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2010年8月31日 (火)

小沢一郎、菅直人、鳩山由紀夫の誤算

PhotoPhoto_2Photo_3 ちょうど一年前に衆議院選挙で、政権交代で国民の希望をかなえて、「物から人へ」というマニフェストを実行していけると思ったら、なんや!このざまは。

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3ヶ月前の鳩山総理+小沢幹事長の辞任、そして菅総理就任、この流れで国民の期待が一気に60%に回復した。参議院議員選挙で、消費税アップをちらつかせて大失敗。

菅総理は、財務官僚の「財務健全を」と説明で、納得してか、消費税アップを一存で選挙中に語る始末。鳩山名前総理の「普天間基地の問題」を土壇場で官僚に説得され、日米の信頼関係の重要性に気づく始末。まったく同じことを消費税アップで菅総理もやっちゃった。消費税の怖さを知らないで、机上の論を語って、気づけば自民党に負けてしまう。

選挙は、フリーハンドを獲得するために、いかに語らないで選挙を進めるか。ムードで勝ち抜く。これは小沢一郎は、この点をわかっている。これが日本の選挙民にアピールしたほうが、得。または、一点アピールで、ほかを隠す。これは小泉郵政選挙がその典型。日本人の意識がその程度だから、それで通る。

民主党の良識は、選挙民の意識レベルを無視して、正義を掲げるからそうはいかない。選挙の正義を言う人は、声は大きいが、数は多くない。「正義より利益」が本音だ。神社で願いを求めるが、信仰している人は稀有だ。

参議院選挙の結果を見ると、民主党の票数では勝っても議席では負けている。自民党が長年にわたって作り上げている自民党有利な選挙制度のからくりにひっかかる。

見ていて、政治の素人にさえ読める国民の期待、政治家の欲との絡み合い、官僚の政治家操縦術の中に政治家プレーヤーがどうなるか、政治家というか民主党議員、特にトップがわかっていない。鳩山由紀夫にしたって、小沢一郎に加担したらどうなるか、菅直人だって「小沢排除論理」と「トロイカ方式(小沢.菅.鳩山)の政治指導を復活したら、反小沢の菅路線が亜菅アカン、となる。

今、素人集団内閣みたいな流れで、フワフワして、身奇麗な政策を実行したがっている。埋蔵金がないから子供手当て見直しとか、その上、100年に一度の大不景気に見舞われ、にっちもさっちもいかない。

竹下内閣でふるさと創生とかいって、市町村に一億ずつばらまいた好景気のとき、「積み立て」しておけばよかたんだ。これで毎年1兆円をのこして、複利計算で、20年続けたら、きっとそれが生み出す利息だけで、子供手当てが可能になった?

日本はサッカー後進国、日本総監督を外国から引っ張ってくるのが当然のようになっている。きのうあたりイタリア人のアルベルト・ザッケローニ氏が岡田武史氏の後任監督発表した。日本人だけで進めていると、日本相撲協会、見てみい。全然遅々として進まない。外部委員をさえ嫌がって、力士の意識には、改革するにはどうしたらいいか、それがわからない。政治家チームも同じ。

民主党政権にも、お雇い外国人政治家に来てもらって、政治指導してもらったら、どうだろう。外国人なら、しがらみもないから、公正な方針が立てられる。しがらみのないアメリカ人でなければ、日本国憲法に「憲法9条」は入れられなかっただろう。

小沢一郎の過去を見ると、実に見事なほど、作っては壊して、民主党に合併したときの手勢は十数人になっていた。自民党と連立して小池百合子を置いてきたし、今度、民主党と合併して、母屋の軒を借りて、あっという間に150人の議員を配下を持つに至った。このプロ、数の論理こそが、議会運営の基礎であり、そのあとに政策論理がついてくる。このことが、民主党の議員さんは身にしみていないから、イライラしてしまうだろう。

Photo_4Photo_5小沢一郎が代表になったら、民主党を分解して、反小沢分子を排除して、渡辺喜美を党首にして、舛添要一財務大臣なんていう布陣の政権を考えているとか、巷間流れている・・・、と恐れられている。その意味では、

常識を超えた政界編成をやるだけの構想力がある。ただし、銭と権力を握られて、秩序の外に立つ小沢一郎という存在を許すことになる。これが、大方の人には気に入らないというか、怖いわけだ。

菅直人は、このまま代表選したら、プロの目から票読みしたら、明らかに小沢一郎に負けている。劣勢だ。庶民人気は菅直人60%、小沢一郎15%というが、大衆人気は菅直人だが、小沢幹事長が当選させた小沢チルドレンがいる。

小沢一郎は、大衆人気が不利であっても、そのチルドレンがいる限り、代表選は勝つ。小沢が代表なったら、民主党に亀裂が入る。小沢一郎が負けたら、いる場所がないから、飛び出す可能性がある。そして、他の小党から人材をスカウトして、新党をつくる可能性が出る。

鳩山由紀夫の理想と現実のギャップには、アレ?と思うことが多々ある。今回の菅総理と小沢一郎の斡旋は、完全に市民感覚からはずれていた。「私は首相を辞めますが、幹事長にも引いて頂きます」と言ったのは、わずか3ヶ月前だ。これをご破算にして、小沢一郎復活させる「トロイカ方式」を持ち出すと、「反小沢」で内閣が固まっているから、民主党内部分裂だ。

鳩山由紀夫、首相を辞めた人は、政界引退をする前例を作ろうと思ったが、それが後援会から止められた。そりゃ、なんだよ。自分の言葉はそんなに軽いのか?沖縄基地の移転は、理想論を掲げて当選したのに、それが実行ができないと、アメリカと日本の安保の関係を勉強したら、実行不可能だと理解したと言って失速した。インドがイギリスの植民地から独立したガンジーの苦しみをわかっていない。日本の指導者は、指導者になる基礎知識が不足している。やっぱり、鳩山さんの判断は、ズレているのではないか。引退すると言ったときは、見識ある判断だと思ったが、これを貫くことがいいのではないか。

これでは、選挙に出る前に、政治家試験をして合格するだけの知識があるかどうか、調べたいものだ。

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2010年8月29日 (日)

正義の戦争あるか「太田総理」最終回

00000 「太田光の私が総理大臣になったら」人気番組だったから、もっと続くとおもったが、最終回となった。最終回ならではの「太田対石破」のやりとりでは、それが日本の行く末が見え、面白かった。

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みなさん、お聞きの方も多いかと思いますが、この「大田総理」、今回をもちまして終了とさせて頂きます。思えば、4年半、まあ、長いようで短い、実際の政治と比べれば、かなり長期政権(笑い)と言っても、過言ではありません。

数々の本当の政治家の方々においで頂き、まあ悪口雑言、罵詈雑言、「馬鹿」だのなんだの言わせて頂きました。特に、きょうお越しの石破先生への数々の無礼を働き、非常に申し訳なく思っております。この場を借りて謝罪をいたしたいと思います。

それに、今や大臣になられた原口さんにも、かつてはこの番組のレギュラーとして、何度も起こし頂きまして、今ではいい思い出ですが、私が原口さんに「馬鹿!」と言ったとき、ぶちきれまして「馬鹿とはなんだ!」と本当にいやな思いをさせて、本当に私も言葉を選び・・・

本日は、最後ということで、日テレの社運をかけて、私に言いたいことを言わせて頂く。「日テレをぶっ壊す」気で(笑い)(困りますよ)言いたいことを言わせて頂きます。次回は、小沢総理(小沢総理の?!)がは始まります。本日は最後になりますが、よろしくお願いします。(拍手)

60002_2 太田 光(おおた ひかり、1965年5月13日 - ):お笑いタレント、漫才師、エッセイスト。田中裕二との漫才コンビ「爆笑問題」のボケを担当。血液型はO型。170cm、49kg。
 高校時代は誰とも話さず、友達が一人もいなかった。休み時間は、図書室に入り浸り、修学旅行では約10冊の小説を持参し、全部読みきった。「友達を作らなかったではなく、作れなかっただけ」、大学進学後は、友達を作ろうと必死で、初対面でもハイテンションで接した。
1988年3月、日本大学芸術学部演劇学科で知り合った田中と爆笑問題を結成。

Stt0809141104003p1 石破 茂(いしば しげる、1957年(昭和32年)2月4日 - ):日本の政治家。自由民主党政調会長。衆議院議員(8期)。防衛庁長官(第68・69代)、防衛大臣(第4代)、農林水産大臣(第49代)を歴任した。
父親は建設事務次官、鳥取県知事、自治大臣兼国家公安委員会委員長

