« 選挙:中津川市長選 1月22日投票 | トップページ | あけまして おめでとうございます 2012年(平成24年) »

2011年12月31日 (土)

山本五十六の功罪

010 役所kouzi主演「山本五十六」の予告編というより、舞台挨拶に似た番組を見た。日米戦争の前半の主役で、日本が勝ち戦をしている時で、山本五十六は、奇襲作戦で勝つ戦法を考える真田信繁(幸村)、源義経タイプだと思う。

読んだよ!クリック」よろしくね!
   ↓   ↓   ↓   ↓
人気blogランキングへ  今後とも、継続的に追読して頂けると、嬉しく思います。 
ブログ村 nozawa22 ←クリック

山本五十六の性格は、語録に見られる
Tyokan_2 「やってみせ 
言って聞かせて 
させて見せ 
ほめてやらねば 
人は動かじ」

「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず」「やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず」

 男の修行
「苦しいこともあるだろう 
 言い度いこともあるだろう 
 不満なこともあるだろう 
 腹の立つこともあるだろう 
 泣き度いこともあるだろう 
 これらをじっとこらえてゆくのが 
 男の修行である」
 格言として評価が高く、座右の銘としている経営者や指導者は多い。

3366 この映画では、海上自衛隊の協力も得て舞台装置に力がはいっている。日米開戦に反対して、日独伊三国同盟に反対し続けて、軍部主流ににらまれ暗殺もほのめかされて遺書も書いている。

海軍大臣米内光政、井上成美と山本五十六が、アメリカの力をよく知っていたから、アメリカと戦ったら日本はとてもかなわない、とわかっていた。いまでこそ、アメリカと戦うのが無謀であるとわかるが、当時のアメリカ、イギリス、中国、オランダのABCD包囲網で、日本には石油が一滴も入らない状況では、国民をマスコミがたきつけていたから、山本五十六にしても弱腰に見えただろう。井上成美、米内光政も、いまでこそ良識派になっているが、戦闘向きにはみえなかったことだろう。特に井上成美は、学識ある人であったが、武闘派の軍人からはバカにされていた。

3368 昭和14年、平沼内閣はナチスドイツに同盟を求められていたが、交渉中にナチスドイツはソ連と不可侵条約の締結。「複雑怪奇」とのセリフと共に総辞職して、コレを機にドイツとの同盟へ日本の国が傾いた。そのドイツが、ヨーロッパ戦線で勝ちに沸くから、「(日本も)バスに乗り遅れるな!」が合言葉になって、一気に軍国日本がアメリカを敵視する方向へ行ってしまった。

こうなると、山本五十六も軍人として反対ばかりはいえなくなった。連合艦隊総司令として任命されて、これは日露戦争の日本海海戦の東郷平八郎の立場に立ったわけだ。

 日米交渉は外交官がアメリカと交渉しているが、ハルノートというアメリカ側の日本に対する最後通牒で、日本が呑めない内容になって、宣戦布告という通告が出されると同時にハワイ真珠湾のアメリカ空母、戦艦をやっつけるという電光石火の襲撃をかけて、アメリカとの早期和平を引き出す考えであった・・・と、「山本五十六」(映画)は強調しているが、早期和平はアメリカとしては出来る話ではないだろう。

真珠湾攻撃 Attack on Pearl Harbor (カラー映像)
http://youtu.be/MbV5WMO1vYc

 真珠湾攻撃で、大成功であると大々的に日本国内では宣伝しているが、真珠湾にいたアメリカの空母、戦艦は旧式のものばかりで、最新鋭の空母は洋上に出ていて、この最新鋭空母等はミッドウエイ海戦では大活躍してしまう。日本側はアメリカの海軍のほとんどは真珠湾攻撃で壊滅したと思い込んでいるようだった。

Img_1287257_61455843_0  真珠湾攻撃は成功したというが、第一波攻撃で残る船舶にも第二波で徹底的に打撃を与えることを山本五十六は期待していた。第一波は成功したが、指揮した南雲忠一の判断で、第二波の攻撃をしなかった。総司令山本五十六としては、極めて不満であった。勝てるときは、完膚なきまでやらないと、立ち上がって逆襲される相手であるとアメリカを見ていたのが、南雲には伝わっていなかったようだ。この作戦の徹底が出来なかったことを、南雲は山本五十六に泣いて侘びをしたという

3375 3375_3  日本の海軍は、緒戦、連戦連勝の最高潮の勝ち戦を続けていた。国民からすると、日本海軍はこのまま勝ち続けるのではないか、そんな錯覚をしてしまいそうである。マレー沖海戦ではイギリスの空母プリンスオブウエールズを撃沈して、イギリスの東洋艦隊はアジアでの活動はできなくなった。

