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2012年6月11日 (月)

炎の人ファン・ゴッホ 37歳の自傷死

Photo ゴッホの一生を映画にした作品「炎の人ゴッホ」を見た。映画として見ると、しっかりした作品で見ごたえがあった。
  37歳自傷死のゴッホの作品を一体いくらで買っているのだ!
  気の毒に、生前の彼は、絵がほとんど売れなくて、赤貧 洗うが如し、という生活を続けていた。
それが今、ゴッホの絵といったら、目玉が飛び出るような値段に無茶苦茶 暴騰!だ。
『ひまわり』約58億円 1987年 安田火災海上
『医師ガシェの肖像』約124億万円 齊藤了英

それだったら、その一割を新人画家育成に使うようにするべきだ。


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01 フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh、1853年3月30日 - 1890年7月29日):オランダの後期印象派の画家。彼の作品は感情の率直な表現、大胆な色使いで知られ、20世紀の美術に大きな影響を及ぼした。
1853年、オランダ南部のベルギーとの国境に近い町ズンデルトに生まれた。
祖父、父共に牧師。前年に生まれてすぐに死んだ兄と同じ名前を付けられた。幼い頃から性格は激しく、家族を含め、他人との交流に問題を抱えていた。長い間精神疾患の発作に苦しめられながらも創作活動を続け、37歳の時に銃創が原因で死亡した。自傷と考えられているが、銃は見つかっていない。

オランダ改革派の牧師であった父テオドルス・ファン・ゴッホ(通称ドルス牧師)と母アンナ・コルネリア・カルベントゥスとの間の長子であった。
長男フィンセントの下の家族は、
1855年 妹アンナ、
1857年 弟テオ、
1859年 妹エリーザベト、
1862年 妹ヴィレミーナ(通称ヴィル)、
1867年 弟コルネリス(通称コル)が生まれた

 少年時代、ゴッホは寡黙で思索にふける性格であった。
02 1860年からズンデルト村の、1人のカトリックの教師が200人の生徒を教える学校に通った。
1861年~1864年、妹アンナとともに家庭教師の指導、
1864年 10月1日からは30km離れたヤン・プロフィリ寄宿学校に入った。
1866年9月15日、新しくできた国立中学、ウィレム2世校に進学。
 パリで成功した画家Constantijn C. Huysmansがここでゴッホに絵を描くことを教えた。以前にも多くの絵を描いていたが、初期の絵は表情豊かではあったが、後年の激しさはまだ見られない。
1868年3月、ゴッホは突然学校をやめ家に帰ってしまった。「僕の小さい時は暗く、冷たく、不毛だった」と
1869年7月、ハーグにある画商グーピル商会の徒弟となった。
1873年5月、20歳、徒弟期間の後、彼はロンドン支店に勤務。
 20歳当時、彼の父親を超えた収入だった。ブリクストン市に家を借り生活を始めた。「ゴッホの人生で一番幸せだった」と弟テオの妻ヨーは述べている。
 下宿の娘(ウージェニ・ロワイエ)に恋をし、告白したが、彼女は別の男と婚約していると断られた。その後、ますます孤独になり、宗教的情熱を強めた。
 
1875年5月、彼はパリに転勤したが、この頃から、美術品が商品として扱われていることに不快感を持つようになった。勤務態度不良で、1876年4月1日をもって、彼はグーピル商会から解雇された。


1876年4月、ゴッホはイギリスに戻り、ラムズゲートの港を見下ろす小さな寄宿学校で無給で教師として働くこととなった。そこでいくつかの風景画のスケッチをした。
同年 6月、寄宿学校はロンドン郊外のアイルワースに移ることとなり、彼はその年クリスマスにブレダ西郊の農村に移った父の家に帰省。
1876年、聖書の章句を英語やフランス語やドイツ語に訳したりして過ごした。宗教的情熱はますます燃え上がり、聖職者が天職と考えるに至り、
1877年5月、
ヤン伯父、伯父神学者ヨハネス・ストリッケル牧師の支援で神学部の受験勉強を始めたが、神学部に入学できなかった。当時牧師になるには、相当秀才でないと難しかったようだ。
1878年7月、プロテスタント系伝道師養成学校(ベルギー/ブリュッセル北郊)で三か月間の試行期間を過ごしたが、正規課程への入学には至らなかった。

  この伝道師になれなかった。映画「炎の人ゴッホ」では、このシーン、落ち007 こぼれゴッホから始まっていた。
 それでも、人のために牧師にと思い続け、お情けで、一番環境の悪い炭鉱地方へ伝道師として派遣された。底辺で働く人々から、「いくら立派な説教されても苦しい生活をすくってくれない」という嘆きの言葉を聞いて、ゴッホは、炭鉱にもぐって現実を知る。そして、自分の持ち物を全部、人のために寄付してしまった。伝道師の監督官が、貧困生活をしている彼を巡回してきて見て、「聖職者の権威」を貶めていると判定された。が、そのまま炭鉱労働者と同じレベル、それ以下の生活を続けて、体を壊す。

