« 男の言葉、女の期待 丸山家の場合 | トップページ | 東を征服せよ=ウラジオストック(ロシア) ! »

2011年9月10日 (土)

海軍乙事件 福留繁参謀長 マリアナ沖海戦

Ws000011_2 マリアナ海戦の戦果 「NHK戦争動画」で検索したのち、「兵士の戦争」を見た。その中で、ミッドウエィの敗戦をマリアナ沖海戦で日本軍が、一気呵成に挽回しようとしたら、逆に米軍にコテンパンにやられた。それが、この動画である
マリアナ沖海戦 破綻した必勝戦法 ~三重県・鈴鹿海軍航空隊~ 

[1]  連合艦隊が総力を挙げて臨んだマリアナ沖海戦
[2]  隠蔽されたミッドウェーの敗戦
[3]  読まれていた切り札、アウトレンジ戦法
[4]  飛行訓練もできないまま迎えた、マリアナ沖海戦
[5]  アウトレンジ戦法の破綻

「1日1回応援クリック お願いします!」
   ↓   ↓   ↓   ↓

人気blogランキングへ 今後とも、ブックマーク(お気に入り)で、継続的に追読して頂けると、嬉しく思います。 ブログ村 nozawa22 ←クリック

 負けた理由は簡単だ。日本軍の作戦機密事項がすっかりアメリカ軍に筒抜けになっていたというのだ。それは、海軍乙事件(かいぐんおつじけん)に理由があった。

海軍乙事件:
太平洋戦争中の1944年(昭和19年)3月31日、連合艦隊司令長官 古賀峯一海軍大将が搭乗機の墜落により殉職した事件

 事件概要 
 1944年(昭和19年)2月のトラック島空襲の後、連合艦隊は拠点としてパラオを利用していたが、同年3月にアメリカ連合軍の大空襲を受け、総司令官古賀古賀峯一ら司令部要員は、3月31日、飛行艇(二式大艇)でミンダナオ島のダバオへ移動を図った。

 途中で低気圧に遭遇し、連合艦隊司令長官 古賀峯一が乗っていた一番機は行方不明となり、司令部要員7名を含む全搭乗員とともに古賀司令長官も殉職し、元帥の称号が与えられた。古賀の殉職は、しばらくは国民に隠されて、同年の5月5日に発表された。

 二番機もセブ島沖に不時着し、搭乗していた福留繁参謀長以下の連合艦隊司令部要員3名(他、山本祐二作戦参謀、山形掌通信長)を含む9名は、泳いでセブ島に上陸した。
 ところが、米軍指導のゲリラに捕虜となった。3月8日に作成されたばかりの新Z号作戦計画書、司令部用信号書、暗号書といった最重要軍事機密を、大急ぎで、かばんと共に川に投げ込んだ。すぐに現地ゲリラに回収された。参謀長以下、連合艦隊司令部要員は、拘束時に大した抵抗もせず、自決、機密書類の破棄もしなかった。この書類が敵に渡った場合の重大性にピンときていない。命に代えても守らなくてはならないという必死さが伝わってこない。

 このあたりの態度も、兵士には、軍人勅諭で「俘虜となるなかれ」と捕虜になることを禁じているが、上層部の人間は死をおそれているように見える。あるいは、国際捕虜の取引が出来ることを知ってか、抵抗もしないのは、ちょっと解せない。

 元々フィリピンはアメリカの植民地であり、住民の感情は親米的であった。そのため、日本によってフィリピンの支配が続いていた間も、アメリカは潜水艦から連絡員を送り込むなどして現地のゲリラと連携し、その組織化に手を貸していた。
 日本側のセブ島の守備隊長はゲリラのリーダーに対して、「解放しなければ報復を加える」と、取引に応じるようにゲリラ側を脅した。このことにより福留等は解放されたものの、機密資料の入ったカバンはゲリラに没収され、作戦計画書等の機密文書はゲリラからアメリカ軍に渡り、ブリスベーン郊外の連合国軍翻訳通訳部で、アメリカ陸軍情報部(Military Intelligence Service, MIS)の要員によって翻訳された。(
Wikipedia

Ws000016  福留繁参謀長は、この墜落で機密書類を抵抗もせずに奪われる大失態を犯し、解放された後、福留は、海軍次官沢本頼雄中将らから事情聴取を受けるが、本人が徹底して容疑(機密書類の没収)を否定、海軍上層部はエリートを重刑にかけることを避け、機密書類紛失は不問とした。福留繁参謀長は、6月には現職を離れ、第二航空艦隊司令長官に栄転。

 この機密文書が奪われたために、日本海軍が計画した「あ」号作戦(マリアナ沖海戦)の情報が詳細な部分までアメリカ軍に漏れ、アメリカ軍は、それを元に十分な対策を立てていた。

 機密文書が奪われた事実を前線の日本軍将兵は知らないまま戦い、一方的な敗北。戦後米国が公開した翻訳文書から、福留繁中将がもっていた機密書類が米国に渡っていた証拠が発見され、福留が自分の失敗を隠蔽していたことが明らかとなった。大うそつき。

 福留繁参謀長は、現在の鳥取県西伯郡の農家に生まれ、明治38年(1905年)年4月鳥取県立米子東高等学校に入学。貧乏で四里(16キロ)の道を歩いて通学した。福留は、意思がつよく、勤勉であったことはわかる。それが、唯一の価値として評価される。海軍を志したのは「学資のいらない軍人学校」ということからだった。

