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2010年10月25日 (月)

日韓基本条約 朴正煕と岸信介

7677 今韓国は日本を出し抜くような発展しているが、戦後20年は、韓国の長い歴史で、為政者の意識の低さなどがあいまって、国民の生活は最低であ7773った。金日成率いる北朝鮮の 国民所得の半分という最貧国であった。北の社会主義がうまくいっていた時代であった。

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7696 朴正煕という軍部出身の憂国の士が仲間と語らって、倒閣のクーデターを起こした。日本でいえば、226事件が成功したようなものだ。彼らは明治維新の志士と思っているようだが。

ここから、韓国の覚醒が起きるといっていい。朴正煕(パク・チョンヒ、日本語読み「ぼく・せいき」)の軍人、クーデター、戒厳令、暗殺という言葉から、朴正煕という政治家に親しみがもてなかったが、NHK「日韓関係はこうして築かれた」を見て、政治家としての彼を見直した。

朴 正煕(パク・チョンヒ 1917年11月14日(旧暦9月30日)-79年10月26日)は、貧しい農村部家庭の5男2女の末子として生まれた。父親は科挙に合格したが、韓国が併合された後に没落し、墓守をしていた。
7766  小学生の頃は、学校に弁当を持って行けないほど貧しく、後世、酒に酔うたびに「俺は本当の貧しさを知っている」と語っていた。亀尾小学校を優等で卒業。大邱師範学校(高木正雄と名乗った)を卒業し、慶北聞慶国民学校で3年間教師をした後、満州国軍の新京軍官学校で学び、同校を首席で卒業する。特に選ばれて日本の陸軍士官学校(57期)に留学。1944年に日本の陸軍士官学校を3位の成績で卒業(57期)し、終戦時は満州国軍中尉だった。

7770 1948年に大韓民国陸軍に入り、陸軍士官学校を卒業した後、大尉に任官された。一方で南朝鮮労働党(共産党)に入党、軍内党細胞の指導者であったことが発覚して逮捕され、死刑を宣告された。しかし、南朝鮮労働党の内部情報を提供、北朝鮮に通じていることが米軍当局に評価されて釈放。朝鮮戦争勃発とともに軍役に復7842_2 帰し、戦闘情報課長から作戦教育局次長へと昇進した。
 休戦後の1953年には、アメリカの陸軍砲兵学校に留学。その後は、1955年7月14日には第5師団長、1957年には陸軍大学を卒業して第7師団長、1959年7月1日には第6管区司令官、1960年1月21日には釜山軍需基地司令部司令官、同年12月15日には第2軍副司令官となった。

7707 日韓基本条約は、1951年、終戦から6年目のサンフランシスコ条約で日本は独立を回復したが、その一ヶ月後動き始めた。

日本の講和条約締結の調印式に、韓国は交戦国ではなかったからという理由で、招待していなかった。日本が国際社会に独立国となったのに、隣国の韓国と不自然な関係を続けるのはよろしくないと、アメリカが日韓正常化への橋渡しを呼びかけた。

このころの国際関係は、社会主義、共産主義の浸透が恐れられている時代で、中国・ソ連の前線に韓国があり、日本があった。その両国ガギクシャクして自由主義国の仲間割れは困るのが、アメリカの立場だった。

アメリカのアドバイスから、第1回日韓正常化交渉をした。韓国は植民地化で韓国は請求権(戦後賠償)を言い出し、日本側の意識との差があり、話し合っても、まとまるどころではない。第三回交渉では、日本側主席久保田貫一郎の発言から決裂してしまった。

その趣旨は、(麻生元首相がよく言う)日本は戦前、朝鮮へ多額の投資をして、鉄道、港湾、道路、ダム、建物を作ったからそのものを相殺したら、こっちが払ってもらいたい、と発言して、これで請求権をいう韓国側はカンカンに怒って、交渉は話にならなかった。

7734 朝鮮戦争が終わり、朴正煕(パク・チョンヒ)がクーデターを起こし、大統領選に出るまで、韓国経済は最低で、アメリカの援助に頼り切っていた。世界の最貧国であった。金日成の北朝鮮の国民所得の半分であった。これが、日韓基本条約を結ぶ前の韓国の状態であった。

