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2010年8月21日 (土)

水木しげる腕失ったニューブリテン島

5089_2 「勝った勝った、また勝った!」と調子よかったのは、
昭和17年(1941年)の6月のミッドウエィ海戦で、日本海軍がぼろ負けになるまでであった。
 日本では、すくなくとも一年間はアメリカ・オーストラリア・英国の連合軍の体制が整わないと思っていた。
 フィリピンからマッカーサーを追い出し、
あの有名な「I Shall return!」「再び、フィリピンを取り戻し必ず戻ってくる」といって、フィリッピンを日本軍に渡した。日本は、問題のニューブリテン島を防衛の最前線拠点にした。

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開戦から半年後、連合軍は体制を建て直して、軍事的に整ってきた。日本海軍はほとんど無傷の状態であったから、今のうちにアメリカ海軍の粉砕をと、ミッドウェー海戦が行われた。

ミッドウェー海戦第二次世界大戦中の昭和17年(1942年)6月5日から7日にかけてミッドウェー島をめぐって行われた海戦。同島の攻略をめざす日本海軍をアメリカ海軍が迎え撃つ形で起こった。
 日本海軍は機動部隊の中核空母4隻とその艦載機を一挙に失う損害を被り、これ以降空海の主導権を失った。アメリカ海軍もまた、空母1隻と多数の艦載機を失い、ミッドウェー島の基地機能に打撃など、損害を出している。

5090_2  現在のアメリカ空母(搭載機は含まれない)は、約5000億円と言われている。当時、日本の空母も時価で考えれば艦載機含めて1兆円、それくらいの費用はかかっているはず。
 それを一気に、空母4隻ほか駆逐艦など多数失
っている。ミッドウエイの敗戦では、私の概算では(人的損失は含まないで)4兆円の一気に損失した。
 戦艦大和は、当時1億3780万円。(現在の価格、概算で3兆円)この「戦艦大和」一隻分の費用では、東海道新幹線全線が完成できる、と言われる。それを一回の出航で撃沈された。大損失・・・
負け戦の、戦争は。バカバカしいほどの損害である。

5103  水木しげるは、昭和18年にニューブリテン島ラバウルへ送られた。
 この劣勢になっている日本海軍は、兵員や武器、食料を送り込もうとして、開戦以来残っていた虎の子空母瑞鳳をおとりにしてアメリカ軍の目ひきつけていたが、制空権のない日本には、その作戦もあまり効果がなかった。あたら、このおとり作戦で、空母瑞鳳を失ってしまう
水木ズンゲン証言(NHK)

ラバウルからズンゲンへ兵員400名を送って、連合軍の上陸に対して抵抗しようと考えた。その10倍の連合軍に物量の少ない日本軍の戦い方は、遊撃戦(ゲリラ作戦)しかないと思っていた。

 

5101  ズンゲン支隊長は士官学校出の若い成瀬少佐だった。背丈が高い美男子で、生真面目な人だったという、部下の評価だ。
 敗戦を重ね、多くの有能な指揮官を失い、日本軍には歴戦の隊長は少なくなっていた。ここに来たのは、実戦経験がない少佐だった。
机上の資格としては、27歳、少佐、士官学校出の適任だった。、
司令部かの指示を忠実にこなしていまじめな指揮官だった。。

 

5093  連合軍は味方の10倍、4000人以上で、武器弾薬が豊富だ。部隊に指示されていたのは、敵の進行を止める役目であった。
 食料を担ぎ上げ、武器も分散して、遊撃隊、つまりゲリラ戦を展開することで、味方の消耗を防ぎつつ、敵の進出を日本軍の戦いやすい場所へ誘導する作戦だった。あるとき、司令部に上級参謀(少将)が戦線視察にきた。

 

_5104  視察を終えた上級参謀が、新任の成瀬少佐支隊長に「ここは死守だな」と言った。成瀬支隊長は「死守」を命令だと理解した。
 「遊撃」から「死守」に変更されたと受け止めた。この「死守」というのは、勝ち目がなくても、敵の進出を死んでも止める戦いだと解されている。

 

5117_25120  成瀬少佐は、連合軍(オーストラリア軍)の前にいくつかの砦を築き死守する戦いを考えていた。
 それを連合軍が攻撃して日本軍の守る砦を落とす。時間を稼ぐのが死守になる。日本軍が一発打つと、連合軍(オーストラリア軍)は、そのあたりをマシンガンで数百、数千発打ち返す。日本軍は一発打っては、逃げていた。それでは効果ないから、死ぬ気で銃剣を持って敵陣地に飛び込み刺して撃つ。死ぬのは覚悟で夜襲するしか手がなかった。

