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2011年3月 1日 (火)

吉田正シベリアで作った幻の4曲

0563 シベリアで抑留された吉田正は、思いついた曲を、木の皮をはいでそこへ書いていた曲が30曲ほどあった。シベリアの厳しい作業の帰り道、みんなが歌って、抑留者はみんな、いつ日本に帰れるか、望郷の念や故郷を思う気持ちを必死に抑えていた。

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『シベリア抑留』は、日本国民には大きな関心事であった。なにしろ、満州に展開していた日本兵約56万人(戦前満州に在留していた正規軍はほぼ南方諸島へ出征し、多くは現地召集の兵士)が、終戦後ソ連軍によってシベリアへ連れて行かれ、極寒の地で強制労働を強いられていた。それに思い致して「異国の丘』が歌われていた。多くの国民がその歌詞にメロディーに涙した。

 シベリア抑留(Wikipedia参照)
 シベリア抑留(よくりゅう):第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)末期にソビエト連邦軍による満州(現在の中華人民共和国東北地区および内モンゴル自治区北東部)武装解除した元日本兵(民間人、朝鮮人などを含む)を、主にシベリアやモンゴルなど、ソ連邦の各地に抑留し、強制労働に使役したことを指す。
 厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働に従事させられ、数多くの抑留者の命が失われた。抑留者56万人中6万人が死んだといわれるが、正確な人数葉不明。このソ連の行いは、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に背いた違法行為であった。

 ロシアのエリツィン大統領は1993年に訪日した際、「非人間的な行為に対して謝罪の意を表する」と表明した。

Kuramoto_image 「帰国」という文字を旧字体のドラマ「歸國」(脚本倉本聡)は、古臭く、現代の人には縁の下の古びた軍靴のように見えるかもしれない。が、アレがまだまだ多くの日本人には胸に刺さった棘として残っている。倉本聡は「今の日本人の姿を見たら、今、南海の海に沈んだままの数十万体の英霊たちは、一体どのように感じるのだろうか」と言っている。棘が胸に残っていない人が多くなり、「平和な日本になった!」と言えればいいのだが、しかし、北方四島も返ってこないで、ロシアは日本を虎視眈々と領土を狙っている現実がある。尖閣諸島から沖縄を狙う中国の欲望を感じる今、その中で、日本が過去を忘れてもいいのだろうか。ソ連ロシアの仕打ちを忘れて、戦う気構えもなく陵辱される歴史を繰り返すのはごめんだ。

「歸國」 8月15日、終戦記念日の深夜。
Ws000002 静まり返った東京駅のホームに、ダイヤには記されていない1台の軍用列車が到着した。
そこに乗っていたのは、60余年前のあのWs000003 戦争中、南の海で玉砕し、そのまま海に沈んだ英霊たちだった。
彼らの目的は、平和になった故郷を目撃すること。
そして、かの海にまだ漂う数多の魂に、その現状を伝えることだ。
永年夢見た帰国の時。故郷のために死んだ彼らは、今の日本に何を見たのか……。

中学二年生のとき、大正町の青木茂君宅へ勉強と称して集まっても、あまり勉強はしなかったが、あの青木君はこの『異国の丘』が大好きで、よく歌って聞かせてくれた。そんな子供でも、この曲を歌うことで、シベリアの極寒地で耐えた抑留者の心情の思いをはせていた。

0567 その頃は、吉田正という作曲家のことは知らなかったが、その後国民栄誉賞をもらうまでに、2000数百曲を残したが、今年平成23年になって、シベリア抑留時代に作詞作曲した曲を覚えている人が出てきて、4曲をそらんじて歌って、その曲が世に出ることになったとテレビで伝えていた。

「帰還の日まで」これは、日本の地へ戻るまで、お互いに倒れてはなるものか、という趣旨の歌である。それは、先に有名になった『異国の丘』と、内容はほぼ同じである。

0564 この歌を覚えていた人は、秋田在住の85歳のシベリア抑留者である。3年間の抑留中、吉田正さんが無名時代、同じシベリア抑留地で暮らした仲間だったらしい。何曲が吉田正はつくって、くじけそうになる仲間を励ますためにみんなで歌ったという。吉田正は、自分の作品として残したくて、木の皮に書いていた曲を小型ノートを手に入れて、書き写していた。

0568 0575帰国となったとき、ソ連としては、書いたものは一切持ち出すのを禁じた。せっかくこの3年間に作詞作曲した曲は廃棄して燃やしてしまった。秋田の北嶋さん、吉田正の曲四曲を覚えていた。記憶と言う頭の中のものは捨てることも、燃すこともできないから、その後も、ずっと覚えていた。それが80代半ばになって、自分が死ねば、この曲が消えてしまうことを懸念して、吉田正事務所に連絡して、事務所の人が、秋田へ来て録音した。