きょうの番組が始まった。どんな話題を討論するか、覧を表示した。
●正義の戦争はあるのか?
●麻薬の逮捕された芸能人かTV復帰するのは正しいか。
●小学校低学年で性教育をするのは正しいか。
●未成年の刑が軽いのは正しいか。
●家事を手伝わない夫に正義はあるのか。
●報道に正義があるのか。
●AKB48が順位を決めるの正しいか。
●発展途上国に援助するのは正しいか。

まず、「正義」について始まると、いつもの大田光の熱気で、このテーマでほとんどこの話題で先に進まなくなってしまうのは、いつものようになった。

「正義の戦争」ある石破茂、高野、竹田圭吾 
「正義の戦争」ない太田光、生方幸夫、猪口邦子、テリー伊藤、小倉優子、ふかわりょう

正義の戦争があるとするほうは、論客でないと、説明がつかない。戦争したくない、あるいは、平和を望むほうは、戦いの犠牲になりたくない気分でいれば、平和運動に加担しているような気分でいれる。なかなか、正義の戦争を否定するのは難しいことは、この三人の自衛の戦争論を否定しかかるのは、難しい。

進行係の田中:戦争はしていいか、どうか、ということですか。「平和を維持するためには、戦争はしょうがない」ということですか。
石破:しょうがないというか、(世界の中には)悪辣非道、傍若無人という国があるわけです。(こちらが)何も悪くなくても、国を侵略されてそれに対して立ち上がって排除する。国際法上、戦争は違法。国連による制裁があるわけだが、すぐそれが発動されるとは限らない。国連が発動されるまで、本当に無抵抗でいいのか。
太田:石破さんは、いつも惜しいところまでいっている。そのもう一っ飛びが足りないですよ。
石破:足りなくない。どこが足りない!
太田:傍若無人、悪辣非道と言いましたけれど、じゃあ、太平洋戦争の場合、日本は裁かれましたよね。(戦争に)負けて、そうなったんですよね。
石破:あの場合の日本は、極悪非道でもなければ、傍若無人でもない。太平洋戦争、大東亜戦争は、単なる侵略戦争と片付けるのは、あまりにも一面的過ぎる見方だ。
太田:そうですよね。ボクもそう思います。そこで、戦争する理由になって、戦争は起こされたコトは間違いない。その前の日中戦争は?
石破:日中戦争は、アメリカ合衆国にしても、日中戦争を「戦争」と認定していなくて、「事変」と言っていた。(アメリカは)戦争をしちゃうと、アメリカの中立法で、いろんな物が売れなくなってしまう。
太田:言葉遊びだったのですね。
石破:事変と戦争は、国際連盟規約上では扱いが違う。
太田:その辺のアヤフヤさが石破さんの弱さだと思う。
石破:全然ヤヤフヤではない。
太田:オレ、納得しないです。

(ナレーション)現在は「日中戦争」と言われているが、開戦当時は、「戦争」ではなく、「事変」とされていた。「事変」とは、宣戦布告なしの国と国の武力行為をいう。「中立法」とは、戦争中の国に武器などを売れないというアメリカの法律。当時、「事変」であったので、日中に軍事物資を売ることができた。

竹田:北朝鮮みたいな国が、日本が何もしないのに、先に核爆弾を落としたとしたら、日本は戦争という手段を一切放棄するのですか。
太田:そうです。
竹田:ほかの(「正義の戦争」ない)方も、そうですか。
猪口:こっちへ座ったのは、正義はたくさん(種類が)あります。一つ一つの正義で戦争をやるということはありえない。戦争は、づして発生するのか、それは外交の失敗しているということです。
太田;失敗することは、人間同士(の社会)では、今後もゼッタイあることだ。猪口さん、どらえもんみたいなカッコして。
猪口:いわれちゃった!
小倉優子:いろんな戦争あるじゃないですか。戦争すると、関係ない人も死んでしまうのに、正義の戦争があるのですか。
高野:戦争を考えるとき、一番の原点です。戦争というのは、一言でいえば、人殺しです。組織的な人殺しですから。戦争を現実的に見ると、必要悪になっている部分がある。明々白々になっている侵略に対して、抵抗戦争は一定の正義。(そういう)旗が立つ戦争もある。
 第一、イラク戦争、ブッシュ元大統領が仕掛けている。あの時、日本のスタンス、イラクへ行く必要があったのか。
太田:なかった。
石破:あった。

(中略)

太田:(本質議論へ行く前に)対立してしまうから、いつも物別れになる。たとえば、「石破さんは惜しい」と、オレが思うことは、非常に不遜だけど、「戦いをやめようよ」というナショナリストが一番上にいると思うから、石破さんがそう言ってくれれば、それを実現するような気がしている。だから、「惜しい」って、思う。

つまり、北朝鮮が攻めてきたら、どうするという「極悪非道」はテロやそういうこだとけど、我々の普段では「通り魔殺人事件」に相当する。この「極悪非道」の時、アメリカの結論はでは「それはみんなで銃を持ちましょう」になっている。だが、この国(日本)の結論では、「そうじゃないでしょう」と思う。

警察がきちんと捜査その犯人を殺さずに捕まえて、反省させようよ、ということが基本である。国家間のことも、ここから始めないと。ところが、アメリカは、それをやっていないと思う。だから、日本は、独自の立場がきっとあると思う。

(中略)
ふかわ:テロリストたちは、自分たちが「悪」だと思っているのですか。
太田:思っているわけないでしょう。
ふかわ:だとしたら、みんな自分は正義だと思っている。ということは、「お前は悪だ」ということは、向こうに何も通じないことだ。戦争で「勝った」「負けた」というが、本当の「勝ちは、戦争をしないことだと、思う。
太田:そっちのほうが、困難です。ボクは、迷いがある。つまり、lこのまま、アメリカがテロリストを皆殺しにしていく。民主化していく。その国の価値観をアメリカ的価値観に変えていく。そういう流れが歴史上にあって、アメリカは異分子を民主化して改造していけば、おそらく、最終的には世界がアメリカ的価値観によって、平和になる。
 そっちのほうが、言ってみれば、簡単かもしれない。多少の犠牲でしょう。だけど、・・・・日本人には、日本人の誇りがある。武器をもって解決するのではなく、全世界が全滅する前に「武器を捨てましょう」というのが、オレなりの愛国心だ。

以上が太田光の意見。以下は、私のたわごと。

「武器を捨てましょう」に太田光の思想の根源がここに現れている。実際の政治をやる立場に立つと、これが実現できるはずがない、となってしまう。まあ、言ってみれば、無抵抗主義のガンジーのように一生をかけて、遅々とした非能率の歩みで、爆問学問、コントとか、そんなことやっていられないだろう。彼らにできるか。

自衛の武装と、相手に勝手な活動をさせないアメリカとの同盟が必要。それは、戦争をしないための投資だ、と考えるのが石破さん。大抵の保守政治家は、武装は相手になめられないための小道具だと思っている。

アメリカ式の世界治安を取り締まりは、アメリカ的な価値観を押し付けることだと思って見ると、よくわかる。世界をアメリカ国内に置き換えて見ると、アメリカンインディアンを押さえ込んだ方式を世界に適用していると見ると、よくわかる。

「アラモの砦」で、インディアン酋長を取り押さえていと、ビンラデンを血眼で探し、殲滅しようとしている。世界は複雑だし、簡単にいかない。アメリカは相手の価値観を認めて、共存共栄する道をお勧めしたいものだ。これが、そんなことをしていると、中国の覇権主義に二番手にされる。

それにしても、日本はアメリカ価値観を受け入れて、無条件降伏を一番きちんと守って、アメリカの子分になっているが、それって、よさそうに見えて、自分の意見を持たないって、ヨーロッパあたりでは、馬鹿にされているのじゃないか。

たまには、「原爆投下」と「9・11」は同じだと気つかないアメリカにガツンといってやろうよ。「広島、長崎原爆投下」の賠償、東京大空襲の被害算定して、ニューヨークタイムスに、日本はこれだけの損害をこうむったのだから、9.11にカッカしないで、くれ。アフガンへの駐留を止めたら、どいうなる?そんなに損?  