3376 調子こいていたのは、昭和17年(1942年)6月5日のミッドウエィ海戦で大敗北するまでの六か月間だけである。この敗戦で痛かったのは、空母4隻を失ったことと同時に艦載機とパイロット3000人を失ったことである。

空母一隻の建造費は、素人感覚でいうと、新幹線東京大阪間の建設費用と同等だといわれている。艦載機を含めたら、もっとかもしれない。ミッドウイエイでは、それを4隻失ったのだから、全日本国内鉄道網を失うか、東日本大震災以上の損失をしている。日本軍の大敗北というのが、わかる。それを日本のマスコミは報道できなかったのだから、大失態である。

ミッドウエィの海戦に出撃した戦力の比較では、日本軍のほうが、戦力、物量とも、完全に上回っている。その戦力でなぜ負けたか。もちろん、その当時、ミッドウエィの敗戦は国民には「勝った、勝った」としか伝えていない。マスコミにも現場を 見させていないから、大本営発表しか書くことができない。

3378アメリカの情報戦力が勝っていて、日本の通信文がほぼ解読されていて、日本の作戦に対して待ち伏せをしていて、襲撃したものとされている。しかし、米軍は日本の情報を解読しているとは分からないように細心の注意をしていたので、日本はそれに戦後まで気づいていなかった。

その点からいくと、日米交渉で日本が暗号で「マリコ」名をつかってやり取りしていた情報はすべて読まれていたと考えていい。日本の外務省と在米日本大使館来栖大使との通信文を読むのはお茶の子サイサイでしょう。確認したわけではないが、日本が真珠湾攻撃することは、アメリカ大統領ルーズベルトは情報を得ていた。が、真珠湾攻撃を日本にやらせて、アメリカ国民の怒りを期待していた、という話がある。日本軍の真珠湾攻撃の結果、アメリカ国民が団結したのだ、と解釈している。そういう戦争になるまでの駆け引きは、奇々怪々である。

 その情報戦の最たるものは、山本五十六搭乗の飛行機は、零式艦上戦闘機六機が護衛ついていて、やられちまった海軍甲事件である。米軍の諜報力による、待ち伏せ攻撃である。真実の記録-山本五十六の死(撃墜の瞬間) http://youtu.be/fW3zqQfWOWA

 この時も、日本の通信を傍聴したことは、米軍はおくびにもださなかった。だから、日本側は暗号文の改善を行わなかった。
 この後も、重要機密文書を失って、その後のマリアナ沖海戦で大敗北した事件がある。それが
海軍乙事件 福留繁参謀長 マリアナ沖海戦: nozawa22 である。1944年(昭和19年)3月31日、連合艦隊司令長官 古賀峯一海軍大将が搭乗機の墜落により殉職し、福留参謀が最後まで重要機密文書を奪われたことを隠し、ウソ突き通して、無罪になった事件である。これで日本軍の作戦全容が米軍に筒抜けになり、マリアナ沖海戦で日本は再び大敗北してしまう。これは、日本の大阪地検の事件に似て、高級官僚は、国家が危機に陥っても仲間を守り合っている一例。これはひどい

 山本五十六がラバウルに到着すると、到着の噂はたちまち広がり、甥の高野五郎(陸軍少将、軍医)は海軍司令部を訪問して山本と面会した。一方、米軍は日本軍の暗号を分析・解読し、山本個人に目標を絞っていた。特に4月13日の巡視計画電報について、城島高次第十一航空戦隊司令官は「前線に、長官の行動を、長文でこんなに詳しく打つ奴があるもんか」と憤慨している。米軍が解読した暗号は、4月17日に「武蔵」から発信された電文とされる。4月18日午前6時、山本を含めた連合艦隊司令部は第七〇五航空隊の一式陸上攻撃機二機に分乗してラバウル基地を発進した。山本は1号機、宇垣は2号機に搭乗する。
 零式艦上戦闘機6機に護衛されブイン基地へ移動中、ブーゲンビル島上空で、アメリカ陸軍航空隊P-38ライトニング16機に襲撃・撃墜され戦死した(
海軍甲事件)。公式には機上で即死したと記録されているが、異論もある。遺体はラバウルで火葬に臥され、木箱の底にパパイヤの葉をひいた骨箱におさめられた。遺骨はトラック諸島に一旦運ばれて、その後内地に帰還する戦艦「武蔵」によって日本本土に運ばれた。遺族には4月20日夕刻に嶋田繁太郎海軍大臣と秘書官麻生孝雄少佐が戦死を告げている。
 山本の死は一ヶ月以上秘匿され、5月21日の大本営発表で公になった
。(Wikipedia)