「日韓基本条約」を結ぶまで14年間かかって、昭和40年(1965年)調印の運びとなったが、紆余曲折があった難交渉であった。ようやく「近くて遠い国」が、「近くて近い国」になった。

7842 クーデターで国家再建最高会議議長になった朴正煕(パク・チョンヒ)が掲げた目標は、経済であった。

703 日本では、60年日米安保改定で、国内は「安保ハンタイ!」の大合唱になり、条約の自然承認後、岸首相は辞任した。翌年韓国では、クーデターで朴正煕(パク・チョンヒ)が政権を握った。クーデターの手順は、張都暎陸軍中将(当時)を、「軍事革命委員会」トップにすえ、後に排除した。クーデターグループは自らを「革命主体勢力」と呼び、戒厳令を布いた。国家の重要機関であるポイントを抑えた。金融凍結、港湾・空港を閉鎖、議会を解散し、政治活動を禁止し、張勉政権の閣僚を逮捕した。

彼朴正煕(パク・チョンヒ)は、「軍事革命委員会」を「国家再建最高会議」と改称した。自ら議長となり、治安維持と経済改善のためとして国家再建非常措置法を施行した。6月10日には秘密諜報機関・韓国中央情報部(KCIA)を発足させた。政権を握ってからの行動は、満州国の創建のやり方を踏襲し行動は敏捷であった。政権をとったら、政策実施のスピードが非常に肝要になっている。これはトップに政策とその実施方法が決まっていないと、敏速に行動はできない。

7744 政権掌握した6日後、朴正煕(パク・チョンヒ)は国家再建最高会議のメンバーである金鐘泌に「日本からの経済支援を得て、韓国の建て直しのために、日韓交渉を再開」するようにと指示した。朴正煕の指示は岸先生の協力を求めることだった。

朴ら青年将校のクーデターは、日本の教育を濃厚にうけた彼らの頭には、日本の「明治維新」を想定した行動であると朴は語っている。30代40代の彼らにとって、日本の岸らは先生であり、満州国の建設、大東亜共栄圏は役立つ参考書であった。

岸(満州国経済閣僚)の国家運営は、満州国の学生だった朴らみて知っているのだ。
①満州国の統制経済運営のやり方
②関東軍による素早い国家建設
③戦時下の動員体制
満州国は、できたばかりの小さな、ヨチヨチ歩きの国家だったからこそ、国家運営の方法よくわかっただろう。それを新しい韓国建設のモデルにしようとした。

7681 大統領になると、日本の経済援助を得て、その資金をつかって韓国の経済を立て直すのだと、まず岸信介と接触しようと金鐘泌を日本に送って、岸との連絡を取ろうとした。

朴正煕(パク・チョンヒ)は、満州国時代のコネ、日本の士官学校の仲間など、知る限りの有能な人材を集めて、国家建設に使おうとしていた。国家建設のお手本は岸信介だと思い。彼の知恵と力を借りようと思って近づいた。岸のほうには面識がないが、朴正煕(パク・チョンヒ)は岸を学生時代から知っていただろう。

朴正煕(パク・チョンヒ)にとって、岸信介は経済を発展させるノウハウの手本であり、先生という意識があった。朴はやることは大胆であっても、自信はなかった。クーデターを起こした志士は、日本の教育をうけているから、みな日本語はできる。金鐘泌は、密使で岸にあって会談はみな日本語である。

7757 日韓基本条約がほぼ固まった頃であるが、朴正煕が初めて日本にきて岸らと会っても流暢な日本語である。満州国の士官学校で最優秀で卒業した朴は、晩餐会に当時の士官学校の校長を招待した。「私がここにいるのは先生のお陰です」と謝辞を述べると、晩餐会出席者から拍手を受けた。岸は、初めて朴に会って、後に感想をのべている。「クーデターで政権をとった男だから、よほど傲慢だと思ったら、ずいぶん謙虚な人だった」と。

