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2010年11月 3日 (水)

小中陽太郎 母とベ平連

01 キーワード読書会のテーマも「母」だったが、講演会の中身も、自伝『ラメール母』を語ろうとしていたが、彼の「べ平連」との係わりが強いから、母を語るつもりが4名の脱走兵の話にいくと、ことが個人の人生の瑣末は飛んでしまうから、語っているのが「べ平連」とうまくコラボしていない気がして、「母とべ平連、どっちを・・・」と質問したら、小中陽太郎先生、迷いを突かれたというように、回答が饒舌になった。

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講演会は、昭和9年9月9日生まれで、上海生まれで、内田書店(魯迅の小説に出てくる)のすぐ近くに住んでいて、上海事件をおぼろげに知っているという話が枕に始めた。

キャラクターも、フレンドリーで、人の良さが滲み出た人である。また、知識も人脈もあり、引き出しは多そうだ。なんでもサービスしていろいろ話をするから、講演の成果を印象深く持ち帰るというには、散漫になっている。欲張りすぎのせいか、方向性のない話になっている。そんな感じがある。

自伝「ラメール母」という小説を書いて、それがミュージカルに仕立て直しが評判がいいらしい。彼は一人っ子で男の子だから、可愛がられていたのだろう。母の悪口をいうが、全然嫌っているわけでもない。マザコンだろうね。母を小説にしてそれを自伝の柱にして、それを堂々と人前でいえるのは、大橋巨泉のたぐいだ。

妻は、姑のミシンを捨てようとしているのに、小中陽太郎はそのシンガーミシンをなんとか守ろうとする。その話は、妻のほうが正常だ。足踏みのシンガーミシンは、ウチにもあったが、あれはもう使い物にはならないだろう。骨董か、博物館へ寄贈するべきだ。

母を語ると、男は「マザコン派」で、女は「マザコン被害派」である。多分に、母親の子離れ、子の親離れが不完全ということだと思う。そのことを当の母親は、知らずか、知っていても知らんふりか、そういう対立の構造を、男と女の間に持ち込むことが多い。

親子愛のようだが、大人になれば、「母」を大切にするという美徳の影には、似て非なるものが多分にある。それを知りながら、母は計算していることが多い。つまりは、女と女は、仲よくなれない動物。

それを自伝小説として書くのは、この小中陽太郎は甘いと見るか、あほと見るか、マザコンはしょうがない。親子愛の根は深いものだ。母の愛に恵まれなかったオレには、嫉妬の対象でしかない。

大抵、女は息子を可愛がり、息子がマザコンになるのは、別に悪くないかもしれないが、その反面で母親は自分の夫には愛情を注がないことが多い。お坊ちゃん育ちの小中陽太郎、そのあたりをどう自覚しているのか、よくわからない。

一般にマザコン男には、共通の匂いがある。人をあまり疑わないで、自分が中心に立つ。大事に育てられているから、接すると、穏やかな感じがある。人と人の葛藤を経験していないから、カドがない。あまり悪い感じを与えない。が、いったん緩急ことが起こると、母を頼りにする。

反面、マイナス思考がないから、物事の判断が深くない。甘いというか、判断の陰影がないというか、非常に単純。

それを書きながら、彼の人生で1960年代の後半、べ平連の運動にかかわって、人生の大きな節目にぶつかったから、それをどうしても「ラメール母」に含めたかったのか、それを入れたら、そっちの比重が大きすぎて、バランスを欠くことになった。

最初、アメリカの航空母艦「イントレビット」が横須賀に寄港したさい、四人に逃亡兵をべ平連に頼ってきたのを助けようと・・・、これが「ベ平連」の一大事業になって、スエーデンへ逃がしてやった。その後、アメリカ軍からの脱走兵を北方領土からソ連領へ送り出したが、その話が面白くて、読者の興味がそっちへ行ってしまう。

最初の4人の脱走兵(当時18歳、19歳)は、その後の消息を小中陽太郎もしらないらしい。後からの脱走兵はアメリカへ戻ったり、消息がわかっているが、この4人に関しては、消息不明だ、と小中陽太郎はいう。

アメリカ軍による「北爆」が開始されて以降は急激に北ベトナム政府と南ベトナム解放戦線に同情的となり、日本の政治学者の高畠通敏や哲学者の鶴見俊輔が、作家の小田実を代表に担ぎ出して1965年4月24日に「ベトナムに平和を!市民文化団体連合」の名で発足させたのが始まりである。同年、吉川勇一が事務局長になる。

それでも、「ラメール母」の軌道内に入れようとすると、「ベ平連」の話は大きいから、バランスを欠いた構成になる。もっと長い長編小説ならまとまるだろうが、一冊で完結するにはつらい作業になる。

よく聞いていると、「ベ平連」の運動は、反戦運動のように見えるが、インテリたちの気晴らしでなかったか、そんな気さえする。政府に反抗して、牢獄へ放り込まれるわけでもないし、銃で撃ち殺されたとも聞かない。これが文筆活動の肥やしになっている。生活の糧をつくる畑や田んぼを踏み荒らされていたわけでもない。そういういう意味では、お遊びだったのではないか、そう思う面もある。

後で聞くと、ベトコンに加担したのではなく、「ベトナムに平和を」勝手連だという。勝手連、四国のアレ、アレ「踊るアホ」の阿波踊りの勝手連をやっていただけで、終わったとたんに、熱が冷めたよう。もう主義をかえて、「日本も軍隊をもって対抗する武力ないと、中国に対峙できない」と、冗談ともつかない話をしているから、やはり、東大仏文科をでて、NHKデレクターをやって生きてきた人には、じべたをはいつくばって、ベトナムを独立に導いた人たちとは、色が違う。日本のインテリの地につかないものを見た気がした。

「反アメリカ」であるものの、既存政党とは一線を画した無党派の反戦運動であり、基本的に「来る者は拒まず・去る者は追わず」の自由意思による参加が原則で、その「いいかげん」とも評された程の自由な雰囲気により、労働組合や学生団体などの様々な団体のみならず、学生から社会人や主婦など、職業や社会的地位、保革などの政治的主張を問わず、多くの参加者を呼び寄せる事になった。

その後1966年10月16日に名称を「ベトナムに平和を!市民連合」に変更し、全国に活動が広がって行った。しかしベトナム反戦活動が、左翼的な学生活動との関係を強くしていきイデオロギー色が濃くなっていく中で、日本赤軍の主要メンバーとなる丸岡修のようなテロリストが入りこんだり、下記のような違法活動の実施やアメリカと対立するソビエト連邦政府からの援助を受けるに至り、開高健をはじめとしてこれらの左傾化を嫌い運動から離脱していくものが増加した。

もう終わった。「ベ平連」は終わった。清々した顔で言われると、なんか、おかしいんだね。アレ、お遊びだったのか。そんなのに付き合わされていたのか。どっちかというと、しつこいタイプの私は、「ベ平連」を何かにして残して、この精神を生かすべきだと思ったりする。きれいさっぱり忘れて、次へ行くべきかな・・・。

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