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2011年12月20日 (火)

NHKカーネーション 代用食すいとん

3095 「カーネーション」の一場面で「代用食すいとん」を食うシーンがあった。オハラ洋装店は繁盛していたから、食料危機意識がなかったみたいで、近所の人にやっかまれていたのが、出ていた。父の葬式がなかったら、内情はわからなかただろうに、町内会の人が台所の食料品を見られて、「ヤミ」をやっているとか、その上「非国民」とか言われ、近所から白い目で見られた。

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3096戦時中の食生活は、「戦地の兵隊さん」を引き合いに出して、我慢を強いられた。すいとんは、うどん粉を水に溶いて、おだんごにして汁の中で煮るのだが、今ならダシをつかった味付けで、うまくできるだろうが、昆布、煮干や鰹節のない時代には、不味かった。

1.小麦粉1kgに対し、ぬるま湯または水500 - 600cc程度を用いてかき混ぜ、一つにまとまとめ、さらに圧して10分程度練り混ぜてグルテンの生成を促し、粘りを出す。
2.練り終わった生地を1時間程度寝かせ、生地全体に水分を行き渡らせて熟成させる。
3.具材として野菜や肉を適当な大きさに切った後、煮て、出汁を加える。
4.生地を適当な大きさ・厚みに加工し、または千切ってだし汁に入れ、さらに煮る。
5.すいとんに火が通ったらネギ等の薬味を好みに合わせて入れて食べる。

ウチは、母が入院していて、19歳の姉が主婦代わりであったから、世間の水準からすると情報が疎かったと思う。近所のおばさんにいろいろ教えて助けられている姿が、幼児だった私には、たよりなくてハラハラしてみていた。

ダシという料理の基本が、よくわかっていなかったのか、あるとき、姉はご近所のおばさんに今なら「鯉のエサ」になるムツ(かいこのさなぎ)をもらって、朝から煮詰めていた。夕方、ようやくできたムツの煮物を食べさせられたが、ダシが効いていなから、食えた味ではなかった。無理して飲み込んだが、姉も自分の料理の失敗をみとめたのか、次からはこのムツの煮物は作らなかった。

そのころ、隣の福岡さんの家で赤毛の柴犬を飼っていたが、ある日の夕方、おばさんがきて、ボウルにいれた肉を持ってきて「フクの肝臓、肉」といって肉をくれた。昭和19年、無駄飯を食う犬を飼うことに近所の手前、はばかられ、愛犬を殺すのは当然だったかもしれない。隣の家、つまりウチの姉も、ごく当然のように肉をもらった。隣のおばさん、しばらく姉と話を続けていた。フクに対する情が肉にあって、食うには忍びなかったのかもしれない。フクに情は移っていない私には、しょう油と砂糖で煮た肉はうまかった。

 ウチは手間のかかるスイトンより雑炊が多く、ご飯を味噌汁にぶち込んで煮てしまうようなもので、料理の才がないとまずくなるが、どろどろにとけていれば喉越しはいいから、何杯でも食べられる。この米が少ない分に、ダイコンを刻んでいれる(だいこん飯)とか、芋の茎を乾燥させたものを刻んで入っていた。山へ行ってとってきた葉(びょうぶの葉)をいれて雑炊の具を増やした。小5の兄が近所の人と恵那山のほうへ行ってかご一杯採ってきた。

あれは戦後だったのかもしれないが、東京の医学校へ行っていた兄が帰ってくると、銀座の通りで雑炊屋が営業しているという話しであった。雑炊も種類があって、どんぶり一杯でも箸が立つ雑炊は高いが、箸が立たない水増し雑炊は安い、という東京の食料事情を聞かせてくれた。

そのころ、米が台湾や朝鮮から輸入されないから、米不足で麦を食べるのが普通になった。たぶん米5麦5という割合より麦のほうが多買ったのではないかと思う。麦が安かったのだろうが。昭和25年までは、国民の麦食が当たり前であったが、その時期【朝鮮動乱】過ぎて、急に世の中の様子が一変してしまう。

Hinankun戦局厳しくなると、街頭には千人針をお願いする人が立っていた。出征する兵士の腹にまいて、五銭をくくりつけて死線を越えるという迷信だが、みんなそれを信じて千人針を結んでいた。それと同時に、標語「贅沢は敵だ」と、パーマネントや、洋装おしゃれはぜいたく、と白い割烹着で愛国婦人会という襷をかけたおばさんが、街頭に立って町行く人に注意していたようだ。

そのころは、在郷軍人(=現代なら自衛隊OB)のおじさんが、町内の神社で、奥さんたちを集めて、消火訓練、竹やりの練習をさせていた。唯一覚えているのは、防空頭巾をかぶって、地面に伏せて両手で顔の目、鼻、耳、口を押さえるといいのだ、とウチに帰ってきた母は、私に教えてくれた。

この後であると思うが、母が入院して、姉が家事全般を取り仕切るようになって、戦局悪化にしたがって金属の供出が知らされて、鉄なべ、アイロンとか古銭の類を出していた。変わりに、瀬戸物、陶磁器のソケット、制服ボタン、帽子の校章、いろんなものが金属製ではなくなった。町の中を流れる四ツ目川の橋のらんかんの鉄が醜く壊されて、長い間、修復されていなかった。昭和50年ころになって、橋が架け替えになるまで放置されていた。ボクらの八月十五日http://nozawa22.cocolog-nifty.com/nozawa22/2007/08/nozawa22_1.html

金属供出令
 
1939(昭和14)年1月以降は、マンホールの 蓋(ふた)、ベンチ、鉄柵、灰皿、火鉢等鉄製品の回収が官公署(役所)・職
場や愛国、国防両婦人会や女子青年団の手で実施された。 それらはあくまでも任意の供出であった。それでは需要をまかなえなかった。そこで金属類回収令の制定で、これにより、官公署(役所)・職場・家庭の別なく、子供の玩具を含め、金属類は根こそぎ回収の方向へと進んで行った。鉄びん・火箸・花器・仏具・窓格子等をはじめ、金銀杯・時計側鎖・煙管(きせる)・置物・指輪・ネクタイピン・バックルなど、ありとあらゆる金属が回収された。
 翌1942(昭和17)に入り、資源特別回収実施要綱を定めた。1943年9月には東京都が金属非常回収工作隊を結成し、都庁以下全役所と国民学校・中学校の暖房器機から回収をはじめた。家庭で使われていた鍋釜等の金属製品類まで回収対象となった。もとより、官公庁、市町村の施設、神社、寺院 教会なども例外ではなかった
 金属類回収令は1943(昭和18)年4月に改正され、“まだある金属出せいまだ”の呼びかけで非常回収が強化された。
この時は各校の二宮尊徳像をはじめタンスの取手や蚊張の釣手、店の看板なども回収され、ついで11月には、“まだ出し足らぬ家庭鉱”のスローガンの下で、回収が強行された。

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