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2011年4月 8日 (金)

蝉しぐれ 藤沢 周平と海坂藩 考察

1249 この藤沢周平のストーリーと架空の藩、海坂藩で起こる出来事がどんより曇った雰囲気で、すっきりしないのはなぜだろう。彼が結核で胸を患って、教師を休職して療養していたのは知っているが、最愛の妻も早くになくしている。一人娘を生んで、幸せのさなかに妻が死んだもの大きい影響があるらしい。

きょう、私、歯が痛くて、思考力が鈍って、じっと文章を書いている気力が欠けているので、明日、すっきりして書くことをお許しください。人間って、そういう意味では、弱いものだね。普段なんとなく平気で書いていたのが、歯痛で文章が書けないのだからね。冗談も言えないような・・・。じゃあ、明日、明日。

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Images_2  藤沢 周平(1927年12月26日 - 1997年1月26日):日本の小説家。山形県鶴岡市出身、本名小菅留治(こすげ とめじ)。
江戸時代を舞台に、庶民や下級武士の哀歓を描いた時代小説作品を多く残した。とくに、架空の藩「海坂藩(うなさかはん)」を舞台にした作品群が有名である。長女遠藤展子は、エッセイスト。2010年4月29日、出身地の鶴岡市に「鶴岡市立藤沢周平記念館」が開館した。

「蝉しぐれ」ストーリー 海坂藩(架空の藩。庄内藩がモデル)を舞台に、政変に巻きこまれて父を失い、家禄を減らされた少年牧文四郎の成長を描く。文四郎は15歳。市中の剣術道場と学塾に通い、ひとつ年上の小和田逸平や同い年の島崎与之助と仲がよく、また隣家の娘ふくに不思議と心を引かれ、すこしずつ大人になりつつあった。平凡な日々がおだやかに過ぎてゆくなかで、藩のお世継ぎをめぐる政争で、これに関与していた養父助左衛門は切腹を命ぜられる

DVD(二枚組で7編)を金町図書館から借りてみた。一編が1時間番組だから、結構長い。最初、全然見ていないと思っていたが、、NHKで放送したものだから、所々見た記憶がよみがえってきた。

1253 いつも思うが、やはり少年時代、少女時代の主人公が生き生きしていると、楽しい。文四郎と隣家の娘ふくの話がいい。特に子役のふくがいい感じで、もう少しストーリーで展開してくれたらいいのにと見た。

最初、川へ文四郎が水を汲みにいくと、ぶくが洗濯をしている。石鹸のない時代、洗う洗濯物を水に漬けたのち石の上に置いて木の槌で叩く。ふくは、文四郎が川1254 に来たのに気づきながら顔も上げないでいると、文四郎が「おはよう」と声をかける。ふくは立ち上がって、ペコリと頭を下げる。「七歳にして席を同じゅうせず」の時代のはにかみが初々しい。これがいい。少女時代の無垢、これが表現できる子役に見えた。そののち、成人すると、水野真紀がふくになるが、大人のふくより、無垢の子役のふくに魅力を感じた。

1257 挨拶した後、ふくが洗濯していると、彼女は「キャー」と大声を上げた。文四郎が駆け寄る。ふくの左手薬指から血が出ている。「蛇に噛まれた」という。蛇はヌルルルと草むらから川をわたっていく。あれ本物ではないだろうが、いい動きしていた。ふくの薬指を取ると、口にあて文四郎は毒を吸い出した。ペッペッとつばを数回吐き出して、「もう大丈夫。泣くな」という。手を握られえ口をつけて吸われたら、どんな感覚が走るか・・・。このシーンが、ふくが文四郎を好きになるスイッチだったかも。

キャスト
牧文四郎  : 内野聖陽
同(子役)  : 森脇史登
ふく      : 水野真紀
ふく(子役): 伊藤未希
父 助左衛門 : 勝野 洋
母   登世   : 竹下景子

里村左内 : 平幹二朗
横山又助 : 柄本明
語り        : 草笛光子

ふく(子役)伊藤未希:日本の女優。東京都出身。ニチエンプロダクション所属。日本テレビタレントセンターを経て、2000年、ミュージカル『アニー』でデビュー。そこでの演技が山田洋次監督の目に留まり、大作『たそがれ清兵衛』に抜擢された。高校ではチアリーディング部に所属。日本大学芸術学部在学

ここまで書くと、暗さのない話であるが、この後、尊敬する養父が世継ぎ問題で画策して藩の実権を握ろうとする筆頭家老里村の謀略で、切腹を申しつけられて死ぬ。その遺骸1227を文四郎が荷車で死体を運ぶシーンは、さりげない映像ではあるが、残酷。咎人の死体を運ぶ文四郎を里村派の藩士の子息がグルになって邪魔する。それに腹を立てて掛かっていきたいのを我慢して家まで運ぶ。家の近くの急坂にかかる。引っ張りあげるが、荷の重さで坂から逆戻りしてひっくり返る。

