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2011年1月 4日 (火)

宗吾霊堂へ初詣 佐倉宗吾一代記

9500 成田山新勝寺へは、何度もいっているが、宗吾霊堂へは途中なのに行っていない。一度義民宗吾の一代を知っておきたい、と宗吾参道で下車。正月休みのウオーキングにもいいからと、初詣をした。宗吾霊堂は、親しみのある真言宗豊山派の寺であった。宗吾一代記念館:入場料は700円だったが、見ておいてよかった。

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1312 9366 義民佐倉宗吾(木内惣五郎:慶長17年誕生-承応2(1653)年刑死)の父木内源左衛門は、千葉重胤の家臣で、小田原の合戦では北条方に味方して湯本口を守り、秀吉軍と戦い、勇猛を謳われた。北条氏滅亡後、武士を廃業、印旛沼周辺、公津村に土着した農民(名主)である。

この佐倉藩の堀田堀田正盛は、家光の乳母春日局の親戚で、三代将軍家光の要職にあった。家光の死去に際し、殉死をして、二十歳の息子正信が後を継いだ。領主が二十歳で、江戸勤めが多く、国家老が佐倉藩15万石を裁量することになった。

佐倉藩は貧乏な藩で、武士は相当ひどい暮らしを強いられていた。佐倉武家屋敷を見学した際、見聞きしたのは武士の貧困であったが、農民はそれ以上に厳しく搾取されていた。領主の留守勝ちな佐倉藩を預かった国家老池浦主計は、不足する歳入を、冥加金として、裕福な商人、百姓から徴収した。その上、凶作、飢餓の対策と称して、通常の年貢米を一割二分の増税を実施。

宗吾一代記とはいえ、事件から結末まで、約1年半程度の話しで、案外この間、短いのは意外だった。

9437 宝物殿の中に、展示物として、佐倉藩の一升枡壊れかけていると通常の一升枡が並べて展示されていたが、明らかに枡が大きい。他より三割方大きいと注釈がついていた。この枡で一升は一升だと、役人に言われたら、百姓の立場はない。

飢饉対策の増税のほか、寺社税、人頭税、労働税、営業税、家屋税。他に、出産入籍税、祝儀税、絹物税、牛馬税。まだある、天秤棒税、鍬鍬すきくわ税、野菜税、味噌税、醤油税など、29種類の重税を課し、過酷に取り立てた。

無謀な過酷な税を軽減するように、何度も佐倉藩に訴えた。が、役人は取り上げるはずもなかった。承応元(1652)年九月に襲来した暴風雨で、作物は全滅して、一家離散、道端に餓死者も出た。ついに、その年の9月、三百八十九か村が一丸となって、藩庁へむしろ旗、竹やりで訴えようと鎮守の森で集会した。

名主総代、木内惣五郎は集会の場へ駆けつけて、身をもって止めた。一揆を起こせば、百姓は命はないし、一家身内は全員磔になる。日ごろ、百姓の面倒を見てきた庄屋惣五郎の人徳でかろうじて止められたのだが、「私が領主に直訴する」と約束した。

各村の名主総代を公津村に集合して、今後の対策について協議を重ねた。百姓の行動について察した藩庁では、「訴えごとをなす輩は厳罰に処す」と回状をそれら名主に送り、災害増税を弛める気配はなかった。

国許の佐倉藩では、いかんともし難いという結論で、藩からの懐柔で80か村は脱落したが、305カ村の名主が集団で江戸へ出て、佐倉藩堀田上屋敷(和田蔵門)に嘆願書を提出した。承応元(1652)年11月17日である。翌日は、同堀田下屋敷(青山百人町)へ出向いて、訴えようとすると、「藩庁を差し置いて、強訴するとは不届きである」「今回に限り、強訴をとがめだてしないから、すぐ帰国しろ」と嘆願書は却下された。

9386_2 持病のある惣五郎は、一足遅れて名主総代たちと合流して、嘆願書却下の後の対策を考えた。その結果、佐倉藩の若藩主正信も取り上げないなら、幕府へ上訴するしかない、との結論を得た。が、老中に訴えても、果たして取り上げてくれるかわからないから、個人的に理解のある将軍家後見職の保科正之の耳に届くようにしようとなった。

公明英才の誉れ高い久世大和守(保科正之)を江戸城登城をお堀端で待ち、駕籠先へ訴えて、受け取ってもらえて、安心した。回答を受け取るために、大挙した待つのは不穏当であるからと、惣五郎、勝田村名主、滝沢村名主、千葉村名主、小泉村名主、高野村名主、六人だけが残ることになった。

久世家の考えは、情においてはしのびえぬものはあったが、大名同士の礼儀、相手の藩内の内紛に口を挟むことは控えたい、という考えであった。そこで、久世屋敷に惣五郎たちを呼び寄せ、「重ねての訴えは無用」と厳しく言い渡した。

