時子の同母弟。
平泰子(やすこ) - 木暮実千代: 清盛の母。
  元・祇園の白拍子。白河上皇の寵愛を受けていた。
平忠盛(ただもり) - 大矢市次郎: 清盛の父。
朱鼻の伴卜(あけはなのばんぼく) - 進藤英太郎:

018_2   保延三年の初夏。平安京。西暦でいえば、1137年。今から八百七十六年前である。平忠盛が、西海の海賊征伐から凱旋してくるメーンストリート朱雀大路を、数百の武士の列が、行進してゆく、先頭の槍に敵将の首がくくりつけてあるのは、戦勝の帰途であることを示している。都の賑わいと雑然としたシーンから始まる。

彼らは、白河院に赴いて、西海の海賊征伐の大勝利を戦況を報告し、戦利品を献上した。忠盛は、その戦について鳥羽上皇に奏上することがあるから、拝謁を許されたいと頼み入った。鳥羽上皇の執事別当は、一蹴した。
「武士の身分で、上皇に直き直きお言葉をかけていただこうなどとは、以ての外の僭越である」

022  父忠盛の傍にいた二十才の清盛は、はげしく怒りに震えた。
 今度の遠征は、上皇のご命令である。長い間、家の子郎党は、苦労をかさねて、はげしい戦斗に勝って凱旋したのである。戦死者も数多く出ている。それに対して、「御苦労であった」とねぎらいの一言くらい、かけて下さるのが、本当ではないか。清盛は、執事別当に詰めよろうした。穏和な父忠盛は、それを押さえた。

 その夜、今出川の館にかえった忠盛は、清盛をすぐに、よびよせて、乗馬のうちの一頭を売り、酒にかえて来いと言った。
 鳥羽上皇からは、戦功に恩賞がなかったので、忠盛は武士にとって大切な乗馬を売って、家の子郎党をねぎらおうとするのである。清盛は、父の心中を思いやり、悲憤の涙をこらえながら、酒を買って来た。

 027 宴はひらかれたが、郎党たちは、忠盛の心中を思いやって、一言も発しない、一せいに口にするのは、鳥羽上皇に対する不平不満である。上皇の周囲にいる公卿に対するはげしい憎悪である。
 清盛は、彼らの間に割って入った。
『泣き言をいうな。・・・お前達の不平不満はしょせん、俺達に、まだ力がないからだ。俺達は、たとえてみれば、地の草だ。まだ、芽は見えないが、春が来れば、芽をふくのだ。・・・今は冬だ。春を待つのだ。さ、うたえ うたえ』、
 そういう清盛の頬にも、痛憤の涙が流れている。

 当時の政治と社会の情勢は、平安京に都が定められてから、三百五十年も過ぎ、宮廷での威勢を誇り、政治上の要職を独占していた藤原一門の「貴族政権」は行き詰まり始めていた。
 高い文化をほこりながら、太平安逸をむさぼり、日夜遊び暮らす生活からは、国を治める強いエネルギーは、生まれて来ない。地方では、中央政治の弱体に乗じて、実力を持つ豪族が、しきりに土地をうばい、税金を横領し、公然と反抗して来る。
 また、延暦寺、園城寺(三井寺)といった旧来の仏教団体も、荘園の大地主が僧兵の武力を背景に政治に横車を押し、町の秩序が乱れ、騒然としていた。

  藤原一門の貴族社会のリーダーも、政治上の地位と私有財産を守るために、自分たちには武力がないので、武士を登用することになった。歴史上、武士が大きな存在として、クローズアップされて来る。それが、平家と源氏の誕生である。
 それに加えて、白河法王による『院政』の開始である。退位した天皇が上皇と呼ばれ、権力を保持し続け、現天皇をないがしろにした。退位したのち仏門に入ると、法皇と呼ばれる。上皇、法皇を共に「院」とよぶ。

031  国税がとれない延暦寺などの宗教団体の私有地が大きくなり、国の財政を圧迫していた。平安時代も、現代に似たような悩みがあった。
 時の(藤原一門の)政権は、国の財政を建て直そうと、不当な土地の私有を禁じようとした。若い新米天皇の力では、政治運営は出来ないから、老練な天皇経験がある「院」が朝廷を指図して政治をとることが多くなった。これが「院政」の始まりである。

