« 原子力と原爆と原発、みんな同じだろうか | トップページ | 動画で見る 日本の歩んだ歴史と戦争 »

2011年8月 9日 (火)

原爆投下 情報は軍上層部に届いていた

Photo 戦時中の通信諜報活動、日本軍は弱いと言われているが、テニアン、硫黄島から発信する電波を傍受して、日本では通信士が聞いて、それを解析していた。アメリカ軍の通信文は暗号化されていたから、内容を把握することはできなかった。しかし、内容を送信する前に、発信地番号のようなV475とか、V575,V757 4と5と7は、日本へB29が発進するときは、ワシントン宛に各基地番号V475、V575,V757 という信号が出されているのを日本側で把握していた。NHK「活かされなかった極秘情報」から書いています。 不正確な点がありましたらお知らせください。

1日1回応援クリック お願いします!」
   ↓   ↓   ↓   ↓

人気blogランキングへ 
今後とも、ブックマーク(お気に入り)で、継続的に追読して頂けると、嬉しく思います

Enola 広島原爆投下したエノラゲイ 通信傍受から、戦時中、空襲警報、空襲警戒警報として「東海管区軍管区情報」として、アナウンサーが「警報、警報、敵機何百機、硫黄島上空何百メートル・・・、相模湾を目指し・・・」とラジオから流れてくるのだった。

千葉県房総の小高い場所に日本陸軍の通信傍受施設があって、そこで通信兵をしていた方から話を聞いたことがある。数年前、千鳥が淵戦没者墓苑掲示板前で聞いた、その方の話は、広島で原爆(新型爆弾)が落ちて、市内は壊滅状態だという情報を一番に知った、ということだった。

原爆投下は、広島へ単独にB29が上空にきて、突然落として去って行った、ような話であるが、実は日本軍の通信傍受でかなり、原爆投下の可能性がある動きを知っていた、というのが、NHKの番組の趣旨である。

Saimapsaipan1 Photo_3 米軍の内容文は暗号化されて、通信傍受しても解明できなかったが、発信地番号で、テニアン(サイパン南隣)、硫黄島などのV475とか、V575,V757 4と5と7から、米軍の動きは把握していた。そこへV675部隊が割り込んできた。その6部隊の飛行機は台数が少なく、内容はつかめないが、特殊任務ではないか、と予測していた、という。

日本でも、理化学研究所で原子爆弾の研究をしていた。茨城あたりで学生などを動員してウラン鉱石を採掘していた。岐阜県苗木でもウラン鉱石が発掘していた時期がある。アメリカも日本も、原爆の開発研究を必死に進めていた。原爆開発には大掛かりな設備必要で、日本の財力ではあきらめたと説明していた。日本ができないなら、アメリカもできないだろう、と結論つけて研究の挫折を正当化してしまっていた。

 ところが、アメリカの原爆開発は完成して、コレを日本に投下して実験してみようという段階で、V6飛行隊が、ほかの部署には秘密に計画が進められ、テニアンに集結していたのだ。

Ws000001Ws000002 アメリカの秘密計画は、日本でも薄々気づいていた。アメリカ側の原爆研究、原爆完成の情報は断片的に伝わっていたが、日本の上層部に共有されていなかImagescamn0rjbった。テニアンからのコールサインを8月6日、通信傍受して特殊部V6部隊の動きはつかんでいた。通信兵はその情報は上司に伝え、担当責任者は、参謀本部に伝えた。

 現場では、特に前日から徹夜で動きを警戒していた。午前7時過ぎ、広島へB29が気象情報を収集に単独で飛んできて去ったので、参謀本部からの連絡はないので、警戒解除した。その1時間後にエノラゲイに原子爆弾を搭載したB29 が飛来し、午前8時15分、無警戒の広島へ原爆投下!空襲警報さえ出されないまま、原爆は人々の頭上で炸裂した。情報は軍上層部にも伝えられたが、その情報は活かされなかった。

 そうなのです。今のトップは地位は高いのだが、情報に敏感ではない。現場のエキスパートのほうがしっかり情報を理解している。判断を上に任せていると安心であるが、上層部は賢いと思っていると、ぜんぜんダメという場合がある。このB29の動きに切迫感がない。テニアンに来たV6飛行隊を現地通信員が疑義を抱いたのと同じレベルで司令官は敏感に感じるべきだ。現代政治家、官僚は日本を代表して死に物狂いで敏感に舵取りをしてほしい。これが、トップの責任である。

