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2012年5月31日 (木)

100歳新藤兼人(映画監督)幸せな死 

01先日「新藤兼人の姿を見たが、車椅子に乗せられていても、半分寝ているか、とても人前に連れてこられる状態ではない」と聞いていたから、先は長くないと感じていた。老衰で意識が遠くなっているのは止むえないが、誕生パーティに出席した友人が、公衆の面前にさらすのは酷だ、とその姿に出席した友人が感想を述べていた。

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新藤 兼人(本名新藤 兼登、1912年(明治45年)4月22日 - 2012年(平成3c1cad390cbf8232ade55b3049b2a3a124年)5月29日):日本の映画監督、脚本家。日本の独立系映画の映画監督。近代映画協会会長。広島県名誉県民、広島市名誉市民、広島県三原市名誉市民。
 戦争や原爆をはじめ社会性の高いテーマを積極的に映画化した。自らの体験を基に戦争に翻弄される庶民の悲劇を描いた昨年の「一枚のハガキ」が遺作となった。2002年文化勲章受章。
 広島市郊外で生まれ育ち、22歳で京都の新興キネ51j7cf66skl__sl500_aa300_ マに入社し、美術の仕事の傍ら脚本を担当。溝口健二監督に師事し、松竹大船撮影所の脚本部に移るが1944年に召集され、戦後、本格的に脚本家として活動開始。「安城家の舞踏会」以降は吉村公三郎監督とのコンビでヒットを連発。近代映画協会を設立、吉村監督と「偽れる盛装」「自由学校」などをヒットさせ、51年には亡くなった妻をモデルにした「愛妻物語」で初監督を果たす。この時に主演した乙羽信子さんと後に結婚した

 五年ほど前、新藤兼人監督の講演を聞いた。そのときで95歳くらいだったが、しっかりした話をしていた。
 池袋の映画館新文芸座で吉村公三郎監督作品
「安城家の舞踏会」と「暖流」が
上映されたが、二本の幕間に、新藤兼人監督が記念講話をした。孫お嬢さん風(カゼ)さんに押されて車椅子で登壇だったが、しっかりした話をしていた。
 盟友吉村公三郎と二人でシナリオと監督の分業で何本も作品を作っている。その二人のやった話だとか、エピソードをいくつか聞いた。
 このときは、子供のときから可愛がられている公三郎の息子が、楽屋に挨拶に行ったら、95歳の監督は「キミ、元気そうだね」と言われて、「60代半ばのオレに言う言葉か?バケモノだ」と、その新藤兼人の元気さを驚いていた。それから、五年、「人、同じからず」だ。

1951年『愛妻物語』
1952年『原爆の子』(見た映画は赤)

原爆の子
http://youtu.be/_9Tky_76MpI

「原爆の子」ストーリー要約

 石川孝子(乙羽信子)は昭和二十年八月七日原爆が投下された時広島に住んでいて、家族の中で彼女一人だけが生き残った。
 その後瀬戸内海の小さな島で女教員をしていた孝子は、原爆当時勤めていた幼稚園の園児たちのその後の消息を知りたいと思い、夏休みを利用して久しぶりに広島を訪れた。街は美しく復興していたが、当時の子供たちは果たしてどんなふうに成長しているだろうか。幼稚園でともに働いた旧友の夏江から住所を聞いて次々と訪問していく孝子だった。
 三平も敏子も平太も中学生になっていた。三平は子だくさんな貧しい父母の元で、靴磨きをして家を助けていた。
 敏子は原爆症で寝ていた。孤児の彼女は教会に引き取られて看護されていたが、明るい顔をして生きていた。
 平太も親を失って兄や姉の手で養育されていたが、一家は明るくまじめに生き抜いていた。
 孝子は、亡き父母の下で働いていた岩吉爺やに出会ったが、息子夫婦を原爆で失い、老衰し、盲目になり、七歳になる孫の太郎と乏食小屋で暮らしているのだった。孝子は岩吉と孫の太郎、二人を島へ連れていこうとしたが、どうしても承知しないので太郎だけでも引き取りたいと思った。
 初めは承知しなかった岩吉も、孫の将来のためにようやく太郎を手離すことにした。孝子は広島を訪れたことによって色々と人生勉強をし、また幼い太郎を立派に育てようという希望を持って島へ帰っていくのだった。目の見えない岩吉は隣りに住む婆さんに手を引かれて、船着場からいつまでも孝子と太郎が去っていくのを見送るのだった。