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野田聖子 体外受精14回 流産8回

Jpg13 野田聖子が妊娠したと聞いて、彼女はなみなみならぬ意思を持つ人であると思った。諦めていないかったのだ。この意思の強さを学びたいものだ。

聖子議員50歳を目前にして、流産8回乗越え、体外受精14回目で、妊娠15週だと発表。不妊治療は,前から続けていると多くの人が知っているから、大きなニュースになっている。よくがんばった。(平成23年1月6日出産。)

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Tsuruhoyo  鶴保参議院議員とは、今夫婦ではなくなったが、夫婦の間、彼女は妊娠したいと強く思っていたから、妊娠可能jな排卵日になると夫は大変だ。聖子議員は「さあ!」というが、鶴保議員、ムードもへったくれもなく、種付けを強制させられて、協力したいと思っても、コレ、男のプライドが傷ついたと思うよ。それは切羽つまった聖子議員の妊娠するための努力だとわかるが、二人の願いは一緒だとはいえ・・・

 聖子自身の卵子+鶴保議員の精子で体外受精を13回して8回の妊娠したが流産。すべて失敗。50歳近いと卵子では受精しにくいらしい。その上、卵管閉塞で自然妊娠は不可能であるとわかったので、今回は自分の卵子は使わず、第三者の卵子と今の彼氏の精子を使用して、受精卵を聖子議員の子宮に入れた。今15週目になっており、順調にいけば、来年二月中旬に出産の予定だと発表している。

妊娠、出産と聞くと「おめでとう」というが、それって、秘め事であり、人に知られたくないコトが、一旦妊娠とわかった途端、「おめでとう!」「おめでとう!」のラッシュになる。あの、急に変わる線引きは、どこなんだろう、とくだらないことを考えてしまう。

 野田聖子議員、この間には、郵政法反対で小泉総理のとき、自民党公認を受けられず、佐藤ゆかりが公認で、無所属候補で立候補して選挙運動は、彼女が涙を流して当選した。その選挙運動中は自民党所属鶴保議員が除名された彼女を懸命な支援をしていた。その姿を見て、この夫婦は仲良いと思ったものだ。

Sexが生殖の方法であるのは間違いないが、これって、男女間の愛情表現であるのが、鶴保議員「種馬」扱いされて、人のいい彼も我慢の限界だったのかも。単に生殖・出産の道具にしてしまう不満は、男の側に女の側も。単に妊娠・出産だけの行為は、ありがたくないが、出産限界年齢になると、そんな余裕がない。自然妊娠の限界があるあるとしたら、40代になったら、今度の排卵が妊娠できる最後かもしれない、という焦りがある。

夜の秘め事を医師に見せてしまうのだから、この飛躍に平気な日本男子は、まだ少ないだろう。聖子議員、人工受精手術のたびに、恥ずかしさはもちろんのこと、ホルモンバランスの関係で相当気分が悪くなるらしい。これに耐え、少子化担当大臣の職務と思っていた面もあるだろう。これ、保険のきかない部分もあるから金もかかる。体力もいる。夫婦関係にも影響ある。たいていは、不妊治療は、数年で止めてしまう人が多い。

子供のいない夫婦には、子供つくるように、おせっかいで勧めるが、数回は相談に産婦人科へ行くが、障害があって結局あきらめてしまう。40代の終わりになって子供ない夫婦だお諦める。

諦めないで、がんばりぬいた、聖子議員は、よくやりぬいて妊娠して安定期になった。この事例は、多くの不妊夫婦の励みになるだろう。が、大抵の人はそれはまねできない。

身近な例でも、10年以上長く子供がいなく、産婦人科へ通って、排卵期を体温によって割り出し、その日を目指して交わるという努力して、14年目に大きなおなかになったときの、喜びは私も知っている。そのための、栄養状態からストレスのない生活とか、妊娠しにくい女性には何か条件足りないものがあるようだ。

聖子議員は目立つ人だから、今度の夫も、影が薄いのが気になるが、子供できたからって、夫をポイっとことないようにと思う。聖子議員はそんな人ではないと思うが。

 人工受精も自分の精子と卵子でも、子宮は他人に借りて出産すると、これは実子と認められない。だから、借り腹で双子を生んだ向井夫婦の例は養子扱いになる。他人の卵子であっても、子宮は聖子議員のモノで育てているから実子になる。

出産して、元気な子が出てくるまでは、油断できないが、これがダウン症の子だとか、障害がある子だったら、と心配がある。

野田 聖子と佐藤ゆかり どっちが上? 向井亜紀高田延彦夫妻 向井亜紀の代理母

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2010年8月28日 (土)

アルゼンチン大統領夫人エビータ

Evita_fotoPhoto ←エビータ イサベル→

「エビータ」というタイトルを見て、「聞いたことある名前だな」知っているような気がした。アルゼンチン・ペロン大統領の愛人だったような気がした。今調べてみたら、ペロン大統領の最初の夫人エビータと亡命後に結婚し、ペロン復権後、副大統領になったイサベルの二人。二人とも、貧しい出身で、声優でモデル、あるいはダンサーである。何か似ている。

マリア・エバ・ドゥアルテ・デ・ペロン(Maria Eva Duarte de Perón, 1919年5月7日 - 1952年7月26日)通称エビータ

イサベル・マルチネス・デ・ペロン(Isabel Martínez de Perón、1931年2月4日 - )スペインで存命。

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DVD「エビータ」を借りてきた。最初から歌を歌っているな、と思ったら、ミュージカル映画だった。アルゼンチンの歴史を変えた伝説の女性エビータことエバ・ペロンの短くも激しい生涯を描いていた。

ミュージカル仕立てで話が進むから、苦労話が簡単な段取りで、彼女の人生ゲームのような成り上がり方には、びっくりする。やはり、トップを目指す意欲がある女は、手がかりになる男はとことん利用する。

自分の美貌も能力も計算済み。使えるものは使い尽くす。ドサまわりのタンゴ歌手が来たら、この男に体を与え、愛人となり、首都ブエノスアイレスBAに向かう。彼は自宅まで付いていくが、子供の出迎え、妻の存在で、破局。せっかく大都会へ来たのだ、こんなことで、ヘコたれてたまるか!という前向きの姿勢で、オーデションでラジオ局で出演がきまる。

30年代の大都会の夜のパーティーに顔を出して顔を売る、ラジオ番組のパトロンだった石鹸会社社長と知り合い、これが彼女に一大転機をもたらした。番組は好評を博し、一躍全国に名が知れ渡った彼女は、エビータの愛称でラジオのしゃべりが親しまれ、ブエノスアイレスの上流社会入りはじめた。

 陸軍大佐ホワン・ペロン(ジョナサン・プライス)は、時の軍事政権の有力将校であり、強い野心を持っていた。2人はたちまち恋に落ち、世紀のラブ・ロマンスが花開いた。二人三脚で支持層を広げていく。だが、権力組織や軍事関係者からは反感を買い、1945年にペロンは副大統領を辞任させられ、監禁された。

Photo_2  エビータはラジオの影響力を利用して、愛するペロンのため、「労働者よ、ペロンを救い出せ!」とマイクに向かって呼びかけた。大衆の声で、やがてペロンが釈放されると、2人は結婚した。
 庶民、貧困層、ブルーカラー層に支持が広がり、ペロンは1946年6月、大統領に就任した。ファースト・レディとなったエビータは夫の右腕として、次々に自分の夢を実現させ、新生アルゼンチン政府の象徴として国民の憧憬を一身に集めた。

ファーストレディとなった後、エビータは政治にも手腕を発揮した。アルゼンチンの婦人参政権を獲得し、貧しい人々を助けるエ財団を設立するなど、精力的に活動を続ける。親しみを込めて、通称としてエビータ (Evita) 、アルゼンチンではサンタ・エビータ(聖エビータ)という呼称もある。現在でもアルゼンチン国内では偶像的な存在である。バスク系アルゼンチン人。

  若く美しい彼女は、富と名声をを得て絶頂を極めた。彼女は人生の華の盛りに、末期の子宮ガンと診断された。病気を押して、ペロンの再選を応援するために、最後のラジオ放送で支持を呼びかけた。ペロンは大統領に当選した。そして、多くの人々の祈りの中、彼女は33歳の短い人生に幕を降ろた。アルゼンチン中が悲しみに暮れた。ブエノス・アイレスで行われた葬儀には数十万の市民が参列した。その後遺体はエンバーミング処理を施されて展示された。