この江戸における惣五郎らの行動は、国表(佐倉藩)に通知された。国家老池浦らは、激怒して、代表六名の名主総代は、我が家の敷居をまたがせるな、容赦なく召し取れ、と各村の入り口をを厳しくかためさせた。

村々の田畑は荒れ放題、増税で苦しむものは増え、重税から逃れる手段として父祖の土地を放棄して他国へ逃散する人は数限りなかった。

9405久世大和守(保科正之)への駕籠訴が取り上げてもらえないなら、将軍家はの直訴しかないと代表名主総代六名の結論は出たが、六人で行動しては人目に立つので、惣五郎が一人で直訴する引き受けた。その大役を惣五郎が引き受けて、失敗したら、あとの五人が初志貫徹のために、順次実行することにした。

将軍への直訴したら、命はないと覚悟していた惣五郎は、身辺整理のために一度故郷に帰らなくてはならないと、雪降る中、夜中印旛沼の渡し場へ来た。ここが船頭甚兵衛の小屋である。甚兵衛は、若9448い頃は手のつけられない道楽ものであったが、大病を患った際に、惣五郎の世話になり一命を助かった。病後は、人柄が変わったように惣五郎の恩義を感じていた。

暮れ六つになると、渡し舟の航行を禁止して、役人が来て渡し舟に鎖を掛けて、無断で使用すると打ち首が待っていた。惣五郎が村民の窮状を救うため、江戸へ行き活動していることは承知していた。船頭甚兵衛は、鎖を切って渡し舟を出して、雪降る湖面を惣五郎を公津村へ渡した。甚兵衛は、役人の手に掛かるより、自分で自分の身を始末しようと、惣五郎を送ったあと、寒中の湖に飛び込んだ。

9396 惣五郎は、その夜のうちに家にもどり、妻欽キン、長男彦七、長女ホウ、次女トク、三女トチと涙の別れをして、妻には離縁状を渡し、災難が及ばぬようにし、夜が明けぬ前に家を出た。江戸へは、印旛沼ではなく、佐倉城が見える道を選んでに出た。

四代将軍家綱への直訴を成功するため、上野東叡山の僧侶光岳の手引きを得て、東叡山の入り口三枚橋で将軍を待ち構えた。翌日将軍は保科を側近に従え、下馬先に到着した。そのとき、惣五郎は脱兎のごとく近寄り、訴状を将軍家綱へ差し出した。訴状は間違いなく、保科正之の手を通して将軍に渡った。その場で惣五郎は縄を打たれ、身柄は寺社奉行目付け井上河内守から、堀田家上野介正信に一任された。

9413 将軍家から惣五郎の処置を一任された堀田正信は、国家老池浦主計を江戸に呼び寄せた。正信は池浦主計を問い詰めたが、彼は言を巧みに惣五郎の行状を伝えたので、惣五郎を厳重に処罰しろと伝えた。国家老池浦主計は、惣五郎のほかの勝田村名主重右衛門、滝沢村名主六郎衛門、千葉村名主忠蔵、小泉村名主半十郎、高野村名主三郎衛門の五人は佐倉藩領、十里四方追放闕所。惣五郎は磔、子ども四人は死罪となった。話によると、女はこのような場合は、罪を問われないはずだが、長男彦七以外の長女ホウ、次女トク、三女トチは、処刑されないはずだったが、男の名前に変えて、処刑したという。離縁した妻は、矢来の外でそれを見守っている図は、哀れである。

9354 承応2(1653)年八月三日、惣五郎の処刑が行われた。子どもたち、特に長女、次女、三女はの処刑は、領内村々から助命嘆願書が提出されたが、長女ホウは次男徳次、次女トクは三男乙治、三女トチは四男徳松と名前を変えて処刑された。処刑の君津刑場跡地が、現在の宗吾霊場となっている。

江戸城内では、惣五郎の訴状の評議が行われ、八月二十三日、諸役連座の上、堀田正信に対して、「佐倉藩の減税施行すべし」と、申し渡しをした。惣五郎なきあと、明暦四年から万治二年までの三年間は年貢の免除され、幕府から佐倉藩に救済米が一石につき二割を免除された。諸税の運上の軽減なども行われた。

13_3五人の名主総代はいずれも剃髪して諸国霊場を回り、惣五郎の後世安楽を祈りつつ生涯を送りつつ余生を送ったというが、その終焉は誰も知らない。

義民宗吾の生涯は、江戸時代から昭和のはじめまで、相当の人気のある出し物だったようだ。だからか、義挙をおこなった宗吾にたいして喜捨が多そうだ。境内には石碑を立て、昭和のはじめでも2000円、今の500万円~1000万円以上の寄付している。

参拝者の寄付、賽銭、破魔矢、成田山新勝寺に対する気持ちは、当然のように見えるが、宗吾霊堂は成田山に追いつくため、いま頑張りが行われているさなか、そんな感じでいい。まだまだ演出家を使って演出すれば、いい寺になりそうだ。

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