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2010年8月 7日 (土)

原爆で死んだ山本文郎の父

4478山本文郎の父は、昭和19年召集をうけ、軍医として島根県浜田陸軍病院へ勤務した。母は薬剤師で、東京へ残っていた。四年生の文郎は、縁故疎開で、母の実家(島根県邇摩郡大森町字こまの内 福田力太郎様方)へ一人身を寄せた。(「徹子の部屋」を参照しています)

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4482 「島根県邇摩郡大森町字こまの内 福田力太郎様方」という名札をさげて、一人で東京から出発した。途中、京都で空襲にあって、列車から降りて、迷子になるところで、海軍の軍人さんが「坊や」と声掛けてくれて、「これ食べな」と、当時めった食べられないキャラメルをくれた。美味かった。そして島根へいく列車に乗せてくれた」

浜田陸軍病院から、文郎を訪ねてきてくれたのが、昭和20年の7月だった。「近いから、また訪ねてくるから」と言って帰っていった。昭和20年の7月31日、転属命令で広島の陸軍病院へ移った。原爆が落ちた6日まで一週間という、まるで原爆に呼び寄せられるように、転属がきまった。

8月6日原爆が広島に落とされた。父は、この日、朝礼で外に庭に出ていた。そこで被爆した。必死に助かろうと逃げだしたが、力尽きたところで、収容されて、故郷の病院に送られた。

電報がきて、父を見舞いに親戚のお姉ちゃん(母の弟の妻)に連れられて、父の入院している病院へいった。それは6日の原爆が落ちてから9日後、13日のことだった。

文郎が病院に着いて、病室に入ると、プーンと物が腐ったニオイが充満していた。ベッドに黒こげの人が横たわっていた。それが、誰だかわかる状態ではなかった。

「おう、来たか、文郎」と黒こげの人から声掛けられて、父だとわかった。オヤジは「こんなになっちゃったよ」というが、私はなんと答えていいかわからなかった。「お父さん、がんばってちょうだい。これから、ボク看病するからね」というと「そうか、、じゃあ、ちょっと、水を飲ませてくれ」というので、水を飲ませた。

8月6日、広島陸軍病院の庭で朝礼で訓話中であった。山本文郎の父文行は、それに出ていたそうだ。そのとき「ピカッ!」と光って、それから意識がなくなった。タマタマ、父は、原爆の直射から陰にいたので、助かった。原爆ピカドンの直射を受けた人は、みな即死した。溶けて消えただろう。

しばらくして、気がついた。全身やけどで熱いので、川の堤防を上って、川を渡って、もう一つ堤防を渡ったところで気を失った。そこは、農家の軒先だった。それから、気がついて「私は鳥取県の人間で、ここが生まれ故郷」と伝えた。貨車に載せられて運ばれてきたのである。

帰ってきた駅で、親戚の人が迎えにでて、山陰の鳥取県根雨にある郡立病院に入れられた。

美輪明宏さんと番組で一緒にになったとき、『文ちゃんもそなの?耳の後ろに蛆ウジ涌かなかった?」とおっしゃった。何でご存知かと疑問をもたが、彼も長崎で原爆で死んだ人を多く見ているからだった。

確か、父は「耳がかゆいから、耳掃除してくれ」と言った。耳掻きでほじくると、ポロっと一匹蛆が落ちてきた。父に見せてはいけないと思って、グチュと指で潰して、隠しえて捨てた。耳にはそれくらいの数だったが、半身のガーゼの下はすごかった。

医師は巡回に来て、と言っても、箸で蛆を採るのが治療みたいなものだった。ガーゼを取り替えて薬を塗るが、患者は痛がるし、大勢回るから、医薬品の関係でか、片半身治療手当して、「明日また」と言って次へ行ってしまう。

真夏の暑いさなかの入院だから、文郎は父の体を団扇で煽る役目だった。煽っていると、ガーゼの隅間から、ポタっと蛆が落ちてくる。べっとりくっついたガーゼの隙間には、蛆がビシリだ。ハエはどこからとなく飛んできて、人間の体にタマゴを産み付けてしまう。それが、数日で蛆に孵化する。

その後、文郎はアナウンサーになって「モーニング・アイ」朝の番組の担当になったとき、「文さん、あなたのお父さん、原爆でお亡くなりになったのだから、だったら、一回広島に取材にいったらどうですか?」ということで、その年、8月6日に広島へ行った。

「ここが広島陸軍病院の跡地です」とやって、そこから、ひょいと見ると、200メートル先に堤防になっていた。そこへ上って行ったら、堤防の上に女性が十人くらいが集まっていた。ワイワイ話をしていた。

M990510100715 「何をなさっているのですか?」
「実は、私たちは陸軍病院の看護婦やっていました。毎年、この日に集まって、こうして話をしているのです」
「私の父は、山本文行という、ここで軍医をしていたのです。どなたか、ご存知ありませんか?」と聞いたが、口々に「さー」と返ってきた。勤続一週間の医師では、ちょっとムリだったかもしてないと思ったが、一人が「文行さんというのですか?」と尋ねた。
「はい」
「じゃあ、いらしゃいました。私も先生と一緒にいろいろお仕事をしました」という方に出会った。