フアン・ペロンは、3番目の夫人イサベル・マルチネス・デ・ペロンと結婚している。

イサベルは、18歳で職業ダンサーとなり、中南米各地で巡業し、パナマのナイトクラブで働いていた時、亡命していたペロンと知り合う。彼女はダンサーを辞め、愛人になり、1961年にマドリードで結婚。スペインで暮らしていたが、夫ペロンの使者としてアルゼンチン国内のペロン党に接触し、頻繁に両国を往復。そしてペロン派の復権により、夫婦でアルゼンチンに帰った。

ペロンは大統領になったが、その期間は短く死んだ。彼の死後、イサベルは世界初の女性大統領となり、世界から注目を浴びた。国民からはエビータ(エバ・ペロン)の再来として期待され、エビータの髪型から服装、化粧の方法まで真似たが、政治家としての力量はなく、治安、経済共に悪化させ遂には解任された。

イサベルはスペインにひっそり暮らしている。アルゼンチンの国家財政を危うくしたと起訴されたが、高齢骨折で入院中であるAnietaview001として、病床尋問は数ヶ月に一回の割で行われている。

男を踏み台にしてでっかくなる南米の女性のたくましさ、青森住宅公社の金を貢がせて、帰国した某女も似た名前だった。エビータ、アリータ?そう、アニータだ。鼻の下を伸ばしていると、ケツの毛まで抜かれてしまうぞ。

アニータより青森住宅公社に怒れ

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2010年8月27日 (金)

カタカナ語 現状 メール絵文字 今後

53385339 カタカナ語は日本では便利に使ってきて、最近増えすぎた観がある。NHK「ニホン語でGO!」で、行き過ぎたカタカナ語について、取り上げていた。「ハイブリッド」について、取り上げていたが、日本人後大半は意味を認識しないで、フィーリングで使ってしまって、「よし」としているようだ。

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5244 今気になっているのは「アジェンダ」というみんなの党渡辺●●が盛んにいう横文字、カタカナ語だ。あれは、日本語を乱す先兵だ。というが、私の文章にもカタカナ語が、便利に使っている。

5242_35343_2 ハイブリッドという言葉、これの意味は「電気とガソリンの二種類のエンジンを起動するから」ハイブリッドという言葉を使うの が、元々の意味だと思っていたら違うらしい。

日本という国では、戦中英語排斥した時代があったが、それ以外の時代は、入ってくる文明の利器に伴って新原語が入るとそのままカタカナで使ってしまう傾向があった。

5289 そのまま原語を使っているから、楽に外来語が日本語を増やしてした。ところが、原語だから正確に翻訳しているともりでいても、外国人にしてみると、とんでもない言葉で理解するのに二重にも三重にも理解しにくい単語になっている場合がある。

5333 その例が、デパート、マンション、合コン、外国人には何がなんだかわからないものになる場合が多い。スキンシップ、ナイターなどなど。元々日本語なら、外国人も、日本語だと覚悟して学ぶが、英語だと言うデパートメント ストア画短縮されることで、手間のかかる言葉に変わってしまう。英語ではないのに、英語だと通されると、難しくなる。

これは、対外国人には難しいが、日本人には理解しやすいからそうなったのだが、近頃のカタカナ語は意味がわからず使ってしまっている。特にパソコン用語は翻訳できないこともあるが、そのままカタカナ語が日本語として罷り通っている。日本語は、外国から新しい言葉が入ってきても、そのまま受け入れて、使える特徴がある。ソ連の隣国の内モンゴルでは、科学や技術面でモンゴル語で対応できないから、ロシア語をそのまま使うのだと聞いたことがある。

5281 漢字から変形したひらがな、カタカナがあるので、日本語にはどんな言葉が来ても、一応の理解ができる仕組みになっている。吸収力を発揮するのが、フリガナの力である。明治維新以降、列強の干渉も跳ね除けたのも、最新技術を吸収してくれるフリガナ語ですね。

5335 国内の日本人には、カタカナ語が大いに役立って、技術や文化を列強から吸収して、追いつき追い越すのに役立ったと思う。それが、今ではこのカタカナ語が多すぎて、日本古来の原語体系をぶち壊している嫌いがある。

このカタカナ語は、明治の初期には、造語で民主主義、簿記、野球など翻訳語で流布したが、そのほか、日本人による造語
科学、哲学、心理学、帰納法、加速度、感受性、企業、競争、警察 意味を加味して翻訳されている。今は、意味がわからないカタカナ語が多くなっている。

5340 日本人の意識の中に、カタカナ語を使うと、「舶来物意識」から、かっこいいと思ってむやみに使う、という観が否めない。司会の一人が「なんとなくつかいちゃうんですよね。・・・かっこよさげな英語?」というように、ハクつけ、カッコづけで、つい「グローバルに」と「地球規模で」という意味をいうときに言いたがる。これって、日本語に対するコンプレックスの裏返しだろうな、と思う。

カタカナ語「ゴールデンウイーク」は、和製英語でこれは一回聞いただけで、外国人の生徒がすっきり理解できるヒットのカタカナ語だと、日本語の先生が言っていた。

日本で携帯が88パーセント超える現状では、メールで絵文字を使うのは、ごく普通になっている。しかし、在日外国人にとっては、この絵文字使用は「幼稚」「内容が幼く見える」という理由で使いたがらない傾向がある。

5306 しかし、左のメール文を見てわかるように、絵文字入れると、雰囲気を和らげるとか、そういう効果はあるのは、見ていて感じる。絵文字を使わないと、硬い文章に見える。それが絵文字を使用すると、相手に直接ストレートに刺激しない効用がある。

しかし、この流行が女子中心に広がり、外国人含めて全体7割5分までこの傾向を受け入れている。日本人が、漢字からカタカナ、ひらがなを作り出した心情に似た、相手にふんわり伝える伝統がここでも感じる。そして、日本人の新しい造語能力が発揮されているように見える。

昔人間のせいか、私は絵文字の使っていません。それで、気のチが伝わるなら、それもいいとは思いますが、それがずっと残るものなら使いたいが、いつか消えてしまうなら、あえて使うに及ばず、とおいう気分である。

Higuchi_ichiyouAkiko_and_tekkan_yosano 樋口一葉と与謝野晶子の写真が、高校の社会科の教科書にのっていた。それが、樋口一葉は和装で、与謝野晶子は洋装だった。それを昭和30年代に見て、樋口一葉は和装はそのとき見ても古びていないのに、与謝野晶子の洋装は陳腐に見えて、時代に耐えられる和装の勝ちだと思った。そのとき、そういう感性を私は持った。それ以来、そういう見方で、不易流行というか、時代の流れを見てしまう。

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2010年8月26日 (木)

収容所から救われたユダヤ人Ⅲ

5215 イレーネは、ゲーツ収容所所長の愛人である。プワシュフ強制収容所の所長アーモン・ゲーツは、戦争が終わったあと翌年裁判があり、1万人のユダヤ人殺害に関与したことで、衆人環視の下で絞首刑になった。

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5218 愛人イレーネは、殺人に関与していなかったのか、イギリスで住んでいた。1983年、イギリスのテレビ局にインタビューを受けている。そこで、アーモン・ゲーツの行いについて語っている。

「ゲートは楽しみのために人殺しをしたわけではないわ。プワシュフ(強制収容所)は、アウシュビッツ(絶滅収容所)とは(内容が)違うわ」
5178当時のゲーツ所長自宅 

記者:プワシュフ収容所からも多くの死体が見つかりましたがそれをどう説明すのですか?
「I do'nt know, わかりません。I do'nt know, わかりません」と答えたが、このインタビューの翌日、彼女は自殺した。

 絶滅収容所 
Lrg_10213539  ドイツ国内には既に戦前からダッハウやザクセンハウゼンなどの強制収容所が存在した。ユダヤ人だけでなく、ロマ人(ジプシー)その他の人々が収容され、収容者はのべ20万人を超える。
 1942年から絶滅を目的としたアウシュヴィッツ=ビルケナウ、トレブリンカ、マイダネク、ベウジェツ、ソビブルの収容所が完成し、ゲットーや占領地域から多くのソ連人捕虜・ユダヤ人が送り込まれた。

Auschwitz  アウシュヴィッツ強制収容所には大規模な軍需工場が付置され、多くの付属収容所を従えた一大生産基地を形成していた。その他の多くの収容所は僻地(へきち)に建設され収容者数も多くなかった。ラインハルト作戦と呼ばれるポーランド=ユダヤ人絶滅作戦に沿って作られた収容所ではほぼ全員が直接ガス室に送り込まれたとされる。とくにトレブリンカ強制収容所の犠牲者は群を抜いて多く、およそ90万人がそこで殺されたという。