最近荷車は使わないから非力の辛さはわからないが、坂になると辛い。江戸では坂が多いから、坂下で待ち構え、荷車を押して駄賃を稼ぐ人も案外いたらしい。山形の海坂藩は、山がちだから、ふくが、坂の上で待っていて、文四郎がひっくり返っているのを駆け寄って、引っ張る手助けしてやる。刑死の父の遺骸の上に花を供えてから、必死でふくと文四郎は力あわせて荷車を坂の上に引き上げた。

ふくが江戸屋敷へ奥奉公に出ることになった。それがいやで、ふくは文四郎のお嫁さんにしてもらえないか、頼みに来たつもりだったが、文四郎は留守で会えず、文四郎の母にはそんなこともいえず、帰っていく。文四郎が帰ってソレを知ると追いかけたがついに会えず仕舞いになって、翌日はふくは泣きながら江戸屋敷へ奉公に行った。一年半後、殿のお手つきになり、妊娠したが、反対派の女中らの策謀で流産してしまった。

あまりにふくへのイジメがはげしいので、故郷海坂藩の屋敷にふくをかくまった。そのふくは横山家老派が守る欅御殿で過ごしていた。陰謀うずまく中にふくはいた。次代の世継ぎは、別の側女の産んだ男子が決まっていたが、ふくが男子を産んで、この子が世継ぎ騒動になると心配した里村筆頭家老は、文四郎にふくの生んだ子を連れてくるように指示した。その任務をめでたく果たしたら、加増してやる。と告げた。

文四郎は、あまりにも非道の行いを受けられないと拒否しようとしたが、それは身の危険を及ぼすと知り、引き受けることにして、次の日から友人と相談して、実行に移す。里村筆頭家老を出し抜くには、文四郎がふくに会って、子供を連れ出し、親子共々横山家老宅へ連れていくことだった。途中に里村派の邪魔だてをかいくぐれば、この作戦は勝てると踏んだ。

欅屋敷を警護する武士が、用心して開けてくれないが、「牧文四郎」という名前を警護の責任者磯貝が覚えていて、ふくに伝えてようやく面会できて、海坂藩の文四郎の父の代からの良識ある庄屋の家に逃げ込む手はずで進んだ。庄屋宅から夜中、庄内川を下って、城下へ・・・

コレが成功してからは、一気に里村派と横山派の勢力が逆転して、里村筆頭家老を追放することが出来た。その逃走の間に、ふくと文四郎は、殿の側女の一線を越えかけるシーンを見せて、ふくと文四郎は別れ難い気持がありながら、別れ20年。そして、文四郎は郡代の役目をおおせつかっていた。郡代は家老職のした位の地位だろう。

 使いがきて、ふくが某寺に来ているという文をもってきた。ふくは殿が昨年亡くなって、この娑婆の未練を絶って尼寺へ入る。その前に、文四郎に会いたいという。

 ストーリーは、この最後の逢瀬を軸にして、回想する形である。馬で駆けつけ、ここはふくが逢瀬だけに設定した場所で、飲んで食べて、昔の思い出を語り合い、最後には、DVDドラマでは、それとなく表現しているが、原作ではもっとはっきり表現している。

 ふくのほうから助左衛門(文四郎)に身を投げかけてきて、二人は抱き合う。
 どのくらいの時がたったのだろう。
 お福さまがそっと助左衛門の身体を押しのけた。乱れた襟をかきあつめて助左衛門に背をむけると、お福さまは声をしのんで泣いたが、やがて顔を上げて振りむいたときには微笑していた。
「ありがとう、文四郎さん」とお福さまは湿った声で言った。
「これで、思い残すことはありません」

 ふくとの関係が、こうなったのは良かったのか悪かったのか判断できないまま、文四郎は茫然とふくの駕籠を見送る。ふくの表情は晴れやかに見え去っていく。思いを遂げることができたから「これで、思い残すことはありません」。
 これを視聴者はどう思うか、それぞれの勝手であるが、女は強いと思った。

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山形県東田川郡黄金村大字高坂字楯ノ下(現在の鶴岡市高坂)に生まれる。父小菅繁蔵、母。実家は農家で、藤沢自身も幼少期から家の手伝いを通して農作業に関わり、この経験から後年農村を舞台にした小説や農業をめぐる随筆を多く発表する。

1934年、青龍寺尋常高等小学校入学。小学校時代からあらゆる小説、雑誌の類を濫読。1942年、黄金村国民学校高等科を卒業、山形県立鶴岡中学校(現在の鶴岡南高校)夜間部入学。昼間は印刷会社や村役場書記補として働いた。
1946年に中学校を卒業後、山形師範学校(現在の山形大学)に進む。入学後は校内の同人雑
誌『砕氷船』に参加。