金鐘泌が会談したのち、岸信介は朴に親書を送っている。韓国発展のために協力を惜しまないという趣旨の親書を送った。その返書が朴から岸信介に送られた。

78457846_2 「あなたがどの為政者よりも韓国のことを深く理解と好意を持って言うrとを知りました。国交正常化交渉においてあなたの格別なご協力をしてくださり、韓国と日本の紐帯こそが歴史的な必然なことだとあなたは主張されました。・・・わが国の政治経済、軍事民情などについて子細に報告説明致します。・・・」とその中に、韓国発展の切なる心情が書かれている。漢字ハングルまじりの毛筆のきれいな文字で書かれた手紙である。

7689しかし、交渉は遅々として進まなかった。韓国の立場は、請求権の一つとして、7億ドルを韓国は要求して、日本は7000億ドルと、1/10である。「請求権(賠償)として、いうなら、こっちも言い分がある」という日本の立場を主張して、初期のころの交渉と同じで、先へ進まない。

7779 これでは決裂してしまいそうだが、アメリカはアメリカでソ連のキューバの港にソ連の船が支援に来て、ソ連製の核施設を作ろうとしているときだった。ソ連の船にミサイルの発射台を建設しようとして、核実験がありうる、十時のアメリカ大統領ケネディが、一触即発のチキンレースのようにして、ソ連船を追いかえした。そんな危機的な状況で、アメリカは対ソ連集中にして、アジアは日本と韓国が仲良くしてもらわんと困る。アメリカの仲介で、日韓交渉が始まった。

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朴の日本訪問は61年11月である。岸政権のあと、池田勇人首相になっていたが、「請求権でなくて、何か適当な名義で結構」と朴正煕(パク・チョンヒ)は、名前より実を取るために折れた。

アメリカは、両国の金額を足して2で割る金額3億8500万ドルで勧めてきた。「3億ドルでならまとまる」と日本に話をつないできたから、韓国の交渉担当者に大平外相が聞くと、韓国の本音は「3億ドル無償、2億ドルは有償、1億+アルファを投資でお願いしたい」というわけだ。名目は何でもいい、実質金額が韓国近代化のために必要な金であるというわけだ。「名を捨て実をとる」朴の指示であった。

7699 賠償ではないが、これが戦後保障の第一点は、これでクリアして仮調印に至るのであるが、

7699_2あとは韓国併合は無効であると言い募る韓国とそれをかわしたい日 7828 7808_2 本のせめぎ合いになった。条約お文章は韓国語、日本語、そして英語で書かれいた。韓国は併合はnull and void (無効である)とした。日本は、一度は有効であったが今は無効であるとした。その意味で一文字を足した。already null and void として納得してもらうことにした。韓国は不満であったが、これにこだわっていると、条約がここまで積み上げてきたのがダメになるというプレッシャーにおされて、Goということにした。

7699_3残るは、李承晩ラインで韓国内に入れてしまった「竹島」をもめていると、日本は韓国と国交を正常化できなし、韓国を刺激してしまう。韓国から特使がやってきた。自民党の有力者河野一郎と会った。「竹島をどうするんだ」というと、「先生、解決せざるをもって解決したものとする」ととっさのアイディアで答えた。すると、河野は笑って「これはいいことだ」と。河野一郎は河野派の一員であった中曽根に「竹島は触れないことにするが、どうだろう?」と、聞いた。中曽根「それがいいです」と答えたという。

7802仮調印して、内容が韓国内で報道されると、いっせいに国民が反発して収拾がつかない状態になった。そこで、朴大統領は、デモの代表を集めて青瓦台へ招待して説明したが、納得せずもの別れになった。朴大統領は、国民に迎合するより、100年後、条約を結んでおいてよかったのだ、という行動をするべきだと思って無理と思われる行動も実行した。とにかく韓国民の反発は暴動にまでなった。それで、力で反対運動を押さえ込むことにした。戒厳令である。

7692 昭和40年(1965年)日韓基本条約を結んで、日本との国交正常化して、日本の経済支援と技術支援を得て、10年間で国民総生産は13倍、経済成長は年率9%を続け、「漢江の奇跡」と呼ばれる大経済発展を遂げた。

朴正煕(パク・チョンヒ)の成果であると言われている。朴政権は、朴正煕(パク・チョンヒ)が部下に暗殺されるまで17年間続いた。

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朴政権は、朴正煕(パク・チョンヒ)が部下に暗殺されるまで17年間続いた。

投稿: 朴正煕 | 2012年12月25日 (火) 17時30分

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