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2011年4月25日 (月)

今の指導者は論語 学んでいないのか

1829  (東日本大震災の)被災地の人々が、あの困難なときにも、礼節を守り、混乱がなかったと、世界から賞賛され、感嘆された。東北の人々の態度、あの人々の心の奥底に「孔子」「論語」の精神があったからではないか、と黒鉄ヒロシは「千思万考」で語った。

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困難な状況になると、集団奪略で警察の取り締まりもお手上げになる外国の例が多いのに、順番を守り、お互いに助け合い、なんて美しい人々だろうと思って、涙さえ出そうになった。その姿を外国の記者たちは報道し、世界から日本は賞賛された。もちろん、少数の不心得者はいつの時代にもいるが、大多数の日本人の心の奥底に何かある。その一つに、孔子の『論語』があるとの指摘である。だから、こうも静かに耐えているのだと、私は思っていた。

Confucius_02 孔子(こうし、紀元前551年9月28日‐紀元前479年4月11日):春秋時代の中国の思想家、哲学者。儒家の始祖。
 紀元前551年に、魯国昌平郷辺境の陬邑(昌平とは太平を盛んにする意。邑=村)、現在の山東省曲阜市で陬邑大夫の次男。孔子自身は「卑賎階級」と『論語』で語る。
 幼くして両親を失い、孤児として育ち、苦学して礼学を修めた。礼学の大家を名乗って国祖・周公旦の大廟に入ったとき、「あれは何か」「これは何か」と聞き、知識にあやふやな面も見せている。細かく確認することが礼であるとの説も。
 身長は9尺6寸(216cm)長身(春秋時代の1尺=22.5cmで計算)で、「長人」と呼ばれた(『史記』孔子世家)。52歳のとき魯の定公によって中都の宰に就職したと『史記』に伝える。その翌年に大司寇に就任した。
 紀元前497年に国政に失望して弟子とともに諸国巡遊の旅に出た。しかし孔子を受け容れる国は無く、紀元前483年、69歳の時に故郷魯に帰国。その後は弟子の育成に専念し、紀元前479年に73歳で没した。
引用解釈

『論語』(ろんご):孔子と彼の高弟の言行を孔子の死後、弟子達が記録した書物。『孟子』『大学』『中庸』と併せて儒教における四書のひとつである。
『孟子』は言行の主の名が書名であるが、『論語』の書名が「孔子」でなく、『論語』である。「門人相與輯而論纂 故謂之 論語」と門人たちが書き付けていた孔子の言葉や問答を、孔子死後に取り集めて論纂し、『論語』と題した。 
Wikipedia引用解釈

紀元前2500年前、春秋時代の社会で人間は、力のあるものが人の上に立ち、暴力こそが人を従わせる道具だった時代に、孔子は、人間社会に倫理観、道徳観を与え、人としての道しるべを「発明」したと考える。そうすると、「孔子」「論語」の存在意味が理解できる、と思う。

世界の四大聖人、
キリスト:神の名の下に絶対的な愛を獲得するという。
 釈 迦 :悟って真理を追究する。
ソクラテス:正義と勇気を重んじ、フィロソフィーを獲得する。
 この四大聖人の思想は、自分のため、自分を高めることが中心。ところが孔子だけは、他者との比較、関係性、社会とのかかわりを考える。

1846_2 孔子の代表的な思想は、仁、義、忠、孝、信、礼、あと二つ。
仁:人を思いやる親愛の情
義:正しい行いをする心
忠:正直で表裏のないこと
孝:親を敬う心
信:嘘をつかない、約束を守ること
礼:礼儀、感謝の心

南総里見八犬伝の中に描かれている思想であるが、いろんな風に解釈はできますが、契約であったり、忠孝であったり、これらがバランスよく社会の中で構成されていると、社会がうまく回る。そう見ている。

1836 それまでの社会は、野生動物の社会を見ればわかるように、強いものが正義で、「ぶん殴る」ことで従わせるのが人間関係のルール。つまり、乱暴狼藉で、相手が泣こうがわめこうが、知ったことではなかった。孔子の思想は、それまでの人間社会の野蛮さをなくすことにあった。今では当たり前の考え方が、当時は斬新で、魅力的な思想であった。

1837 この孔子の思想を朱子学として、徳川家康は社会、人間関係に取り入れた。明治維新に活躍した人や、その後の人々の思想に深く入り込んでいる。西郷隆盛、福沢諭吉、吉田松陰、夏目漱石、内村鑑三。キリスト者にも、この朱子学、儒教が矛盾なく納まっている。キリスト教を信じながら、論語が使えるということは、思想の分母のところは世界に共通のことである。