 1912年7月、海軍兵学校を卒業(40期)。1926年11月、海軍大学校甲種を首席卒業(24期)。1932年12月、欧米各国へ派遣。1933年11月、海軍大佐へ進級。以後、連合艦隊(旧字体:聯合艦隊)参謀→軍令部第一課長→支那方面艦隊参謀副長→長門艦長などを歴任する。

 福留繁は優秀な成績で、海軍大学校甲種を首席卒業。よくあることだが、政府中枢の地位を占めている人物が犯す犯罪である。大阪地検の●●特捜部長は、部下がフロッピー作成日付変更を報告したにもかかわらず、自分の罪を認めない方針で戦うとしている。 ●●特捜部長 前田検事 塚部貴子検事
 これは、この福留参謀長と同じく、「組織が守ってくれる」と信じているようだ。日本の運命に関わるマリアナ沖海戦の情報が完全に漏れていると知って、そのまま戦ったら日本は大敗北することを知っていたのは、重大犯罪である。「不作為」というより、むしろ「作為あり」ではないか。

 機密書類が奪われた容疑を徹底否定→海軍上層部は機密書類紛失は不問→6月第二航空艦隊司令長官に栄転。栄転して、現場を離れて、「あ」号作戦(マリアナ沖海戦)は情報漏れ→それを元に米軍は十分な対策を立て、日本軍は一方的な敗北。その結果サイパン陥落により日本本土への戦略爆撃が開始された。これは福留参謀長の重大な背信行為。特に連合艦隊参謀長という守る側の最高責任者としての日本を裏切った、利敵行為の罪は重い。敵前逃亡以上の罪だ。惨敗している海軍を涼しい顔でみているのだから、役人は凄い神経をしている。

 戦後30年経過後、米国が公開した文書の中から機密書類が米国に渡っていた証拠が発見された。福留が自分の失敗を隠蔽していたことが明らかとなった。
 自ら自分の非、罪、咎をを認めるという習慣がないのは、どうなんだ!秀才、優秀な武人がこうした範を示していいのだろうか。彼が、意思がつよく、勤勉であったことが、こうした徳と結びつかないのは、教育上の大きな課題である。

福留 繁(ふくとめ しげる、明治24年(1891年)2月1日 - 昭和46年Fukudome_shigeru(1971年)2月6日):昭和46年、90歳まで長命を保った。多くの二十歳前後の兵士が昭和20年前に死んでいるなか・・・。

 海軍中将福留繁について、こんなエピソードがある。合同訓練の際、連合艦隊司令長官は山本五十六が「飛行機でハワイをやれないか」と(当時の軍事常識を超えた発想を)呟いた際に、福留参謀長が「それより(当時の軍略常識で)艦隊全部を押し出して決戦した方がいい」と答えた。
 彼は、海軍内に多かった大艦巨砲主義者の典型。海軍乙事件の失態では、助かった中の一番地位が上の福留は、利己的性格を押し通した。彼の態度を見て部下は、それを裏切った発言はできないだろう。
 山本五十六が嫌う典型的な「頑迷な鉄砲屋」で、日本海軍の成績重視教育の賜物ともいう思考と人物像に加え、教科書通りの戦術、戦略しか立てられず、柔軟性に欠いていた。古賀長官就任時点で、福留は新しい近代戦を任せられる人材とはいえなかった。

 あとから福留の欠陥を指摘しても、直るものではないし、この戦争の責任を問えるわけでもない。しかし、現代に置き換えて、官僚の態度と比較してみると、何か似たにおいがする。典型的な刻苦勉励、成績至上主義の秀才には、新しいアイディアは生まれない。

 現代にも、官僚組織の中で、新しい海軍乙事件が生まれる可能性がある。そんな警告にしてみたい 

海軍軍令部はどんな反省をしたのか  
ミサイルとMDに戦争の悲惨さはない 
陸軍中佐沼田正春 幼い息子に遺訓
太平洋戦争 開戦から学徒動員まで   
嗚呼 満蒙開拓団 岩波ホール盛況なり  
橋本艦長 回天出動せず 真夏のオリオン  

動画で見る 日本の歩んだ歴史と戦争

「1日1回応援クリック お願いします!」
   ↓   ↓   ↓   ↓

人気blogランキングへ 今後とも、ブックマーク(お気に入り)で、継続的に追読して頂けると、嬉しく思います。 ブログ村 nozawa22 ←クリック

|

« 男の言葉、女の期待 丸山家の場合 | トップページ | 東を征服せよ=ウラジオストック(ロシア) ! »

コメント

 海軍中将福留繁は、合同訓練の際、連合艦隊司令長官は山本五十六が「飛行機でハワイをやれないか」と呟いた際に、福留参謀長が「それより艦隊全部を押し出して決戦した方がいい」と答えた。海軍内に多かった大艦巨砲主義者の典型。
福留は、海軍乙事件の失態で利己的性格を押し通した。山本五十六が嫌う典型的な「頑迷な鉄砲屋」で、日本海軍の成績重視教育の賜物ともいう思考と人物像に加え、教科書通りの戦術、戦略しか立てられず、柔軟性に欠いていた。
現代官僚に置き換え、比較してみると、旧軍人と現代官僚、何か似たニオイがする。

投稿: 海軍中将福留繁 | 2012年12月28日 (金) 17時20分

はじめまして
わたしのBlogに貴記事を2本、リンクさせていただきました。不都合な場合は、取り消しますので、恐れ入りますが連絡お願いいたします。
時間が無くて全体的にはまだ拝読しておりません。
失礼いたします。

投稿: Bruxelles | 2016年2月26日 (金) 13時06分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 男の言葉、女の期待 丸山家の場合 | トップページ | 東を征服せよ=ウラジオストック(ロシア) ! »