 所長アーモン・ゲーツの愛人イレーネの自殺した十年後(1993年)、映画「シンドラーのリスト」が公開された。イレーネの娘モニカは、60代半ば過ぎの年齢であるが、映画「シンドラーのリスト」を映画館へ行って見たそうだ。

5221 映画館へは観客の最後に入って見たという。自分の血につながる父親のやったことを知って、頭が痛くなった。その痛みは、一日経っても治まらなく、三日間続いた。医者に診てもらっても原因が不明だった。

父のやったことを知りたくて、彼女は収容所の体験を語る活動を行っているヤン・サンスキーさんを訪ねた。ヤンさんは、モニカを見て驚いた。モニカにゲート所長の姿を感じて、まるで足が地面にめり込んでいく気持ちになり、即座に会うのを拒否した。

その後、何度かモニカは訪ねて行き、ヤンさんはモニカの様子を観察して、すこしずつ理解してくれた。そして、ヤンさんは、モニカに多くの事実を教えてくれた。

5225  恐ろしい事実を知り、その事実に後ずさりしたが、モニカは知りたがった。イスラエルに、三年間に二度訪ねた。孫の名前をユダヤ風にデビットと名づけた。モニカとヤンは、少しずつ距離が縮まり、「モニカ」「ヤン」と呼び合うようになった。

関連記事  ドイツ収容所から救われたユダヤ人Ⅱ ドイツ収容所から救われたユダヤ人Ⅰ  いかにヒットラーとなりしか(青年期) ナチスヒットラーが日本にいないか。 2月大雪 叛乱軍とくれば、国民の鬱憤

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収容所の体験を語る活動をしているヤン・サンスキーさんが語っ他エピソード一つ紹介する。

 収容所にいたスパイによって、14歳少年が「ソ連の歌をうたう」と密告され、処刑されることになった。収容所の人が集められて、みんなが見ている前で、
「つるし上げろ!」とゲート所長が命令、
子供のつるし上げられるのを見せられた。
子供は台の上に上がって
「ご主人様、お願いです。僕を生かしてください」
と言ったが、つるし上げられた。彼は暴れて紐が切れて落ちた。
子供はもう一度、つるし上げられた。「殺さないでください」ともう一度懇願したが、実行されてつるしあげられた。子供が暴れたので、紐は再び切れた。
その子は、また落ちた。三回紐も切れた。
 子供は三回命乞いをしたが、最後、ゲート所長は
「誰がコツをつるしたんだ。次に紐が切れたら、お前も一緒につるすぞ」と言った。そして、確実にその子はつるされた。

 ゲート所長は、その子が死んでいるのに、顔に何発か銃弾を打ち込んだ。

「モニカと話したあと、私は彼女を抱きしめたよ。言いたいことは、何もない。何もない。彼女に言った。『君に罪はない。何も、君のせいにはしないよ』憎しみや争いごと抜きで、こんな風に出会えたのは、きっと神のおかげだと思うと言って、二人は抱き合って、泣きながら駅まで歩きました。」

これで、ドイツ人とユダヤ人が和解していけたら、と思う。ユダヤの入った土地、イスラエルとの軋轢がなければ、それで終わりになる。しかし、ユダヤの入植で、アラブ、パレスチナの人々には、ユダヤの人々は大変な脅威になる。それが難しい点だ。収容所でのユダヤ人には、大いに同情を禁じえないが、アラブ・パレスチナとの問題は、どう処理するつもりか、パレスチナへ入ったユダヤ人に聞きたい。

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2010年8月25日 (水)

収容所から救われたユダヤ人Ⅱ

5196 1945年5月7日ドイツが降伏したと、ソ連兵が収容所へ知らせに来た。

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『ソ連陸軍の名により、君らを解放する』と宣言されて、ユダヤ人は解放された。どっちへ行けばいいのか、兵士に聞く収容者がいた。「東はやめたほうがいい。西もおれだったら行かない。」と、ソ連の兵士は言った。

生きて解放されたユダヤ人はかつて暮らしていたクラクフへ向かった。駅を降りてみると、ある女性が教えてくれた。「気を悪くしないで、あなたたちユダヤ人?この先で、ユダヤ人に対する暴動がおきているから、行ってはだめ親切に教えてくれたのだ

Photo クラクフ(Kraków, 独:Krakau クラカウ):ポーランド南部にある都市で、マウォポルスカ県の県都。ポーランドで最も歴史ある都市の一つであり、17世紀初頭にワルシャワに遷都するまではクラクフがポーランド王国の首都であった。ポーランドの工業、文化の主要な中心地でもある。ヴィスワ川の上流に位置し、市街地はヴァヴェル城を中心としてヴィスワ川両岸に広がっている。人口は約75万で、これはワルシャワ、ウッチに続く第3の規模である。
 第一次世界大戦を経てポーランドが独立を果たし、ポーランド領となった。
第二次世界大戦に際してドイツ軍の占領を受けた。ポーランド総督に任命されたハンス・フランクはクラクフのヴァヴェル城からポーランド22 総督府の統治にあたった。

1945年にソ連軍によって解放された。
 
近隣の都市としては、約70キロ西にカトヴィツェ、100キロ北東にキエルツェ、75キロ東にタルヌフ、85キロ南にザコパネが位置している。
クラクフ出身者
オスカー・シンドラー(映画「シンドラーのリスト」で著名な実業家。)
アーモン・ゲート(クラクフ・プワシュフ強制収容所所長)

52025204ポーランド人は、家を返すのがいやだったのだ。ユダヤ人の家に ポーランド人が住み着いて占拠されていて、それを返すのを嫌がっている。
「ユダヤ人を殴れ!」
「ユダヤ人を殺せ!」と叫んでいた。
生き残って帰ってきたら私たちは、世界の人に歓迎されると思っていたら、殺されるのか!あらゆる場所で殺人が行われていた。

52055203現場の収容所所長アーモン・ゲーツが無慈悲にユダヤ人を射殺したり、ユダヤ人が解放されてポーランドへ戻ってくると、ユダヤ人を殺せ!と叫び、占拠している住宅を返そうともせず、襲撃してユダヤ人を殺している。

強制収容所の非人間的な行為は、特定の人間だけがするのだろうか。私がナチの党員で、この立場にいたら、良心的な行動だけで済んだだろうか。ポーランド市民であったら、解放されたユダヤ人に残虐行為をしただろうか。権力、地位を得たら、たいていの人はそうなってしまうのか。私は深い疑問を感じている。

21 朝日新聞の投書欄に「私は中国で強姦をし、中国人を殺した」という趣旨の文章が載った。多くの元日本兵は口をつぐんで、墓の中へ持って行く。やむ得なかった面もあるが、勇気ある告白だ。父や祖父の代は中国で、破廉恥なことをやってきているのは聞いている。中国で撮った多くの写真を隠し持って帰ってきたとも、聞いている。人間の品性だけで、ブレーキかけようにも、これはむずかしい。

ドイツでは、ナチ党員だったり、ナチに加担した罪は非常に重いし、ナチのことを賞賛することはゼッタイにタブーになっている。ところが、日本では、ナチの格好したり、バッチを平気で集めるコレクターが日本人にはいる。ドイツではその狂信的信者は別にして、ありえない。日本人は、善悪の判定を自分の中で行って行動しているか。力士が野球賭博に染まっていく過程を見ていると、周りに流されている点で、朝鮮人(ユダヤ人)いじめの風潮があれば、それに流されるのと同じだろう。

日本は、前の戦争を反省していないから、戦争は再び起きると、私は思っている。そして、責任をうやむやにして、同じことを繰り返すだろう。それは、赤字国債を多量に出して、子孫にツケをまわしているが、その責任を誰も取ろうとしない。これも同じだ。責任の所在は発見しにくいが、それが、まず第一だ。

_5206 多くのユダヤ人は安住の地を求めた。1948年、建国されたユダヤ人の国イスラエルへ移住した。キブツの共同農場を開いて62年すごした。
最近、年を重ねるごとに、この一生は何だった廊下と思うようになった。その痛みは大きく、強くなるのです。それが老いるごとに強くなっている。私と言う人間を壊したあの記憶が強まり離れない。パンへの執着が今も変わらず、一つのパンが私にとって特別なのです。他人がパンを床に落としたら、拾いたくなります。特に黒パンは。
「もう、その記憶から解放されなきゃ」
「わかっているよ」

以上のように、イスラエルへ住み着いたユダヤ人の過去がある。それを以前に住み着いていたアラブの住人はどいういう感情をもつか、それもまた別の観点から考える余地がある。

