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2011年7月 5日 (火)

宮沢賢治似の反原発科学者 高木仁三郎

63596368 小宮悦子の日曜日の番組内で、発掘人物秘話で、高木仁三郎を見つけた。

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彼は、一貫して庶民一般人の立場に立って、原子力科学知識を使おうとして生涯を通した。東大の助手の地位で公開講座を続けた宇井純と似た点もある。

高木 仁三郎(たかぎ じんざぶろう、1938年7月18日 - 2000年10月8日):日本の物理学者、理学博士(東京大学)。 専門は核化学。群馬県前橋市出身。父は開業医。
  群馬大学教育学部附属中学。群馬県立前橋高等学校、東京大学理学部化学科卒業。独立シンクタンク・原子力資料情報室を設立、政府の原子力政策に分析・提言。原子力発電の持続不可能性、プルトニウムの危険性について、専門家の立場から警告を発し続けた。
  特に、地震の際の原発の危険性を予見し、地震時の対策の必要性を訴えた。
これが、「東日本大震災と福島原発事故を予見した」といわれる。脱原発、脱原子力運動を象徴する人物。1980年代末、スリーマイル、チェルノブイリ事故当時、新聞、テレビ等での発言も多かった。

実験科学者である私は、
自らの社会生活を実験室として、
農民や漁民の不安を共有するところから
出発するしかないだろう。
原発サイトには使用済み核燃料も貯蔵され 
また集中立地が目立つ
福島浜通りのような集中立地点を 
大きな地震が直撃した場合など
どう対処したらよいか 想像を絶する。

6369 群馬県の名門、前橋高等学校で成績トップで、当然東京大学(理学部化学科)へストレート入学。同級生が未だに、彼がクラスを牽引するオピニオンリーダーだったと語っている。実家の父は医師で、6人兄弟。全員優秀な兄弟であった。

6383_2   大学卒業後、原子力関連の仕事についた。原子力推進の側に立っていたのは当然であるが、その後都立大で教鞭をとっているとき、教職員で成田闘争の支援をしようとグループを作って行った。そこで見たものは、国家権力のブルトーザーで、農民をこともなげに排除していく現実を見て、自分が支援しようとした農民とは違う側、ブルトーザーの側に立って、原子力の推進をしていることに気づいた。

それから、原子力資料情報室を設立して、原子力の知識を反原発の人々への支援し、多くの団体をまとめていく立場に立った。その大衆運動をしながら、科学者としての仕事が疎かになる点で、自分の立つべき立場に悩みが生じた。

6397_6398 あるとき、宮沢賢治の羅須地人協会(らすちじんきょうかい)を訪れて、一枚の「羅須地人協会」の設立趣意書を10円で手に入れた。そのとき、宮沢賢治の庶民、農民と共に、国を憂い、実践活動に飛び込んだ意気を知ったことが大きいのではないか。

宮沢賢治は、生徒に対して「農民になれ」と教えながら、自らが俸給生活を送っている点への葛藤から、教師を辞任してもっぱら無職、あるいは農民になってしまった。

この宮沢賢治、昼間周囲の田畑で農作業にいそしみ、夜には農民たちを集め、科学やエスペラント、農業技術などを教えた。また、それとともに自らが唱える「農民芸術」の講義も行われた。

高木仁三郎は、それをまねたとは、言っていないが、彼の生涯はそれに似ているように感じる。多くの学生が、東大卒業後、エリートコースや高給とりの一流企業に就職して生涯を安泰に暮らすことを目指す。安泰の道を選ぶか、市民科学者の道かの選択に悩みがないとは言い切れないが、他の人にくらべ、一途に進む環境はあっただろう。

宮沢賢治の農民のため、生産者のため、国家のために自分を捧げたいと必死に願っている。その姿に高木仁三郎が感動したのは感じられる。宮沢賢治は、「羅須地人協会」でエスペラント語、タイプライター、その他、新しい技術を教えようと東京へ出かけている。上京中、父親に200円(当時米1升が45銭程度)の援助を求めた書簡が残されている。賢治が活動費用を実家に頼った。

 こう見ると、意外と、多くの芸術活動する人は、いいとこの坊ちゃんの余技のようにも見える。そういえば、白樺派の文学者も多くは地主などの有産階級に子弟だ。太宰治にしても青森の大地主の子。高木仁三郎の業績にケチつける気はないが、医師の家に生まれ、成績優秀な人には、チマチマした生活費の心配はなかったのだろうか。多くの改革者は、そういう豊かな背景がないと進めない。そういう意味では、育ってきた環境が貧しい人は現体制に食い込むことに生涯を費やす傾向がある。

