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2012年5月30日 (水)

麻原彰晃オウム真理教 上祐史浩の立場

000_7_2 NHKスペシャル「未解決事件オウム真理教」を見て、明治以降の日本で、「オウム事件」ほど社会を震撼とさせた団体も個人もいない。だから、オウム真理教を放送すると、いまだに日本中の耳目を集める。
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事件も多いし、疑問も多い。
035_2  まず分からないのは、麻原 (松本 智津夫)が、サリンを使って霞ヶ関中枢を破壊し、日本転覆を図るに至るまでになった彼の頭脳の中である。これを説明できるのが、古参信者であった上祐 史浩である。
 
上祐 史浩は、麻原の一番身近にいて、麻原の人柄と考えを知る立場である。今回のNHKスペシャルでも取材に応じて語るが、当時の姿から想像できないほど、上祐は、反麻原、反オウムの立場で語る。この姿を見ると、上祐ファンを増やしそうな印象さえ持つ。

松本智津夫*昭和30年3月2日 - 熊本県八代市高植本町の畳職人の家庭027_2 に、9人兄弟の第7子(4男)として生まれた。彼の父については諸説あるが、 『週刊文春』2000年新年号、「松本の祖父は熊本県出身の警官で、戦前に朝鮮半島に渡り、その地で警察署長を務めた後、終戦後、熊本に引き揚げた」「松本家は、朝鮮から引き揚げてきた日本人」との説をとる。。
1961年(昭和36年)4月、八代市立金剛小学校に入学。
1961年(昭和36年)秋、視覚障害者(隻眼)熊本県立盲学校に転校
(長兄の証言によると、視覚障害は水俣病による被害という。ただし水俣病患者の公的認定を受けていない)。
 部活動は柔道に打ち込む、一方、盲学校の小学部5年時に児童会長、中学部在籍時と高等部在籍時に生徒会長に立候補するが、3度とも落選。その後、成績は中程度であったにもかかわらず、熊本大学医学部を志望し、高等部3年の3月に同医学部を受験するが失敗。高等部専攻科に進学する。
1975年(昭和50年)1月12日、盲学校の生徒としては異例の柔道二段(講道館)を取得(オウム事件後、講道館より剥奪)。鍼灸免許も取得した。この頃より「東大法学部卒の政治家となり、総理大臣の座に就くこと」を志す。
1975年(昭和50年)3月(20歳)、熊本県立盲学校を卒業。

1975年(昭和50年)3月末、東京大学文科1類受験を目指し、東京都江東区大島、8月に品川区戸越に移住。9月に八代市の実家に戻る。
1976年(昭和51年)1月、熊本市で長兄の漢方薬店助手を務める。
1976年(昭和51年)3月、受験勉強をするために熊本市黒髪町に下宿。
1976年(昭和51年)5月、また実家に戻り、長兄の店を手伝う。
1976年(昭和51年)7月20日、兄を侮辱した従業員の頭部を殴打。
1976年(昭和51年)9月6日、傷害罪で1万5千円の罰金刑を受ける。
1977年(昭和52年)4月(22歳)再上京、代々木ゼミナール渋谷校(廃校)に入学。東大受験に失敗。
1977年(昭和52年)頃から仙道やヨーガの修行を始める。
1978年(昭和53年)1月7日、代々木ゼミナールで知り合った松本知子(旧姓石井)と結婚。千葉県船橋市湊町に新居、「松本鍼灸院」を開院。
1978年(昭和53年)9月15日「松本鍼灸院」を廃し、診察室兼漢方薬局「亜細亜堂」を開業。

1980年(昭和55年)7月、保険料不正請求が発覚、670万円返還を要求される。
1980年(昭和55年)8月25日(25歳)、宗教団体阿含宗に入信、三年間在籍。
1980年(昭和55年)12月、船橋市新高根に新居を購入し移住。
1981年(昭和56年)2月、船橋市高根台に健康薬品販売店「BMA薬局」]を開く。
1982年(昭和57年)6月22日、無許可医薬品製造、販売したため、薬事法違反で逮捕され、20万円の罰金刑を受ける。知人に「最も儲かるビジネスは、それは宗教だよ」ともらしていた。
1983年(昭和58年)夏(28歳)、仙道・ヨーガ・東洋医学などを統合「(超)能力開発」指導を行う学習塾「鳳凰慶林館」(東京都渋谷区桜丘)を開設、松本は「麻原彰晃」と名乗る。

1984年(昭和59年)2月、「鳳凰慶林館」からヨガ道場「オウムの会」に名称変更し、同年5月28日株式会社オウムを設立。
1986年(昭和61年)4月、ヨガ道場「オウムの会」から、宗教団体「オウム神仙の会」と改称。同年7月、ヒマラヤで最終解脱と称す。
1987年(昭和62年)7月(32歳)、「オウム神仙の会」から「オウム真理教」に改称。世俗化、形骸化した宗教を打ち破り、すべての魂を救済するとして布教活動を展開。空中浮揚などのショー的なアピールや自著、オカルト雑誌への広告記事を利用し、徐々に信者を獲得。この年には8名の弟子を解脱に導いたとする。
1988年(昭和63年)(33歳)、ダライ・ラマ14世と親交のあるペマ・ギャルポに接近。「自分の瞑想がどの程度のものであるか、チベット仏教の先生方に見てもらいたい」と申し出、ダラムサラの宗教庁を紹介される。現地で長老らと一緒に瞑想した結果、高く評価され、ダライ・ラマ14世との接見を認められる。この際の接見の様子をのちに自己宣伝に利用する。

