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2011年7月18日 (月)

上を向いて歩こう いかにしてできたか

6743 「上を向いて歩こう」は、いかにしてできたか。ちょうど50年前、突如として出てきた。音楽の世界はみんな地上に芽を出すように、中村八大、永六輔、坂本九が結びついた。

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坂本九 上を向いて歩こう
http://youtu.be/E5Zmh_6Ngto

  上を向いて歩こう
 涙がこぼれないように
 思い出す春の日 一人ぼっちの夜

 上を向いて歩こう
 にじんだ星をかぞえて
 思い出す夏の日 一人ぼっちの夜

 幸せは 雲の上に
 幸せは 空の上に

 上を向いて歩こう
 涙がこぼれないように
 泣きながら歩く 一人ぼっちの夜
 思い出す秋の日 一人ぼっちの夜

 悲しみは 星のかげに
 悲しみは 月のかげに

 上を向いて歩こう
 涙がこぼれないように
 泣きながら歩く 一人ぼっちの夜

 一人ぼっちの夜
 一人ぼっちの夜

Img_6763 兄貴分の中村八大が、早稲田の後輩である永六輔に出会ったのは、有楽町の日劇前である。26歳の永六輔は放送作家になっていた。

中村八大は、すでに人気音楽家になっていて、二本の映画音楽の作曲を依頼されていた。その作曲に歌詞を作れる人を探しているところに、運命的な出会いをした。二本の映画につかう曲を一晩でつくるという厳しいものだった。歌を作るための作詞かがいない・・・、思案をしながら有楽町の日劇の前を歩いていたとき、早稲田大学の後輩永六輔に出会った。

永は、大スターの先輩に声をかけられ、体が固まっちゃうというか、硬直状態で、その硬直状態の永六輔に「きみは歌詞が書けるか?」と言われて、書いたこともないのに、とっさに永は「書けます」と嘘をついてしまった。これが、人生のスプリングボードだった。どうしようか、どうしょうか、と思ったけれど、書かざるを得なくなった。

Img_6760 「オレが10曲つくるから、10の歌詞をつくれ」っていわれて、本当に脂汗を搾るようにして作った。二人はアパートの部屋の両隅に机をわけて、詞と曲をどんどん量産始めた。八大のマネージャーをやっていた桑島は、後に語っている。

Img_6758 最終的に、八大が「じゃあ、この詞にはこの曲」っていう10曲をしぼってきめた。その10曲の中に「黒い花びら」が入っていた。一晩アパートにこもって、映画二本分の作曲を仕上げ、その中に今後の運命を大きく変える歌があった。

それが、水原弘の歌った「黒い花びら
黒い花びら 静かに散った あの人は 帰らない・・・

水原弘は、私の従兄の「洋ちゃん」にそっくりで、太い眉毛で似ているな、と思ったものだ。昭和33年頃か、レコード大賞を昭和34年に取った。水原弘、余り人気が長く続かなかったのは、酒か、身を持ち崩して、再起したのか、それともそのままだったか。

中村八大はロカビリーの全盛に斬新なサウンドを取り入れ、放送作家永六輔は話言葉をつかったシンプルな歌詞、二人でつくった歌は音楽界に衝撃を与えた。曲はレコード化去れ大ヒットした。この年に始まった、レコード大賞を受賞した。こうして中村八大、永六輔は作曲家、作詞家としての成功を手にして、このコンビが数多くの名曲を生み、この二本の映画の中で、脇役であったが坂本九が出演していた。六八九の軌跡が交わった。坂本九が17歳というから、それは、「上を向いて歩こう」のヒットの二年前である。

6738 6735_3 中村八大は、案外多くのコンサートもやっていて、あるコンサート(1961年7月21日)には、江利チエミ、ザピーナツ、水原弘、坂本九19歳(上を向いて歩こう)、森山加代子、デュークエイセス、石井好子、三木のり平、水谷良重、加山雄三、

