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2011年9月13日 (火)

滝沢馬琴の生き方、几帳面な日記マン

6820 失明後、長男の嫁が代筆する図(鏑木清方)  

 滝沢馬琴は、明和4年(1767年)、江戸深川(現・江東区平野一丁目)の旗本・松平鍋五郎信成(1000石)の屋敷において、同家用人滝沢運兵衛興義・門夫妻の五男として生まれる。ただし、兄二人が早世、長兄興旨、次兄興春、妹2人の三男として育った。

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 安永4年(1775年)、馬琴9歳の時に父が亡くなり、長兄の興旨が17歳で家督を継いだが、主家(松平家)は俸禄を半減させた。翌安永5年(1776年)その措置に不満の長兄興旨は、10歳の三男馬琴に家督を譲り、松平家を去って戸田家に仕えた。母と妹も長男興旨とともに戸田家に移ったため、松平家には馬琴一人が残ることになった。次兄の興春は、これより先に他家に養子に出ていた。

 馬琴は主君の孫・八十五郎(やそごろう)に小姓として仕えたが、この八十五郎はかんしゃくもちでちょっとのことで、荒れ狂い、手がつけられない。主従の生活に耐えかね、安永9年(1780年)、14歳の時に松平家を出て母や長兄と同居した。

天明元年(1781年)、叔父のもとで元服して左七郎興邦と名乗った。長兄興旨(俳号・東岡舎羅文)とともに越谷吾山に師事して俳諧を深めた。17歳ではじめて馬琴の号を用いて、吾山撰の句集『東海藻』に3句を収録している。天明7年(1787年)21歳の時には俳文集『俳諧古文庫』を編集。また、医師の山本宗洪・山本宗英親子に医術、儒者黒沢右仲・亀田鵬斎に儒書を学んだが、馬琴としては、医術よりも儒学を好んだ。

馬琴は、兄と母にいる戸田家に同居し、長兄の勤務先である戸田家の徒士になったが、自身の自尊心の強い性格から長続きせず、その後は、武家の渡り奉公を転々とした。この時期の馬琴は放蕩無頼の放浪生活を送った。のちの回想録に「放逸にして行状を修めず、故に母兄歓ばず」書いている。天明5年(1785年)、母の臨終の際、馬琴の所在がわからず、兄たちの奔走でようやく間に合った。また、貧困の中で次兄が急死など、馬琴の周囲は不幸が続いた。

医師のところで勉強したように書かれているが、実際は、放蕩三昧で遊びまわったツケで、梅毒のかさぶたが悪化し、それを治したいのが理由で、このころ医師に入門したようである。治療をして、ついでに山本宗洪・山本宗英親子に医術を教えてもらった。というのが事実に近い。

儒学など文系、文章を書くのが好きだった馬琴は、寛政2年(1790年)、24歳の時に山東京伝の弟子になろうとしたが、断られたが、出入りすることを許された。そこで、将来を託す仕事にようやくたどり着いた。江戸時代の年齢としては、晩生の出発である。

Otsu12黄表紙(きびょうし):江戸時代中期の1775年(安永4年)以降に流行した草双紙(一種の絵本)のジャンルの一つ。

 寛永3年(1791年)正月、「壬生みぶ狂言」を題材に黄表紙『尽用而二分狂言』(つかいはたしてにぶきょうげん)を刊行、戯作者として出発した。入門して一年、文章のセンスがあったので、作品が売れたと思われる。

Mtgwchgtjuu2jtg5jthcjuu5jthfjtk2y_2  この年、師匠の京伝が「手鎖の刑」を受け、戯作を控えることとなった。京伝は50日、手錠をはめたまま暮らす刑で、一週間に一回程度、役人が手錠をはずしていないか、調べに来た。手錠に紙がはってあり、その紙を破いていないか見るのであった。コレでも、微罪のほうである。

 この年秋、馬琴は洪水で深川にあった家を失い、京伝の食客となった。馬琴は実力が認められ、そのころ京伝の草双子本の代作を手がけ、江戸の出版社にも馬琴の名前が知られるようになった。
 寛政4年(1792年)3月、耕書堂(蔦屋重三郎)に見込まれ、手代として雇われた。武士だったものが、商人に仕えることを恥じた馬琴は、武士としての
名を捨て、通称を瑣吉に、諱いみなを解に改めた。諱いみな=人の本名(名)
字あざな=普段呼ぶ名称

 27歳の馬琴は、寛政5年(1793年)7月、蔦屋や京伝にも勧められて、三歳年上の履物商「伊勢屋」会田家の未亡人百(30歳)の婿となり、名を会田清右衛門と改める。
 伊勢屋(現・千代田区九段北一丁目築土神社)の家業には一切興味を示さず、近所の子供に手習いを教えたり、長屋の家守(家作の管理)をして生計を立てた。書家加藤千蔭に入門して書を学び、噺本・黄表紙本の執筆を手がけている。寛政7年(1795年)に百の母が没すると、履物商もやめ、気兼ねなく文筆業に打ち込む。姓も滝沢に戻した。

 結婚の翌年寛政6年(1794年)長女幸(さき)、寛政8年(1796年)二女祐(ゆう)が生まれた。のちの寛政9年(1797年)長男鎮五郎(のちの宗伯興継)、寛政12年(1800年)三女鍬(くわ)が生まれ、馬琴は合わせて1男3女の父親となった。