 そこで、アナウンサー山本は話した。「父はこういうわけで、故郷へ返ってきて、亡くなりました」
「そうでしたか、お気の毒でしたね」
「いや、亡くなっても、どこの誰かもわからない人も多いことを思えば、ボクは、オヤジの最後を見とれましたので、よかったと思っています。」

小5の文郎の目にも、父は日に日に容態が悪くなっていくのは、わかっていた。医師である父は、自分の体が衰弱しているのは理解していた。

父は「オレの体を見てみろ」と言って、「ここだけだぞ。人間の肌を残しているのは」とパンツを履いていた白い部分を見せた。あと残りは、黒く焼けた肌しかなかった。

父は「〈お前を一人っ子にして)悪かったね。一つ、友達をいっぱい作れ。そして、その友達の良いところを見つけて付き合え。悪い所を見てもしょうがないんだ。どんな人も、お前にはないいいところがあるはずだから、そこを見て付き合いなさい」

 これが父の遺言となった。私はこの父の遺言をずっと守って、友達が物凄くいっぱいできました。

東京に残っていた母へは、電報を何度も打った。しかし、なかなか通じなかった。「ママは、まだ来ないか?」と父は私に聞いたが、「うん」と答えるしかなかった。電信網も、交通網もズタズタになっていた昭和20年、止む得ないかもしれないが、父は死期は近いことを感じていたから、また電報を打った。父が母の到着をまっているのだけは、小学生の文郎にもわかっていた。

終戦がわかって、病院内の泣いている様子があり、だんだん動揺も広がって、病院の機能もおかしくなって、父にもソレがわかったようだった。

「どうしたのだろうね」と父が聞くから「じゃあ、聞いてくる」と出掛けた。事務局みんな泣いて、「(戦争に)負けた」という。

「パパ、負けたんだって」と、父に正直に教えたが、父にはショックだったんだね。小学生にはなんでもないが、大人には、今まで命を賭けた戦いが「負けた」というのだから、今までの努力はなんだったのか、その存在意義がわからなくなっても不思議ではない。

日本の敗戦を知って、父は「何!」と涙をこぼし、黙ってしまった。「犬死にでないか!」自分の命が風前の灯火になって、自分が死んでも、何の価値もないと痛感したのだろう。小学生の私の心には、アメリカ憎し、という感情が高まった。

その夜、父は母を待ちながら、死んだ。日本が勝つと信じて耐えてきたが、「敗戦」を知ることで、プツンと信じるものを失い、父は死んだと思った。

『父死す』という連絡しても、母はまだ来なかった。しかし、父の死を知れば、来ないはずはない、そう信じて、父の遺体を土葬にするのを待ってもらった。数日、もう待てないというときになって、母は駆けつけた。父の遺体をひと目見て、埋葬となった。やっと間に合ったと、文郎は思って安心した。

戦後、絶えず、「アメリカ憎し」の気持ちを感じていた。最初の妻と結婚して、しばらくすると、家の前にアメリカの軍人が引っ越してきておどろいた。

何日かして、二階の窓から下を見ると、息子は向かえの金髪の子供と遊んでいる。内心、「なんだ、アメリカ人と遊びゃがって」と、余り面白くなかった。

しかし、よく見ると、言葉が通じないはずなのに
「コレ貸して」と金髪坊やがいうと、ウチの子が
「だめ」
「じゃ、コッチは?」
「それならいいよ」と

声は聞こえないが、二人が話しているように見える。子供にとっては、コミニケーションがとれる。友達になって二人は仲良く遊んでいた。子供の世界には国境がないのだな、と思えるようになった。いつまでも「アメリカ憎し」ということもない、という気持ちになっていた。
 そのうち、アメリカ人の親たちも来るようになった。アメリカさんは、偶然にも、文郎の父と同じ軍医だった。任務を終えて、アメリカへ帰るというとき、

「実は、オレのオヤジは、君と同じ軍医で、広島の陸軍病院に勤めていた。それで原爆で死んだ」といったら、
夫婦で「悪かった」と謝り、二人は泣きました。そのとき、私はわだかまりはなくなった。いつまでも、そんなことにこだわってはいけないと思った。
 「Bigフミ!許してくれ」私は、Bigフミで、息子文明は、Little フミと呼んで、彼らは親しく接することができた。
 軍医のアメリカさん、キャンプ内にいれば、家賃はいらないから安く過ごせるが、彼らは、「わざわざ君の家の前にお金を遣って住んでいる意味がわかるか?」
「知らない」というと、
「日本人たちがどういう暮らしをしているか、どんな生活を送ってか、知りたいと思って、ワザワザ住んだのだ、わかってくれ」と、「Shake Hand !」と言って、手を出してきた。