 やはり、研究が疎かになると悩んだ時期があったが、宮沢賢治の羅須地人協会の活動を知ってからは、自分の果たすべき仕事を真剣に考えて、大衆と共に自分の研究はあるべきだということで、腰が据わってきたと思う。

6440  しかし、大衆運動の高まりで、脱原発法制定の署名活動を続け、数十万の署名を集め、大衆運動も高木仁三郎のねらいは国会で立法化であった。国会正門前で多くのデモ隊で一杯になった。それが既成政党を動かすことにはならず、彼の気持が一番折れたときだった。

6362_2  彼はウツになった。このことに気づいて妻は、医師の兄に相談したのだろう。「しばらく休むよう」に言われた、らしい。数ヶ月は、静かにしていたが、また活動を始めた。心が弱くなったときも、運動が乗ったときも、妻の理解と支援が大きい感じがする。

6430 6415 「朝までテレビ」で、反原発論客として高木仁三郎、原発推進論客として(東京電力原子力本部副本部長)加納 時男とやりあった映像が残っている。その体制派の論客加納時男からも、尊敬されている。

加納 時男(かのう ときお、1935年1月5日 - ):日本の政治家。元参議院議員(通算2期)。議員時代は自由民主党・宏池会所属していた。母方の叔父に藤山一郎がいる。
1957年東京大学・法学部(私法)卒業。東京電力入社。1988年、取締役原子力本部副本部長に就任。以降、代表取締役常務、副社長(原子力担当)を歴任。
1998年 第18回参議院議員通常選挙に経団連組織内候補として自由民主党公認で比例代表で、当選。国会議員の中ではエネルギー問題に精通する数少ない議員で、2002年のエネルギー政策基本法の成立に尽力。
 この間、朝まで生テレビ!の原発討論の回には推進側パネリストとして出演したのをはじめ、世相を斬る(フジテレビ)、スーパーモーニング(テレビ朝日)、NHK、日本テレビ、TBS、テレビ東京などに多数出演。

高木仁三郎は、2000年、60代始めに大腸がんで生涯を終えた。
6483 「本当に長い間、ありがとうございました。
とにかくも反原発の
市民科学者としての一生を
貫徹することができました。」
という言葉を残し、この世を去った。

6485  科学を信じ、科学に一生をささげた高木仁三郎、今の日本に何を見ているのだろうか。仁三郎の遺骨は、故郷前橋を望む赤城山連峰鍋割山に散骨された。・・・と、ナレーションが流れ、その紹介は終わった。

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コメント

初めまして。
高木さんのことを知って頂くのは嬉しいですが、いいところの坊っちゃんというのは違います。頭が良かったのは確かですが、今と違って高木さんのお父さんは儲けなどない貧乏医者だったと自伝に書いてありますし、高木さんが中学生の時には亡くなられています。高木さんは大学の教職を辞められてからは翻訳の仕事で何とか食いつなぐという大変貧乏な生活でした。ただ貧乏を苦にしない性格だっただけです。恵まれていたから出来たというわけではないですよ。

管理人 
ご意見、ありがとうございます。ご当人を直接しりませんので、筆が滑ったかもしれません。それだったら、お詫びします。
 幼いうちに余裕がないと、豊かな個人生活を目指すだけの人間になりやすいので、その点を読者向けに指摘しているだけで、高木仁三郎さんのことを「ぼっちゃん」だというのではないです。清貧で脱原発の運動を続けたというのでは、すばらしすぎる人物に見えませんか。差し支えなかったら、高木仁三郎さんとのご関係をお教えください。

投稿: ゆきの | 2011年7月 6日 (水) 22時02分

元祖、反原発の高木さんは 群馬の誇りです。

ところで「みんなで決めよう原発国民投票」のサイトですが 請求人、賛同人が ほとんど増えていません。
皆さん、民主主義が嫌いなんでしょうか?

管理人より
 日本人の国民性でしょうね。意思を明らかにして、責任を求められるのを避けているのでしょう。方向が決まったら、そのうまいところに、乗っかるのが一番有利と考えています。

投稿: 国定ちゅうこ | 2011年8月 3日 (水) 07時31分

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