1849_2 子いわく、
之を知るものは
之を好むものに如かず
之を好むものは、
之を楽しむものに如かず

簡単に言えば、これは「好きこそ物の上手なれ」である。楽しむものでないと、之を越えられないということである。論語の基本は、自己犠牲覚悟である。今のリーダーには、論語の精神がしみこんでいないから、この自己犠牲覚悟がない、不足している。それをみれば、論語を読んでいないとわかる。

読んでいるというなら、それは「論語読みの、論語知らず」という言葉示すものである。

孔子は、最初ある国で採用されて仕事をしたが、為政者との意見が対立し、その後は、無冠の一学者として諸国をめぐり、道徳の意味を説いて回った。孔子の説く「道徳」こそが、人間の生き方であり、「心の背骨」となると、黒鉄ヒロシはいう。

1844  『子の曰く、吾れ
  
十有五にして学に志す。
  三十にして立つ。
  四十にして惑わず。
  五十にして天命を知る。
  六十にして耳順
みみしたがう。
  七十にして心の欲する所に従って、
  矩
のりを踰えず。』(為政編)
  解釈:わたしは十五歳で学問に志し、三十になって独立した立場を持ち、四十になってあれこれと迷わず、五十になって天命(運命)をわきまえ、六十になって人の言葉がすなおに聞かれ、七十になると思うままにふるまって、それで道をはずれないようになった。

多くの人に影響を与えている。皇太子浩宮が40歳になったとき、会見で「四十にして惑わず」といいますが、「(論語を踏まえ)私はまだ迷ってばかりです」と語った言葉が印象に残っている。

1835 孔子は成功者、と思っている人が多いが、弟子3000人いたといわれているが、彼ははっきりいって人生の失敗者です。大失敗者です。就職しても、短期間でやめているし、66~68歳で故郷の蜀へ帰るが、家庭的にもあまり恵まれてとはいえない。非常に苦難な人生です。故郷へ帰ると、息子が死に、弟子が死んでいく。

つまり、孔子は、世俗的な価値観より、心の価値観を見出した人で、彼の偉業でもっとも有名なのが論語である。これも彼が書いたというより、弟子たちが書き残したものである。

この点は、キリストと似ている。他の賢者も似たような道をたどっている。孔子の時代は、春秋戦国時代で、戦国群雄割拠で人々は荒んでいた。人は欲望のまま暮らし、その時代BC2500年頃で、その時代の人に孔子は道徳を広めた。その時代の知的階級の人々へ人間のあり方、すなわち儒教というものを創出するのである。

これが徳川家康が、人民の統治する上で、都合のいい部分だけを利用しているという批判はあるが、国民に親孝行とか、君臣の関係を保つ思想を教え込み、身分を固定する道具に利用したと、明治以後には批判されている。

江戸時代の仏教と儒教は矛盾なく共存して、鎖国と共に300年の江戸時代を平穏に・・・・と、言い切るのはムリにても、日本人の大人は、儒教に含まれる思想が一応の通過儀礼のように、知識として持っていたことは確かである。武士の思想の一端を担っていただろうと思う。

論語の自己犠牲覚悟。この部分だけは、日本人の「心の背骨」としてもっていたい。

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コメント

「論語読みの論語知らず」
私は読みましたが、知識レベルで見識〜担識に迄、持って行ければ…と思って居ります。

投稿: 齋藤邦恭 | 2011年5月31日 (火) 21時35分

論語に曰く「此を知る者は、此を好む者に如かず」と。知る事は本来余り価値がない。
 此れに対して、好むことは対象を自分の情緒の中に入れる事で身になる。更に深く理性や潜在意識の働きが加わると、此れを楽しむという。
 全ては楽しむという境地に至って、初めて渾然として具体化してくる。つまり人間そのもの、生活そのもの、行動そのものになる。学問も此の境地に達してこそ本物である。

管理人より
「対象を自分の情緒の中に入れる事で身になる。更に深く理性や潜在意識の働きが加わると、此れを楽しむという」=「好きこそものの上手なれ」と置き換えて説明して頂くと、もっと多くの人が理解できます。

投稿: 論語読みの論語知らず | 2011年6月 7日 (火) 14時30分

そういう事です。

投稿: | 2011年6月11日 (土) 10時32分

※論語読みの論語知らず※よりも、「受けた恩の恩知らず」の方が私の最も重要な課題です。出過ぎず又、退き過ぎずにバランスをとり「中道」を志して居りますが、大変難しい課題です。

投稿: 齋藤邦恭 | 2011年8月 7日 (日) 15時50分

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