彼らは良い人だった。同じ軍医だったことで、父の無念さや悲しみ、そして、もろもろの感情がわかってくれた。

鬼畜米英!欲しがりません、勝つまでは、贅沢は敵、と言っていた私たち、一体何に、誰に言わされていたのだろうか

4476200906071290051l  追伸:父は短命に終わったが、母は現在ジャスト100歳で、施設に入って健在である。訪ねていくと、「小遣いあるかい?」と子供扱いをする。また、私のでたテレビをチェックしていて、アレコレ批評を聞かせてくれる。
 私が大学へ入った年、「再婚してもいいかい?」と聞かれたので、「どうぞ、どうぞ。僕を育てて苦労したのだから、幸せになって」と、再婚を勧めた。二度目の結婚をしたが、その配偶者も亡くなり、その後は、独身。迷惑掛けたくないからと、ひとりで施設を探して、一人の生活を楽しんでいる。

4481 追伸2:父はあちらのお遊びがお盛んで、「テニスにいくぞ」と、テニスラケットをもって、文郎をオートバイに乗せて家を出るが、女性のいる店にくる。すると、「文郎、お姉ちゃんと映画を見に行っておいで」と、まず、文郎を別の女の子に連れて行かせて、自分は女性と楽しく過ごす、と65年前の話をする。「そんなこと、言ってもいいのですか」と、司会の黒柳徹子さんがきくと、いいんです。もう母も、わかっていますから。

戦争の実態を語る① 小沢昭一が戦中、戦後をいる語る   大郷村兵事書類から戦争を見る  終戦 荒廃した国土 忘れるな    講和条約 日本は占領されていた   戦争を知る人たちの記録    復員兵が帰ってきた 昭20年秋   城山 三郎 ついに『落日燃ゆ』   戦争の影響 疎開、食料など   樺太の真岡電話局 最後の放送   満蒙開拓青少年義勇軍を知ろう 戦前の軍歌は巧妙にできている   林真理子 戦中の父と母、そして戦後    空襲警報発令 昭和20年中津川市   

戦争の実態を語る② 8月15日千鳥が淵戦没者墓苑に集合   嗚呼 満蒙開拓団 岩波ホール盛況なり 陸軍中佐沼田正春 幼い息子に遺訓  平和祈念展示資料館 独立行政法人に一言    浅田次郎シューシャイン・ボーイ 生き方  傷痍軍人という生き方  水木しげる ゲゲは滑舌から名付け 火垂るの墓 11月2日TV  海老名香葉子 あした元気になーれ:    12月8日 開戦記念日 海軍反省会  ああ、許すまじ原爆 核不拡散条約NPT 戦争と人間 ( 五味川 純平)日本昭和史

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コメント

私の父も軍医で広島第二陸軍病院の地下で朝礼中に被曝しました。90歳まで内科医をしていました。山本軍医は広島陸軍病院のどの病院(第一、第二)で被曝されたのでしょうか?

投稿: | 2011年4月24日 (日) 02時34分

山本文雄の父の話は、なんといっても、日本の歴史さえ感じられる。
 父は「耳がかゆいから、耳掃除してくれ」と言った。耳掻きでほじくると、ポロっと一匹蛆が落ちてきた。父に見せてはいけないと思って、グチュと指で潰して、隠しえて捨てた。 
 医師は巡回に来て、箸で蛆を採るのが治療みたいなものだった。ガーゼを取り替えて薬を塗るが、患者は痛がるし、大勢回るから、医薬品の関係でか、片半身治療手当して、「明日また」と次へ行ってしまう。

投稿: | 2012年8月10日 (金) 09時18分

初めましてネット初心者です。
先の大戦で伯父叔父と呼べるであったろう人達を戦地に捧げました。先の大戦は英吉利が亜米利加にSOSを依頼した為、当時アメリカの公約で有り亜米利加国民の民意であった
「非参戦。」をどの様に国民から参戦賛成を採り付けるか
ドイツと連合の日本を追い詰め切れさせ攻撃させて
「日本から売られた喧嘩」で参戦し英吉利を助けたと耳学問で伺っております。
また、原爆も終戦を迎える為でなく、アメリカのエネルギー問題で原子力開発臨床人体実験の為だと言う事も、子供心に「ヒロシマ/長崎の原爆成分が何故違うのだろう。」と口にしてはいけない事の理解が出来ました。
シスター渡辺和子様は、「父を殺すにも正々堂々と行動して欲しかった。」と仰っていらっしゃいました。命を懸け護ろうとした日本、急性高度経済成長先進国入りした国にも拘らず。国民が安心健やかな生活に肖れず。
自殺者3万人/年・堕胎児30万児/年を更新中なのでしょうか。自己防衛は必要は必要でしょうが、

世界の国々に、米国製日本育ち憲法9条を備えて欲しいと想います。白洲次郎さんでさえ善いと仰った憲法です。
ご健康をお祈り申し上げております。                                彼 処

投稿: 邂逅 | 2013年3月 6日 (水) 18時30分

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