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2011年12月 7日 (水)

最澄の弟子 円仁 最後の遣唐使

2810  この円仁が有名なのは、遣唐使として出発から唐に滞在していた間、ずーっと旅行記「入唐求法巡礼行記」として記録を残していることだ。西暦800年代初頭の唐の記録なんか、中国には残っていない。中国という国の性格か、時代が変わると前の時代のことなど、かまっていない。キレイさっぱり、捨ててしまう。日本は、その反対で、昔の恋文まで取っておく。だから、正倉院の御物など、日本にしかない中国のお宝が残っていたりする。

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2795  円仁は、遣唐使に選ばれ留学するのだから、最澄の弟子としてトップだったのだろう。一年で戻る短期生であったのを、遣唐使団から脱走する形で、中国を放浪して合計10年近く滞在するド心臓は賞賛ものだ。

 この当時の航海術も、船舶も、今の水準からするとずいぶんあぶないものだった。10艘で船団を組んで、無事中国へたどり着ける船は半分あればいい方だといわれていた時代。正使、副使が、別々の船に乗って、遭難したら交代する要員をいつも決めてある。

 出かける前から、一艘の船が壊れたので、その船の一行が乗ることになると、元の副使が体調不良を理由に遣唐使船から降りてしまった。これなど、これ幸いと、遣唐使のメンバーを辞退した例である。今の宇宙船に乗るより、ずっと生還率が悪いのだから、怖がっても不思議ではない。水杯で家族、知り合い友人と別れて乗船するのが普通だったらしい。

この事実は、正確にいうと、「承和の遣唐使は、すでに836年、さらに翌年2800 に、渡海を試みたが失敗していた。四つの船うち、第3舶は出発前に難破して用をなさず、また第2舶は副使小野篁の病気(実は仮病、乗船せず、短期の遠島処分となる)を理由に出発できなかった。そのため、第1舶と第4舶だけで発航することとなり、前者に遣唐大使藤原常嗣、円仁(慈覚大師)などが乗込む。
 838(承和5)年6月13日、一行は博多で乗船するが順風がえられず、3日間滞船する。18日志賀島まで行くが、ここで5日間風待ちする。22日五島列島の宇久島に着き、翌日 ここで唐に行く者と日本に留まる者が互いに別れた。午後6時になるころ、帆を上げ大海を渡るべく出航した。北東の風が吹き、夜になって暗いなかを進んだ。第1舶と第4舶の2船はお互いに火縄やたいまつを焚き、発火信号を交
わしあった

2801 よほど、唐の仏教の勉強ができる!と意思が強い人でないと、耐えきれないだろう。仏教に対して熱意がないと、唐での勉学に情熱を燃やし続けられないだだろう。当時に航海術、船舶、衛生事情、体力など、これらをクリアして唐に渡っても、挫折がある。円仁の体験はよくやった。「なんでも見てやろう」の精神で唐の政治事情が悪化する中で、無事日本へいろいろ知識、文物を持ち帰った。

 旅行記「入唐求法巡礼行記」を広く日本に紹介したのは、アメリカの日本大使を務めたライシャワー氏である。彼がいうには、円仁の記録は、日記として書いているから、正確である。それに対して、マルコポーロ「東方見聞録」が、旅行の数年後に書いているから、詳細が不正確で、「入唐求法巡礼行記」を高く評価している

 日本から出た遣唐使船は、まず出航してすぐに一艘が遅れて一行からはぐれてしまった。円仁が乗った船は、中国の湊に一行に多少遅れたが、到着したが、浅瀬のドロの中に停船したので、上陸ができずに四苦八苦している様子が前半である。

 この8日間に、2人の水手が死亡、水葬にふされている。4月5日夜半の暴風によって、帰国船はちりぢりとなった。ただ、4月8日、前判官が死亡したことで昇進して、入唐第2舶の船頭となった良岑長松判官が病気になった。天候は益々険悪ことになり、舵手、水夫(半死のまま捨てられる)、卜部諸公たちが死ぬ。