一万人のユダヤ人の殺害に関与したとして、アーモン・ゲートは逮捕され、死刑を宣告された。 続くドイツ収容所から救われたユダヤ人Ⅲ

関連記事ご覧ください ドイツ収容所から救われたユダヤ人Ⅱ ドイツ収容所から救われたユダヤ人Ⅰ  いかにヒットラーとなりしか(青年期) ナチスヒットラーが日本にいないか。 2月大雪 叛乱軍とくれば、国民の鬱憤 杉原千畝の決断 TVドラマ 

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2010年8月24日 (火)

収容所から救われたユダヤ人Ⅰ

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ヒットラーの「わが闘争」に書いてあるのは、ドイツ民族至上主義である。1933年1月30日にアドルフ・ヒトラーのナチス党がドイツの政権をとると、ドイツ民族至上主義から、ドイツ国内の52万人のユダヤ人に対する迫害が始まった。

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自叙伝「我が闘争」で、ヒトラーは、ユダヤ人に対する憎しみや、政権につけば直ちにユダヤ人を政治や文化社会から追放する心づもりを述べている。これがドイツ民族至上主義の始まりである。 

5162 ナチス政権が誕生すると、まずユダヤ人の思想家や科学者が大量に国外へ脱出した。1933年には、国家公務員法、医療法、食料法などが改正され、ユダヤ人は公務員や医療、農業に従事できなくなった。
 次に1935年にニュルンベルク法が制定され、8分の1までの混血をユダヤ人と規定し、公職は追放、企業経営は禁止、ユダヤ人の市民としての生活権を否定した。

5158 1939年9月、ポーランド侵攻直後から、ユダヤ人のドヤ街(ゲットー)への囲い込みが始まった。
1940年6月頃、Bゲシュタポ・4課(ユダヤ人問題担当)親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンが就任、「ユダヤ人問題」は、労働に耐える者は過酷な軍需産業に従事させ、死亡させる方針がとられることになった。
1941年だけでも、ワルシャワ・ゲットー住人の十人に一人(4万3千人)が腸チフスなどで死亡。
1942年7月19日 ヒムラーは強制移送の命令、ゲットー住民30万人が強制収容所へ移送。
5152 1942年9月、ポーランドのゲットーで反乱、ドイツ軍により鎮圧。首謀者は処刑または強制収容所送りとなった。ドイツ政府はこれを「東への移住」と呼んだ。
1943年4月19日よりワルシャワ・ゲットー蜂起に対する掃討作戦が行われる。

1944年、ユダヤ人社会は、ほぼ全て殲滅。ポーランドではユダヤ人の約90%、フランスでは25%が殺害。5月にヒトラーは、演説で「ドイツ国内と占領領土におけるユダヤ人問題は解決した」と豪語した。

5151 映画や写真でトラックにユダヤ人を乗せて行くシーンは、オーストリアにあるユダヤ人収容所(強制労働所)2 収容所 へ収容されるシーンだ。時局がドイツの不利な状態になると、かの有名なアウシュヴィッツなどの絶滅収容所へ送りこもうという計画が持ち上がった。一般強制収容所など手ぬるいものから、絶滅収容所に変わっていく。

_5164 一般強制収容所の廃止に伴い、フワシュフ収容所も廃止になるということが、シンドラーの工場を支えていた人ににも伝わった。収容所のユダヤ人には絶滅収容所行きは死を意味する。それをユダヤ収容者やユダヤに同情的なドイツ人によって、シンドラーの工場が戦争のためには、欠くべからざるものだからということで、フワシュフ収容所の所長のユダヤ経理秘書が、シンドラー工場の生産可能な製品のレポートを提出した。

5187 相当の張ったりであろうが、武器から軍需品を分厚い報告書で収容所ゲート所長を納得させた。この収容所は残そう。そこで、絶滅収容所送りを免除する「労働者の名簿」を収容所所長あてに出した。この名簿が「シンドラーのリスト」である。

ドイツを日本に置き換えると、ユダヤ人は、まるで戦前の朝鮮人、中国人に対したような態度で接している。これらの事実を理解しようとしても、わからない。なぜ、そこまでドイツ至上主義で、ユダヤ人を差別して排除しなければならないのか、理解できない。(今そんな人はいないだろうが)朝鮮人を差別して、朝鮮人を侮蔑した戦前の日本人の心情を理解しろと言われても説明できないのと同じかな、と思ってしまう。チマチョゴリを見ると苛めたくなる人たちにとっては、理屈ではないのかも。

オースリアの地を我が物よう闊歩したドイツ人たちは、数多くの強制収容所をオーストリアに置いた。900~1000箇所。そのなかで、クラクフの郊外にフワシュフ収容所の話が、シンドラーの工場のある収容所である。

5157 ユダヤの人にとっては、収容所に入れられたら生き延びるのが困難であることは知られていた。フワシュフ収容所は、約一万人のユダヤ人が収容され、石材や軍服の製造をしていた。そして、周囲には、その労働力をあてにして軍需特殊の工場があった。

収容所のゲート所長は映画「シンドラーのリスト」では、作業現場に現れて、気分にまかせてユダヤ人収容者を射殺して、顔色変えずに去っていく。

5170 また映画「シンドラーのリスト」では、収容者の作業状況が見える自宅のバルコニーからスコープつきの銃で怠けているか、動きの悪い収容者を撃っている。

5179 当時17歳だった女性は、野菜を配る仕事をしていたが、ゲート所長宅で見たシーンでは、所長は飼っている二匹の犬を訓練するために、ユダヤ人収容者を立たせて、犬に肉を食いちぎらせていたという。

 ナチの行為を告発する会の会長が語るのは、
 収容所にいた14歳少年が「ソ連の歌をうたう」と密告されて、収容所の人が集められて、みんなが見ている前で、「つるし上げろ!」とゲート所長が命令、子供のつるし上げられるのを見せられた。
子供は台の上に上がって「ご主人様、お願いです。僕を生かしてください」と言ったが、つるし上げられたが、暴れて紐が切れて落ちた。子供はもう一度、つるし上げられた。子供は「殺さないでください」ともう一度懇願したが、実行されてつるしあげられた。子供が暴れたので、紐は再び切れた。その子は、また落ちた。三回紐は切れた。
 子供は三回命乞いをしたが、最後、ゲート所長は「誰がコツをつるしたんだ。次に紐が切れたら、お前も一緒につるすぞ」と言った。そして、確実にその子はつるされた。
 ゲート所長は、その子が死んでいるのに、顔に何発か銃弾を打ち込んだ。

5214 収容所内の労働より、近所の工場へ出て働いたほうが安全であり、監視がない分安全であった。そういう工場で働けるように、ユダヤ人の知恵で、クラクフの郊外にシンドラーの工場を作らせた。ユダヤ人が資金を融通してやり、工場の物件を探し、生産品は軍需製品を主体にはじめた。最初に受注したのは、大量の手榴弾であった。

ユダヤ人の生き残り作戦のおかげで、クラクフの郊外にフワシュフ収容所の4割が生き延びた。ほかの収容所のユダヤ人がほとんど殺されたのに。それは、戦後65年たった、今年シンドラーの工場が博物館に生まれ変わると言う式典があって、その挨拶で明かされた。

5146第二次世界大戦時のナチス・ドイツによるユダヤ人のホロコースト(虐殺)の中、ドイツ人実業家オスカー・シンドラーが労働力の確保という名目で、ユダヤ人1,100人以上彼は安全な収容所に移動させていく。

シンドラーは、事業家であるが、ユダヤ人を雇う条件でユダヤの資本家などの応援を得て、食器工場を買い取り、軍需工場を経営していく。彼はどちらかといえば、ユダヤに理解がある善人だけど、操られている観がある。

シンドラー夫人のエミリエは本作「シンドラーのリスト」について「ユダヤ人をあくまで労働力としかみなかった夫を美化している」とコメントしている。2001年10月に94歳で死去。

関連記事ご覧ください ドイツ収容所から救われたユダヤ人Ⅲ  ドイツ収容所から救われたユダヤ人Ⅱ ドイツ収容所から救われたユダヤ人Ⅰ  いかにヒットラーとなりしか(青年期) ナチスヒットラーが日本にいないか。 2月大雪 叛乱軍とくれば、国民の鬱憤

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2010年8月23日 (月)