Photo_2乙羽信子  (石川孝子)
細川ちか子 (母せつ)
清水将夫  (父利明)
斎藤美和  (森川夏江)
下元勉   (夏江の夫)
滝沢修   (岩吉爺さん)
北林谷栄 (おとよ婆さん



1953年『縮図』
1954年『どぶ』乙羽信子主演 成人指定映画

 『どぶ』ストーリー要約
 京浜工場地帯の一隅、河童沼のほとりのルンペン集落に、ある朝、うす汚ない若い女の行き倒れがあった。
 集落の住人徳さん(殿山泰司)がパンを与えたのを機会に、この女ツル(乙羽信子)は、河童沼集落に住むことになった。ツルは戦後満洲から引揚げてから、紡織工場の女工となったのだが、糸へん暴落のため失業し、それ以来というもの転々として倫落の道をたどってきたのだった。
 ツルが同居した徳さん(殿山泰司)とピンちゃん(宇野重吉)は、競輪、パチンコにふける怠け者達だが、阿呆のツルはそれとは知らず毎日、二人のために弁当を持たせて勤めに送り出す。
だが二人は、ツルを利用して一儲けたくらみ、近所の特飲街にツルを売りとばした。
  ツルは、そこの主人大場(菅井一郎)と衝突して飛び出し、河童沼へ帰ってきたが、大場が徳さん達にツルの前借金の返済を迫ったので、遂にツルはパンパンになって夜の街に立つ。その稼ぎをピンちゃん達に貢ぐのである。
 ある夜、ツルは沼の主人三井(深見泰三)のアプレ息子輝明が二十万円入っていると云う手提金庫を奮って逃げてくるのに会い、沼の住人達に注進した。彼らは金庫を求めて走り出したが、取ってみると中には裸体写真しか入っていないで、一同は風邪をひいてツルを恨んだ。ツルは寝こんだピンちゃんを真心を以て看護したが、ある時突然、ピンちゃん(宇野重吉)がツルに抱きついたが抵抗した。
 ある日、ツルは土地のパンパンに因縁をつけられリンチされたため、逆上してピストルを振り廻して暴れたので、巡査に打たれて死んでしまった。沼の住人はツルを担いで帰った。
 ツルが病気に鞭打って貯金した通帳、そしてピンちゃんの学校へ行くという偽芝居をすらも信じて学用品を贈ったツルを知り、一同は涙にくれた。
  疾風のように駆け抜けた彼 7
1955年『狼』
1956年『銀心中』(原作:田宮虎彦)
1957年『海の野郎ども』 - 石原裕次郎主演作。
1958年『悲しみは女だけに』(キネマ旬報ベストテン=略→キ)

1959年『第五福竜丸』  『花嫁さんは世界一』
1960年『裸の島』
1962年『人間』(原作:野上弥生子)
1963年『母』 - 毎日芸術賞、
1964年『鬼婆』
1965年『悪党』(原作:谷崎潤一郎) -
1966年『本能』 - キ7位
1967年『性の起原』
1968年『強虫女と弱虫男』
1968年『藪の中の黒猫』
1969年『かげろう』 キ4位、
1969年『触角』

1970年『裸の十九才』永山 則夫死刑囚
1972年『鉄輪』
1972年『讃歌』(原作:谷崎潤一郎)
1973年『心』
1974年『わが道』 - キ6位
1975年『ある監督の生涯 溝口健二の記録』キ1位
1977年 『竹山ひとり旅
- キ2位
http://nozawa22.cocolog-nifty.com/nozawa22/2011/08/nozawa22-6.html
高橋竹山 (高橋竹山)
林隆三 (定蔵)
乙羽信子 (トヨ(母))
倍賞美津子 (フジ(第二の妻))
川谷拓三 (泥棒の仙太)

 乙羽信子と再婚
(1978年昭和53年)
1979年『絞殺』 - 乙羽信子「主演女優賞」

1981年『北斎漫画』 - キ8位
1984年『地平線』
1986年『落葉樹』
1986年『ブラックボード』
1988年『さくら隊散る』 - 7位

1992年『濹東綺譚』
 墨東綺譚 監督新藤兼人 良い作品
1995年『午後の遺言状』 - キ1位。乙羽との遺作
1999年『生きたい』 - キ6位
2003年『ふくろう』 - モスクワ映画祭功労賞
2008年『石内尋常高等小学校 花は散れども』
2011年『一枚のハガキ』 -審査員特別賞

