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2011年2月 1日 (火)

楢山節考 木下惠介監督 主演田中絹代

0163 「楢山節考」を見ながら、なんで、こんなに暗い映画が娯楽になったのか、考えた。長い人間の歴史は、主にこういう食料が不足する時代を潜り抜けて、ようやく食うもので満たされるようになったのだな、と思わされた。

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0168 1956年(昭和31年)木下惠介監督、田中絹代、高橋貞二、宮口精二、市川團子ら出演で、映画化されたDVD.カラー。しかし、流れが姨捨山伝説をベースに、信州の寒村に住む人々を長唄ベースに太棹三味線でストーリーが進むから、いやはや、いまどきの感覚ではないから、退屈でしょうがない。

70歳になると、若い者の邪魔にならないようにと、死に場所を求めて、姥捨山に放置される。人間的な情のある人と邪険に扱う人が入り混じる関係を描いていた。

山に囲まれた信州のある村。今年も楢山の歌が歌いだされる季節になった。村の年寄りは七十になると楢山まいりに行くのが習わしで、六十九のおりんはそれを待っていた。息子の後妻も無事見つかって安心したし、山へ行く時の支度はととのえてある。済ませることはあともう一つ…。
0166-塩屋のおとりさん 運がよい 山へ行く日にゃ雪が降る- 自分が行く時もきっと雪が降る… おりんはその日を待ち望む。
 孝行息子の辰平は、お供で一緒に行くのだが、気が進まず元気がない。しかし家計を考えて年明けも近い冬の夜、誰にも見られてはいけないという決まりのもと背中に母を背負って楢山まいりへと出かけていく。辛くてもそれが貧しい村の掟なのであった。(Wikipedia参照)

  おりん(田中絹代)は、息子辰平(高橋貞二)に背負子で背負われて、山へ向かう。霊域には、あちこちに白骨化した骨がある。そこで死んだ人を鳥が食べ、風にさらされて骨になるのだろう。死を実感する場のない現代では、むごく見えるが、これが死の迎え方かな、とも思う。人は、丁寧に死を迎えて葬られるが、野生の動物は、自分の死を悟ると、姿を消して人目につかない場所へ行く。猫にしても、ネズミにしても、はとにしても、死んだ姿は見つからない、ゾウは、あの巨体をどこかへ隠して死ぬと昔からいわれていた。

  人間は死んでから、風葬にする地方は、モンゴルのような厳しい環境にはあるが、日本にはめずらしい。信州の貧しい土地にそういう話があったから、文学者には好まれ賞をとった。この小説で深沢七郎は一躍有名になった。きっと、青森や山形あたりでは、きっともっと悲惨な話があるにちがいない、と私自身は思っている。

深沢七郎(ふかざわ しちろう 1914年1月29日-1987年8月18日)日本の小説家、ギタリスト。山梨県東八代郡石和町(現笛吹市)に生まれ、旧制日川中学校卒業。中学の頃からギターに熱中し、ギタリストとなる。
 1956年に
『楢山節考』第1回中央公論新人賞となった。三島由紀夫らが激賞、ベストセラーに。また、戦国時代の甲州の農民を描いた『笛吹川』も評判。しかし一度も芥川賞候補になっていない。
 1960年に『中央公論』に『風流夢譚』発表し、天皇・皇族が殺害されるシーンを描いたため、翌年
中央公論社長宅が右翼に襲撃される(風流夢譚、嶋中事件)。そのため筆を折って各地を放浪した。
 1965年、埼玉県南埼玉郡菖蒲町に「ラブミー農場」を開き、以後そこに住んだ。
 1971年、東京都墨田区東向島の東武曳舟駅の近くで
今川焼屋「夢屋」を開く(Wikipedia 参照)

 飢饉が来たときは、庶民の生活は悲惨のきわみだろう。京都の四条河原には、死体放置されて町中に死臭が漂い、疫病がはやり、路上で尿、排便を垂れ流す路上生活者がゴロゴロ寝ていたらしい。そういう絵が残っている。四条河原の死体は、大雨で流されるまではそれら放置されていたという。平安時代の末法といわれたころの世の中はそんなものだったらしい。だから、西方浄土への憧れから、救いにすがる人に宗教は広がったのだろう。永承7年(1052年)、末法の時代に突入したと考えられ、終末論的な末法思想が広まる。

末法思想 日本では平安時代、特に1052年(永承7年)は末法元年とされた。貴族の摂関政治が衰え、代わって武士が台頭し、治安の乱れ、民衆の不安は増大した。また仏教界も天台宗を始めとする諸寺の腐敗や僧兵の出現、退廃していった。このように仏の末法の予言が現実の社会情勢と一致したため、人々の現実社会への不安は一層深まり、人々は厭世的な思想に傾倒した。
 鎌倉時代には、法然の浄土宗や親鸞の浄土真宗などは末法思想に立脚し、念仏により死後に西方極楽浄土の阿弥陀如来の許への往生を唱えた。また日蓮も、同時期に法華一乗を唱えた。
 しかし曹洞宗を開いた道元は、釈迦在世でも、愚鈍で悪事を働いた弟子もいたことや、末法を言い訳にして修行が疎かになることを批判し、末法思想を否定した。
(Wikipedia 参照)

こんな記録がある。
治承5年/養和元年(1181年)、養和の飢饉が発生する。洛中の死者だけでも、4万2300人とされる。(『方丈記』)戦乱・飢饉により、洛中が荒廃する。京都の人口は50万人いないだろうから、3~5人に一人が死んだと思える。

  生存に執着する人と「姥捨山へ行く」ことを受け入れる人の違いもあるが、食う物の絶対量が不足しているから、追い出すのが、山村部では行われていた。いつの話か、よくわからないが、たぶん平安時代以前かもしれない。江戸時代は、どうだろう。

木曽の「夜明け前」でも、木曽は尾張藩の支配下であったが、米が取れないから米の年貢は免除されていたようだ。ほかの生産物を年貢代わりに納めていた。免除率が明治のご一新になって「年貢半減」という民主党のスローガンみたいに、希望を持たせたが、結局徳川幕府の治世より、かえって明治政府のほうが厳しく税を取り立てた、と書いてある。

「ヘンゼルとグレーテル」は、お菓子の家で有名だが、義理の母と父に森の奥へ捨てられるのも、食料難のためである。「ジャックと豆の木」のバックにも貧しさがある。日本の「六地蔵」の話も、「したきりすずめ」も、貧しいおじいさんとおばあさんの話だ。
人類は、生活難、食料不足の中を生き延びてきたのだという、証拠みたいな話ばかりである。

0157  姥捨山の霊場に放置されたおりん(田中絹代)は、みのかぶり、両手を合わせて祈る。前々から雪が降ってくれば、(早く凍えて死ねるから)運がいい、と思って「雪の降る前にお山さんへ行きたい」と言っていた。

 母おりんを置いて、そのとおりになったと、息子辰平(高橋貞二)は、泣きながら山から下りてくる。妻(望月優子)が待っていた。妻は「70になったら、私たちも、一緒に山へいこう」と慰める。
 現在の景色になり、辰平と妻が立っていた所から、カメラはもくもくと煙を吐いて列車がいく光景を映し、「終」となる。

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