日本人は「戦争」を選んだ加藤陽子

20 日本人は、どんなキモチで「戦争」を選んだのか、そして、昭和16年12月8日を迎えたのか。はどう考えたのか。戦前の大人の考えを知利他いと思っていた。

靖国神社でのぼり立てて行進する人たちのように、「強い日本」を押し立てて、アメリカの介入をとんでもないと思っていたのだろうか。

加藤陽子の書いた本では、どういっているのか、気になっていたから、図書館に依頼しておいたら、借りたい人は30人いたから、なかなか順番が回ってこなかった。借りる予約いれていたのを忘れていたら、図書館から用意できたので、借りにくるようにとメール連絡があった。

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加藤 陽子(かとう ようこ、1960年10月 - ):日本の歴史学者。東京大学教授。専門は、日本近代史。博士 (文学)。戸籍名は野島陽子だが、論文等では旧姓の加藤に統一している。埼玉県大宮市出身。夫野島博之は、東大文学部卒、元駿台予備校・現東進ハイスクール日本史講師。

1979年 桜蔭高等学校卒業
1983年 東京大学文学部卒業(第二類 国史学専修)
1989年 東京大学大学院人文科学研究科国史学専門課程博士課程単位取得満期退学、山梨大学教育学部専任講師
2007年 東京大学大学院人文社会系研究科准教授
2009年 同教授

1960年生まれ、太平洋戦争が終わって15年後の生まれ。戦争の実感から遠い存在だから、悲惨と痛みから離れて見られて、歴史研究には都合がいいかも。専門の「近現代史」、「戦争」を考えるとき、国の都合、国の力学関係等、軍事的な面を客観性をもって見られるのだろう。

 大学の先生が、(神奈川県)栄光学園の中学1年から高校2年までの約20人を相手に5日間、延べ25時間、授業で考え、まとめた。ここの学校は、人数が少ない学校なのに、東大合格者が多いと言う意味では、質の高い生徒が多い。
 戦争を直接知る世代が少なくなるなか、「当時の人の立場に自分を置き換えて考え抜き、日清戦争から太平洋戦争までの半世紀ほどの国内外の動きを扱った。」と語る。

終戦直後の「反戦平和教育」一本の史観とは違う見方をしているように見える。当時の政府の考え方や立場にも一定の配慮しながら、現代の人にもわかる見方を示している。読みやすいが、この本を自分の授業を中心にまとめているから、文章に饒舌さがある。要点をビシビシとまとめて書いてあるとわかりやすが、なんか散歩しなから説明している。

Tky200908060188 加藤 陽子(かとう ようこ、1960年10月 - ):日本の歴史学者。東京大学教授。専門は、日本近代史。博士 (文学)。戸籍名は野島陽子だが、論文等では旧姓の加藤に統一している。埼玉県大宮市出身。夫は東大文学部卒、元駿台予備学校・現東進ハイスクール日本史講師の野島博之。
1979年 桜蔭高等学校卒業
1983年 東京大学文学部卒業(第二類 国史学専修)
1989年 東京大学大学院人文科学研究科国史学専門課程博士課程単位取得満期退学、山梨大学教育学部専任講師
2007年 東京大学大学院人文社会系研究科准教授
2009年 同教授

1930年代を主に探求している研究者だ。政策の決定過程について新資料を駆使しながら新しい境地を開いてきている。だが、戦争犠牲者のことを柱に据えて戦争の全体像を描くという研究姿勢でない。日本近現代史の通史の中の一冊なのだから、その点、不満が残った。南京大虐殺についても、南京事件があったという程度で、日中戦争の叙述では避けて通れない重い問題を完全にパスして、政策決定過程に叙述が集中する。今の政治的な立場、左派でないから、批判的な目で見られている。山上俊夫・日本と世界あちこち

「なぜ福沢諭吉は日清戦争に賛成したか」など、生徒に対して、政治家や国民の認識を推測させ、また戦後生まれが人口の4分の3を超えた日本でも、「当事者の体験談のような形でなくても、伝えられることはあると感じました」。
 
「なぜ福沢諭吉は日清戦争に賛成したか」と、生徒に対して、政治家や国民の認識を推測させ、また戦後生まれが人口の4分の3を超えた日本でも、「当事者の体験談のような形でなくても、伝えられることはある」。
 たとえば、9・11後に「テロ掃討作戦」をとった米国と、日中戦争時に「(蒋介石の)国民政府を相手とせず」と、軍事的に掃蕩作戦を進めた。両者を比べると、「相手を、国内で不法行為を働く悪い人たちとして、取り締まる覚で武力行使した点で共通する」という。
 また、「日本の戦争責任について、戦後64年経っても、十分に議論されていない」。この議論の行き詰まりを突き崩す鍵は、戦争の悲惨な記憶がない若い世代にある。

 「戦争に関する歴史を学び、多くを考えておくことは、将来何かを選択する場面で、きっと役に立つはず」

加藤陽子の歴史観は、戦後、ずっと日教組が主導してきた平和教育史観とは違うし、扶桑社から出している教科書の旗立てて行進する靖国史観とも違う。加藤陽子はテレビへの露出が多くなったから、影響力が大きくなるだろう。多分、これからは、戦争を知らない人たちは、戦争の残虐さをしらないから、この傾向になる。

TBS日曜日のサンディモーニングのコメンテータに出ていたが、まだ慣れていないから、慎重で、コメントがまだ面白くない。あたり触らずの、まだ様子見だ。爆問学問で爆笑問題が突っ込んでも、知識はこの近現代史の知識はあるが、面白さはどこまで出せるかね。

31dafe6a24036b0a これって、日本通としてアメリカの大使ライシャワーの日本歴史書と似ている。歴史だけど、科学的に分析手法が似ている感じがする。

エドウィン・オールドファザー・ライシャワー(Edwin Oldfather Reischauer, 1910年10月15日 - 1990年9月1日):アメリカ合衆国の東洋史研究者である。ハーバード大学教授。1961年(昭和36年)~1966年(昭和41年)まで、駐日アメリカ大使を務めた。大使退任後はハーバード大学日本研究所所長として歴史に限らず日本研究を推し進め、後進の指導にも尽力した。

征韓論から太平洋戦争まで 加藤陽子

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2010年8月22日 (日)

居酒屋 マリア・シェル薄幸な女

Gervaise3sss 「居酒屋」という古いフランス映画を見た。フランスの映画だけではないが、ハッピーエンドの結末を期待していると、うっちゃりを食う。高校生ころ見た記憶はあるが、ストーリーは複雑だから覚えていないが、主人公の女性(マリア・シェル)が洗濯場で組んずほぐれつの大ゲンカのシーンだけは記憶に残っていたが、他の部分はまるで覚えていない。

薄幸な女を演じたら、マリア・シェルの右に出る人はいない、そんな印象を抱かせる。薄幸だからといって、暗くないし、惨めな印象より愛おしさがある。

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Mariaschellizakaya1sss マリア・シェル(Maria Schell,1926年1月15日 - 2005年4月26日):オーストリア・ウィーン出身の女優。父親はスイス人作家、母親はオーストリア人女優。弟のマクシミリアンも俳優。

51355129同棲している男はモテ男、①ランチエだから、近所の女性の家に泊まっての朝帰りで、近所の 女どもは知っていて「旦那はいるか」とか、探りをいれてみたり、旦那を引き入れていた女が洗濯場にきて、マリアと鉢合わせ、そこで「泥棒ネコ!」というと「籍もいれないで、女房気どり」とやり返す。

5126ジェルヴェーズ(マリア・シェル)は足を引きずるが愛らしい女だから、男に好かれる。マリアがその女とケンカしている間に、男が出て行ってしまう。次の男②クポーは、前の男と違って、屋根のペンキやでまじめ。結婚してみてわかったことは、シブチンで生活費がないくせに酒好きだった。

お金がないから、クリーニング店を始めるために資金が必要だが、セッセとお金を貯めてようやく店が持てると思った時に、夫は屋根から落ちて、骨折してしまった。

薄幸の運命を背負った女ジェルヴェーズ(マリア・シェル)の半生を描いた作品。①ランチエ、②クポー、③グジェという3人の男の間で苦悩する主人公。貧乏と愛情の間で苦悩。時代と男女間というか、女の性が良く表現できている。

5138 イロ男①ランチエと別れ、屋根職人②クポーと子連れで結婚した女ジェルヴェーズ(マリア・シェル)、屋根から落ちる大怪我でそれを機に酒びたり、仕事もしない自堕落な男へと変わる。 洗濯屋をはじめようとしてお金をためていたが、夫の入院費ですかり店を借りる資金がなくなる。洗濯屋をはじめる資金を援助するとジェルヴェーズに優しい手を差し伸べる③グジェ。

