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2012年2月14日 (火)

金華山岐阜城下 七五三の記念写真を撮る

4758 Gifujyo この連休は、イギリスから娘家族が来ているので、もう一人の娘家族と、七五三の記念写真を撮っていないから、数ヶ月遅れで記念写真をと岐阜城下に集まった。

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 この岐阜城は 金華山(稲葉山)の上にある山城である。たくさんのエピソードを残した戦国時代の斎藤道三の居城で、特に岐阜城の名を天下に示したのは、永禄10年(1567年)8月、織田信長公がこの城を攻略し、この地方一帯を平、地名を「岐阜」に改称。天下統一の本拠地とした。ここからは、壮大な眺望を楽しむことができる。

 一つのエピソードを紹介する。信長が岐阜城を攻略する三年前に、岐阜城が奪われた事件がある。
498pxtakenaka_shigeharu_2竹中重治像/禅幢寺所蔵  1564年(永禄7年) 斎藤氏の家臣であった、竹中重治(=半兵衛)と弟・重矩、(義理の父)安藤守就が造反し、龍興の居城・稲葉山城(後の岐阜城)を16人の部下とともにわずか1日で稲葉山城を奪取した。城主龍興らは城を捨て、竹中らが城を半年間占拠する。

竹中重治(=半兵衛):(生誕 天文13年(1544年)-死没 天正7年6月13日(1579年7月6日) 、後に豊臣秀吉の参謀となって、黒田孝高(黒田官兵衛)とともにと並び称された。戦国時代を代表する軍師としても知られ、織田信長の家臣である羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の参謀として活躍。

 竹中半兵衛は、体が弱く、やせて女性のようで、出陣するときも静かに馬に乗っているだけだったという(漢の劉邦の謀臣・張良のイメージ)。主君の龍興をはじめ斎藤家臣団から嘲弄され、イジメられていた。龍興の寵臣、斎藤飛騨守に櫓の上から小便を顔にかけられたことがあった。数日後、飛騨守が龍興居室の宿直を務めていたとき、竹中半兵衛は稲葉山城に詰めていた弟重矩の看病のためと称して、数箱の武具を隠しもって入城し、そして弟重矩の居室で武装して、宿直部屋に居た飛騨守を惨殺して稲葉山城を乗っ取った、とされている。

 竹中半兵衛が稲葉山城奪取を知ると、織田信長は城を譲り渡すように要求したが、半兵衛はその申し出を断り、半年後8月には稲葉山城を龍興に返還した。この欲のなさが、竹中半兵衛の生涯を通した真骨頂である。

 その後、半兵衛は斎藤家を去り、東浅井郡草野に3,000貫の禄で、北近江の浅井長政の客分として過ごしたが、約1年で旧領岩手へ帰り、隠棲した。信長は、浪人していた半兵衛を家臣として登用したいと考え、木下秀吉(後の豊臣秀吉)に勧誘を命じた。秀吉は何度も半兵衛を尋ね、「三顧の礼」で半兵衛を誘った。半兵衛は、信長に直接仕えることは拒絶したが、秀吉の天性の才能を見抜き、秀吉の家臣となると約束したとされる。

4843 4847 女の子は7歳、男の子は5歳で、これが子供の祝いの最後になる。写真屋さん、最近は子供写真館は、一種の撮影所になっている。派手な衣装をつけるし、美容師さんが髪形も整え、化粧して、結婚式並み、反射鏡レフ板を助手がもって野外の写真を何枚も撮る。この子らの母親も、相模原大山の写真館で、ちょうど30年前に撮った記憶がある。歳月は風のごとくである。

そのあとは、撮った写真をパソコン上で、客に見せ、どの写真を残して現像するか決めるなど、時代は変わった。

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