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2012年4月25日 (水)

開拓者 弁当を持って来られない小学生

007  満州の開拓民と送り出されて、戦争に勝っているなら、万々歳であるが、あの太平洋戦争は、そして満州は砂上の楼閣になってしまった。満洲の地から身ぐるみ剥がれて、命からがらで、故郷へ故郷への思いで戻ってきた。日本に帰ってくれば、故郷なのだから、暖かく迎えてもらえると思っていた引き上げ者は多かったはずだ。

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 ところが、日本へ帰ってきても、身内の家に身を寄せても、「一旦出て行ったお前らに食べさせるメシはない」と、実家に入った嫁からいびられて、肩身の狭い思いをした人は多い。ある人は、実家の鶏小屋の鶏糞臭い中に入れられたとか、蔵の隅に寝泊りしていたとか、多くの引揚者はつらい思いをしている。

 私の育ったのは、そんな時代だった。
021024教室には多くの引揚者の子が編入してきた。クラスには50人は常に超えていた。60人近くいた。
 満州や朝鮮から来た子がいたし、樺太の製紙工場からの引き上げが目立った。中津の町には王子製紙という大会社の中津川工場があったので、そこへ外地の製紙工場従業員が家族ごと引き上げてくるので、転校生は多かった。

028  満鉄に勤めていた叔母一家が、祖母の家を頼って引き上げていた。故郷の実家から朝鮮の植民地に移って行ったので、実家に多少の箪笥タンスとか何か置いて行ったらしいが、そういうものは、実家では邪魔になるから、中身を片付けるだろうが、引き上げ側には、アレが実家においてきたという意識がある。それで、預かっている母の側と叔母の側との諍いが起きたようだった。引き上げてきた姉妹は、私の学校に来て一年、成績優秀と表彰されていたが、あまり親しくした記憶がない。

 あのころは、学年末にクラスで5人、一学年4クラスあれば20名程度の成績優秀者は表彰状をもらっていた。学年二十人の表彰者に一人は郡長から総代として別に賞状を与えられた。今はそんな制度は、差別になるからない。

 名古屋や東京の都会から疎開してきた人も多く、いろんな人がいた。そういう人は都会のセンスがあって、おしゃれな印象があったが、食い詰めたというか、貧しい人も多くいた。NHK[開拓者」の那須を開拓する話ではないが、中津川の町も、郊外の未開拓の山に近い部分のサント(実戸)、子野地区、松田地区、手賀野地区、西山など、いままで開墾が遅れた地域に人が入って耕すことになった。

 N先生は開拓民の子に「入植して何年?」と聞いていたが、10年経てば、見通しがつく、と説明していた。先生の仕事は安定してるからいいのだが、先生も、戦地から引き上げの先生も多かった。その代わり、戦時中に代用教員になった人も辞めないから、県の教育委員会もこまっただろうな。

 太平洋戦争の南方諸島での生き残り先生は、体罰は厳しかった。生死ギリギリの場所から戻ってきていたY先生などは、内地にずっといた先生とは違うと、回りからいわれていた。代用教員あがりのP先生は、竹刀のようなムチをもって、態度の悪い生徒は遠慮なく叩いていた。復員教師の人生観、厳しさ  保古沼で巨大鯉を釣る先生

 遠くの部落からは1時間半も歩いて南小に通学する生徒がいた。西小にもいたが、多くは貧しくて、弁当を持って来られない子が多かったようだ。昼休み、昼食の時間になると、弁当を持っていない子数人は、いつも外へ出て運動場の鉄棒のまわりにいた。「水で腹をいっぱいにする」と生徒同士では、言っていた。先生は、こういう食べ物がない子を見ながら、どんな気持ちだっただろうかね。先生だって、毎日毎日のことに、食べさせるわけには行かないだろうし・・・ジレンマがあったに違いない。

 小四の春先だったが、学校からみんなで町の映画館へ映画を見に行った。視聴覚教育として、先生が選択して映画を見せていた。午前中の一般客が来ない時間に、児童に見せるのは映画館にもメリットがあるのし、先生も映画を静かにみてくれるなら・・・。

 そういうわけで、毎月一回は映画館へ集合して、教育映画など、よく見たものである。それが恒例化されたのは昭和23、24年ころからだが、その日は「富士の高嶺に雪が降る」というようなタイトルであったが、あまり魅力的な映画ではないと思って、行っておけばよかったのに、行きたくないと行かなかった。映画を見るお金のない子も行かなかった。