 現代でいえば、当選回数の若い議員が多い民主党や議員数の少ない自民党では政治がうまく運ばないので、各省庁の官僚が政策を立案して、実行させるようなものである。消費税を野田首相の進言して行わせるのも、「院政」に近い。「八ツ場ダム」継続、原発再稼動など、大きな政策は、現代の「院政」各省庁の官僚が進めている、と言っていい。

 天皇が、幼少であれば、問題は起らずにすむが、今、鳥羽上皇の御子崇徳天皇は、二十才近い青年で、上皇との間にはげしい感情的対立が生まれ、いさかいの兆候が現われていた。

 「院」が、強力な政治を実行するに当って、やはり、武力が必要なものであった。社会情勢が、相当険悪になって、武力のない貴族では解決がつかない。どうしても武力を持つ武士の力を利用しなくてはならない。
 
当時は、血統と身分を重視し、身分制度が厳しく、殿中に上がれる「殿上」人と「地下」人に区別された。五位以上のものは、昇殿が許され、それ以下のものは地下人とされた。現代社会でそれを探すと、国家公務員のキャリア組、代議士で先生と呼ばれる人が、平安時代の「殿上人」に相当する。

 清盛の母、泰子は、藤原一門と血のつながっている中御門家から、忠盛に嫁いで来た。どうして、若く美しい泰子が貧乏武士の忠盛にとついだのか、不思議に思う人が多い。024
 泰子は、その生れつき、派手で見栄坊であった。粗野な武家ぐらしをきらいながら、二十年間すごして来た。子供も、清盛をはじめ、経盛、教盛、家盛と、四人もある。しかし、交際するのは、いつも藤原一門で、実家へ帰って、家をあけることが多く、世間並の妻や母とは、大分ちがう。父忠盛は、妻泰子と時にいさかいもするが大した不平も言わず、なすがままにさせている。清盛は、それが、歯がゆくてならなかった。

030 一日、清盛は、父の言いつけで、西七条の兵部権太輔藤原時信の邸へ使いに行った。
 藤原一族でも、時信は正義派の老人であった。今度の平忠盛の西海への遠征とその勝利に、命じた鳥羽院から何の恩賞もなかったことに、「院」に抗議したものだから、貴族社会上層部にきらわれ、逆に「謹慎」を命じられていた。この一件で、閑職「図書寮の役人」に左遷された。父忠盛は、それを申しわけなく思い、清盛に詫びの書状を持たせてやった。

049  時信の住居は朽ち古びた建物であり、庭にひいた水で、若い娘が、糸を染めていた。快活に働いていた娘を婢女(女中)だと思い、清盛は、横柄な口調で取次ぎを頼んだ。
 また、「その糸で衣服を織ってくれ」と気軽に言った。その娘は、微笑しながら、主人の時信へ来意を取り次いだ。

 案内された座敷へ、酒肴をはこんで来た美しい娘をみると、さつきの庭で染物をしていた婢女である。
048  清盛は、さっきとは違い、時信の前で小さくなっていた。
 時信は、「娘の時子です」と、紹介した。
 時子はおかしそうに、その清盛を見たが、その目には清盛の直情な正直さに対する好意が見えた。
「布の織るのは趣味ですか」と清盛が聞くと、
「糸を染めて、衣服を織るのは、貧乏公卿の家計をたすける一助です」
 時子の女らしからぬ実行力に、清盛はすっかり感心した。

006  NHKの大河ドラマ「清盛」とは、吉川英治の「新。平家物語」では、創作が加わっているから、時子の出現が最初から出ている。清盛も、先妻を亡くしている史実は出てこない。

 その帰途、清盛は、時子の弟時忠と知り合い、二人で都の裏町、わんわん市場に行った。ここは生活力のたくましい庶民の群が、むき出しのままの生活をさまざまに展開している。
 「ここには、強盗も人殺しもいるかも知れんが、食べていかれれば、みな笑ってくらしている。広大な領地をかかえて遊んでいる公卿や坊主たちのほうがずっと悪党だ」 清盛の言葉に時子の弟時忠はうなづいた。
 