0560 歌手でもない私が、と謙遜していたが、きっと歌うのは好きだったのだろう。音程も狂わずに今から65年も前に覚えた曲を全部きちんと歌えるのだった。

戦争していた時代は、皇国戦士として身をささげていた時とは違って、シベリア抑留者にはただ家族のもとへ、故郷へ帰りたい気持ちで過酷なシベリアの冬を耐え、春になれば帰還ができると言う希望を持っていた。ソ連に理由もなくシベリアへ連れてこられているのだから、考えることは、日本のことばかり。食べ物は不足しているが、労働は厳しく、その定量ノルマを達成できない人は食べ物を減らされた。

S ソ連自体が貧困だった国かもしれないが、スターリンは計画的に日本人日本兵を使ってシベリア開発のため、抑留させ強制労働を強いた。シベリア抑留にも、まったく理由もなく武装解除後の日本人を「ダモイ(帰国)だ」とだまして貨車に乗せシベリアへ連行した。戦争犯罪人でもない日本人を拘束して、強制労働させた上、賃金を一切払っていない。この理不尽さは、今もって北方四島の帰属をめぐっても、その論理ににじませている。ソ連という国、ロシアの実態は、こういう国だ!と、シベリア抑留された人々の多くは、ソ連、ロシアを憎んでいる。その当時二十代前半の人でさえ、そういう経験者はもう80代の後半になった。もう大半の人はこの世から去って行った。

この曲は、長いこと、『作者不明』のままであったが、後に、作詞者は、増田幸治さん、そして、吉田正さんが中国の興安嶺に駐屯中のときに作曲されたということが、ご両人の復員後(吉田正さんは、昭和23年8月に、舞鶴帰還、増田幸治さんは、昭和25年(1950年)4月27日に舞鶴帰還)に分かったのである。

  国際法上、捕虜として抑留された国で働いた賃金は、帰国時に証明書を持ち帰ればその捕虜の所属国が支払うことになっている。日本政府は、南方地域で米英の捕虜になった日本兵に対しては、個人計算カード(労働証明書)に基き賃金を支払った。しかし、ソ連は抑留者に労働証明書を発行せず日本政府はそれを理由に賃金を支払わなかった。1992年以後、ロシア政府は労働証明書を発行するようになったが、日本政府は未だに賃金支払を行っていない。

Topmain750_5_01 吉田正の作曲した「異国の丘」は、国内で歌われたが、従軍中に作曲した『昨日も今日も』と言う曲を、1948年昭和23年、シベリア復員兵中村耕造が、『NHKのど自慢』で歌い話題となる。最初、聴衆も知らない歌だから、黙ってみんな聴いていたが、それがシベリア抑留を歌っているとわかると、歌い終わった途端、カネが連打され、聴衆は興奮した。『昨日も今日も』がのちの「異国の丘」であった。資料

1 今日も暮れゆく異国の丘に
  友よ辛かろ切なかろ
  我慢だ待っていろ嵐が過ぎりゃ
  帰る日も来る春も来る

2 今日も更けゆく異国の丘に
  夢も寒かろ冷たかろ
  泣いて笑うて歌って耐えりゃ
  望む日が来る朝が来る

3 今日も昨日も異国の丘に
  重い雪空日がうすい
  倒れちゃならない祖国の土に
  たどりつくまでその日まで

http://www.youtube.com/watch?v=9hkoI_r3MLM

この曲が『異国の丘』と改題されレコードとなって大ヒットした。
吉田正の経歴
Yoshidapro1110 1921年1月20日、茨城県多賀郡高鈴村(現日立市)に誕生。
1939年3月、日立工業専修学校卒業。
1939年4月、増成動力工業株式会社に入社。
1942年1月、満州国黒河省(黒竜江省北西部)の水戸歩兵第二連隊に入隊。
1945年10月、敗戦後、シベリアに抑留される。
1948年8月、舞鶴港に復員。
1949年4月、日本ビクターに専属作曲家として入社。吉田正は日本で作曲家として有名になったのはその頃からである。

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コメント

0905754××××

管理人より
個人情報については、問題が起きると困りますので、非公開とします。メール連絡しました。

投稿: まぁちゃん | 2011年3月 1日 (火) 03時43分

なつかしい中津川にかかる記事から入ったことはよいが、その記事がどこにあったやら?探し始めたら 昨日の興味を持って見たTV 最後の仇討 の記事 ふーんといいがてら 今日見ていたら 後藤新平先生 昨年私の専門 広域土地活用都市計画に関して 水沢の記念館行って来たこともあり、これから いろいろ読ませてください。このコメント何処行きかも?そうそう思い出した
先日中津中山道記念館訪問からはじまったんだ たしか間と赤穂の関連だたかな

管理人より
楽しいご感想を頂き、ありがとうございます。
またのご来訪をお待ちしています。

投稿: りんこうさん | 2011年3月 1日 (火) 16時44分

私の地元の日立市には、吉田正記念館があり、何度か訪れたことがあります。当初、昔、歌謡曲を作った人物程度の理解しかなかった。しかし、戦後、シベリア抑留された仲間のために生きて祖国・日本へ帰ろうと励ます歌を作ったことを知り、本当に尊敬すべき人物であると思いました。御国のために戦場へ駆り出された一般庶民への強い思いが伝わってきます。

投稿: 地元民 | 2014年11月 1日 (土) 14時34分

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