2799 明け方、大きな雷が急に落ちて来て、帆柱をつんざき、船尾の甲板は斜めによじれむしり取られた」。その裂けた帆柱は「改めて造りかえるべきだ」、「帆柱を造るといっても、その材木をここで急に入手することは困難」と議論

赤山浦漂泊中、「舶は大風のために吹き流されて荒磯にぶつかり、かじの板が破損し、同時にはしけ2隻も割れくだけてしまっている」。「船上の多くの人は気が転倒して食事ものどに入らず、まるで半死の状態のようである」。翌日、「船頭は手分けしていかりになる石を採って来させ、またかじを造る材木を探させた」。

遣唐使船の下級職員は命の軽いこと、船の構造の脆弱なこと、今では考えられないほど・・・・。読んでいると、昔の人は死をすぐ隣にいて、生きてきたのだと痛感する記録である。

2812  遣唐使には、「長期滞在で中国で勉強する資格」と「短期で仕事をしたら翌年帰る資格」の二通りあった。円仁は短期資格で遣唐使にもぐり込んだので、帰国を延長して中国に残りたいと申請を中国滞在中に役所に10回以上出していたが、許されず帰国の船に乗せられた。

 帰りの遣唐使船は10艘あった。そのうち、円仁らが乗る船は故障して遅れていた。待ちきれずか、9艘が先に出発してしまったので、中国滞在延長が可能になったのである。
7月23日。早朝、赤山の上から、きのうまで船団が停泊していたところを望み見たが、9隻の船の姿はいずれも見えない。それで、昨夜のうちにみな出航したことを知った」。「赤山の東北方、海の彼方100百里(約55キロメートル)ほどのところに遥かに山が見える」。「円仁・惟正・惟暁の3人の僧はぜひとも天台山に行きたい一心で、日本に帰りたいという気持を忘れ去り、赤山院にふみ留まっている

これからが、円仁の中国滞在記である2818

揚州(帰国港)⇒赤山⇒五台山⇒長安⇒揚州(ここから帰国予定)

大使の9隻も赤山浦に入浦したが、また放置してその儘発去した。ここに大師等は、まったく朝貢使に置去られて、赤山(法花院)に留住することとなった。これはもちろん、陰に陽に画策したる謀計であって、大師の不屈の一到心は、漸く留住の目的を貫徹し得た。ただし、船上の諸官人、林大使・張宝高、新羅署の通事押衙・張詠、邵村の昱正・王訓等、諸新羅人の援護に頼ること頗る大であると解説。つまり、円仁の熱意もあるが、新羅人の援護、遣唐使船の仲間や先輩が理解あったので、放置して出発してくれたのだ、というわけである。

2806 2809 当時の交通の便は、今とは比べようのないほど、道が悪いし、車があるわけではない。円仁は、一日40キロは歩く健脚であった。普通4キロを一時間出歩くのが、健康な人の脚である。一日40キロといえば、速歩でも一時間5キロ×8時間は歩き続けているわけだ。中国は広いよ、この地図でいうところの、赤山から五台山まで、50数日歩き、次の目的地へ到着した。そこ五台山からも、同様に長安へ50日以上歩いては、師に会いに行くわけだ。中国の広さ、この時代 交通の便の悪さにも関わらず行こうとする。そこには、学問への意欲がひしひしと伝わってくる。

2808 日本から遣唐使がきていると聞いて、「最澄が留学していたころ、子供だった」という中国の坊さんが訪ねてくる。最澄の弟子である円仁を世話してくれた。このような縁を大事にする人たちがいたし、そういう時代だった。円仁は、新羅(朝鮮)の人や縁のある人に助けられ、9年間勉強をした。そのコロになると、玄宗皇帝のが楊貴妃の色香に惑わされ、政治に熱が入らなくなって、唐の治安も乱れ、仏教が弾圧され始めた。