6739 「上を向いて歩こう」が初お披露目された日であった。それを舞台袖で聞いていた永六輔は坂本九の歌い方を聞いて、そのときの感想を語っている。

6756 永六輔は、60年安保の闘争に加わって、仕事を減らしても、政治を変える、日本の平和を維持する。日本中が、戦後の廃墟から立ち上がってきた気持を体制にぶっつけ、樺美智子さんの死を象徴するように、大衆の運動が挫折していく。それをむなしく、悲しむ・・・この永六輔の感情が悲しいけれど、泣いてはいけない・・・この気持が「上を向いて歩こう」には込められている。

作詞の気持と作曲の心が一致したわけではないが、中村八大の感性から、時代と音楽性を生かし、坂本九の個性を表に出した。悲しいけれど、泣かないぞ、そんな気分、だから50年たっても、いろんな場面で歌われている。

6748「ユニークな歌い方であろうが、日本語は、なんだよ!この日本語はひどい、この歌これでメチャクチだな、と思いながらコンサートを一人帰った。あいつが歌ったから、ダメになってしまった、残念だな、この歌はと思って帰った。そのあと、「夢であいましょう」であの歌が登場してから、アーっという間にヒットしたとき、オレは全然わからないと言う気分だった」

このユニークな歌い方を仕掛けたのは、中村八大だった。今日は赤ちゃん、遠くへ行きたい、帰えろかな・・・数多くの名曲を残した。

6761 早稲田へ入って、ずぐに渡辺普さんに見出され、シックスジョーズに誘われ、プロジャズピアニストになった。人気ピアニストになった。53年には、ビッグフォーを結成して、
ピアノ  中村八大、
ドラム  ジョージ川口、
ベース  小野 満、
サックス松本英彦

このころから、ずっと作曲家として成功したいと願っていた。そのころに映画音楽をつくる仕事を依頼され、作詞を永六輔との出会いになる。

中村 八大(1931年1月20日 - 1992年6月10日享年61):中国大陸青島チンタオで出生、作曲家・ジャズピアニスト。『上を向いて歩こう』、『こんにちは赤ちゃん』、『遠くへ行きたい』、『明日があるさ』など、1950年代末から1960年代に数々のヒット曲を作曲した。

1945年に福岡県久留米市へ引き揚げ、そこで旧制中学明善(現・6753_2 福岡県立明善高等学校)、早稲田大学高等学院、早稲田大学文学部卒業。学生時代からピアニストとして活動。早稲田大学に進学してからは、ジョージ川口、松本英彦、小野満と共にジャ6757 ズバンド「ビッグ・フォー」を結成。その活躍ぶりが、当時早稲田大学のベーシストだった渡辺晋(渡辺プロダクション創業者)の耳に届き、早稲田大学文学部に進学後 兄を通じて渡辺晋と対面。渡辺が結成していたコンボバンドに加入。しかしながら1953年からはドラマーのジョージ川口率いるカルテット「ビッグ4」のメンバーとなり、大衆的ジャズブームの渦中で非常な人気を得た。
 その後、1950年代末からは作曲家としての活動に主軸を転じ、ジャズのセンスを生かした特異な作風で、永六輔とのコンビで多くのヒット作を世に送り出した。「上を向いて歩こう」など二人の歌をしばしば歌った歌手の坂本九を合わせて、『六・八・九』と呼ばれる。

6744 1959年の『黒い花びら』(作詞・永六輔、歌・水原弘)で、第1回日本レコード大賞を受賞。
1963年の『こんにちは赤ちゃん』(作詞・永六輔、歌・梓みちよ)で、第5回日本レコード大賞を受賞。
1966年1月、ミュージカル「宝島」の音楽担当。
1966年10月、第1回リオデジャネイロ国際音楽祭に、江利チエミの『私だけのあなた』を出品。オーケストラ編曲賞を受賞。
1970年からはNHK総合テレビ「ステージ101」の音楽監督を務めた。
1992年6月10日、心不全のため他界。享年61。晩年は持病の糖尿病に苦しみ、音楽活動の一線からは退いていた。葬儀は浄土真宗で行ったが、77日忌は日蓮宗にて行われた。
Wikipedia参照 

永六輔のガールフレンド黒柳徹子:

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