 その時、鳥羽上皇に仕える遠藤光遠という武士と鼻の赤い町人(五条の伴卜)が進み出て、清盛に「一献さしあげたい」と近づいてきた。
 父平忠盛が西海の海賊を心服させたと知ると、早速、伴卜は、西国はおろか海外まで、商売の手をひろげ、貿易をしようと、まず清盛に近づいた。伴卜の家の酒盛で、交友を深めた。

 清盛は、光遠と伴卜二人から、思いがけないことをきいた

 それは、清盛の出生の秘密についてである。
 母の泰子は、かって故白河法皇の寵愛をうけていた祇園の女御であった事実を告げられた。清盛の真実の父は、白河法皇か、さもなくば、・・・かも知れぬということである。
 清盛は、内心の衝撃に耐えながら、夜の道をわが家へとって返した。
 『俺の父は誰だ?』
 家に帰りつくと、忠実な老臣木工助家貞をたたきおこして、庭の闇にすわりこみ
 『爺よ、俺は誰の子だ。ほんとうのことをおしえてくれ』
 家貞が語ったのは、次のようなことである。

 二十年前、祇園の社の近くに、瀟洒な住居をかまえる美女がいた。法皇の寵姫と知って、誰いうとなく、祇園の女御とよんでいたが、法皇がお忍びで、祇園の女御に通うお供は、忠盛と従臣の家貞だった。
 ある夜、法皇の訪れと共に、女御の住居から逃げ出した怪しい僧侶があった。そのことを知った法皇は、荒々しく女御をののしり、引き止める女御をふり切って帰った。
 その途中、忠盛は、法皇から「女御を妻にするように」言われたのである。忠盛のもとへとついだ法皇の寵姫、すなわち泰子は、やがて、男の子を生んだ。それが清盛である。これだけのことでは、清盛が、白河法皇の子であるとも、悪僧の子であるとも、言い当てることはできない。
 『爺、正直に言うてくれ。』
 家貞は、清盛を寝間につれてゆき、言った。
 『和子
ワコ、真の父御が誰であろうと、和子は、まちがいなく一個の男子ではおわさぬか。心を太々とお持ちなされ。天地を父母と思いなされ』

 翌朝、泰子は、忠盛にこの家を出ると言い出した。
 昨夜、清盛と家貞の話を、泰子は、はからずも耳にして、耐え難い屈辱と憤りをおぼえたのである。清盛は心から詫びをいい、
「せめて、小さな子供たちのためにも思い止まってくれ」とすがったが、気位の高い泰子は我慢できなかった。
 「母ならば、自分の父が誰であるか知っている筈だ、子の悩みを解いてくれるのが当り前だ」と、清盛は詰めよったが、泰子は、怒って、つと立った。父忠盛は、無言である。小さな弟達が、「行かないで下さい」とすがるのもふり切り、牛車で去ってしまった。

054  僧徒の暴動
 その直後、加賀の国白山寺が廃寺となった上に、失火のため焼けてしまったので、院では、その領地をとりあげ、国の所有にしようとした。ところが、白山寺は、比叡山延暦寺の末寺であることから、領地は、当然延暦寺のもである、という訴えをおこし、白山寺の僧徒達も加わり、暴動を起こした。忠盛は『院の命令』をうけて、それを鎮圧すべく出発したが、清盛は同行することを拒んだ。

058 『もう、公卿や坊主どもの土地の番犬になるのはいやです。』
 『院直き直きに、ありがたいお言葉を頂いたのだ。その思召しに背くのか』
 その時、清盛は、口惜しげに、叫んだ。
 『上皇が、父上を御寵愛あそばれるわけが、やっと判りました。(
鳥羽)上皇も、祖父白河法皇が寵愛された藤原璋子をお后にされ、そのお腹に、今のみかど(天皇)がお生れになった。
 上皇は、みかど(天皇)を、自分の子ではないと仰せられ、上皇は、父上(忠盛)を同病憐れんで、お慈悲をおかけになっているのです。そんなお情は、頂きたくありません。』

