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2010年12月17日 (金)

勝海舟の胆力「江戸無血開城」

8985勝海舟の業績でいちばん大きいのは、西郷隆盛との話し合いで「江戸無血開城」であろう。薩摩も長州も、「慶喜の首を上げ、江戸を火の海にしてやろう!」と、攻め上る手はずがついていた。黒鉄ヒロシが両国中学の生徒に「勝海舟」の生き様を話していた。

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945 勝海舟も単純は平和主義を述べて西郷隆盛を説得したわけではない。数ヶ月も前から、薩摩、長州新政府軍として、勝ちに乗じて、江戸を火の海にするつもりでくるとはわかっていたので、手紙で交渉をしていた。新政府軍が火をつけたら、江戸の住民が何十万の無辜むこの民が犠牲になる。これを救うため、攻めてくる新政府軍を打ち払うって、住民を逃がすにはこっちから火を放つしかない・・・と、覚悟を決めて、火消しの親玉やヤクザと相談して「江戸焼き払い」の準備をした。これは、新政府軍に対抗する手段として、準備して西郷と対談して、その覚悟を見せて、譲歩を引き出し、最後は新政府軍の「江戸焼き払い」を防せぎ、「無血開城」となった。

8993 この明治維新では、薩摩、長州と江戸の町で戦いを繰り広げたら、町人を巻き込めば、1万、2万の死者では済まないだろう。江戸の町が壊滅するだけでなく、植民地主義の欧米大国がチャンスと見て、国力が衰退して日本は蹂躙されるだろう、と見識のある人は見ていた。こんな交渉を西郷隆盛とやる人は幕府内にはいなかった。門閥で地位を得ている幕府内で、敵方の薩摩・長州相手に腰を据えて交渉する人材は、見当たらない。うまく「無血開城」しても、幕府側の不利であり、薩長を相手にどーんと構えて交渉するのは、命がけである。死を恐れない胆力を勝海舟は持っていた、その胆力はどこから生まれたか。黒鉄ヒロシは伝えようとしていた。

89448950 勝海舟は、150センチの江戸時代でも小柄に属する体型ではあるが、剣道で鍛えた筋肉隆々であった。こいつは侮れないぞ、と思わせる胆力があった。それを西郷隆盛もそれを感じたからこそ、勝の申し出を受けて、江戸総攻撃を控えた。(上野にこもって戦った彰義隊には、本郷台地の東大構内からアームストロング砲で攻撃したが)大掛かりの本格戦争にはならなかった。幕府所属の軍艦で榎本武揚ら抗戦派は、品川埠頭から北海道を目指し逃亡、など火種は残っている。

黒鉄ヒロシの話は、中学生には「勝海舟の人柄、人生」に力点を置いていた。幼少時から、剣道で体を鍛え、座禅で心と胆力を鍛えていた。当時、幕臣(旗本)の子は、勉強しても辛抱が足りないから、蘭学の塾では先生が嫌がっていた。その中で、勝海舟は蘭学の塾へ入ろうとして、いくつか断られた。ようやく蘭学塾に入ったはいいが、お金が続かないから、独学で勉強したいが辞書がな8995い。当時の唯一の参考書ズーフハルマを持っている人に頼み込んで、その人が使わない深夜だけ見させてもらう約束した。

勝海舟は、ズーフハルマの持ち主の家は通い、その人が寝ている間に、その辞書を写し取った。こんな根性が現代人にあるだろうか。それも、2冊書き取り、一冊は自分用に、もう8996一冊を10両(幕末で両の価値が下がっているにしても、今の20万円~40万円)で売って、謝礼にした。勝海舟は2冊も写したから、頭にも入って、蘭学(オランダ語)を習得してしまった。適塾で福沢諭吉も、この辞書で勉強した。中学生や高校生の英語の辞書を写させる作業を宿題でやらせたら、どうなんだろう。

