« 国際孤立を避ける方針…なんで戦争に | トップページ | 与謝野馨氏入閣 義経の発想飛び »

2011年1月13日 (木)

有田八郎の戦後 宴のあと

Untitled 有田八郎は、戦前外相として、「欧米協調派」に対する「アジア派」の外交官として知られ、近衛内閣時代に東亜新秩序の建設表明をし、、日本の舵取りをした。昭和期の外交官、政治家参照

読んだよ!クリック」よろしくね!
   ↓   ↓   ↓   ↓

人気blogランキングへ 
今後とも、ブックマーク(お気に入り)で、継続的に追読して頂けると、嬉しく思います。

戦前の有田八郎の活躍は華々しかった。ところが、戦後の有田八郎は、外交官の能力を生かすことができなかった。生活もままならないのを妻に助けられ、彼女の七面ハッピの内助の功で、世間に知られたが、それが保守陣営に妨害され、当選できる選挙も当選できず、三島由紀夫の小説「宴のあと」でプライバシーの暴露で傷つけられ、いい晩年とはいえず、気の毒であった。

公職追放で、有田八郎が手も足も出ないとき、不遇の日々を送る彼を支えるため、妻の才覚で東京の三田に料亭「桂」を開業。多くの財界人が集う。次いで、'49白金台の「般若苑」を買い取り事業を発展させた。

有田 八郎(ありた はちろう、1884年(明治17年)9月21日 - 1965年(昭和40年)3月4日):新潟県佐渡郡真野町(現・佐渡市真野)出身の外交官、政治家。貴族院勅選議員、衆議院議員1期(第26回)。

Photo '55二度目の衆院選に落選。同年、衆院選直後の東京都知事選に社会党から推され、革新候補として出馬。保守現職の安井誠一郎と戦って敗れた。この都知事選には有田は出馬に渋っていたが、妻の輝井が押し出すように勧めでの選挙戦だった。
 4年後の'59再び東京都知事選挙に挑戦する。この選挙戦も、有田は当初出馬を固辞。しかし、妻の輝井が幹部に頼み、社会党から再出馬に踏み切らせた。選挙資金調達のため、輝井が料亭桂を売り払い、般若苑の収益を全て選挙準備に投じた。

Photo_2 一方、出遅れた自民党は東龍太郎を担ぎ出して、猛烈な巻き返しに出た。物量戦と言われ、選挙資金はいくらあっても足りない状況に、輝井は般若苑を抵当に入れ選挙運動資金をつくり、更に休業し、売却も試みるも、これは当時の首相岸の圧力で挫折。

選挙中に「元外務大臣有田八郎氏夫人―割烹料亭般若苑マダム物語」という怪文書がばらまかれ、投票日の前日には「有田八郎危篤」のビラもまかれ選挙妨害にあう。

4月24日開票。結果、
東   :1,821,346票、
有田:1,652,189票で落選。

有田夫妻に約1億円の借金が残った。三田の有田邸を売り払い、当座の返済に充てたが間に合わず、二人の間で口論が繰り返され、溝が深まる。

般若苑の再開をめぐる意見の対立が直接のきっかけとなり、9月3日協議離婚。輝井は有田に尽くしきった半生に違いはなかったが、有田も輝井に振り回された印象が残った。

その後、輝井は般若苑の再開資金調達に走り回り、吉田茂、佐藤栄作をはじめ、作家の平林たい子やソニー社長の井深大らも資金面で助けられ、経営を軌道に乗せた。一方、有田は、日本社会党顧問を務めた。

 '60選挙の翌年、三島由紀夫が、「中央公論」に、有田と輝井をモデルにした小説『宴(うたげ)のあと』を連載(1月号~10月号)した。作中では有田は野口雄賢、輝井は福沢かづとされ、接吻シーン、寝室での行為、心理の葛藤、妻への暴力行為などがきわどく描写されており、有田は「事実に反すると同時にプライバシーの侵害だ」として、損害賠償を求めて民事訴訟を起こした。

 これは日本最初のプライバシー侵害訴訟である。'64有田が死去す前年、東京地裁はモデル小説にもプライバシー権を認め、三島に賠償金の支払いを命じている。この一連を「『宴のあと』事件」という。有田没後に遺族との和解が成立。
 '36勲一等瑞宝章受章。'38勲一等旭日大綬章受章。'59『馬鹿八と人はいう』を刊行。享年80歳。

読んだよ!クリック」よろしくね!
   ↓   ↓   ↓   ↓

人気blogランキングへ 
今後とも、ブックマーク(お気に入り)で、継続的に追読して頂けると、嬉しく思います。

|

« 国際孤立を避ける方針…なんで戦争に | トップページ | 与謝野馨氏入閣 義経の発想飛び »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 国際孤立を避ける方針…なんで戦争に | トップページ | 与謝野馨氏入閣 義経の発想飛び »