 8月4日、B-29エノラ・ゲイ号は最後の原爆投下訓練を終了。マリアナ諸島テニアン島北飛行場に帰還。翌8月5日21時20分。
Photo  8月6日午前7時過ぎ、エノラ・ゲイ号に先行して出発した気象観測機B-29の1機が広島上空に到達した。イーザリー少佐のストレートフラッシュ号である。7時15分ごろ、同機はテニアン島の第313航空団に気象報告を送信した。「Y3、Q3、B2、C1」(低い雲は雲量小さい、中高度の雲は雲量薄い、高い雲は雲量薄い。助言:第1目標(広島)を爆撃せよ)。
 この気象報告を四国沖上空に進行中のエノラ・ゲイ号が傍受、投下目標が広島に決定された。日本側でも、気象観測ストレートフラッシュ号は捕捉しており、中国軍管区司令部から7時9分に警戒警報が発令された。広島上空を通過離脱したため、7時31分に解除された

 8時すぎ、B-29少数機(実際は3機)が日本側によって確認され、8時13分、中国軍管区司令部は警戒警報の発令を決定したが、各機関への警報伝達は間に合わなかった。
 8時9分、中国軍管区司令部が警報発令の準備をしている間に、エノラ・ゲイ号は広島市上空に到達。高度は31,600ft(9,632m)。まず原爆による風圧等の観測用のラジオゾンデを吊るした落下傘を三つ落下。青空を見上げた市民たちに目撃されている。
 投下目標(AP)を相生橋に合わせた。相生橋は広島市の中央を流れる太田川が分岐する地点にかけられたT字型の橋である。特異な形状は、上空からでもその特徴がよく判別できるため、目標に選ばれた。
 8時15分17秒、原爆リトルボーイが自動投下された。3機のB-29は投下後、熱線や爆風の直撃による墜落を避けるためにバンクして進路を155度急旋回した。

 
リトルボーイは爆弾倉を離れるや横向きにスピンし落下した。尾部の安定翼が空気を掴み、放物線を描いて約43秒間落下し、相生橋よりやや東南の島病院付近高度約600メートルの上空で核分裂爆発を起こした。(Wikipedia参照

 テニアンV675、という発信、8月6日の広島原子爆弾と同じ動きだ。通信傍受担当は、8月9日、再び同じコールサインを傍受、「第2の原爆」と確信した。8月9日長崎に原爆投下は午前11時である。その五時間前に、広島への原爆投下のときと同じ通信傍受した。その通信を傍受したので、そのことの重大性を感じて、担当参謀へその情報を上げた。

参謀のトップから、参謀本部の側近に伝え、そこからトップ判断と対応が降りてくるはずだったが、傍受した情報に対して、何のアクションもなかったというのが、事実らしい。

終戦時、この原子爆弾が日本に投下されたまで、日本軍は寝耳に水と言う印象であるが、アメリカの原子爆弾研究が進んでいることも、東條あたりは知っているし、V6部隊の動きも、長崎のときには、5時間前に情報をつかんでいる。

 8月9日はソ連が日ソ不可侵条約を破って、参戦して来た日でもある。陸軍のトップを含め、戦争指導者は長崎原爆投下のこの時間帯は、御前会議の最中であった。陸軍は、広島の新型爆弾は原子爆弾とは断定できない、といい、原爆投下されても、戦争の続行は可能であるといいう姿勢であった。降伏を認めたら、最高戦争指導者会議のメンバーは、全員責任をとらされる、という意識があったのではないか、という。

Shidenkai 広島へ原爆を落とされたとき、戦闘機「紫電改」で広島の近くを飛んで鹿児島へ帰還途中であった大村飛行隊員本田稔は、爆風を受け、機体が大きく揺れ操縦不能に陥り、500メートルも落下し、ようやく体勢を挽回できたと証言。彼は、B29 が単独で原爆を抱えてきたら、戦闘機を体当たりしてでも打ち落とすことが任務であると思ったという。原子爆弾の被災後、広島へ被災者救助に何度も何回も往復した。その被爆者の丸裸でやけだだれた姿を見て、軍人として市民の姿を見て、泣けて・・・と語っていら。本田稔は現在90歳。

次に原爆のB29 が飛来したら、単独でも迎撃するつもりでいた。鹿児島にはそれでも数機の戦闘機は残っていたから、指令さえでれば、長崎に原子爆弾の投下は阻止できた。それを思うと、残念で仕方がないと90歳に達しようとする本田稔はいう。

B29ボックスカーは、原爆を搭載し、9時にテニアン島を飛び立った。目的地は小倉、しかし天候不良のために目標を変え、第二目標地長崎へ向かった。軍上層部は、この動きを確認していた。また、原爆を積んでいるとは知らせず、大村飛行隊への迎撃命令を発しなかった。本田稔さんは、軍上層部が長崎に飛来したB29を把握していたいう事実をNHK取材を受けるまで知らなかった。