 弟テオが来て、兄の生活を見て、一度家へ帰ることを勧める。家に帰り、絵を描く生活を続け、元気を取り戻す。そこへ、牧師になる受験勉強していたとき世話になった神学者ストリッケル牧師の娘が、夫をなくして息子を連れて、ゴッホの家に滞在していた。
008038   その牧師の娘と子供と遊ぶことで、彼自身の絵に明るさが出て、生活にも張りができた。彼はその子連れの娘に恋して、「死んだ夫は忘れて、生きている私と一緒になろう」と迫る。この相手の気持ちを無視して、キスを迫る。自分が好きなら、好きという態度をあらわすに何の躊躇もない。娘は、そんなゴッホを毛嫌いしていた。両親の元へ帰ってしまった。

047  彼女の実家を訪れて、しつこくストーカーのように付きまとった。会いたくないという娘の家に入り込み、「顔を見るだけで、ゾーっとする」という娘の言葉を伝えても、なお「会って話をさせてくれ」せまり、「この蝋燭の火で、手を焼いている間だけ、彼女に会わせてください」と、本当に自分も左手を焼き始め、その狂気になお一層強く、娘の父は「生活力がない男はだめだ」と追い出す。ストリッケル牧師の頑迷な態度は、ゴッホに衝撃を与え、教会への疑念をもち、教会から彼を遠ざけた。

069054 酒場で酒をおごったのが縁で出会った、子持ち洗濯女に、やけどの手当をしてもらい、二人の生活が始まる。
02  一向に絵は売れないで、生活費がない。妻は、モデルにしながら、「毎日コヒーとパンで、たまには肉が食いたい」と、言う。ゴッホの足元へ、〇歳児の赤ん坊がモコモコと這ってくるシーン、彼が抱き上げるまでの数秒、演技ではない赤ちゃん、妙に可愛い。

「父が危篤だと連絡があって、故郷へ帰る」というと、妻は
「いつ帰ってくるの?」といいながら、駅まで送ってきたが、
赤ちゃんにキャンパスの布で洋服でもつくってやれ、という。
「帰ってきても、私はあそこにはいない」
「どうする?」
「元の洗濯女に戻るだけ」と。列車は出ていく。

田舎では、夢中に絵を描く生活をするが、身についた服装が近所の噂になり、牧師の父がいなくなったとたん、近所の風が強くなったと、妹に注意されて、故郷を去る。

そして、弟に世話になっていたが、画家仲間ができていたが、弟と同居で面倒を掛けすぎると、手紙を置いて去っていく。行く先は、フランスの地中海に面した都市アルル。ここで、風光明媚な景色が彼に向いていたらしく、絵画制作に熱中した。

Photo_2 1888年(35歳)に、ポール・ゴーギャンと南フランスのアルルで共同生活をする。
 孤独が彼の精神に悪影響をもたらすということで、借りた家へ画家仲間を呼ぼうとして、借金で困っていたゴーギャンを呼び寄せた。借金は弟テオが払って、旅費03も出してやった。そして、ゴッホに仲間ができて、大喜びをしたが、同居してみると、大雑把で乱暴ハゴーギャンと繊細な神経をもったバッハでは、ぶつかるのはしょっちゅう。

仲間割れでけんかになった夜、ゴッホは錯乱か、発作か、自分の耳を切り落とす重傷をしてしまう。精神が侵されていると判断されて、精神病棟へ入れられた。史実では、「ゴーギャンに「自画像の耳の形がおかしい」と言われると、自分の左の耳たぶを切り取り、女友達に送り付けるなど奇行を始め、サン=レミ=ド=プロヴァンスの精神科病院に入院する。」となっている。

 画家フィンセント・ファン・ゴッホにとって、アルルの街が魅力的な目的地となった。彼は1888年2月21日に街に到着した。彼はその景観に魅了され、アルル時代に300以上の絵画や描画を制作した。
 夜のカフェ、ファンゴッホの寝室、ローヌ川の星月夜(Starry Night Over the Rhone)、アルルの女を含む彼の有名な絵画の多くはこの地で完成した。
 ポール・ゴーギャンは、アルルにいたゴッホを訪ねたが、ゴッホの精神状態が悪化しており、憂慮すべきほどに異様であり、1888年12月には悪名の高い耳の切り落とし事件を起こすに至った。
 ゴッホと関係のあったアルルの人たちは、翌年2月にゴッホを幽閉することを要求した陳情を人々に広めた。
1889年5月、彼は気を利かせ、アルルを離れてサン=レミ=ド=プロヴァンス近郊の精神病院に入院した。
wikipediaアルル参照

 ゴッホの死(1890年7月29日)から数ヶ月後、弟テオも、ユトレヒトの精神病院に入院した後、1891年1月25日に病で死去する。

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