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2010年8月24日 (火)

収容所から救われたユダヤ人Ⅰ

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ヒットラーの「わが闘争」に書いてあるのは、ドイツ民族至上主義である。1933年1月30日にアドルフ・ヒトラーのナチス党がドイツの政権をとると、ドイツ民族至上主義から、ドイツ国内の52万人のユダヤ人に対する迫害が始まった。

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自叙伝「我が闘争」で、ヒトラーは、ユダヤ人に対する憎しみや、政権につけば直ちにユダヤ人を政治や文化社会から追放する心づもりを述べている。これがドイツ民族至上主義の始まりである。 

5162 ナチス政権が誕生すると、まずユダヤ人の思想家や科学者が大量に国外へ脱出した。1933年には、国家公務員法、医療法、食料法などが改正され、ユダヤ人は公務員や医療、農業に従事できなくなった。
 次に1935年にニュルンベルク法が制定され、8分の1までの混血をユダヤ人と規定し、公職は追放、企業経営は禁止、ユダヤ人の市民としての生活権を否定した。

5158 1939年9月、ポーランド侵攻直後から、ユダヤ人のドヤ街(ゲットー)への囲い込みが始まった。
1940年6月頃、Bゲシュタポ・4課(ユダヤ人問題担当)親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンが就任、「ユダヤ人問題」は、労働に耐える者は過酷な軍需産業に従事させ、死亡させる方針がとられることになった。
1941年だけでも、ワルシャワ・ゲットー住人の十人に一人(4万3千人)が腸チフスなどで死亡。
1942年7月19日 ヒムラーは強制移送の命令、ゲットー住民30万人が強制収容所へ移送。
5152 1942年9月、ポーランドのゲットーで反乱、ドイツ軍により鎮圧。首謀者は処刑または強制収容所送りとなった。ドイツ政府はこれを「東への移住」と呼んだ。
1943年4月19日よりワルシャワ・ゲットー蜂起に対する掃討作戦が行われる。

1944年、ユダヤ人社会は、ほぼ全て殲滅。ポーランドではユダヤ人の約90%、フランスでは25%が殺害。5月にヒトラーは、演説で「ドイツ国内と占領領土におけるユダヤ人問題は解決した」と豪語した。

5151 映画や写真でトラックにユダヤ人を乗せて行くシーンは、オーストリアにあるユダヤ人収容所(強制労働所)2 収容所 へ収容されるシーンだ。時局がドイツの不利な状態になると、かの有名なアウシュヴィッツなどの絶滅収容所へ送りこもうという計画が持ち上がった。一般強制収容所など手ぬるいものから、絶滅収容所に変わっていく。

_5164 一般強制収容所の廃止に伴い、フワシュフ収容所も廃止になるということが、シンドラーの工場を支えていた人ににも伝わった。収容所のユダヤ人には絶滅収容所行きは死を意味する。それをユダヤ収容者やユダヤに同情的なドイツ人によって、シンドラーの工場が戦争のためには、欠くべからざるものだからということで、フワシュフ収容所の所長のユダヤ経理秘書が、シンドラー工場の生産可能な製品のレポートを提出した。

5187 相当の張ったりであろうが、武器から軍需品を分厚い報告書で収容所ゲート所長を納得させた。この収容所は残そう。そこで、絶滅収容所送りを免除する「労働者の名簿」を収容所所長あてに出した。この名簿が「シンドラーのリスト」である。

ドイツを日本に置き換えると、ユダヤ人は、まるで戦前の朝鮮人、中国人に対したような態度で接している。これらの事実を理解しようとしても、わからない。なぜ、そこまでドイツ至上主義で、ユダヤ人を差別して排除しなければならないのか、理解できない。(今そんな人はいないだろうが)朝鮮人を差別して、朝鮮人を侮蔑した戦前の日本人の心情を理解しろと言われても説明できないのと同じかな、と思ってしまう。チマチョゴリを見ると苛めたくなる人たちにとっては、理屈ではないのかも。

