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2011年11月10日 (木)

金子みすず 亭主に禁じられた詩作

C0193833_0292487   私と小鳥と鈴と
私が両手をひろげても
お空をちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように
地面を速くは走れない。

私が体をゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように
たくさんな唄はしらないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。

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もうひとつ、有名になった金子みずずの詩を紹介してみる。

S0804262_2  大漁 (鰮いわし
朝焼小焼だ
大漁だ
大羽鰮の
大漁だ。

浜は祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
鰮のとむらい
するのだろう

詩としては、着眼点が人間の側ではなく、鰮から見たらそのとおりだから、ハッと気づいておどろく新鮮さがある。今からまねても、詩人として大成するかは、保障のかぎりではないが。

金子みすずの詩は、死後50年を越して、著作権者の権利失効が成立している。遺族に著作権がなく、『金子みずず著作権保存会』が印税を受け取る形になっている。その中から、遺族に印税の一部を支払うという。死後50年過ぎてから発見されて、急にクローズアップされて、幸運というか、不思議な立場である。

金子みすゞ記念館(生家跡):大正期の童謡詩人金子みすゞ(1903-1930)は仙崎で生まれ、深川高等女学校(現在の山口県立大津高等学校)を卒業するまでの間を仙崎で過ごした。
  仙崎(せんざき)は山口県長門市の一地域で旧・大津郡仙崎町一帯を指す。日本海側屈指の漁港として、また蒲鉾の産地としても知られ、戦後の引き揚げ港。現在は仙崎駅~長門市駅間で列車が往復運転している。詩作の大半は奉公先の下関市で行われたものだが、その題材には仙崎の情景が多く描かれている。代表作の一つである「大漁」は仙崎漁港に大量に水揚げされた鰯にモチーフを得たものだとされているし、王子山、弁天島、祇園社(八坂神社)など仙崎の風景を読んだ詩も数多く残されている。また、みすゞの墓所も仙崎にある。

Img_236636_27043985_0_2   『にんげんだもの』相田みつを
くるしいことだってあるさ 人間だもの
まようときだってあるさ 凡夫だもの
あやまちだってあるよ おれだもの

ヘタうまい文字で「人間警句」の相田みつをの心とよく似た心象だと思う。しっかりつかむと壊れてしまう「魂の形」を上手に描く。宇都宮市の柴田トヨさん(99)の初詩集「くじけないで」にもその雰囲気がある。100歳になったトヨさんが書いた詩は、「さびしくなったら」だ。

Dscn1084 さびしくなった時 
戸の隙間から 入る陽射しを 
手にすくって 何度も顔に あててみるの
そのぬくもりは 母のぬくもり
おっかさん がんばるからね 
呟きながら 私は立ちあがる

相田みつを、柴田トヨさんの詩は、細工がないように見える。細工していないように「細工」しているのだろうが。金子みすずは、ダレが教えたのか、天性の何かをもっているようだ。だから、赤い鳥(北原白秋)、金の船(野口雨情、金の星に改題)、童話(西条八十)に投稿して、大正12年、初投稿から注目された。西条八十から「どこかふっくらして温かい情味が謡全体を包んでいる。この感じは英国のクリスティーナ・ロゼッティのそれと同じだ。閨秀の童謡詩人が皆無の今日、この調子で努力して頂きたい」と激賞されている。それから、金子みすずの詩は、その後3年間、みすずの作品が掲載され続けた。

Ws000004 Ws000006 金子みすず(本名テル)は、山口県大津郡仙崎に生まれ、父庄之助、母ミチ、兄竪助、本人テル、弟正祐の一家であったが、父はテルの三歳のとき死亡。母の妹フジが、県内屈指の書店「上山文英堂書店」に嫁いでいた。テル(みすず)が女学校2年のとき、叔母フジがなくなり、女手がないからということで、母ミチが後妻に入った。弟は幼いうちから、文英堂の養子になっていた。兄竪助が結婚することになった時点で、テル(みすず)は、文英堂下関店で店番として勤め始めた。この本に囲まれたこの時期、この生活が気に入っていた。詩を書くにも適し、投稿していた時期と重なる。

9784882843023 上山文英堂店主(社長)上山松蔵の指示で、大正15年、社員の中で手代格(中間管理職)の男と結婚した。文英堂の発展のため、身内で組織を固めるため、テル(みすず)を利用したともいえる。養子となった弟正祐が一人前になる前のリリーフとして考えられていたようだ。テルの夫が仕事はできるのかもしれないが、ワンマンで遊び人であった。一番のつらいことは、みすずに「童謡を書くな。投稿仲間と文通をするな」と禁じたことである。詩を全く理解しない、みすずの心から一番遠い男であった。昔は、そういう政略結婚のような結婚でも、そう不思議とは思われなかった。

詩で飯が食えるか!」「魚屋に学問はいらん!」とか、「女は黙れ!」「飯は黙って食え!」とか、昔の男の中にはガンコに自分の考えを一方的に押し付ける人がいたものである。今の男には、考えられない古い時代の世界が当然のように広がっていた。古い日本の社会は、そうなんですよ。

 当時の男の常識だったかもしれないが、みすずの夫は花柳界に出入りして、夫の立場からすると、気のあわないみすずの顔を見ているより、女にチヤホヤされているほうがいい。そのうち、遊郭で性病(淋病)に罹患して妻みすずに移してしまった。これが引き金になって、離婚となる。最初子供(女の子)は、妻みすずの養育であったが、夫が気が変わって子供を渡せという要求をしてきて、当時の法律では妻が拒否できなかったのか

Misuzu その前夜、娘3歳と一緒にフロに入り、童謡をいっしょに歌い続けていたという。深夜、母や親族に遺書を3通書いた。母には「今夜の月のように私の心も静かです」昭和5年3月10日、上山英文堂二階でカルモチンを飲んで命を絶った。娘と一緒に撮った写真の預り証と三通の遺書が残っていた。

みすずの詩は、一切発表されていないから、突如発表されたように見えるが、昭和5年まで密かに書かれていた。書き溜めた詩はノート数冊に清書して、童謡詩に理解のあった弟正祐あてに送ってあった。その後、ずっと彼の手元におかれていた。

文庫本「金子みすず童謡集」角川晴樹事務所発行より参照

私の言いたいことは、金子みすずが愛するわが子を夫に奪われて、その苦しみを歌ったら、どんな詩がかけたか、それが私には興味がある。残酷な要求であるが、童謡から本当の詩人、人間の佳境に入ると思う。この部分は、ないものねだりであるが、芸術家の境地である。二十五で死んではいけないよ。まったくちがった詩が出来るはずだったと思う。

だだ、金子みすずは生きていれば、108歳くらいだ。子孫がまだ多くいる。彼女が生きていたころを知っている人も多い。詩は発表できないかもしれない。 安住紳一郎と米倉涼子 金子みすず巡り:

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