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2010年10月31日 (日)

平賀源内墓所 台東区橋場2-2-22 

7876 テレビ朝日スクランブルの黒鉄ヒロシ「千思万考」コーナーは、彼のうんちくが面白くてよく見ているが、きょうは平賀源内を取り上げてい7899た。最後、弟子を誤解から殺し伝馬町の牢に入れられて、未決囚のまま獄死した。のち、友人の杉田玄白らの助力で台東区の総泉寺に埋葬された。

妻が勝海舟の妹である佐久間象山は、まったく関係ないが、イメージが佐久間象山と似ていて、混同する。

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78567857 総泉寺が台東区から板橋区へ引っ越してしまうが、その総泉寺と一緒に平賀源内の墓所も移動しなければならないのに、墓所をこのまま、この場所に残してほしいと、源内の支援者がお上に訴え、結局、規模を縮小して墓所を継続したという経緯である。

78617859 時代を先取りする天才鬼才で、医術を勉強に行った長崎で、初めて見るエレキテルの故障を直7868 し、驚かれた。多くの発明品があり、油絵を始めたのも源内だし、うなぎの蒲焼を日本に定着させたのも、源内だ。日本初の物産博覧会を御茶ノ水孔子堂で開催。これはNHKブラタモリで紹介していた。小説もかけば、書もやる。蘭学もやるし、医術も専門。蘭語では、杉田玄白の「解体新書」翻訳にも協力している。やることはなんでも集中してかかるから、やることは早いし、天才的にうまい。

平賀 源内(ひらが げんない、享保13年(1728年)- 安永8年12月18日(1780年1月24日)):江戸時代の日本の本草学者、蘭学者、医者、作家、発明家、画家(蘭画家)である。父は白石茂左衛門[3](良房)、母は山下氏の娘。兄弟多数。

0000 讃岐国寒川郡志度浦(現、香川県さぬき市志度)生まれ。平賀氏は讃岐高松藩の足軽身分、元々は信濃国佐久郡の豪族、戦国時代甲斐の武田信虎・晴信父子に滅ぼされ、奥州の白石に移り伊達氏に仕え、白石姓に改めた。のちに伊予宇和島藩主家に従い四国へ下り、讃岐で帰農。

7858 幼少時、掛け軸に細工をして、「お神酒天神」を作成したとされ、その評判が元で13歳から藩医の元で本草学を学び、儒学を学ぶ。また、俳諧グループに属して俳諧なども行う。寛延元年(1748年)に父の死により後役として藩の蔵番となる。宝暦2年(1752年)頃に1年間長崎へ遊学し、本草学とオランダ語、医学、油絵などを学ぶ。留学の後に藩の役目を辞し、妹に婿養子を迎えさせて家督を放棄する。

7860  宝暦13年(1763年)には『物類品隲』を刊行。オランダ博物学に関心をもち、洋書の入手に専念する。源内は語学知識がなく、オランダ通詞に読み分けさせて読解に務める。
 文芸活動も行い、談義本の類を執筆する。明和年間には産業起業的な活動も行った。
 明和3年(1766年)から武蔵川越藩の秋元凉朝の依頼で奥秩父の川越
7878 藩秩父大滝(現在の秩父市大滝)の中津川で鉱山開発を行い石綿などを発見した(現ニッチツ秩父鉱山)。秩父における炭焼、荒川通船工事の指導なども行う。現在でも奥秩父の中津峡付近には、源内が設計し長く逗留した建物が「源内居」として残っている。
 安永2年(1773年)には出羽秋田藩の佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導を行い、また秋田藩士小田野直武に蘭画の技法を伝える。
 安永5年(1776年)には長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理して復元する。

78627894 平賀源内が、地元の台東区橋場に埋葬されていることすら、知られていない。私は、このあたりが平賀源内の墓所だと思うあたりを歩き回った。途中、わかりそうな人に聞くと、「お寺のような、それらしき場所がある」と途中まで道を教えてくれた。そこへ行ってみると、「世界救世教」・・・「世界平和が訪れますように」というキャッチフレーズの標語が町あちこちに掲示している、あの宗教団体だ。その創始者の生誕の家だった。近所の人は、意外と無関心なものだ。

0004 この辺に平賀源内の遺跡があるはずだ、と歩いて、歩いてついに写真でみた「平賀源内墓所」を見つけた。目立たない。見当ちがいを歩きまわって、ようやく墨田区にある赤穂47士が押し込んだ吉良邸のような少し引っ込んだ場所を見つけた。

7929 くぐり戸を中へ入って、「見学させてもらっていいですか」掃除をしていた男性に声をかけた。その方は、隣の家人で、親の代から、ここ平賀源内の墓所を管理している家の人だった。隣という関係で、ずっとここの掃除や東京都の折衝をボランティアでやっているそうだ。

7905 入口の近いほうから、顕彰碑、石碑、墓所、源内支援者による大きな顕彰碑がある。合計4つがメイン。あと小道がある。合計で70~80坪の広さだ。支援者の昭和5年に立てた顕彰碑は、高さ3メートルはある。今作ったら1000万円は下らないだろう。よく読むと、文章の内容が凡庸な感じで、もう少し推敲して欲しかったな、と思った。

  角塔状の墓石は築地塀の中の敷地ほぼ中央にあり、後方に従僕福助の墓がある。墓は昭和18年(1943年)に国の史跡に指定された。
  平賀源内は江戸中期の科学者、戯作者、画家として博学多識の人であったが、誤って殺傷事件を起こし、安永8年(1779年)に牢内で病死して総泉寺に葬られた。医療用の摩擦起電機エレキテルの製作で特に有名
。(
参照

7920りっぱな墓所なのに、曇りのせいかもしれないが、私以外、人が来る様子もない。近所の人も知らないとは、気のどくだ。平賀眼内は、うるさい一般人に騒がれても、喜ばないかもしれないが。

7907_2 杉田玄白が、牢獄から源内の遺体を引き取って、ここ総泉寺へ埋葬したのだ。杉田玄白らの尽力で、墓所で埋葬を黙認されて、今現在のままで引き継ぎられている。

現在は都の施設になっているが、知名度は低く、近くの人は誰も知らないから、聞いても誰も回答ができない人ばかりで、平賀源内が見つからない。これからは、さがしやすいように表示を出しておいてやりたいものだ。そして、入場料は100円入れるようにすると、パンフレットを作ったり、掃除代くらい工面できるのではないか。ベンチをおいて、沈思黙考できる時間がとれるといい場所になる。これは源内神社だ。絶好の穴場だと思う。

7870_2 杉田玄白は平賀源内の死を悼んで、こんな弔辞を書いている。
「ああ非常の人、
 非常のことを好み、
 行いこれ非常、
 なんぞ 非常の死なる」
最後くらいは、畳の上で死んでほしかった、という意味だ、と黒鉄ヒロシは解説していた。

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