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2011年7月13日 (水)

不毛地帯(山崎豊子)主人公モデル瀬島龍三

Dgfpzgfuc6u 山崎豊子「不毛地帯」を見ていたら、舞台が伊藤忠商事で戦闘機導入で活躍するのが、↑(左)瀬島龍三、役名では壹岐正である。

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 瀬島龍三は、陸軍参謀で頭の切れる男。彼の一生を見ると、日本人のよい点悪い点をあわせ持っている人のようだ。特に、戦時中の行動は、ブラックボックスにしまいこんで開示しないで死んだ。シベリア抑留を除けば、戦後は、経済界で活躍して、うまく世渡りして陽のあたる道を歩んでいる。そのダーク部分を知る人からは、非難されている。

「新・平成日本のよふけSP」という番組で、笑福亭鶴瓶と南原清隆司会で90歳を越した瀬島龍三を呼んで話を聴いていた。これが、若い人が知らない戦前と戦後の出来事をドンピシャで語ってくれるから、ずいぶん興味をもたれた。視聴者の立場でネプチューン名倉が番組のカメラ前に座って聞いていたり、鶴瓶の兄弟子が録音内容を全部聞きたいとか、そんな話を聞いた。

Middle_1245111885_4    伊藤忠商事を辞めて、もう死を待つ幕間のような落ち着きで、若い人に言い残していこうと言う姿勢に見えた。付き添っているのは屋山太郎(評論家)が、あまり口を挟まないが全部聞いていた。瀬島龍三は、なれているのか、微細に語るがほころびが見えない。それでも、まだ関東軍としてソ連軍に60万の抑留と強制労働を認めたのではないか、それが疑問として残っている。それがうまくかわされている気がする。

人物の大きさ、落ち着きは、威嚇する意味ではないが、貫禄がある。自信の裏づけもあるから、男として魅力的である。

新・平成日本のよふけSP 瀬島龍三 第3回 1/3★
新・平成日本のよふけSP 瀬島龍三 第3回 2/3★
新・平成日本のよふけSP 瀬島龍三 第3回 3/3★

瀬島龍三インタビュー続き、新・平成日本のよふけSP 瀬島龍三 4回、5回、6回、7回は、このブログの最後部分にクリックで見られるようにしています。

35a9fa77s 瀬島 龍三(せじま りゅうぞう、1911年12月9日 - 2007年9月4日):大日本帝国陸軍の軍人、戦後は日本の実業家。 富山県西砺波郡松沢村鷲島(現在の小矢部市鷲島)の農家に三男として生まれた。旧制富山県立砺波中学校。

1932年に陸軍士官学校を次席(首席原四郎)で卒業し、昭和天皇から恩賜の銀時計を受けた。その後、富山歩兵第35連隊附の歩兵将校として従軍。その後は師団長の推薦により、陸軍大学校に入学、1938年12月8日に首席で卒業し、昭和天皇から恩賜の軍刀を受けた。御前講演のテーマは「日本武将ノ統帥ニ就テ」。

1939年1月15日関東軍隷下の第4師団参謀として満州へ赴任、
同年5月15日、第5軍(司令官・土肥原賢二陸軍中将)参謀となり、
同年11月22日、大本営陸軍部幕僚附関東軍参謀本部部員となる。
翌1940年には、大本営陸軍部作戦課に配属される。
 なお、この関東軍参謀時代、瀬島は対ソ示威演習「関東軍特種演習(関特演)」の作戦立案にあたった。

1941年7月、大東亜戦争時 大本営陸軍部第1部第2課作戦班班長補佐となり、同年12月8日開戦以降、陸軍の主要な軍事作戦を作戦参謀として指導。主なものは南方作戦におけるマレー作戦(E作戦)・フィリピン作戦(M作戦)や、ガダルカナル撤収作戦、ニューギニア作戦、インパール作戦、台湾沖航空戦、捷一号作戦、菊水作戦、決号作戦、対ソ防衛戦など。1945年2月25日には連合艦隊参謀兼務となり、陸軍中佐となった。

1944年12月、単独でモスクワに2週間出張した。軍人から髪の毛を伸ばし、外交官に変装。飛行機がないので、シベリア鉄道で5日かかってモスクワに到着。
1945年7月1日、関東軍参謀に任命され、満州へ赴任。1945年8月15日、日本の降伏後、ソビエト赤軍総司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥との停戦交渉に赴く。同地を軍使として訪れた瀬島は、日本へ帰還できる立場であったが、参謀としての責任感から同地に残る決断し

1945年9月5日、関東軍総司令官山田乙三陸軍大将や総参謀長秦彦三郎陸軍中将らとともに捕虜となった。
 その後、瀬島はソ連のシベリアへ11年間抑留された。将校は捕虜としての労働の義務のないにもかかわらず、強制労働、建築作業に従事させられた。「佐官が左官になった」とジョークを交えて述懐している。

 瀬島はシベリア抑留について、「日本の軍人や民間人の帰国を規定したポツダム宣言(9条)違反であり、日ソ中立条約を破っての対日参戦とともに、スターリンの犯罪であった」と述べている。また、日独伊三国同盟の締結についても、「断じて実施すべきではなかった」と述懐している。また、特攻作戦については、「特攻は自発的なものであった」と自著で述べている。なお、瀬島は特攻作戦である菊水作戦時、第5航空軍の作戦参謀として南九州の陸軍基地で勤務した。

