« 黒澤監督『わが青春に悔なし』評価B | トップページ | 中津川市立第二中学三年五組  »

2011年4月21日 (木)

平城京時代の実力者 藤原不比等

200pxfujiwarafuhito645年大化の改新の立役者 、中臣(藤原)鎌足の二男が藤原不比等フヒトである。(聖武天皇の祖父)この人物の存在なくしては、その後の藤原家の発展はない。出だしは、有力者の後ろ盾がなく、下っ端の下級か役人から始めたが、徐々に昇進して、頭もよく、権謀術数も使えたから、出世は早かった。その後は、遣唐使からの知識をもって帰った人材を使かって政権基盤を固めた。あとは、自分の娘を天皇家へ嫁がせ、自分が天皇の外戚になるように手を打った。最大の偉業は平城京の建設だろう。

「1日1回 応援クリック お願いします!」
   ↓   ↓   ↓   ↓

人気blogランキングへ 
今後とも、ブックマーク(お気に入り)で、継続的に追読して頂けると、嬉しく思います

 この人物を調べると、この人は、タヌキおやじで、日本の初の歴史書日本書紀をつくらせたが、かなり創作が紛れ込んでいる。漢文で書かれているから、当時の教養水準からすると、ほとんどの日本人は読めないしろものであった。つまりは、日本という国の商品カタログみたいな存在であったらしい。だから、真実の史実というより、中国の三国志などからチョイスしてストーリーつくりして載せているものがあった。

藤原不比等であるが、『竹取物語』でかぐや姫に求婚する5人の貴公子の1人、車持皇子(くらもちのみこ)のモデルは不比等とされている。物語の登場人物にまでなっているとは、ちょっと意外である。

不比等フヒト出生の秘密 父は中臣(藤原)鎌足、大化の改新の同志、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ )は仲間であり、兄貴分である。そして天智天皇になる家系で、こちら鎌足は格下の存在であり、臣下の関係であったと思われる。中大兄皇子が天智天皇になり、自分の彼女を鎌足に下げ渡すのである。これは、現代から見ると、オイ、ちょっとちょっと、と思うが、その当時の感覚からすると、自分の部下を信頼しているがゆえに、大切な貴重品を渡す感覚かもしれない。ちょっと、その辺の理解が、研究不足でわからないが。

これは「興福寺縁起」「大鏡」にも書かれている。天智天皇は、中臣ナカトミ鎌足に妊娠中の女御を下げ渡し、「生まれた子が男ならばそなたの子とし、女ならば朕のものとする」という約束をしていたらしい。その後、生まれたのが男の子=不比等で、鎌足の次男として扱われた。いろんなところに書かれているので信憑性が高い。だから、不比等は次男にも関わらず、藤原家の祖と言われ「藤原」であり、他の兄弟はみな「中臣ナカトミ」となっている

略歴 不比等11歳の時、父鎌足が死去。壬申の乱の時は、数えで13歳で処罰の対象にも功績の対象にも入らなかった。が、鎌足の同族(中臣氏)の有力者は処罰を受け、天武朝の時代には朝廷中枢から中臣(藤原)氏は一掃された。不比等が朝廷ヘ出仕したときは、有力な後ろ盾がなく、まったく一介の下級官人からの勤務を余儀なくされた。

697年、草壁皇子の息子、軽皇子(文武天皇)を擁立し、その後見として政治の表舞台に出てくる。文武天皇に娘宮子を嫁がせ首皇子(聖武天皇)を産ませている。さらに妻橘三千代との間の娘である光明子を聖武天皇に嫁がせたが、光明子は不比等の死後、不比等の息子の藤原四兄弟の力によって光明皇后となり初の人臣皇后となった。

不比等は、氏寺の山階寺を奈良に移し興福寺と改めた。大宝律令の編纂も関与、その後、養老律令の編纂作業に取りかかるが720年に病死、作業は中途する。

不比等とその息子の藤原四兄弟によって、藤原氏の繁栄の基礎が固められるとともに最初の黄金時代が作り上げられた。

「1日1回 応援クリック お願いします!」
   ↓   ↓   ↓   ↓

人気blogランキングへ 
今後とも、ブックマーク(お気に入り)で、継続的に追読して頂けると、嬉しく思います

|

« 黒澤監督『わが青春に悔なし』評価B | トップページ | 中津川市立第二中学三年五組  »

コメント

天武、天智、藤原不比等の三者の母は同じで父親だけ違うのである。
用明の子、崇峻の子、聖徳が父。
舒明が父。
百済翹岐が父。

投稿: 邇波言壱 | 2012年7月18日 (水) 19時21分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 黒澤監督『わが青春に悔なし』評価B | トップページ | 中津川市立第二中学三年五組  »