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2010年11月26日 (金)

勝海舟の妹、佐久間順の人生

Photo_3Photo_4 佐久間象山の妻になった勝海舟の妹佐久間順は、勝家の血筋を受け継ぎ考え方が奔放である。

佐久間象山は、自分は天才だから子孫を多く残すのが社会のためになると信じており、そのことを公言していた。彼には、すでにお菊とお蝶という二人の妾がいた。お菊には格二郎という男児がいた。お菊は我が子を置いて幕府御典医・高木常庵の後妻として家を出た。それで、欠員ができた佐久間象山は後妻を求めていた。そんな複雑な家庭に妹順をやることには、勝の父小吉も海舟も猛反対したが、お順は、学者の妻になるのが自分の夢であると妻になった。17歳であった。

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いくら有名な学者であるにしても、普通の女では二の足を踏むところである。あえて佐久間象山との新婚生活に踏み切った。姑、妾お蝶と出て行ったお菊の子格二郎が同居する生活をした。平穏なといえるかどうか、そんな生活が一年過ぎたころ、吉田松陰の密航事件が起きて、象山は師として、松陰の密航に協力した疑いで伝馬町の牢へ投獄される。

半年後に釈放されるが、蟄居を言い渡され鍵付の駕籠で出身藩松代へ送られることになった。この籠に従って、お順は、姑、妾お蝶と格二郎と松代へいく。佐久間象山は、松代では九年間、静かに暮らした。お順は、姑の死を見取った後、父小吉の病床を見舞うために江戸に帰る。

佐久間象山は、元治元年(1864年)、蟄居が解かれると、一橋慶喜に招かれて入洛し、公武合体論と開国論を説いた。その上京に息子格二郎を伴った。京都は尊皇攘夷派の志士の潜伏拠点となっており、「西洋かぶれ」の象山には危険きわまりなかった。街を移動する時に供も連れていなかった。7月11日、三条木屋町で肥後の人斬り河上彦斎、前田伊右衛門等に切り殺された。享年54。

佐久間象山は、その能力は自他共に認めるが、彼の言行や性格に問題があった。それゆえに、不要なトラブルを巻き起こしている。その例を見てみる。象山の号は、近隣の黄檗宗象山恵明(ぞうざんえみょう)禅寺に因んだとされる。象山は松代藩の下級武士の出であり、若年期に経学と数学を学んだ。とりわけ象山は数学に興味を示し、熱心に学んだ。

まず、若年期に数学の素養を深く身に着けたことは、この後の彼の洋学吸収に大きく益した。天保4年(1833年)に江戸に出て、当時の儒学の第一人者・佐藤一斎に朱子学を学び、山田方谷と共に「二傑」と称される。

天保13年(1842年)、象山が仕える松代藩主真田幸貫が老中兼任で海防掛に任ぜられて以降、状況が一変する。幸貫から洋学研究の担当者として白羽の矢を立てられ、象山は江川英龍(太郎左衛門)の下で、兵学を学ぶ。象山は西洋兵学の素養を身につけることに成功し、松代藩主に「海防八策」を献上し、高い評価を受けた。

また、江川や高島秋帆の技術を取り入れつつ大砲の鋳造に成功し、その名をより高めた。象山は兵学のみならず、西洋の学問そのものに大きな関心を寄せるようになる。ガラスの製造や地震予知器の開発に成功し、更には牛痘種の導入も企図していた。嘉永6年(1853年)にペリーが浦賀に来航した時も、象山は興味をもって視察した。地位に安住している人ではなかった。

佐久間象山は、研究者としても、知識人であり、優秀な学者でもあった。ソレは確かであるが、自身、自分は「国家の財産」と大言壮語しており、たとえば坂本龍馬に「僕の血を継いだ子供は必ず大成する。そのため、僕の子供をたくさん生めるような、大きな尻の女を紹介してほしい」と頼んだこともある。

師としてついた江川太郎左衛門は、温厚で思慮深い評判の人であった。だが、象山のことを嫌っていたようである。洋式砲術を使った戦略を短期間で習得することは 江川の「伝授」「秘伝」といった旧来の教育方法では支障があり、象山の意を汲んだ同じ高島流の下曽根信敦から文書をかり、学習を進めた。象山は自分が書物から学んだことは、秘伝でもないから、それは公開を基本とした。当時は、技術持つ人は、公開を好まない人が多かったから、佐久間象山は多数の人から嫌われた。

この秘伝とする日本の旧弊な学問に一石を投ずるところは、彼象山のやり方の方が正しいだろう。それが言い方次第で波紋を起こす。彼の尊大な言い方、やり方にはカチンとくる。多くの人が指摘し、せっかくの能力がみとめられない。

また、勝海舟は師として付き合いがあり、妹の順が嘉永5年(1852年)に象山に嫁いだので海舟は義兄となったが、傲慢な象山を好ましいとは思っていなかったようだ。双方とも自信家過ぎてそりが合わなかった、と見える。

暗殺されたのも、それが原因である。馬に乗り、「西洋かぶれ」 といわんばかりの様相で、町を闊歩すれば、目立つだろうし、尊皇攘夷の志士には絶好の標的になる。それを超越した存在だったのだろうが、簡単に落命してしまう。

佐久間象山の過激さ、お順の奔放さは、意外とお互いに性格は理解できたかもしれない。お順は象山の才能にほれていたから、開明されない世間から聞こえる有象無象のいうことは、たわごとにしか聞こえなかっただろう。

佐久間象山の死後、妻お順は象山の一人息子・格二郎に仇討ちするように説得する。お順の性格からすれば、当然、敵討ちをしなければ気持ちが納まらない。格二郎を兄・海舟の紹介で会津藩士・山本覚馬を通じて新撰組に入隊させた。

この息子、格二郎も象山に似て態度が傲慢で、隊員に嫌がられていた。特に沖田総司に目をつけられた。命の危険を感じた格二郎、新撰組から逃げ出した。維新後は、勝海舟の人脈を通して司法省へ入り松山裁判所に赴任。後に食中毒で若死にする。

お順は、実家に戻って勝海舟の氷川屋敷で暮した。勝の門弟の存在であった村上俊五郎と共に暮らし始め再婚した。しかし、お順の奔放な性格、村上も粗暴な振る舞いが多く、夫婦喧嘩が絶えず、村上も手に負えずに離婚。また、海舟の屋敷に戻って生活を始める。

一説には山岡鉄舟の弟子で剣豪であった村上俊五郎に佐久間象山の敵討ちを頼んだが、聞き入れなかったので離婚したとも言われているが定かではない。明治四十年に七十三歳で没したという。

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