 

5068  その日は、敵は朝6時から、砲弾を雨あられのように夜7時ころまで撃ち続け、その結果、ジャングルの木はなくなり、根元まで日が射すような場所に変わってしまっていた。
 ニューブリテン島は九州と面積が同じ位の広さの島で、南半分から2/3は連合軍が占領していて、北東にラバウル中心に日本軍10万が温存されていた。

 

 日本軍は陣地砦が落とされて、残るは一つになったとき、成瀬支隊長は、「死守」するには、死をもって(玉砕)その役目を果たすのが軍人のやり方だと思っていたようだ。「軍人の美学」と信じたのか、それを部下に命令し、ラバウル司令部に電文を打った。

 

Z5030  成瀬支隊長の玉砕方針に対して、実戦経験のある部下児玉清三中尉中隊長らは、その方針に反対した。実践経験の少ない成瀬支隊長は、歴戦の児玉清三中隊長の意見を抑えて、「全員一致で玉砕」という行動を取れなかった。
 児玉清三は中国の歴戦の37歳でズンゲン中隊250名。部下は4小隊各50名。
成瀬支隊長は、ベテラン児玉中隊長には遊撃行動の別行動を許した。

 

 成瀬支隊長率いる玉砕グループと経験豊富の児玉中隊長の遊撃隊にわかれていた。成瀬支隊長は、ラバウル司令部へは、「ズンゲン支隊は全員玉砕で突っ込む」と電文を打った。
 
水木しげるは、遊撃隊の児玉中尉の部下50名に含まれていた。が、連合軍からの連日の爆撃で被爆して、腕を負傷し、切断手術で入院中であった。

 

5123  成瀬支隊長の電文 司令部宛
「ズンゲン支隊は、今夕を期し敵陣に切り込みを敢行する。今日までのご支援、ご協力に感謝する。在ラバウル十万の将兵のご健闘と武運長久を祈る」

 

成瀬支隊長の部下には不平不満があった。
「ラバウルには、まだ10万の将兵が無為徒食している。」
「なんでズンゲン支隊が玉砕、犠牲にならなければならないのか。ラバウルから500名でも、1000名でも、逆上陸して連合軍を攻撃してくれたら、戦況が変わる」と、思っていた。が、そんな愚痴を一切いわないで、成瀬支隊長葉電文を終わらせている。

 

 参謀本部の考え方は、戦闘持続には、今一切無駄な兵力の消耗、武器弾薬の無駄をしたくなかった。本部の方針としては、一貫してズンゲン支隊への支援はしなかった。

 

5039  この電文がラバウル司令部の参謀に手渡されてから、大騒動になった。
「この玉砕判断は早すぎる」という点で一致していた。成瀬少佐支隊長の独断を止めようと、参謀たちが集まって会議を開き、成瀬支隊長の軽挙に止めるように電文をまとめ打とうとしたが、すでに電信設備を破壊したあとで、手の下しようがなかった。

 

 成瀬少佐支隊長は玉砕の行動を進み、遊撃隊の児玉中隊長も進んででいくが、途中で児玉中隊長がマラリアを発症して高熱で動けなくなった。部下が児玉中隊長を交代で担いで進んだが、
「俺を殺す薬はないか?」と付き添いの衛生兵に頼むが、「ない」と答えた。「では、オレを置いて、先へ行ってくれ」と自軍を先に行かせ、しばらくすると、ピストルの音が聞こえ、児玉清三中隊長は自殺した。(衛生兵だった人の証言)

5060水木しげるは、このとき同行していれば命があったか、わからない。連合軍の朝から晩まで雨あられの砲撃で腕を飛ばされた。それゆえ、病院とは聞こえはいいが、後方で麻酔なしで左腕を切断手術を受けていた。その間に、遊撃隊指揮の児玉清三中隊長は、命を絶っていたのである。

 若い士官学校出の成瀬支隊長の方針に対し「こんなところで死ねるか」と不信感を持っている人が隊から離脱して、隊の荷物を隠してある場所(砦)へ行ってみると、自分一人だと思っていたら、次々に離脱した兵が集まってきた。

