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2011年3月28日 (月)

蒼穹の昴(最終回)浅田次郎

Ws000003Ws000004 「蒼穹の昴」で西太后となる少女が、選秀女に選ればれて、皇室である紫禁城に入り、皇帝に目を掛けられ、ついにクーデターで皇后に上り詰めた。稀代の悪女 西太后 27歳のクーデター 大智は愚の如し「蒼穹の昴」見て 以後、「蒼穹の昴」を録画し見続けて、25回連続の最終回になった。

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 日本でいうなら、大奥の側室要員が、清朝では、満州・蒙古の貴族の女性から三年毎「選秀女(試験)」で選ばれていた。
①皇后1名 ②皇貴妃1名 ③貴妃2名 ④妃4名 ⑤嬪6名 ⑥貴人(制限なし)別枠に「官女」の試験があり、選秀女がキャリア組なら、官女はノンキャリであって、順位⑧から始まる。25歳までに皇帝のお手がつかなければ、官女は実家へ帰るが、秀女に選ばれたものは、別宮に移り、生涯を宮廷ですごさなければならない。

蒼穹の昴 最終回 「永遠の昴(すばる)」
改革に一身を捧げようとした梁文秀(周一囲)だったが、岡圭之介(小澤征悦)ら
の説得で日本に脱出することになった。一方、春児(余少群)は、文秀の命を助けようと思うあまりに西太后(田中裕子)の逆鱗にふれてしまう。光緒帝(張博)を先頭にした改革は、巻き込まれた人々の運命を大きく変えてしまった。再び政治の表舞台に立つことになった西太后だったが、周囲から人々は去り、一層孤独感を強めるのだった・・・・・

蒼穹の昴 浜崎あゆみCoverSong★ 

Photo_3 日中合作であるが、中国人の役も、ほとんどが日本人が演じている。西太后の子供光緒帝を皇位につかせるが、傀儡のつもりであるが、光緒帝が成人して自分の意思で清朝を動かそうと、清朝の改革を実行しようとして、それがいわ園に隠居していた西太后の怒りを買って、光緒帝は逆に幽閉されてしまう。

Photo_204光緒帝の思想を支えていた、科挙一番で官僚になった文秀であったが、彼は西太后は許さぬと殺そうとしたが、多くの人の助けで、一時は日本大使館に保護されていた。彼の能力を惜しみむ人たちが、西太后に説得を試みて、袁世凱の配下が日本大使館を監視していた軍の裏門から撤退を命じた。それによって、梁文秀が日本への亡命をなしえた。

Photo_4 何もできない光緒帝は、幽閉中の屋敷のなかで自殺を試みるという夢をみた西太后は、あわてて駆けつけるが、息子である光緒帝は、西太后に雑言罵倒を浴びせた。息子をゆするわけにもいかず、殺すわけにもいかない悩みが彼女にはあった。

光緒帝は自分の意思を発揮できず、幽閉された離宮でモンモンと過ごしている間に、精神的に参ってきたのであろうか、1908年、光緒帝崩御。そして、その翌日、西太后も72歳で崩御した。西太后は死の前に溥儀を宣統帝として擁立し、溥儀の父醇親王を摂政王に任命して政治の実権を委ねた。しかし、西太后の死からわずか3年あまりで清朝は辛亥革命が起き、清朝は崩壊する

光緒帝の死の翌日に西太后も死ぬのは、都合が良すぎる。これは、西太后の死は予想されていたから、西太后の死によって光緒帝が皇位につけば、報復される立場の西太后の取り巻きが毒殺したのではないか、という陰謀説が続いている。

1980年の光緒帝の陵墓発掘の際の遺体調査では頸椎・毛髪いずれにも中毒の痕跡を見出せず外傷も存在しなかったこと、光緒帝に関するカルテ及び薬品の処方といった史料が現在も故宮に残されており書籍も出版されていることなどから、病死の可能性が濃厚と考えられてきた。

しかしながら、2003年より中国の国家清史編纂委員会、原子力科学研究院などから成るプロジェクトチームが結成され死因の調査を行った結果、2007年に頭髪に集中して通常の1000~2000倍の砒素が検出されたと報道され、「これこそ一度に大量の砒素を投与された証拠だ」とし、再び砒素による毒殺の可能性がクローズアップされてきた。