 広島で観測機B-29「グレート・アーティスト」を操縦したスウィーニー少佐は、二度目の原爆投下作戦の指揮を執ること、第一目標が福岡県小倉市(現:北九州市)、第二目標が長崎市である、と告げられた。
040809us
長崎原爆投下したボックスカー 指示された戦術は、1機の気象観測機が先行し、気象状況を確認し、その後、護衛機無しで3機B-29が目標都市上空に侵入する、であった。広島市への原爆投下と同じ戦術では、日本軍がこれに気付いて迎撃阻止するだろう、とスウィーニーは懸念を抱いた。
 
 8月9日9時44分、小倉陸軍造兵廠上空へ到達。しかし爆撃手ビーハン陸軍大尉が目視による投下目標確認に失敗。その後、別ルートで爆撃航程を繰り返すものの再び失敗、再度3度目も失敗。この間およそ45分間が経過した。
 この小倉上空での爆撃航程失敗のため残燃料に余裕がなくなり、その上ボックスカーは燃料系統に異常が発生し、予備燃料に切り替えた。その間に天候が悪化、日本軍高射砲からの対空攻撃が激しくなり、また、芦屋基地から飛行第59戦隊の五式戦闘機、海軍築城基地から第203航空隊の零式艦上戦闘機(零戦)10機が緊急発進してきた事も確認されたので、目標を第二目標である長崎県長崎市に変更し、午前10時30分頃、小倉市上空を離脱した。

 ボックスカーは小倉を離れて約20分後、長崎県上空へ侵入、午前 10時50分頃、長崎上空に接近した。高度1800mから2400mの間が、80~90%の積雲で覆われていた。スウィーニーは目視爆撃が不可能な場合、太平洋に原爆を投棄せねばならなかったが、兵器担当のアッシュワース海軍中佐が「レーダー爆撃でやるぞ」とスウィーニーに促した。命令違反のレーダー爆撃を行おうとした瞬間、本来の投下予定地点より北寄りの地点が、雲の切れ間から一瞬だけ眼下に広がる長崎市街が覗いた。ビーハンは大声で叫んだ。
20090810124854「街が見える!」
「雲の切れ間に第2目標発見!」
 スウィーニーは直ちに自動操縦に切り替えた。工業地帯を目標として、高度9,000mからMk-3核爆弾ファットマンを手動投下した。
 ファットマンは放物線を描きながら落下、約1分後の午前11時2分、長崎市街中心部から約3kmもそれた別荘のテニスコート上空、高度503mで炸裂した(長崎市松山町171番地)。
(Wikipedia参照

番組は、「国を導くものの責任の重さを今の時代に問いかけています」と結んでいる。現場でつかんだ情報が、上に上がっても、その重要性が把握できない能力がないのか、感受性の弱い上官が意外と多いのかもしれない。コレは現代の政治家と官僚にもいえそうで、空恐ろしい。

動画で見る 日本の歩んだ歴史と戦争 不毛地帯(山崎豊子)主人公モデル瀬島龍三 動画 一億玉砕への道・日ソ終戦工作 おひさま 昭和20年 復員のよろこび 朝ドラ おひさま 兵隊さんよ ありがとう 

戦 争  講和条約 日本は占領されていた  終戦 荒廃した国土 忘れるな   復員兵が帰ってきた 昭20年秋    ある憲兵の記録 日本人のDNA   復員教師の人生観、厳しさ  僕らの八月十五日   戦争の記憶が薄れるご時世 1  戦前の軍歌は巧妙にできている  戦争の影響 女たちの不幸  赤紙召集令状のからくり   「語りつぐ戦争」投書 戦陣訓とは 

陸軍中佐沼田正春 幼い息子に遺訓   拝啓、社民党代表福島さんにお願いが   証言記録 学童疎開、東京大空襲  何で日本は戦争したの?  日本人は「戦争」を選んだ加藤陽子   赤紙をもらったアルマ 軍用犬   戦争とは、こんなもの 70年前の写真  怨みに徳をもって報いる 以怨報徳  日清戦争で日本人の意識が変わった

1日1回応援クリック お願いします!」
   ↓   ↓   ↓   ↓

人気blogランキングへ 
今後とも、ブックマーク(お気に入り)で、継続的に追読して頂けると、嬉しく思いますブログ村 nozawa22 ←クリック

ポチッとよろしく!

|

« 原子力と原爆と原発、みんな同じだろうか | トップページ | 動画で見る 日本の歩んだ歴史と戦争 »

コメント

現場では、特に前日から徹夜で動きを警戒していた。午前7時過ぎ、広島へB29が気象情報を収集に単独で飛んできて去ったので、参謀本部からの連絡はないので、警戒解除した。

投稿: 参謀本部のバカ | 2012年9月 7日 (金) 02時25分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 原子力と原爆と原発、みんな同じだろうか | トップページ | 動画で見る 日本の歩んだ歴史と戦争 »