 遊撃隊成瀬支隊長の下の分隊長クラスにも不信感があった。前夜のうちに分隊長が兵士(山口)の耳元で、「明日の朝、第一回攻撃が成功したら、今座っているこの位置へ集合しなさい」と指示があった。「隊から離れた所に集合とはおかしいと思った。これはひょうっとして死ななくてもいいことになるかも」と感じた。

 玉砕覚悟の成瀬支隊長はオーストラリア陣地を見つけ、突入して戦死したが、玉砕方針に反対していた他の分隊長たちは戦線から離脱した。

S5032  成瀬支隊長の電文のとおり、ズンゲン支隊は「玉砕」したと新聞発表された。
 ところが、数日して、生き残ったズンゲン支隊の玉砕し損なった兵士がラバウルを目指して戻ってきていると連絡が司令部に届いた。
 この生き残り150名いたが、そうすると、「玉砕」という報告は天皇にも伝えられているから、これらをどうしたらいいか、参謀本部では大慌てになった。

 そこで、「玉砕」としたはずの兵隊が生きて戻ってきたら、司令部は困るわけだ。人権がないがしろにされていた時代の国民、兵士は「靖国神社でまつられる」ということで、納得していた。現代の感覚からいえば、靖国で納得できないから、金を払うことになる。それをはっきりさせたら、あまりに露骨だが、戦死の代償はそういうモノだろう。

「死して虜囚(捕虜)の辱めを受けず」
 軍人訓にあり、それで玉砕という手段に訴えてしまうのが、ごく当然であるという常識が作られてしまった。罪つくりな「軍人訓」だ

5114_25115_2  その当時の司令部はアメリカ連合軍をひきつけて、日本本土への襲撃を阻止しようとしていたが、アメリカ連合軍は、ラバウルを含むニューブリテン島では戦わず通過して、フィルピンへ攻撃の主体を置いていた。ここで戦うのは無駄という判断をしていた。

51245070 ところが、玉砕したはずの兵が生きていたという理由から、司令部は、彼らを編成して、激戦地で消耗してしまう気でいた。
 8月15日に終戦まで、隔離収容された状態で、彼ら150名は命が残った。それまでは、体面上の「恥」であった。

 この『玉砕』兵士の処理についての考え方は、終戦65年たった今も、参謀本部にいた人は、その当時の基準を固持している。人間の教育は身についたら、新しい基準を受け入れることは不可能に近いのかもしれないが、兵士の人権は靖国に祀ればそれでいいのだろうか。命が軽い。

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水木しげる腕失ったニューブリテン島
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コメント

羅春堂という印刷会社の創立者は、中国大陸からラバウルへ行き、終戦を迎えた。帰国後、「ラバウルの春」という意味で「羅春堂」と名づけたそうだ。ラバウルへの思い入れが、この名にこもっているようだ。

水木しげるのいた前線のズンゲン支隊以外、10万の本隊はラバウルに温存されていたから、帰国できた幸運の島とも言える。

投稿: | 2010年9月 7日 (火) 10時36分

成瀬支隊長は、実戦経験の豊富な児玉中隊長には遊撃行動の別行動を許した。中国の歴戦の児玉中隊長は37歳。中隊250名、ズンゲン中隊長。部下は4小隊各50名。

投稿: | 2010年11月23日 (火) 00時19分

昭和17年(1941年)の6月のミッドウエィ海戦で、日本海軍がぼろ負けになるまでは、
「勝った勝った、また勝った!」と調子よかった。
 日本では、すくなくとも一年間はアメリカ・オーストラリア・英国の連合軍の体制が整わないと思っていた。
 フィリピンからマッカーサーを追い出し、あの有名な「I Shall return!」「再び、フィリピンを取り戻し必ず戻ってくる」といって、フィリッピンを日本軍に渡した。日本は、問題のニューブリテン島を防衛の最前線拠点にした。

投稿: 昭和17年 | 2012年10月 7日 (日) 16時31分

成瀬支隊長の下のベテラン分隊長クラスにも不信感があった。前夜のうちにその分隊長が兵士の耳元で、
「明日の朝、第一回攻撃が成功したら、今座っているこの位置へ集合しなさい」と指示があった。
「隊から離れた所に集合とはおかしいと思った。ひょうっとして死ななくてもいいことになるかも」と感じた。

投稿: ズンゲン支隊 | 2013年1月 2日 (水) 23時28分

戦争は永遠にしてはならない。
人間が人間を殺すなどやってはならないのだ。
権力により命の重さなど変わることはない。
大切な命だ。そして、動物と人間の命も差などない。

投稿: 千尋 | 2017年9月28日 (木) 22時10分

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