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2010年11月29日 (月)

なんでも鑑定団 新発見 夢二の恋人

8551 島田紳介と石坂浩二司会の「開運!なんでも鑑定団」番組で竹久夢二の結婚を許可を求める実家への手紙を鑑定に出していた。

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この手紙を持ってきた方は、秋田県本荘市の方で、ごっつい男性だが、その人のお祖父さんの妹山田順子ゆきこと言う人が小説家で、竹久夢二に挿絵を描いてもらったというきっかけで知り合ったらしい。

竹久夢二は、最初の妻は二歳年上の寡婦岸たまきだった。次が画学生であった笠井彦乃で彼女とは引き裂かれ、彼女は結核で死亡。その次が美術学校の人気モデルの(永井カ子ヨ)お葉。奔放の女性だったが、彼女も去ってしまった。ウィキペディアにも、それ以上の女性を挙げていないが、「なんでも鑑定団」に持ち込まれた資料によって、新たに夢二の女性遍歴が発見された。資料として一級品であり、各竹久夢二美術館垂涎のものだと、お墨付きを貰った。

岸たまき
85321882年7月28日 - 1945年7月9日、石川県金沢市出身、本名は他万喜。戸籍上唯一妻となった女性。結婚歴があり死別した前夫との間に二児があった。自立のために早稲田鶴巻町に開店した絵葉書店「つるや」に、夢二が客として毎日店に通いつめ、2ヵ月後には結婚。2年後には離婚するが、その翌年に再び同棲、そして、別居を繰り返す。
大正4年(1915年)、たまきと画学生東郷鉄春(青児)との仲を疑い、富山県の海岸で夢二がたまきの腕を刺し.破局にいたる。たまきは夢二亡き後も彼を慕い続けた。

笠井彦乃
85381896年3月29日 - 1920年1月16日、山梨県南巨摩郡西島村(現・身延町西島)生まれ。日本橋の紙問屋の娘として裕福に育ち、女子美術学校の学生であった。夢二のファンで、絵を習いたいと「港屋絵草子店」を訪問し、交際が始まる。
 たまきと別れ京都に移り住んだ夢二としばらく同棲するが、大正7年(1918年)九州旅行中、別府温泉で結核を発病。父の手によって東京に連れ戻され、面会を遮断される。御茶ノ水順天堂医院に入院した彦乃は、そのまま短い人生を終える。夢二は彦乃を最も愛していたようであり、その死後しばらくショックから立ち直れなかった。

お葉
85428546 1904年3月11日 - 1980年10月24日、秋田県出身、本名は永井カ子ヨ:かねよ。東京美術学校のモデルとして人気があった。菊富士ホテルに逗留していた夢二のモデルとして通ううちに同棲、渋谷に所帯をもつ。大正13年(1924年)、夢二が設計した世田谷「少年山荘」に一緒に移り住んだ。翌14年にお葉は自殺を図り、半年後に別離する。お葉は、その後、医師の妻となり平穏に過ごした。

 秀逸な絵画作品である『黒船屋』はお葉をモデルとした。
Wikipedia参照

8526 ちょうどそのコロに知り合ったのがこの山田順子ゆきこである。秋田県特有の白い肌の美人である。順子ゆきこは、小説で身を立てるため、多くの文壇の男性に付き合いを求めていた様子である。大正時代の雰囲気のいでたちである。その中で竹久夢二は、彦野が死に、お葉にも去られ、失意の中で山田順子ゆきこをくどいたのだろうか。二人で秋田本庄市へ順子の実家を訪ねている。結婚の許可を貰いに行ったという証拠の手紙が残っている。

8559_28557 竹久夢二は、すでに有名人で、世間の周知の離婚や恋愛騒ぎを起こしていたので、その点を気にして今後は社会の常識に従った生活に改めると述べている。山田順子も、ユキ タケヒサと署名を書いて、もう妻になっている気分で、その有頂天ぶりを母親に手紙で伝えている。

85618566

しかし、結婚生活し始めた途端、一ヶ月で離婚した。実にあっけない、スピード離婚となった。

8568 司会島田紳介をはじめ、皆さんの意見として、女性山田順子の方が一枚上手だったのではないか。という見方をしていた。竹久夢二が二年後に手記を出している。その中で「結婚する気はなかった」と書いているが、山田順子に捨てられたというのでは、気持ちの治まりがつかなかった、というのが鑑定団の意見。順子、夢二のどちらが真実か「藪の中」である。

8553 鑑定結果は、全体で240万円。夢二が求婚の意思を書いた手紙は、初めての発見で価値があるとの評価で120万円。山田順子が有頂天になって新妻の気分で、母に喜びを伝える手紙+その他絵をあわせて120万円。

大正年間から昭和初めに少女時代を送った人は、一様にやせぎすでなよっとした和服の着こなしをあこがれているように思った。昭和二十年代にも、まだその憧れが残っていた。今はあと数年で100歳になる友人のお母さんが、そうだった。夏の暑い日、たまたま、近くのおそばやさんにはいったら、浴衣地の和服をきた友人の母は大正琴を目の前において、弾いていた。そのときは竹久夢二という名前は知らなかったが、絵から抜け出てきた印象だった。

竹久夢二をめぐる女たち:

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