 新藤兼人監督作品を見た映画は少ないが、少年時代に見た映画の印象は、大人になってからの何倍も強く、大きい。。
 中学一年のとき、学校から旭座へ見に行った「原爆の子」、乙羽信子の女教師が印象的であった。広島の原爆跡地で、小学生との交流が描かれていた。あのえくぼが特徴の乙羽信子、ズック靴で生徒たちの家を回る姿が、今でもまぶたの裏に残っている。当時の先生たちは、原爆の恐ろしさを私たち生徒に伝えたいと思っていたのだろう。あの時代は、教育者として平和への思いを伝えるのが教育だと思われていた。先生は、学識ものちろんだが、教育とは国の平和を守ることだ、と硬く国民がそう思っていた時代だった。映画をつくるといえば、いまどきの映画とは明らかに違って、一定の平和への信念が、テーマに含まれていた。

「原爆の子」を見て映画館から学校(二中)へ帰ると、生徒も先生も、一様に映画の感動が残っていた。「(岩吉爺さん)さんは死んじまった!」というセリフが、担任の西尾夫先生を探しに行った生徒に、職員室で交わされた記憶がある。

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2012年5月30日 (水)

麻原彰晃オウム真理教 上祐史浩の立場

000_7_2 NHKスペシャル「未解決事件オウム真理教」を見て、明治以降の日本で、「オウム事件」ほど社会を震撼とさせた団体も個人もいない。だから、オウム真理教を放送すると、いまだに日本中の耳目を集める。
オウム教団主要メンバーの経緯を見る
オウム麻原は、どう弟子を説得し従わせたか
高橋克也逮捕、さて「ひかりの輪」「アーレフ」は

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事件も多いし、疑問も多い。
035_2  まず分からないのは、麻原 (松本 智津夫)が、サリンを使って霞ヶ関中枢を破壊し、日本転覆を図るに至るまでになった彼の頭脳の中である。これを説明できるのが、古参信者であった上祐 史浩である。
 
上祐 史浩は、麻原の一番身近にいて、麻原の人柄と考えを知る立場である。今回のNHKスペシャルでも取材に応じて語るが、当時の姿から想像できないほど、上祐は、反麻原、反オウムの立場で語る。この姿を見ると、上祐ファンを増やしそうな印象さえ持つ。

松本智津夫*昭和30年3月2日 - 熊本県八代市高植本町の畳職人の家庭027_2 に、9人兄弟の第7子(4男)として生まれた。彼の父については諸説あるが、 『週刊文春』2000年新年号、「松本の祖父は熊本県出身の警官で、戦前に朝鮮半島に渡り、その地で警察署長を務めた後、終戦後、熊本に引き揚げた」「松本家は、朝鮮から引き揚げてきた日本人」との説をとる。。
1961年(昭和36年)4月、八代市立金剛小学校に入学。
1961年(昭和36年)秋、視覚障害者(隻眼)熊本県立盲学校に転校
(長兄の証言によると、視覚障害は水俣病による被害という。ただし水俣病患者の公的認定を受けていない)。
 部活動は柔道に打ち込む、一方、盲学校の小学部5年時に児童会長、中学部在籍時と高等部在籍時に生徒会長に立候補するが、3度とも落選。その後、成績は中程度であったにもかかわらず、熊本大学医学部を志望し、高等部3年の3月に同医学部を受験するが失敗。高等部専攻科に進学する。
1975年(昭和50年)1月12日、盲学校の生徒としては異例の柔道二段(講道館)を取得(オウム事件後、講道館より剥奪)。鍼灸免許も取得した。この頃より「東大法学部卒の政治家となり、総理大臣の座に就くこと」を志す。
1975年(昭和50年)3月(20歳)、熊本県立盲学校を卒業。