 『清盛、口がすぎるぞ。思い上がったか』
 こうした不和のまま父忠盛は、清盛を残して、加賀の国へ出発した。

 それを知った五条の伴卜は、
「父上と喧嘩されてはいけません。(貴族政権は)もう、あなた方武士の力がなくては、どうにもならないところへ来ているのだから、自分達(=武士階級)の力を信じなさい」
 事実、公卿たちも、ようやく武士の力を無視できず、忠盛が加賀の白山の騒動を無事に治めたので、鳥羽上皇は、彼を地下の武士から初めて殿上人に昇進させた。公卿の仲間入りさせた。

 しかし、清盛は、その程度の父の出世が、喜べなかった。鳥羽上皇の「お慈悲」である。父ひとりが、そんなお情に預かっても、武士全体の地位が向上したわけではない。武士の実力にふさわしい地位を、貴族からかちとらねばならない。と、叫んだ。

 それを聞くと、伴卜は、はたと膝をうった。清盛の考え方が気に入った。
「あなたの一生に賭けよう、あなたの一生を売って下さい」
「よし、売ってやろう、その代り、高いぞ」
 と半ば冗談のようにして、清盛は絹の色糸二十貫を伴卜からせしめた。これを、時子の家へ運んだ。

『どうか、お役に立てて下さい』
 時子は、おどろき、呆れた。清盛は、時子の、今織っている狩衣が、清盛のものだと知ると、思わず顔を赤らめた。時子の気持ちは、もう清盛の若々しい心に傾いていたのである。

 加賀の国から凱旋した父忠盛は、上皇の思し召しにより、昇殿を許され、初めての武士の昇殿である。公卿、貴族の仲間入りである。
 一家一門の名誉と、みんなは喜んだが、清盛は苦々しい顔をしていた。
 父が衣冠束帯に威儀を正して、昇殿したその朝、時子の父藤原時信がかけこんで来た。
「公卿の中には、“武士の昇殿を許せない”と、その夜、忠盛を闇討ちにする計画がある」というのだ。
 それを聞くや否や、清盛は、公卿たちに対するはげしい憎悪と父親に対する愛情とが、同時に沸いた。彼は、老臣の家貞と共に、禁制を無視して御所の庭に忍んだ。そして、忠盛を闇討ちにしようと企んだ現場で、公卿たち首謀者を威嚇して、父の窮地を救った。

 鳥羽上皇は、清盛が昇殿した父忠盛の窮地を救った武勇をめでられた。
 御所に忍びこんだことには何の咎めもなく、忠盛と清盛父子は、晴れ晴れとした笑顔をみせて和解した。

 『清盛は、わしのことなど、もう心にかけていまいと思うたが』
 『父上のお命は、もとより惜しうございましたが、武士の力を公卿どもに思い知らせてやりたかったのです』


 ところが、時子の父時信がこの闇討計画を洩らしたかどで、政権中枢の藤原氏から罰が与えられた。藤原の姓を奪いとられる「放氏の罰」として、追放されたのである。
 このことは、かえって清盛と時子を近しく結びつけ、二人は結婚した。時信の一家は、その後、「藤原」から「平」の姓を名乗ることとなった。

 忠盛は刑部卿(法務大臣)という官職にのぼり、清盛も「左兵衛佐さひょうえのすけ」(政務次官=副大臣)となり、ようやく幸福な日が訪れて来たかに見えた。

 ところが、紫野今宮神社の例祭で、時子の弟時忠と、老僕家貞の子平六が、叡山の荒法師から喧嘩しかけられたが、逆に彼らをさんざん打擲したという事件が起こった。直ちに法師たちが自宅に押し寄せ、二人の者を引きわたせと迫ったが、清盛は、「非はそちらにある、二人は引き渡せぬ」とつぱねた。清盛には、叡山の真意がわかっていた。

 鳥羽上皇は、騒動が起きた加賀白山の荘園を比叡山延暦寺が所領を主張したが、騒ぎを収めた父忠盛に与えたのである。それを比叡山は認めず、恨みに思い、隙あらば、とり返さんとしていた。
 時忠、平六の若い二人をわなにかけ、彼らに非があるという形を作った。が、叡山の提訴は、鳥羽院の御所に於いても拒絶された。ついに、彼等は、最期の手段、「神輿ぶり」に訴えようとした。こうなっては、朝廷の権威面目に関する大事件である。(「神輿ぶり」=比叡山延暦寺の僧徒が、朝廷に強訴するとき、日吉(ひえ)神社の神輿を先に立てて入京すること)