その後も調査を進め、光緒帝の遺髪や衣服などを調査した結果、致死量をはるかに上回る猛毒の三酸化二砒素が検出された。毒の残留状況や文献記録などから慢性中毒ではないとして委員会は2008年、光緒帝の死因は急性胃腸性砒素中毒であり毒殺されたものと結論付けた。研究の成果は、編纂中の清史に反映される予定。

 犯人については、証拠がなく謎のままである。
①「西太后説」彼女自身、自分の死期を悟った西太后が、自分よりも光緒帝を長生きさせないために毒殺したという説がある。
②「袁世凱説」かつて戊戌変法で光緒帝を裏切った袁世凱にとって西太后が死去し、光緒帝が復権することは自身への報復を意味しており、袁世凱が宦官を利用して先手を打って光緒帝を暗殺。(溥儀は自伝『わが半生』で袁による殺害という立場をとっている)。
③「宦官李蓮英説」長年西太后に仕えていた宦官李蓮英が、西太后の死去で後ろ盾を失い報復されるのを恐れて暗殺したという説。
 いずれの説にも証拠はなく、真相は明らかになっていない。

著者 浅田次郎(あさだ じろう、1951年12月13日 - ):日本の小説Talk_asada 家。本名、岩戸 康次郎(いわと こうじろう)。血液型はA型。
 自衛隊に入隊、のちアパレル業界など様々な職につきながら投稿生活を続け、1991年、『とられてたまるか!』でデビュー。悪漢小説ののち、『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞、『鉄道員』で直木賞を受賞。時代小説やエッセイのほか、『蒼穹の昴』『中原の虹』などの中国歴史小説がある。映画化、テレビ化された作品も多い。日本の大衆小説の伝統を受け継ぐ代表的な小説家といえる。2008年現在、直木賞、吉川英治文学新人賞、山本周五郎賞選考委員。

作風「小説の大衆食堂」を自称、「書くのは最大の道楽」と語り、作家生活14年以上、70冊を越える著書を書き上げた今日も執筆活動への意欲を見せている。現代小説では「平成の泣かせ屋」の異名を持ち、人情味あふれる作風に特徴がある。

作品の舞台については、各種資料で調査しているが、現地を訪れることなく書かれた作品も多い(「鉄道員」「蒼穹の昴」など)。現地を見ないで書いた方が、ロマンのある作品になるともいう。

蒼穹の昴 蒼穹之昴 end ★

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(資料)歴史的な事実
光緒20年(1894年)の日清戦争による朝鮮への影響力喪失など、相次ぐ自国のふがいなさを光緒帝は嘆き、国勢回復を切望するようになった。それゆえ康有為、梁啓超らによる変法運動への興味を強く持つようになり、西太后の傀儡から脱し、自らの親政により清の中興を成し遂げようとした。

光緒帝は1898年に体制の抜本的な改革を宣言(戊戌の変法)。しかしあまりにも急進的な改革に宮廷は混乱し、保守派の期待は西太后へ集まるようになる。

西太后は当初静観していたが、変法派の一部が西太后の幽閉を計画。当初変法派に同調していた袁世凱は、変法派を裏切りこの計画を西太后の側近栄禄に密告した。西太后は先手を打ってクーデタを起こし、光緒帝を監禁し、変法派を弾圧した(戊戌の政変)。
西太后は一時光緒帝の廃位を考え、端郡王載?の子溥儁を大阿哥(皇太子)に立てたが、外国の反対にあい光緒帝の廃位は断念した。

義和団の乱が勃発し八ヶ国連合軍が北京に迫ると、西太后は光緒帝を連れて西安まで落ち延びる。その際に光緒帝の側室珍妃が西太后の命により井戸に投げ込まれて殺害された。外国との交渉で、事件の処分は直接首謀者だけに限られ、北京帰還後も実権は西太后が握り続けた。その後、西太后の主導で、かつての戊戌の変法と基本的に同じ路線の近代化改革である光緒新政が展開されるが、光緒帝は終始西太后の傀儡にとどまった。

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