教員時代・療養時代 [編集]1949年、山形師範学校を卒業後、山形県西田川郡湯田川村立湯田川中学校へ赴任、国語と社会担当。1951年、『砕氷船』の後継誌『プレリュウド』に参加。この年3月の集団検診で肺結核休職。
1952年2月、東京都東村山市の篠田病院に入院、保生園病院 右肺上葉切除の大手術。予後
は順調で、篠田病院内の句会に参加し、俳誌『海坂』に投稿。この時期に大いに海外小説に親しみ、作家生活の素地を完成。
1957年、練馬区貫井町に下宿、業界新聞に勤めはじめる。1959年、三浦悦子(8歳年下同郷
)と結婚。1960年に『日本食品加工新聞』の記者となる。以後勤めのかたわら小説を書きつづけていた。(1963年に読売新聞短編小説賞に『赤い夕日』が選外佳作。
1963年、長女展子が生れるも、10月に妻悦子が28歳で急逝。このことに強い衝撃を受け、虚
無感をなだめるために時代小説の筆を執るようになり、主に「倶楽部雑誌」に短編を発表。

妻の死がつよく影響を与え、暗い雰囲気とヒロインの悲劇となっていると思われる。翌年以降、オール讀物新人賞に投稿を始める。1965年から藤沢周平のペンネームを使いはじめた。

「藤沢」は妻の実家のある鶴岡市「藤沢」から、「周」の字は悦子の親族の名から採られている。
1969年、作家デビュー 高澤和子と再婚。長女とあわせて三人家族となる。1971年についに
『溟い海』が第38回オール讀物新人賞を受賞し、直木賞候補となり、翌年『暗殺の年輪』で第69回直木賞。新進の時代小説作家として認められる。この年最初の作品集『暗殺の年輪』

を文藝春秋より刊行し、翌1974年には日本食品経済社を退社して、本格的な作家生活に入る

この頃の自分の心境を、藤沢はこう述べている。
「三十代のおしまいごろから四十代のはじめにかけて、私はかなりしつこい鬱屈をかかえて
暮らしていた。鬱屈といっても仕事や世の中に対する不満といったものではなく、まったく私的なものだったが、私はそれを通して世の中に絶望し、またそういう自分自身にも愛想をつかしていた。(中略)(そういう鬱屈の解消方法が)私の場合は小説を書く作業につながった。「溟い海」は、そんなぐあいで出来上がった小説である。」

—(「溟い海」の背景)
「私自身当時の小説を読み返すと、少少苦痛を感じるほどに暗い仕上がりのものが多い。男
女の愛は別離で終わるし、武士が死んで物語が終わるというふうだった。ハッピーエンドが書けなかった。」

初期には自ら述べるように暗く重い作風であり、地味な作家であったが、1976年刊行の『竹光始末』、同年連載の『用心棒日月抄』のあたりから作風が変り、綿密な描写と美しい抒情性のうえにユーモアの彩りが濃厚となってきた。藤沢は、これについて 「『用心棒日月抄』あたりからユーモアの要素が入り込んできた。北国風のユーモアが目覚めたということだったかも知れない」(転機の作物、要約)と述べている。

円熟の作家として 1980年代前半、町人もので数多くの秀品をものする(『時雨みち』『霜の朝』『龍を見た男』などの短篇集に所収)一方で、大衆小説の本道ともいうべき娯楽色の強いシリーズもの(短篇連作)を次々と生みだす。
刊行年によって挙げると、1980年に町人ものの『橋ものがたり』、
捕物帳の『霧の果て-神谷玄次郎捕物控』、
獄医立花登ものの第一作となる『春秋の檻-獄医立花登手控え』、
『用心棒日月抄』の第二部『孤剣』、
翌1981年にはユーモア色を生かした『隠し剣孤影抄』『隠し剣秋風抄』と立花登ものの第二
作『風雪の檻』、1982年には同じく『愛憎の檻』、1983年には『用心棒日月抄』の系統を生かした『よろずや平四郎活人剣』、立花登第三作『人間の檻』、『用心棒日月抄』の第三作『刺客』などがある。

1984年以降になると、こうしたシリーズもののほかに綿密な構成による長篇が登場し、物語性のつよい傑作が相次いで発表・刊行されるようになる。すでに1980年に唯一の伝奇小説『闇の傀儡師』、1982年に江戸のハードボイルドを狙ったといわれる彫師伊之助ものの第二作『漆黒の霧の中で-彫師伊之助捕物覚え』が上梓されているが、1984年には江戸を舞台にした恋愛小説『海鳴り』、1985年には武家青春小説とお家騒動ものの系譜の集大成ともいえる『風の果て』と伊之助もの第二作『ささやく河』が刊行され、いずれも高い人気を得た。
1992年6月に、文藝春秋で『藤沢周平全集』を刊行開始した。

晩年 [編集]1995年頃より、若いころの結核手術の際の輸血に際し罹患した肝炎により、1996年には入退院を繰りかえす。
1996年7月に帰宅した際、『文藝春秋』への連載が4月号より中断していた「漆の実のみのる
国」結末部の6枚を執筆した。1997年1月26日、肝不全のため東京の病院で逝去した(69歳没)。戒名は藤澤院周徳留信居士、墓所は都営八王子霊園。

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