 その日、映画からみんな帰ってくると、「弁当がない」という事件が起きた。
 近藤(武典)先生は、映画に行かず居残った生徒を一人ひとり呼び出して尋問しているようだった。弁当を取った犯人は、ひもじいから食ったのだろうと予想はつくが、それを見逃すということはできないだろう。武典先生も、苦しい犯人探しをしたのだろう。私も居残り組だから、疑われた中にいるが、そんなに強く聞かれなかった。初めから目星がついていたからのかもしれない。結末については、何も話されなかったので、アレはどうだったのですか?と武典先生に聞いてみたいが、先生はとっくに黄泉の国に行っている。

027  今は小学校へ弁当を持っていく習慣がないから、わからないが、弁当の用意は、実の親であればこそ一生懸命つくるが、我が家は母が死んで、一年生の私には19歳の姉が弁当を持たせてくれたが、一番悲しかった弁当がある。
 今でも思い出せるが、弁当のご飯の上に「イカの塩辛」が、弁当の蓋で押しつぶされて並んだ姿を見たとき、その弁当の
哀れなこと!普段ミミズを掘り出して遊んでいたから、ミミズに見えて、とても食べる気にならなかった。「イカの塩辛」普段は食べるが、弁当の上に乗せたら、イメージが悪い。しかし、19歳の姉にそれを言うと傷つくだろうから、それは言わずに弁当を残した。いまだに言っていない。たぶん、覚えていないだろう。

 姉も鉄道の機関区へアルバイトに出ていて忙しい人だったから、連絡不十分になる。学校へ行ったら、遠足だった!そのまま、カバン背負って、●●寺へ行った。ここの杉の根元には、武具は刀、馬の鞍が埋めてある、と説明があった。そのあと、昼食なのに、弁当を持ってきていない私は、ぼんやりしていると、ほかに弁当を持ってこられない子といっしょに、担任の加藤スミヨ先生から、蒸かしたサツマイモを一本、もらった。その後、スミヨ先生産休をとって晴郎クンを生んだはずだ。 NHK「開拓者」満島ひかり 満州引上げ悲劇

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    コメント

    弁当盗み食い事件、せつないですね。遠足にお弁当もっていけないで、先生がさつまいもくれたお話しも、なんともいえない。私の親もそんな話、たくさんもってますが、大人になってきくと、いちだんとせつない。

    投稿: すっぱ | 2012年4月26日 (木) 05時14分

     小生が中学生になったばかりの、昭和33年頃ですかな?。
     先ず、「民主主義教育は"これからの時代の必要要件でる"と」云うことでしたか。しかし"12.3才の***に毛も生えていない子供" にその先は何がなんだか?は分かる筈もないことでした。
     当時担任は代用教員だったのかも知れませんがしかし、その方々は「ガ(餓)島の生きのこり、満州からの敗残兵等々、地獄を見てきた人たちでした」。荒っぽいのは常日頃、ビンタ、拳固突きは序の口で、頭がぼこぼこのまま帰宅したこともありました。
     でも何故か「クッソー!」と思っても、後で恩返しをしてやる、とは今でも思っていません。
     「一度死んだ人間」の彼らは、自身の体験から、恐いものなどない。つまり「人生で何が大事か?」を知る人たちだったと確信します。
     今後、自国が生き残り、豊かになるには?、そして「これからの日本の生き方、強大な米国他列強に如何にしたら立ち向えるか?それは技術であろう(その先生方は技術科出身と見えたが)」と痛感したと思う。
     その強烈な願望は、やがて、奇跡の復興を遂げ「世界第二位の経済大国」となった。
     反面、失うもの余りにも大であり、一度人間の生活する「基本的要因を見直す必要」があるのでは?と思考するものです。

    65様
     日本は「経済大国」を目指して、成功したのかもしれないが、失うものも大きかったというのは、大いに同感するところです。
     死に物狂いの戦いの生き残りの人々の、個人は戦後日本の推進者で感謝しているのですが、戦争首謀者に対して甘い。戦争責任の追及と反省ができていないのではないか。原発行政を見ていると、そんな気がしてならない。nozawa22

    投稿: 65 | 2012年7月24日 (火) 20時26分

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