1946年9月17日に連合国側から極東国際軍事裁判に訴追側(連合国側)証人として出廷した。草場辰巳・松村知勝とともにウラジオストクから空路東京へ護送された。ソ連側より「日本への帰還」の取引条件として、「天皇の戦争責任を証言する」ように求められたが断固拒否する。裁判後、再びシベリアに戻され、昭和30年代まで抑留生活を余儀なくされた。
 1947年末から1950年4月までの間、モンゴルのウランバートル第7006俘虜収容所に、朝枝繁春、種村佐孝、志位正二らとともに収容されていたとみられる。(本人は語っていない)
 1954年、ソビエト連邦代表部書記官ユーリー・ラストヴォロフがアメリカに亡命した後、語ったところによると、第7006俘虜所において、瀬島らは特殊工作員として訓練された」、また、ソ連の対日工作責任者イワン・コワレンコは「シベリア抑留中の瀬島龍三は、日本人抑留者を前にして『天皇制打倒!日本共産党万歳!』と拳を突き上げながら絶叫していた」 とも証言。瀬島はソ連の工作員だったとする証言が出ている。「瀬島氏はソ連のスパイではないのか」との問いには「それはトップシークレット」とのみ回答している。
(「ソ連工作員疑惑」参照)

伊藤忠商事時代 1956年、シベリア抑留から帰還後、シベリアからの復員兵の就職斡旋に奔走する。1958年に商社の伊藤忠商事に入社。入社3年目に業務部長に抜擢され、翌年に取締役業務本部長、半年後に常務となる。1968年に専務、1972年副社長、1977年副会長と昇進し、1978年には会長に就任した。
 帝国陸軍参謀本部の組織をモデルにした「瀬島機関」と呼ばれる直属の部下を率いて、繊維を扱う一商社伊藤忠商事を総合商社に発展させる辣腕をふるった。瀬島自身は晩年、「瀬島機関」の存在そのものを否定、「マスコミの作り話」と語っていた。

1981年に相談役、1987年に特別顧問に就く。この間、中曽根康弘の中曽根政権(1982年~1987年)のブレーンとして、第二次臨時行政調査会(土光臨調)委員などを務め政治の世界でも活躍した。1984年に勲一等瑞宝章を受章。他にも亜細亜大学理事長、財団法人千鳥ケ淵戦没者墓苑奉仕会会長、財団法人太平洋戦争戦没者慰霊協会名誉会長などの公職を歴任した。2000年に伊藤忠商事特別顧問を退任。

2007年6月21日、妻の清子が老衰で90歳にて死去。それから3ヶ月後の9月4日午前0時55分、妻を追うように老衰のため東京都調布市の自宅において95歳にて死去。死後、従三位が贈られた。同年10月17日には、築地本願寺において、伊藤忠商事と亜細亜学園主催による合同葬が執り行われた。

 ソ連との停戦交渉時、瀬島が同行した日本側とソ連側との間で捕虜抑留についての密約(日本側が捕虜の抑留と使役を自ら申し出たという)が結ばれたとの疑惑が、斎藤六郎(全国抑留者補償協議会会長)らにより主張された。瀬島は、停戦協定の際の極東ソ連軍総司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキーと関東軍総参謀長秦彦三郎にはこのような密約を結ぶ権限がなかった、と反論。またロシア側資料からそのような密約を証明できる証拠はペレストロイカの情報開示後も全く発見されてはいない。

しかし、スターリンが捕虜をシベリアの労働に従事させることを発案した、と巷間に流布しているが、日本側からソ連の意向に沿う発言があったこかもしれない。その疑いは十分ある。強制労働を強いるのは、ソ連のお家芸かもしれないが、日本人だけがシベリアで働かされたには、トップ同士で何か合意があったと想像したくなる。そのことについて、「関東軍がソ連によるシベリア抑留を了承していたかどうか」など、瀬島でないと答えられない疑問について何度聞いてもほとんど答えていない。黙秘したまま、彼は自分の胸下三寸に秘して墓場へ持って行った。

C2vqaw1he9e_2 もう一つ、天皇の気持を伝える話がある。田中清玄 - 昭和天皇は「先の大戦において私の命令だというので、戦線の第一線に立って戦った将兵たちを咎めるわけにはいかない。しかし許しがたいのは、この戦争を計画し、開戦を促し、全部に亘ってそれを行い、なおかつ敗戦の後も引き続き日本の国家権力の有力な立場にあって、指導的役割を果たし戦争責任の回避を行っている者である。瀬島のような者がそれだ」と昭和天皇から直接聞いたと記している。

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コメント

"「関東軍がソ連によるシベリア抑留を了承していたかどうか」など、瀬島でないと答えられない疑問について何度聞いてもほとんど答えていない。"
と貴方は書かれていますが、瀬島さんはその点についてこの番組内において明確に否定されています。そして、それを裏付けるソ連側の資料がペレストロイカによって公開されたともおっしゃっている。
なぜ敢えてこのようなことを書かれているのか不思議です。

管理人より
 ソ連との停戦交渉時、日本側(瀬島を含む)が捕虜抑留について「日本側が捕虜の抑留と使役」を自ら申し出たという密約が結ばれたと、斎藤六郎(全国抑留者補償協議会会長)らにより主張されているが、裏付けるソ連側の資料がペレストロイカによって公開され、それは否定されています。そのことは、終わりから3番目の項で書いてあります。
  瀬島龍三Wikipediaの中、保阪正康の項では、瀬島でないと答えられない疑問に答えるべき責務を果たしていないとしている。それを参考にさせて頂きました。

投稿: topaz | 2011年9月19日 (月) 01時19分

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