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2010年9月23日 (木)

定年後の生き方 仕事を求め嘆く

Photo 「寄らば大樹の陰」と、現職中は、そこで働く人は安心できる。たしか、組織の論理に従順であれば、問題ない人生が送れる。

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いつも組織を頼りにしていると、自前の店、自分の田畑、自分のミシンで洋服を作るなど、私たちは技能を失い、生産手段を失う。いつの間にか、自分から発信する能力、自分で稼ぐ能力のない立場に追いやられている、この状況を考えるべきだろう。

産業革命がイギリスで起きたとき、何が起きたか、覚えていますか。「エンクロージャー=囲い込み運動」が起きて、労働者は土地を追われて、都会へ追い出されて行った。そこで、何も持たない無産階級になった。そのまま、続いていると考えてもいい。今も、大商店、チェーン店の出店で、個人商店は採算があわず、閉店に追いやれているし、農業も政府の補助金でしか生産を続けれない。

昭和20年代を振り返ると、その頃は、組織に頼らないで、自分の食い扶持を稼ぐ方法を持つ人が多かった。磯貝クンのお父さんはブリキ屋でブリキ加工で屋根の樋を上手に作っていた。老槇町の坂本さんは、大工仕事の上手な人で、どんな小屋でも作ってくれた。鍛冶屋の小林さんは、鍛冶屋といえば刀をつくる刀鍛冶がもとだが、宮町の恵比寿神社のとなりで、農具を作っていた。通りに一軒は鍛冶屋があって、ふいごで火を起こし、鉄製品を作っていた。

泉町の角の家のおばあさんは、くるくる回る糸車をまわして、繭から糸をつむいでいた。担任の近藤武典先生は「今のうちによく見ておけよ」と授業中に言っていた。自分の家で藁ぞうりを作る人は、近所に誰かいたものだ。ミシンで洋服をつくるのはごく普通のことであった。一家に一台、ウチの姉は洋裁は得意ではないが、子どもの洋服はシンガーミシンで作っていた。

編み物も、ごく普通に誰もがやっていた、機械編みも昭和30年頃までは多くの人が習っていた。横山町の畳屋の隣に教室があったが、今は習いに来る人は少ないかもしれない。洗濯、掃除、料理と考えられる家事が、外注が当たり前になっている。これは幸せなのか、不幸なのか、実に迷うところである。

それらをクリーニング屋組織にし、食事の宅配、洋服を安く売る店、次から次と、組織が個人の手技を取り上げたというか、個人が放棄して言った結果、組織、大企業の手中に落ちたというべきだろうか。仕事を求めるとなると、組織、企業のしもべとして従うことでやっと仕事にありつける。個の独立や、個人の意見を述べることは控えなければならない立場になる。組織の一員となると、自分の意見を言いたくても、その組織の身分を離れて意見をいうことができない。却って、自分で考えなくていいから、らくと思う人も多いかもしれない。

ウチの通りは、中山道の宿場町だった。江戸時代は賑やかだったといわれる。明治中ごろ、国鉄中央線ができる前の旅といえば、人は一日20~36キロ(健脚なら50キロ。縄文以前の人間のオスは、獲物を求めて1日100キロ走ったとか)歩けば、宿場ごとに一泊するのが普通。野宿する人はいたにしても、今のようにテントがあったわけではないから、旅籠の町は採算が取れていた。

参勤交代で必ず人が通り、宿泊するから、武士階級は貧乏したかもしれなが、その周りでは、米、麦、ミソ、塩、和紙、衣料などの消費があり、確実に、富は一箇所に留まらなかった。参勤交代の制度は、公共事業を地方で行う制度だったかもしれない。明治以降、この制度をやめてしまったのは、産業の委縮につながってきたようだ。

自分の技、将棋や囲碁のプロ、国家検定の資格でしか仕事ができない。しかし、薬剤師でも個人で店もっても、隣に大きな店(亀有ヨーカ堂モール)のような巨大スーパーが建設されたら、一気に客を取られる。

個人の工夫、個人商店の工夫では、個の繁栄は取り戻せないのか。自分で起業したら、損は自分持ちだから、サラリーマンのように会社が守ってくれないから、そのつらさはサラリーマンの時の10倍以上と覚悟が必要だ。

スズメを見ていると、彼らは自分で自前のえさを得ている。人間がなぜ自分の食い扶持を稼げないのか、特に定年で年金を貰う年になったとき、そんな疑問をもってしまう。

60代って、元気だ。どこも30代に負けるものか、と思う人も多いだろう。彼らが家に一日いてテレビを見続けて、社会とつながらない生き方をしていると、鬱々とストレスがたまり、免疫能力が低下するだろう。

元船長、元校長、元郵便局長、元何々という、長のつく仕事をしていた人ほど、短命だと聞いている。命令一下イッカ、部下が何でもしてくれた立場だった人は、不満がたまる。特に奥さんを部下扱いをして、嫌がられる。定年後、初めの三ヶ月は「ご苦労さま」と言われて、大事にされるが、それからはもう気力のない亭主にあきれて、ゴミ扱いにされるのがオチ。今は定年後の天下りを嫌がる下請け企業が多くなって、元気な60代の無職が多くなっている。

 しっかりしてよ。えらい立場だった人は、パソコンが使えないことが多い。しっかり、パソコンで何かやる気にはなりませんか。発信しようよ。ご同輩!

6060 ここまで書いて、テレビ(日テレ)ニュースエブリの中で、異色の医師鎌田實が、農業法人を始めた菅原文太を訪ねる訪問記録を見た。やる気、生きがいをこうやって見つけている人がいるんだ。これが、定年後の「生き方」ではないか、と思った。

6064 77歳になる俳優菅原文太が、農業をやっている。彼は後継者の若者が食っていける、将来を託せる農業基盤を考えている。つまり、自立できる場をつくろうと『がんばらない』行き方をしている。

05360526054 企業に使われない生き方、SOHOに通じる道を切り開こうとし ていると見た。映画で行き着くと こまでやって、最後の奉公として考えているように見えた。

6061今まだ採算は取れないが、ビニールハウスで野菜を育て、広い荒地を開墾して果樹園を始めようとしている。それは、最低でも5年経たないと果物はできないが、彼ら(後継者)がやってくれるだろうから、と自分の利益を度外視して進めている。かっこいい生き方だな、と思わざるをえなかった。

菅原文太:1998年頃に岐阜県の飛騨地方に移住。近年は農業政策等に高い関心を示し、多数の講演活動も行っている。2001年に長男菅原加織を不慮の事故で亡くし、周囲に「もう仕事したくない」と漏らしていたが、2009年より山梨県韮崎市で耕作放棄地を使って農業を始めている。

鎌田 實:東京医科歯科大学医学部では全共闘に参加、卒業後、つぶれかけていた長野県茅野市の諏訪中央病院医師として、「住民とともに作る地域医療」の最前線に。1988年、同病院院長就任。現在は諏訪中央病院名誉院長。著書「がんばらない」は2001年に西田敏行主演でテレビドラマとしても放映された。またNHKラジオ第1放送の祝日特別番組「鎌田實のいのちの対話」にパーソナリティーとして出演

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コメント

仕事を求め嘆く定年後の生き方
元船長、元校長、元郵便局長、元何々長のつく仕事をしていた人ほど、短命だと聞いている。
命令一下イッカ、部下が何でもしてくれた立場だった人は、不満がたまる。特に奥さんを部下扱いをして、嫌がられる。

投稿: | 2011年2月20日 (日) 12時49分

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