1990年(平成2年)2月の第39回衆議院議員総選挙への大量立候補したが、全員落選。麻原自身、真理党代表として立候補するも、女子運動員が麻原の面をつけて踊る姿がマスコミに報道され、多くの人には印象つけたが、東京4区(5人区)で13位で落選。

020_2 1990年(平成2年)5月、シャンバラ化計画を実行すべく熊本県波野村に進出。地元住民の激しい反対運動に会う。国土利用計画法違反事件で強制捜査を受ける。この強制捜査が行われるまで、武器製造、毒薬の製造を行っていた。女子会員の夫が熊本県警に勤めていて、情報(強制捜査)をオウムの井上が電話で受けて、急いで軍事化路線の証拠を隠蔽した。警察の強制捜査が順調にいけば、その多くの死者を出すサリン事件を引き起こすことなかったが、「国土利用計画法違反」の証拠にしか目が行かなかったので、結局、オウムの息の根を止めるきっかけにはならなかった。

県警の首脳は、この強制捜査着手に、「宗教団体」の信教の自由という憲法上の権利が積極的に捜査ができず、一週間延びた。その間に、オウムは軍事化路線の証拠を完全に隠蔽してしまった。熊本県波野村に進出した理由について、順法闘争では実現できないから、オウムの武装化、の意図であると、上祐史浩は説明した。
 結局、波野村はオウムが5000万円で手に入れた土地を9億2000万円で買戻すことで合意。オウムの大きな資金源となる。


032_2 これで、熊本県波野村撤退後、その代わりが、富士山麓、山梨県上九一色村(現・富士河口湖町)のサテアンとなった。その第七サテアンが化学工場でサリンを製造する場所になった。強制捜査の情報を得ると、その工場に巨大なシバの女神を壁にして、オウム真理教のシンパ宗教学者に見学させて語らせている。これによって、この宗教学者は、大学教授の職も失ない、数年にわたってマスコミから干された。最近、この教授の論文寄稿を見るようになった。


006 2010年(平成22年)オウム真理教元幹部の上祐史浩は、(2010年12月3日号)『FRIDAY』誌での対談でも語っているが、NHKスペシャルの取材でも、同様のことを語っている。
「麻原は人の心を読む感受性は鋭く、超能力のようなものは確かにあったが、能力と人格が一致しない人物だった。彼の根源は、逆恨みと被害妄想。弱視だった子供時代からの逆恨みを社会に広げた人物だと断言。
 (上祐史浩は)サリン製造も知っていたし、教団がおかしいとは思っていた。しかし、武力闘争に反対の意見を伝えたところ、サリン計画を知った以上は、麻原に『ポア』する側に立つか、『ポア』される側に立つか、決めろと迫られ、恐ろしかったからだ」と述べた。

『ポア』とは「意識を高い世界へと移し替える」ことと定義。「積極的に死を与え、より高位の世界へ意識を移し替え、転生」させる特殊な技法も『ポア』と呼ばれ、これが『ポア』という言葉で「殺戮を正当化する」と検察側が主張。Wikipedia参照

 反麻原に立つ立場にいるから、当然の言葉であるが、視聴者の同感をえる上祐史浩の言葉を伝えると、上祐史浩が正当化されてしまう。コレは問題だ。

●上祐 史浩(じょうゆう ふみひろ、1962年(昭和37年)12月17日 - ):オウ ム真理教では、マイトレーヤ正大師 スポークスマンの役割。
 現宗教団体ひかりの輪代表。アーレフ(現Aleph・旧「オウム真理教」)元代表。身長は175cm。オウム真理教時代、麻原彰晃にNOといえるのは上祐だけといわれた。のちにロシア支部長に赴任。オウム真理教が社会の注目の的になったころ、巧みに詭弁を弄し「ああいえば、上祐」といわれた。オウム真理教では男の一番弟子であった。するが、これはこのことが災いしての左遷といわれた。
 福岡県三潴郡城島町(現久留米市)出身。早稲田大学高等学院卒業、早稲田大学卒、同大学院理工学研究科修士課程修了。フジテレビアナウンサー軽部真一は高等学院・早大の同級生。
 1980年代 大学在学中、苫米地英人と面識があり、超常現象などに強い興味を持ち、オカルト雑誌『ムー』掲載されていた麻原彰晃の記事からオウム神仙の会に入会。当時の恋人都沢和子と共に出家信者となる。その後彼女を麻原に献上。
1989年、坂本堤弁護士一家殺害事件前、教団に批判的な存在(坂本氏)をポア(殺害)について、麻原から一度意見を求められた際、上祐は暴力行為ではなく自らの広報活動によって、批判勢力の影響を和らげるべきだ、と強く反対。


 その後、謀議は反対する石井久子や上祐を除いて行われた。坂本堤弁護士一家殺害が起きると、上祐は、教団が起こした事件だと察し、麻原に電話するも、逆に事件を正当化するよう説得された。麻原に反対意見を言える人材は、武装化路線に進み始めたオウムにとっては、邪魔な存在であった。麻原は、上祐をモスクワ支部へ転勤させた。

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 上祐史浩は、サリン製造も知っていたし、教団がおかしいとは思っていた。しかし、武力闘争に反対の意見を伝えたところ、サリン計画を知った以上は、麻原に『ポア』する側に立つか、『ポア』される側に立つか、決めろと迫られ、恐ろしかった。その後の、サリン製造計画する会議には呼ばれなくなり、麻原は上祐をモスクワ支部への転任させた。

投稿: 反麻原 | 2012年6月 3日 (日) 04時07分

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