連合艦隊司令長官 山本五十六の記録
http://youtu.be/y8XJ2NLzCJo

読んだよ!クリック」よろしくね!
   ↓   ↓   ↓   ↓
人気blogランキングへ  今後とも、継続的に追読して頂けると、嬉しく思います。 
ブログ村 nozawa22 ←クリック

エピソード

 近江兵治郎氏(司令3381部従兵長)当時昭和15年(1940年)29歳で、(現在1003362 歳)山本司令長官の専属従兵は、長官の靴下、寝巻の用意、そして他艦への移動、参謀会議に至るまでの24時間お世話をせねばなかった。「文芸春秋、2010年(平成22年)3月号」
(長官の昼食について)
 昼食に公室へ足を運ばれるたびに、軍楽隊が行進曲を演奏、昼食のメニューは“スープ、魚料理、ビフテキ、デザート、そしてコーヒー”といったフランス料理のフルコースであった。
 コーヒーの時間に、流される音楽はやわらかな洋楽が演奏が常であった。ある日、渡邉はま子の得意な「支那の夜」が演奏され、ご満悦であった。長官はこの曲がことのほかお好きであった。
(食後の歓談について)
 食後、「海軍次官時代には、アメリカとは決して戦争をするべきではないと主張し、当時の陸軍省派遣の憲兵につけ狙われていた
こともあった」と。アメリカ駐在武官時代には米国内を視察し「航空機技術の発展、造船工場の工業力は、日本の比ではない」と口癖のように申しておられた。
(将棋好きについて)
 長官は、将棋が大好きで、近江氏はいつもケヤキの将棋盤を携帯して長官の後に従っておられた。長官が、旗艦から第一艦隊へ移
動される20分少々の時間でも、長官艇の中で将棋を指そうとするほどの将棋好きであった。当時の木村義雄名人と比較され「木村名
人よりも、俺の方が将棋を指している回数は多いだろう。木村名人よりも上手いぞ」と機嫌よく語られることもあった。
 ミッドウエイ海戦中でも、長官は司令部参謀の渡辺安次戦務参謀を相手に将棋を指しておられた。「赤城沈没」、「加賀沈没」と
いった悲壮な電報が入電するたび、「ほう、またやられたか」と盤から目を離すことなく冷静に声を出しておられた。

●海軍兵学校時代、姪の高野京(山本より4歳年長。看護士)と交流が深く、多くの手紙を書いた。海軍大学校卒業直後の大正6年1月、山本が盲腸炎で大手術になった時にも看病にあたっている。
●1918年(大正7年)頃、少佐だった山本は、佐世保で18歳の鶴島正子(鶴島ツルとも)と愛人関係になった。後に関係が薄れても交流が途切れることはなく、鶴島は山本の手紙をスーツケースが一杯になるほど持つことになった。
●新橋に梅龍と名乗っていた河合千代子を愛人をかこっていた。1930年(昭和5年)のロンドン軍縮会議直前(山本は日本側代表)に深い関係になった。河合によれば、宴会の席で威張っていて無口だった山本を誘惑しようとしたが、逆に彼女の方が参ってしまった。河合と山本は互いの事を「お兄さん」「妹」と呼んでいる。
 山本は多くの手紙を河合に書き、1941年12月4日、山本はバラの花束を河合に与え、翌日の手紙で「この花びらの散る頃を待つように」と伝えている。真珠湾攻撃は4日後の12月8日だった。河合が肋膜炎を病むと頻繁に手紙を送り、12月28日には『方々から手紙などが山のごとく来ますが、私はたったひとりの千代子の手紙ばかりを朝夕恋しく待っております。写真はまだでしょうか』と書いている。河合の家には、宇垣纏を始めとする連合艦隊参謀が度々訪れて世話になっていた事が、山本から河合への手紙で判明している。そして山本五十六に至っては愛人の河合千代子と密会し、別離を惜しんだ後の手紙に『5月29日に出撃して、三週間ばかり全軍を指揮する。多分あまり面白いことはないだろう。この戦いが終わったら、全てを捨てて二人きりになろう』と記している
Instructor000070instructor_image ●「大和」の山本私室に、交流があった岩井尊人海軍主計大尉の娘、岩井照子が描いた軍艦のクレヨン画を飾っていた。岩井は1940年に逝去しており、山本は「大和」から照子を励ます手紙を送っている。
海軍少将石井敬之の孫で女優の石井苗子は、テレビ番組、徹子の部屋に出演した際、祖父は山本五十六をいつも「いそちゃん」と呼んで親しんでいたと聞かされたと語っている。