028 当時の政権トップ、左大臣藤原頼長らは、清盛に「問題を起こした時忠、平六の二人を叡山の要求通りに引きわたし、事を収めるように」と命じた。父忠盛は、病中であったが、病を冒して御所に伺候して、「非は叡山にある」と述べた。
 しかし、公卿たちは、「命令をきかねば官職を剥奪する」といい、大勢の見ている前で、政権トップの頼長は父忠盛を御殿の階
きざはしから蹴落した。
 「この事件の解決は、清盛一身に引き受けよう」と、
 憤激した清盛は言い放ち、父をつれて、邸へ戻った。その途中、忠盛は、病気の急変と憤激のため、一本の古扇をにぎりしめてたまま牛車の中で息絶えた。
 清盛は忠盛の遺骸を葬り、叡山の神輿が僧兵に担がれ下山する機会を、密に待っていた。

 母の泰子が父の死を知り弔問に現れ、忠盛の遺骸に焼香すると、清盛に向かい、
065「あなたは、白河院の御子に間違いない、その証拠は、忠盛殿の持っておられた扇です。御所に行って、主上をはじめ皆さまに(殿上人になれるように)お願いしましょう」と、すすめる。
 それは、母として子の身の上を念ずる親子の人情である。が、清盛は、

『わたしは、平忠盛の子です。体内の白河さまのお血は一しずくもありません。天地に生をうけた一個の男の子として自分の運命を掴み取ります』
と、毅然として言い放ち、「白河院の子」と名乗って、出世させようとする母を止めた。

Ws000063 僧兵、荒法師たち千人以上、神輿を奉じて、祇園の林に到着した。今にも、院の御所に押し寄せてきた。それを聞いた清盛は、甲冑に身をかため、強弓を小わきに、一人、立ち上った。
 清盛は、果して、何を以って至高の神輿にあたろうとするのか。彼の前途に待つは、風か、雨か、雲か。 (映画公開当時のパンフレット参考)

「平家物語」のまだまだ始まりであるが、清盛が公卿たち貴族政権を引きずり下ろし、清盛が力をつけ始める様子を描いた娯楽映画である。しかし、歴史を学ぶ上では、このようなストーリーを知っていると、平安時代が映像として理解できる。

 清盛は保元・平治の乱を経て、源氏を一掃し、娘徳子を高倉天皇の中宮へ送り、天皇家との婚姻関係によって安徳天皇の外戚となり、一門の官職独占を図った。政体は貴族時代と同じスタイルを踏襲した。
 その“平家にあらざる者は人にあらず”とまでいわれ、平家一門の栄耀栄華を謳歌したが、その
没落も早かった。
  その歴史は、琶法師らによって『平家物語』で伝えられた。週刊朝日連載の
吉川英治の大河小説『新・平家物語』(昭和25~32)は、満州事変から太平洋戦争終結まで十五年戦争を潜り抜けて来た国民に感慨とともに語られた。

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コメント

 私、吉川英治の三国志、吉川英治の文章に萌えてます^^
『酒は、僕にいわせれば、酒は日本刀を液体にしたようなものだといいたい。洋酒は音楽に近い。日本酒はさながら日本刀の味に似ている。あの清浄冷徹なにおい、あの芳醇無比な味。酒は、斬れるものだ。まちがうと、人も斬る。自分をも斬る』
カッコいーーー!!と思って調べたら、名言がたくさんあった。
●会う人、出会うもの、 すべて我が師なり。
●行き詰まりは、展開の一歩である。
●百計も尽きたときに、苦悩の果てが一計を生む。

 平家物語のできごとを現代のできごとと重ねられるのが、おもしろいですね。人間の行うことは、何年たっても、ずーとかわらないんだなぁ。それを見事に描き出してしまう吉川英治に、また萌える♪

ちなみに 井上ひさし氏の名言も好きですょ。
→『むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをゆかいに、 ゆかいなことをまじめに、書くこと』
 人間的にはクセがあったようですが、その信念と才能が、好きです。

 すっぱ様
 奔放な発想は魅力的ですが、ブログのキャパが少なくなっていますので、多少の編集をさせて頂きました。

投稿: すっぱ | 2012年6月30日 (土) 09時26分

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