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2011年7月 4日 (月)

おひさま 昭和20年 復員のよろこび

6346   陽子の夫和成が連絡もなく、突然目の前に戦地から復員してきた。陽子は声もでなくなるほど驚き、腰を抜かすシーンがあった。おんぶして家に帰り、その後、近所の人が集まってくる。これはそうだ、その通りだ。

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 兵士の復員帰国に際しては、引き上げ船が佐世保、舞鶴、横須賀と港へつくと、厚生省の役人が名簿でチェックして、帰国できる乗車券、現金を渡し、帰省させていたようだ。出迎えに来て、探し求めた人に出合った人は、感激もひとしおだ。今とちがって、多くは鈍行で行くから、佐世保から秋田といえば、大方二日がかりである。陽子の夫の和成も、ずいぶん汚れていたが、多くの人は、船に乗る前からフロも入らずに来た身の上だから、薄汚れの人が多かっただろう。

6325 復員すると、各家では、フロに入れてやったものだ。そして、ひとまずほっとすると、やっとみんなの前で座る。

 宮前町のY村さん宅に「出征していたマーちゃんのお父さんがかえってきた」と、町内いっせいに知られて、私も兄についてマーちゃんの家の中までのぞきに行った。すると、マーちゃん、父親の記憶がなくて、よその人が来たと思って、怖がって、父親に寄り付かなかった。マーちゃんは、いつも一緒に遊んだ仲間ではあったが、早生まれで私の一級上だった。父親に対して記憶がまったくなかった。

 私は、マーちゃんちで一緒にフロへ入ったりした仲良しだった。まあ、その日の吉村さん宅は、かなりの人が表に部屋に、ギャラリーのように集まっていた。真ん中に復員したお父さんがあぐらかいて座っていて、その横にお母さんが座っていた。マーちゃんだけは、隠れるように離れていたが、お姉ちゃんもいたし、お兄ちゃんもいた。

 何か、近所の人たちにも、出征中の話をしていたが、幼児の私には、マーちゃんが父親を避けて、怖がっているのが印象的であった。復員したお父さんが盛んにオイデ、オイデしているのに、近寄ろうとしていないマーちゃんだったが、数日たつと、父親になれて一緒に遊んでいたのを覚えている。

6342 6341大人だからまあ事態が飲み込めるが、子供には、3年、4年いないと父親の顔も覚えているのは難しい。理解しにくいことがある。マーちゃんのお父さんは5年帰ってきていなかった。マーちゃんちが一番近い復員兵だったが、その後も、田舎の町中津でも、昭和20年から21年復員が多かった。と、同時に戦死がは判明することも多かった。

63306331 復員兵で一杯に列車が24時間以上走り続け、妻が迎えに来て一緒に乗っていると、家まで我慢できないのか、夜になると睦みあう声が聞こえるのだとか。理解できなくはないが、復員の現実、人間の生理でもある戦争の一面でもある。

 復員したマーちゃんの家には、翌昭和22年、年の離れた妹が生まれた。おひさまの陽子にも、子供がうまれるのかな。

6338 復員した人が語らないかぎり、戦時中、どこでどんな戦いをしていたか、わからない。特に南方の島々で飢餓との戦いを強いられた。和成の突然のうなされた姿は、多くの復員兵には、寝ている間、よくあったらしい。辛い厳しい戦いの生活をしていたから、人間が変わったとも言われた。内地だけにいる人にはそれは伝わらない。昔は戦士の精神状態をケアする余裕などないから、戦闘がもたらす精神異常PTSDは無視されていたが、多くの帰還兵はわずらっていたに違いない。

 帰国後、ヒロポン中毒だった人が教職についたが、一年後に自殺したり、凶暴な先生になっていたり・・・。Y先生も、厳しい戦地の生活が影響して、近隣の人からは変わり者扱いをされていた。

吉田正シベリアで作った幻の4曲 復員兵が帰ってきた 昭20年秋 復員教師の人生観、厳しさ 朝ドラ おひさま 兵隊さんよ ありがとう

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