 寛政8年(1796年)30歳のころより、馬琴の本格的な創作活動がはじまる。この年耕書堂から読本『高尾船字文』が刊行された。これが馬琴の出世作となった。通俗的で発行部数の多い黄表紙や合巻などの草双紙も多く書いた。ほぼ同時代に活躍したのが、大坂では上田秋成である。享和2年(1802年)5月から8月にかけて、馬琴は関西地方を旅行し、太田南畝の紹介状をもらい、山東京伝の書画(売却して旅費に当てる)を受け取り、関西の文人と交流し、物語ゆかりの名所をめぐり、馬琴は私的な旅行記『羇旅漫録』を記している。

文化元年(1804年)刊行した読本『月氷奇縁』は名声を博し、読本の流行をもたらした。一恩人山東京伝と読本の執筆をめぐって対抗することとなった。文化4年(1807年)から刊行が開始された『椿説弓張月』や、文化5年(1808年)の『三七全伝南柯夢』によって馬琴は名声を築き、他方、京伝が読本から手を引いたことで、読本は馬琴の独壇場となった。文化11年(1814年)に、『南総里見八犬伝』肇輯が刊行された。文化13年(1816年)恩人であり競争相手でもあった京伝が没する。『南総里見八犬伝』の執筆には、文化11年(1814年)から天保13年(1842年)までの28年を費やし、馬琴のライフワークとなった。

 一人息子の興継は、山本永春院に就いて医術を修め、文化11年(1814年)には宗伯と名乗る。文政元年(1818年)、馬琴は神田明神下石坂下同朋町(現・千代田区外神田三丁目、秋葉原の芳林公園付近)に家を買い、ここに滝沢家当主として宗伯を移らせた。

長男宗伯は、文政3年(1820年)には陸奥国梁川藩主(のち北海道松前藩主)松前章広出入りの医者となった。老公松前道広が馬琴の愛読者であった縁で就職した。宗伯が俸禄を得たことで、武家としての滝沢家の再興を悲願とする馬琴の思いは半ば達せられたが、宗伯は多病で虚弱体質であった。

文政7年(1824年)、58歳の馬琴は、神田明神下の宗伯宅を増築して移り住み、宗伯と同居した。馬琴は隠居となり、剃髪して蓑笠漁隠と称するようになった。長女幸(さき)に婿養子を迎え、清右衛門と名乗らせて元飯田町の家財一切を譲り、分家させたのもこの時である。馬琴は、文人を集めた「耽奇会」「兎園会」なども主宰した。

馬琴は家の庭には、柿、朝顔、ざくろなど果樹を植え、現金収入を増やそうとした。武士出身にしては、こういう収入源を増やす算段は目端が利いたというか。細かい人のようだった。庭には、畑があり、インゲン豆、ぶどう、梅もつくっていた。取れたぶどうは110房で、それを金二朱銭148文で売った。朝顔はかご二杯で金一分で売った。便所の汲み取りも、6人(大人4人、子供2人)でなすを250個持ってきたら、「子供二人で大人一人分だから、なす300個」と主張して百姓を納得させた。ただし、使用人が一人減った年には、ナスの本数を減らした。その几帳面さは驚く。

長屋を持っていて、その家作から収入が上がるようにしていた。この長屋の不動産は、武士階級に副収入としては安定していたので、当時、不動産売買は高額な取引になっていた。

こうして、銭に細かくなったのは、医師となった長男宗伯は妻と子供二人を残して若くして亡くなったので、馬琴の世話になっていた。使用人が6人いたから、収入については細かくなったようだ。(図解「江戸の四季と暮らし」参照)

Bakin2 天保4年(1833年)、67歳の馬琴は右眼に異常を覚え、まもなく左眼もかすむようになる。天保6年(1835年)、宗伯が死去するなど、家庭的な不幸も相次いだ。馬琴は孫の太郎に滝沢家再興の希望を託し、天保7年(1836年)には四谷鉄砲組の御家人株を買っている。御家人株購入のため、馬琴は蔵書を売り、気の進まない書画会を開いた。神田明神下の家も売却して四谷信濃仲殿町(現・新宿区霞岳町)に移住することとなった。

天保10年(1839年)、73歳の馬琴は失明し、執筆が不可能となった。このため、故宗伯(息子)の妻みち(土岐村路)が口述筆記をする。お路に文字を教えながら、秘書としての能力を育てた。お路が馬琴の作家生活に欠かせない存在になるのに対して、妻のお百が嫉妬し、家庭内の波風は絶えなかったが、そのお百も、天保12年(1841年71歳)に没した。

当時の人は、文字を知らないのは学習の機会がなかっただけで、能力がないわけではない。覚えれば力をつける人がいた。現代は能力がないのに勉強しようとするから、逆に苦痛が伴うのだろう。

天保12年8月、『八犬伝』の執筆が完結し、天保13年(1842年)正月に刊行される。馬琴は「回外剰筆」において、読者に自らの失明を明かすとともに、お路との口述筆記の辛苦を書き記している。滝沢一族と自らの歴史の記録『吾仏乃記』は、文政5年(1820年)に滝沢家の家譜が書き上げられ、その後20年間にわたって書き継がれていくことになる。馬琴は非常に精緻な日記を書き残した。散逸や、関東大震災による焼失を経て、中年以後の日記が残っており、貴重な資料となっている。馬琴の失明後は路が日記を代筆し、死後も書き継いだ。『路女日記』として刊行されている。

H1011041 曲亭 馬琴(きょくてい ばきん、明和4年6月9日(1767年7月4日) - 嘉永元年11月6日(1848年12月1日))嘉永元年(1848年)82歳で死去する。命日の11月6日は「馬琴忌」とも呼ばれる。
法名は著作堂隠誉蓑笠居士。墓所は東京都文京区の深光寺

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