2817  赤山はじめ訪れた寺院で、貴重な仏典を見せてもらっている。しかし、それは原本だから日本へ持ち帰るわけにはいかないので、写し取る作業が毎日毎日続いて、それが完成すると、これを担いで、次の目的地へ行く。その写本を運ぶため、同行者は4人はいる。

考えてみたら、筆と墨をもって、和紙に書き連ねていくわけだ。書き写すときに、内容を把握してしまうのが、当時の勉強法でもあった。写本は、早く書けて字もきれいでないと、都合が悪い。だから、残っている写本は、写本とはいえ、きれいなできである。昔の人は、羨ましいほど、みんな字がじょうずである。文明が進むと活字印刷の本が多くなり、人間が堕落しているようにも思える。一冊しかない本だと思うと、大事に扱うだろう。

 円仁著、深谷憲一訳『入唐求法巡礼行記』、中公文庫、1990。
 (帰国にも、相当苦労したようだ。)唐の宗教は「道教」を保護するようになって、会昌の廃仏が起こり、円仁たちは国外追放となり、唐の最果てまで逓送(駅逓送り)される過程を日記としている

842(承和9)年10月9日、会昌の廃仏がはじまる。僧尼は、その履歴によって還俗を求められ、財産没収され、寺からの外出禁止となった。翌843(承和10)年1月、僧尼の還俗数は長安だけでも3591人も及んだ。翌年1月28日、外国僧は軍衛に集められた。南インド人5人、北インド人、セイロン人、クチャ人それぞれ1人、そして日本人3人など、総勢21人であった。

845(承和12)年に入っても、武宗の仏教迫害は衰えない。すでに、円仁たちは帰国願いを、841(承和8)年から100余回にわたって、仏教迫害担当の功徳使(!?、宗教長官)に出していたが、それ(帰国)が許可されない。すでに、外国僧に対する身元調べや呼び出しが行われていたが、遂に勅がおり、
「[尚書省礼部]祠部の証明書を持っていなれば、(国内僧と)同様に強制的に還俗させて、駅次ぎに出身国に帰せ」、
「それに従わないものは死刑」ということになった。円仁が寄住する資聖寺には証明書を持っていないものが、彼らを含め39人もいた。
 円仁たちは世俗の姿となって、5月15日旧知の人々に見送られて長安を出る。ただ、大理卿(司法長官)楊敬之の紹介状があったため丁重に扱われ、卞州(現、開封)、泗州、揚州を経て、7月3日楚州に着く

 楚州では、新羅坊(新羅人街)に行って、惣管(総管、居留民団長)でこの州の同十将(駐屯部隊下級将校)の薛詮と新羅人通訳の劉慎言に会った。2人はわれわれを迎えて親切にねぎらってくれた。
 日本国の朝貢使(遣唐使)たちは、皆ここから船に乗って大海を渡り、日本に帰りました。円仁らは、ここから大海を渡らせていただきたい、と申し述べ、また劉慎言は自ら県の役所に行き、賄賂を使って、この件がうまくいくよう計画をめぐらしたが、県知事から了承をえられなかった
(深谷訳『巡礼行記』、p.592)。

 迫害にあいながら、新羅の僧侶に助けられながら、唐で買い集めたものを梱包して、その内容は「長安・五台山および揚州などで求めた経論・念誦の法門および章疏・伝記等すべて計584部、802巻。胎蔵・金剛両部の大曼陀羅および諸尊の壇像、舎利ならびに高僧の真影など合わせて計50点」しかし、途中検閲があうからと、隠したり、預けたりして置いたら、通訳がちょろまかしたりしたようで、危ないから燃したとか、預かっていたお金を使い込みしたり、多難な帰国事業である。新羅の高官の知り合いで船便に乗せてもらう新羅を経由して日本へ着く。遣唐使吉備真備がもたらしたモノ: nozawa22

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