勝海舟は、幕府のトップに立ちながら、なぜ徳川幕府を終末にするという離れ業をやってのけたのか、それを黒鉄ヒロシは解説した。

200pxshoguntokugawa_yoshinobu 幕末の有能な官僚は、勝海舟と小栗上野介だった。革新派の勝海舟と保守派の小栗上野介。時の勢いで、徳川慶喜は、二人の考えを採用して進めた。勝海舟が用いられるときは、幕府の窮地に陥ったときで、幕府が勢いが盛り返すと、小栗上野介の手腕を利用して造船所をつくったり・・・勝海舟は無役になるという、二人の関係は裏表になっていた。維新後、新政府は田舎に引っ込んだ小栗上野介を打ち首にした。キビシイ!有益の旧幕府人材を利用するべきなのに、新政府のしっぽ振ってこない人材には、苛烈な処分をした。それが、明治新政府の方針。だから、裁判もなく、打ち首になった例はたくさんある。

Oguri 小栗上野介:小栗家は代々徳川家に仕えた旗本で、忠順は小栗家12代目の当主として優れた才能と人格を兼ね備えていました。
 安政7(1860)年、日米修好通商条約批准書交換のため幕府が遣米使節団を派遣した際、目付(監察役)として抜てきされ、使節団の一員として渡米しました。その後も外国奉行、勘定奉行、軍艦奉行など幕府の要職を歴任し、数々の業績を残してきましたが、新政府軍と最後まで戦うべきと主戦論を強く主張したため、すべての役職を罷免され、領地であった権田村(現在の群馬県倉渕村)に隠居しました。そして慶応4(1868)年、忠順は何の取調べをされることもなく、新政府軍によって権田村の烏川水沼川原で斬首されました

司馬遼太郎の『峠』で、河井継之助が新政府派遣の指揮官の元に越後長岡藩を攻撃しないように嘆願するが、新政府の指揮官が威張りくさってるんだよ。ちょっと前までは、薩摩の・・・だった男、というように。思慮分別のない小者が急に役につくとこうなるのだと言う例を書いていた。

8955人間の欲望に沿って生きているのだが、勝海舟は、この人間の欲望を突き抜けてしまった。孤独でも平気、この生き方で勝は超越していたので、何も恐れないで徒党を組まないでやっていけたのだと、黒鉄ヒロシは生徒に教えた。胆力の根源であるか、悟りの境地か。「個が立っていた」と表現していたが、他の人に影響をうけないでいた。自分が正しい、と主張できた。幕末には、こういう自信をもっていう日本人がいたのだ。

8964人間は何に価値を置いて生きているか。黒鉄ヒロシは、生徒たちに①権力、②経済、③理論、④社会、⑤宗教、⑥芸術のどれかに力点をおいて生きている。と、説明していた。その勝海舟は、どれにも当てはならない・・・というなら、この説明はいるのか?と、突っ込みをいれたくなったが、黙って聞いておこう。 哲学堂創始者の井上円了が勝海舟に相談に行って、寄付金をもらう話をパンフレットに書いてあった。気前のよさを勝海舟の本心から見た。哲学堂に井上圓了の思想を汲む

8987①痛さ、苦しさで死を恐れる。
②近親者との別れ 
③財産の放棄 
④不条理の恐怖

これらから、勝海舟が飛び抜けるたのは、なぜか。死の恐怖は9歳で妙見神社の境内で犬に睾丸を食い破られて瀕死の重傷を負う体験をしているから、死を一度みている。②~③までは、勝海舟には、恬淡としていた。一番きついと思われるのは、奥さんが「あなたの墓へは入りません」といった言葉だが、勝のほうが先に死んでいるから、いい。④不条理の恐怖を欲がなければ、それも笑い飛ばせる。

8991 勝海舟が死ぬとき、言った言葉は、「これで、おしまい」だそうだ。実に軽い、まるで江戸小話に出てきそうな話だ。これだけ、軽く「これで、おしまい」と言って死ねたら、さわやかの域に達している。自分の命を風船でも突いているように、大空へ放り出して・・・「これで、おしまい」と、私も言ってみたいものだ。

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コメント

江戸無血開城

歴史上の大きなひとコマですね

無血がブームになればよいですね

投稿: ponsun | 2010年12月19日 (日) 10時31分

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