1975年(昭和50年)3月末、東京大学文科1類受験を目指し、東京都江東区大島、8月に品川区戸越に移住。9月に八代市の実家に戻る。
1976年(昭和51年)1月、熊本市で長兄の漢方薬店助手を務める。
1976年(昭和51年)3月、受験勉強をするために熊本市黒髪町に下宿。
1976年(昭和51年)5月、また実家に戻り、長兄の店を手伝う。
1976年(昭和51年)7月20日、兄を侮辱した従業員の頭部を殴打。
1976年(昭和51年)9月6日、傷害罪で1万5千円の罰金刑を受ける。
1977年(昭和52年)4月(22歳)再上京、代々木ゼミナール渋谷校(廃校)に入学。東大受験に失敗。
1977年(昭和52年)頃から仙道やヨーガの修行を始める。
1978年(昭和53年)1月7日、代々木ゼミナールで知り合った松本知子(旧姓石井)と結婚。千葉県船橋市湊町に新居、「松本鍼灸院」を開院。
1978年(昭和53年)9月15日「松本鍼灸院」を廃し、診察室兼漢方薬局「亜細亜堂」を開業。

1980年(昭和55年)7月、保険料不正請求が発覚、670万円返還を要求される。
1980年(昭和55年)8月25日(25歳)、宗教団体阿含宗に入信、三年間在籍。
1980年(昭和55年)12月、船橋市新高根に新居を購入し移住。
1981年(昭和56年)2月、船橋市高根台に健康薬品販売店「BMA薬局」]を開く。
1982年(昭和57年)6月22日、無許可医薬品製造、販売したため、薬事法違反で逮捕され、20万円の罰金刑を受ける。知人に「最も儲かるビジネスは、それは宗教だよ」ともらしていた。
1983年(昭和58年)夏(28歳)、仙道・ヨーガ・東洋医学などを統合「(超)能力開発」指導を行う学習塾「鳳凰慶林館」(東京都渋谷区桜丘)を開設、松本は「麻原彰晃」と名乗る。

1984年(昭和59年)2月、「鳳凰慶林館」からヨガ道場「オウムの会」に名称変更し、同年5月28日株式会社オウムを設立。
1986年(昭和61年)4月、ヨガ道場「オウムの会」から、宗教団体「オウム神仙の会」と改称。同年7月、ヒマラヤで最終解脱と称す。
1987年(昭和62年)7月(32歳)、「オウム神仙の会」から「オウム真理教」に改称。世俗化、形骸化した宗教を打ち破り、すべての魂を救済するとして布教活動を展開。空中浮揚などのショー的なアピールや自著、オカルト雑誌への広告記事を利用し、徐々に信者を獲得。この年には8名の弟子を解脱に導いたとする。
1988年(昭和63年)(33歳)、ダライ・ラマ14世と親交のあるペマ・ギャルポに接近。「自分の瞑想がどの程度のものであるか、チベット仏教の先生方に見てもらいたい」と申し出、ダラムサラの宗教庁を紹介される。現地で長老らと一緒に瞑想した結果、高く評価され、ダライ・ラマ14世との接見を認められる。この際の接見の様子をのちに自己宣伝に利用する。

1990年(平成2年)2月の第39回衆議院議員総選挙への大量立候補したが、全員落選。麻原自身、真理党代表として立候補するも、女子運動員が麻原の面をつけて踊る姿がマスコミに報道され、多くの人には印象つけたが、東京4区(5人区)で13位で落選。

020_2 1990年(平成2年)5月、シャンバラ化計画を実行すべく熊本県波野村に進出。地元住民の激しい反対運動に会う。国土利用計画法違反事件で強制捜査を受ける。この強制捜査が行われるまで、武器製造、毒薬の製造を行っていた。女子会員の夫が熊本県警に勤めていて、情報(強制捜査)をオウムの井上が電話で受けて、急いで軍事化路線の証拠を隠蔽した。警察の強制捜査が順調にいけば、その多くの死者を出すサリン事件を引き起こすことなかったが、「国土利用計画法違反」の証拠にしか目が行かなかったので、結局、オウムの息の根を止めるきっかけにはならなかった。

県警の首脳は、この強制捜査着手に、「宗教団体」の信教の自由という憲法上の権利が積極的に捜査ができず、一週間延びた。その間に、オウムは軍事化路線の証拠を完全に隠蔽してしまった。熊本県波野村に進出した理由について、順法闘争では実現できないから、オウムの武装化、の意図であると、上祐史浩は説明した。
 結局、波野村はオウムが5000万円で手に入れた土地を9億2000万円で買戻すことで合意。オウムの大きな資金源となる。