オースリアの地を我が物よう闊歩したドイツ人たちは、数多くの強制収容所をオーストリアに置いた。900~1000箇所。そのなかで、クラクフの郊外にフワシュフ収容所の話が、シンドラーの工場のある収容所である。

5157 ユダヤの人にとっては、収容所に入れられたら生き延びるのが困難であることは知られていた。フワシュフ収容所は、約一万人のユダヤ人が収容され、石材や軍服の製造をしていた。そして、周囲には、その労働力をあてにして軍需特殊の工場があった。

収容所のゲート所長は映画「シンドラーのリスト」では、作業現場に現れて、気分にまかせてユダヤ人収容者を射殺して、顔色変えずに去っていく。

5170 また映画「シンドラーのリスト」では、収容者の作業状況が見える自宅のバルコニーからスコープつきの銃で怠けているか、動きの悪い収容者を撃っている。

5179 当時17歳だった女性は、野菜を配る仕事をしていたが、ゲート所長宅で見たシーンでは、所長は飼っている二匹の犬を訓練するために、ユダヤ人収容者を立たせて、犬に肉を食いちぎらせていたという。

 ナチの行為を告発する会の会長が語るのは、
 収容所にいた14歳少年が「ソ連の歌をうたう」と密告されて、収容所の人が集められて、みんなが見ている前で、「つるし上げろ!」とゲート所長が命令、子供のつるし上げられるのを見せられた。
子供は台の上に上がって「ご主人様、お願いです。僕を生かしてください」と言ったが、つるし上げられたが、暴れて紐が切れて落ちた。子供はもう一度、つるし上げられた。子供は「殺さないでください」ともう一度懇願したが、実行されてつるしあげられた。子供が暴れたので、紐は再び切れた。その子は、また落ちた。三回紐は切れた。
 子供は三回命乞いをしたが、最後、ゲート所長は「誰がコツをつるしたんだ。次に紐が切れたら、お前も一緒につるすぞ」と言った。そして、確実にその子はつるされた。
 ゲート所長は、その子が死んでいるのに、顔に何発か銃弾を打ち込んだ。

5214 収容所内の労働より、近所の工場へ出て働いたほうが安全であり、監視がない分安全であった。そういう工場で働けるように、ユダヤ人の知恵で、クラクフの郊外にシンドラーの工場を作らせた。ユダヤ人が資金を融通してやり、工場の物件を探し、生産品は軍需製品を主体にはじめた。最初に受注したのは、大量の手榴弾であった。

ユダヤ人の生き残り作戦のおかげで、クラクフの郊外にフワシュフ収容所の4割が生き延びた。ほかの収容所のユダヤ人がほとんど殺されたのに。それは、戦後65年たった、今年シンドラーの工場が博物館に生まれ変わると言う式典があって、その挨拶で明かされた。

5146第二次世界大戦時のナチス・ドイツによるユダヤ人のホロコースト(虐殺)の中、ドイツ人実業家オスカー・シンドラーが労働力の確保という名目で、ユダヤ人1,100人以上彼は安全な収容所に移動させていく。

シンドラーは、事業家であるが、ユダヤ人を雇う条件でユダヤの資本家などの応援を得て、食器工場を買い取り、軍需工場を経営していく。彼はどちらかといえば、ユダヤに理解がある善人だけど、操られている観がある。

シンドラー夫人のエミリエは本作「シンドラーのリスト」について「ユダヤ人をあくまで労働力としかみなかった夫を美化している」とコメントしている。2001年10月に94歳で死去。

関連記事ご覧ください ドイツ収容所から救われたユダヤ人Ⅲ  ドイツ収容所から救われたユダヤ人Ⅱ ドイツ収容所から救われたユダヤ人Ⅰ  いかにヒットラーとなりしか(青年期) ナチスヒットラーが日本にいないか。 2月大雪 叛乱軍とくれば、国民の鬱憤

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コメント

クラクフはポーランドだ。オーストリアではない。文中ニカ所で国名が誤っている。よく確認すること!

投稿: | 2018年1月 4日 (木) 21時40分

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