太平洋戦争 開戦から学徒動員まで    動画で見る 日本の歩んだ歴史と戦争  戦闘機一機 100億円×40機発注予定  政局混迷と戦争終結できなかった昭和17年

  • 原爆投下 情報は軍上層部に届いていた 2011.08.09
  • 不毛地帯(山崎豊子)主人公モデル瀬島龍三 2011.07.13
  • 動画 一億玉砕への道・日ソ終戦工作 2011.07.09
  • さかのぼり日本史 分岐点 熱河侵攻裁可 2011.06.07
  • 開戦直前 方針決まらない日本Ⅴ(終) 2011.05.01
  • 戦争、ハウマッチ?湾岸戦争37兆円 2011.02.17
  • 統制派永田鉄山、皇道派将校に刺殺 2011.01.17
  • 国際孤立を避ける方針…なんで戦争に 2011.01.12
  • 松岡洋右 国際連盟脱退の裏側 2011.01.11
  • 正義の戦争あるか「太田総理」最終回 2010.08.29
  • 12月8日 開戦記念日 海軍反省会 2009.12.07
  • 征韓論から太平洋戦争まで 加藤陽子 2009.10.28
  • |

    « 選挙:中津川市長選 1月22日投票 | トップページ | あけまして おめでとうございます 2012年(平成24年) »

    コメント

    「ミッドウエィの海戦に出撃した戦力の比較では、日本軍のほうが、戦力、物量とも、完全に上回っている。その戦力でなぜ負けたか。」とおっしゃるが、
    それは違うのではないでしょうか?
    この作戦の性質上、先制奇襲(空母群)、陽動(アリューシャン方面)、艦隊作戦(戦艦等の海上戦)などのグループに分かれているからです。
    実際にミッドウエーで戦った戦力はアメリカ軍の方が上回っているのです。
    たとえば航空機の数ではアメリカ軍が360機、日本側は偵察専門の水上機も含めても264機です。他にもレーダー、無線電話、航空機や艦船の性能などテクノロジー面で圧倒されていたのが実態ですしアメリカは情報戦で暗号解読で待ち伏せして勝利。
    Wikipedia「ミッドウエー作戦」English版参照
    日本の評価は組織や指揮者の批判を目的にしているだけ。
    別の言葉で言えば、「あいつが悪い、こいつが悪い」。それで終わり。昔から今も。
    これは日本文化の重大な欠陥ではないでしょうか?

    投稿: 石部金吉 | 2012年4月23日 (月) 03時25分

    近江兵治郎氏の書いた本を私も見ていますが、とんでもない誤りが多く書いてあるのです。自分の日記とか業務日誌とかをもとにして書かれたものではないことがわかるのです。
    軍楽隊とかフランス料理だとかはそういう日もあったでしょうが毎日ではないでしょう。
    ミッドウェーの時は魚の味噌煮だったと言われています。
    将棋の件も他の人は書いていないし、近江氏もこの本を書くまで多くの取材を受けているのに一度も将棋の話はしていないのです。
    近江氏が何故この本を書いたのか? ある意図を持った誰かに頼まれて話をし、ゴーストライターがそれを文章にしたというのではないでしょうか。
    歴史の本は魑魅魍魎の世界であり、見る側の意図によって全く逆のことが書かれているものが殆どです。気をつけるべきです。

    投稿: イモレンコン | 2013年4月16日 (火) 17時00分

    山本長官が、将棋をやっていた、というのはウソですよ。
    大和の暗号電報は通信室から圧搾空気で高層階の作戦室に送られ、
    それを軍楽隊の隊員が開封し閲覧できる状態にして参謀に持って行くのです。それなのに近江さんは暗号長が持って来たとかありえないことを言っている。ある軍楽隊員がその時の暗号を自分が参謀に渡した、将棋をやっていたという記憶はないということを手記に残しています。当時、作戦室にいた機関参謀も将棋をやっていたなどは書いていない。
    近江兵長の本を調べるとトンデモないことがいっぱい書かれています。この事実が知られていないのは本当におかしな日本である。

    投稿: おおそらはるか | 2015年6月13日 (土) 16時20分

    コメントを書く



    (ウェブ上には掲載しません)




    « 選挙:中津川市長選 1月22日投票 | トップページ | あけまして おめでとうございます 2012年(平成24年) »