032_2 これで、熊本県波野村撤退後、その代わりが、富士山麓、山梨県上九一色村(現・富士河口湖町)のサテアンとなった。その第七サテアンが化学工場でサリンを製造する場所になった。強制捜査の情報を得ると、その工場に巨大なシバの女神を壁にして、オウム真理教のシンパ宗教学者に見学させて語らせている。これによって、この宗教学者は、大学教授の職も失ない、数年にわたってマスコミから干された。最近、この教授の論文寄稿を見るようになった。


006 2010年(平成22年)オウム真理教元幹部の上祐史浩は、(2010年12月3日号)『FRIDAY』誌での対談でも語っているが、NHKスペシャルの取材でも、同様のことを語っている。
「麻原は人の心を読む感受性は鋭く、超能力のようなものは確かにあったが、能力と人格が一致しない人物だった。彼の根源は、逆恨みと被害妄想。弱視だった子供時代からの逆恨みを社会に広げた人物だと断言。
 (上祐史浩は)サリン製造も知っていたし、教団がおかしいとは思っていた。しかし、武力闘争に反対の意見を伝えたところ、サリン計画を知った以上は、麻原に『ポア』する側に立つか、『ポア』される側に立つか、決めろと迫られ、恐ろしかったからだ」と述べた。

『ポア』とは「意識を高い世界へと移し替える」ことと定義。「積極的に死を与え、より高位の世界へ意識を移し替え、転生」させる特殊な技法も『ポア』と呼ばれ、これが『ポア』という言葉で「殺戮を正当化する」と検察側が主張。Wikipedia参照

 反麻原に立つ立場にいるから、当然の言葉であるが、視聴者の同感をえる上祐史浩の言葉を伝えると、上祐史浩が正当化されてしまう。コレは問題だ。

●上祐 史浩(じょうゆう ふみひろ、1962年(昭和37年)12月17日 - ):オウ ム真理教では、マイトレーヤ正大師 スポークスマンの役割。
 現宗教団体ひかりの輪代表。アーレフ(現Aleph・旧「オウム真理教」)元代表。身長は175cm。オウム真理教時代、麻原彰晃にNOといえるのは上祐だけといわれた。のちにロシア支部長に赴任。オウム真理教が社会の注目の的になったころ、巧みに詭弁を弄し「ああいえば、上祐」といわれた。オウム真理教では男の一番弟子であった。するが、これはこのことが災いしての左遷といわれた。
 福岡県三潴郡城島町(現久留米市)出身。早稲田大学高等学院卒業、早稲田大学卒、同大学院理工学研究科修士課程修了。フジテレビアナウンサー軽部真一は高等学院・早大の同級生。
 1980年代 大学在学中、苫米地英人と面識があり、超常現象などに強い興味を持ち、オカルト雑誌『ムー』掲載されていた麻原彰晃の記事からオウム神仙の会に入会。当時の恋人都沢和子と共に出家信者となる。その後彼女を麻原に献上。
1989年、坂本堤弁護士一家殺害事件前、教団に批判的な存在(坂本氏)をポア(殺害)について、麻原から一度意見を求められた際、上祐は暴力行為ではなく自らの広報活動によって、批判勢力の影響を和らげるべきだ、と強く反対。


 その後、謀議は反対する石井久子や上祐を除いて行われた。坂本堤弁護士一家殺害が起きると、上祐は、教団が起こした事件だと察し、麻原に電話するも、逆に事件を正当化するよう説得された。麻原に反対意見を言える人材は、武装化路線に進み始めたオウムにとっては、邪魔な存在であった。麻原は、上祐をモスクワ支部へ転勤させた。

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オウム教団主要メンバーの経緯を見る
オウム真理教が目指したもの
麻原彰晃オウム真理教 上祐史浩の立場
オウム真理教教祖麻原、死刑決定: nozawa22
顕正会VS創価学会 近親相争う

(日蓮宗系の宗教)  
週刊朝日の公明党よ!目をさませ

矢野絢也、創価学会を訴える 週刊新潮
石井一参院議員 創価学会党に噛み付く
賢治 日蓮宗国柱会が発想元か 
公明党の組織選挙の現状さぐる 
創価学会池田大作、重篤の危機?
 
真夏のアルバイト 2

【浄土真宗】
他力本願と悪人正機説 
親鸞「他力本願への道」 

法然、親鸞 同じ点、違う点

基礎知識外部リンク
オウム真理教が目指した宗教政党創価学会
石井一議員 創価学会を追及1/3 

石井一〝P献金〟「公明党と創価学会」  
民主党はP献金を解明できるか
石井一議員 創価学会を追及2/3 

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