優しい③グジェへと心を傾きかけるジェルヴェーズ。 そんな時、別れた内縁の夫であった①ランチエが舞い戻る。 夫②クポーは①ランチエを一緒に住まわせ、奇妙な共同生活を始める。三人の男に愛情を持ちつつ、アルコール依存症の夫②クポーは店のお金を持ち出して飲んだくれ、店を壊す大暴れ、二人の男も去っていく。働けるようになった長男も出ていく。そして、夫②クポーは病状が悪化、そして死。

ジェルヴェーズ(マリア・シェル)は、夫と共に生き甲斐を失って、居酒屋で飲んだくれる。それを5、6歳の末娘のナナが母を探して、店の中をのぞく。ナナは、憔悴しきって居酒屋で酒に溺れる母親ジェルヴェーズを見つけるが、母を残し店を出る。

ジェルヴェーズが、男運に恵まれないが為に苦労する女の生き方を19世紀のヨーロッパ社会に合わせて描く。演じるマリアシェルを見ていると、「悲しい」ではなく、「哀しい」という文字がぴったり来る。

娘ナナは、キャンディを店の人にもらい、リボンをもらう。ナナは、首にリボンを結びパリの裏街の通りで近所の男の子の目を惹きつけ、女の片鱗を見せる。ラストシーン。この "ナナ" というのが、次の映画に登場するジェルヴェーズの娘、 『女優ナナ』 。

余韻の残るいい映画だった。
高校生のとき、町の映画館(旭座)へ夕方6時頃行って、9時過ぎこっそり帰ってきた。一人で行って、一人で秋の冷え切った町を帰って来るのは、映画の余韻がシーンとした町の雰囲気と一緒になって胸に痛かった。いまどき、こんな映画の鑑賞ってないだろう。高校生の日常って、案外孤独で切なかった。分かる人と話がしたいものだ。

歌は岩崎宏美の「雪が降る」ですが、マリア・シェルのイメージを伝えているので、紹介します。

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2010年8月21日 (土)

水木しげる腕失ったニューブリテン島

5089_2 「勝った勝った、また勝った!」と調子よかったのは、
昭和17年(1941年)の6月のミッドウエィ海戦で、日本海軍がぼろ負けになるまでであった。
 日本では、すくなくとも一年間はアメリカ・オーストラリア・英国の連合軍の体制が整わないと思っていた。
 フィリピンからマッカーサーを追い出し、
あの有名な「I Shall return!」「再び、フィリピンを取り戻し必ず戻ってくる」といって、フィリッピンを日本軍に渡した。日本は、問題のニューブリテン島を防衛の最前線拠点にした。

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開戦から半年後、連合軍は体制を建て直して、軍事的に整ってきた。日本海軍はほとんど無傷の状態であったから、今のうちにアメリカ海軍の粉砕をと、ミッドウェー海戦が行われた。

ミッドウェー海戦第二次世界大戦中の昭和17年(1942年)6月5日から7日にかけてミッドウェー島をめぐって行われた海戦。同島の攻略をめざす日本海軍をアメリカ海軍が迎え撃つ形で起こった。
 日本海軍は機動部隊の中核空母4隻とその艦載機を一挙に失う損害を被り、これ以降空海の主導権を失った。アメリカ海軍もまた、空母1隻と多数の艦載機を失い、ミッドウェー島の基地機能に打撃など、損害を出している。

5090_2  現在のアメリカ空母(搭載機は含まれない)は、約5000億円と言われている。当時、日本の空母も時価で考えれば艦載機含めて1兆円、それくらいの費用はかかっているはず。
 それを一気に、空母4隻ほか駆逐艦など多数失
っている。ミッドウエイの敗戦では、私の概算では(人的損失は含まないで)4兆円の一気に損失した。
 戦艦大和は、当時1億3780万円。(現在の価格、概算で3兆円)この「戦艦大和」一隻分の費用では、東海道新幹線全線が完成できる、と言われる。それを一回の出航で撃沈された。大損失・・・
負け戦の、戦争は。バカバカしいほどの損害である。

5103  水木しげるは、昭和18年にニューブリテン島ラバウルへ送られた。
 この劣勢になっている日本海軍は、兵員や武器、食料を送り込もうとして、開戦以来残っていた虎の子空母瑞鳳をおとりにしてアメリカ軍の目ひきつけていたが、制空権のない日本には、その作戦もあまり効果がなかった。あたら、このおとり作戦で、空母瑞鳳を失ってしまう
水木ズンゲン証言(NHK)

ラバウルからズンゲンへ兵員400名を送って、連合軍の上陸に対して抵抗しようと考えた。その10倍の連合軍に物量の少ない日本軍の戦い方は、遊撃戦(ゲリラ作戦)しかないと思っていた。

 

5101  ズンゲン支隊長は士官学校出の若い成瀬少佐だった。背丈が高い美男子で、生真面目な人だったという、部下の評価だ。
 敗戦を重ね、多くの有能な指揮官を失い、日本軍には歴戦の隊長は少なくなっていた。ここに来たのは、実戦経験がない少佐だった。
机上の資格としては、27歳、少佐、士官学校出の適任だった。、
司令部かの指示を忠実にこなしていまじめな指揮官だった。。

 

5093  連合軍は味方の10倍、4000人以上で、武器弾薬が豊富だ。部隊に指示されていたのは、敵の進行を止める役目であった。
 食料を担ぎ上げ、武器も分散して、遊撃隊、つまりゲリラ戦を展開することで、味方の消耗を防ぎつつ、敵の進出を日本軍の戦いやすい場所へ誘導する作戦だった。あるとき、司令部に上級参謀(少将)が戦線視察にきた。

 

_5104  視察を終えた上級参謀が、新任の成瀬少佐支隊長に「ここは死守だな」と言った。成瀬支隊長は「死守」を命令だと理解した。
 「遊撃」から「死守」に変更されたと受け止めた。この「死守」というのは、勝ち目がなくても、敵の進出を死んでも止める戦いだと解されている。

 

5117_25120  成瀬少佐は、連合軍(オーストラリア軍)の前にいくつかの砦を築き死守する戦いを考えていた。
 それを連合軍が攻撃して日本軍の守る砦を落とす。時間を稼ぐのが死守になる。日本軍が一発打つと、連合軍(オーストラリア軍)は、そのあたりをマシンガンで数百、数千発打ち返す。日本軍は一発打っては、逃げていた。それでは効果ないから、死ぬ気で銃剣を持って敵陣地に飛び込み刺して撃つ。死ぬのは覚悟で夜襲するしか手がなかった。

 

5068  その日は、敵は朝6時から、砲弾を雨あられのように夜7時ころまで撃ち続け、その結果、ジャングルの木はなくなり、根元まで日が射すような場所に変わってしまっていた。
 ニューブリテン島は九州と面積が同じ位の広さの島で、南半分から2/3は連合軍が占領していて、北東にラバウル中心に日本軍10万が温存されていた。

 

 日本軍は陣地砦が落とされて、残るは一つになったとき、成瀬支隊長は、「死守」するには、死をもって(玉砕)その役目を果たすのが軍人のやり方だと思っていたようだ。「軍人の美学」と信じたのか、それを部下に命令し、ラバウル司令部に電文を打った。

 

Z5030  成瀬支隊長の玉砕方針に対して、実戦経験のある部下児玉清三中尉中隊長らは、その方針に反対した。実践経験の少ない成瀬支隊長は、歴戦の児玉清三中隊長の意見を抑えて、「全員一致で玉砕」という行動を取れなかった。
 児玉清三は中国の歴戦の37歳でズンゲン中隊250名。部下は4小隊各50名。
成瀬支隊長は、ベテラン児玉中隊長には遊撃行動の別行動を許した。

 

 成瀬支隊長率いる玉砕グループと経験豊富の児玉中隊長の遊撃隊にわかれていた。成瀬支隊長は、ラバウル司令部へは、「ズンゲン支隊は全員玉砕で突っ込む」と電文を打った。
 
水木しげるは、遊撃隊の児玉中尉の部下50名に含まれていた。が、連合軍からの連日の爆撃で被爆して、腕を負傷し、切断手術で入院中であった。

 

5123  成瀬支隊長の電文 司令部宛
「ズンゲン支隊は、今夕を期し敵陣に切り込みを敢行する。今日までのご支援、ご協力に感謝する。在ラバウル十万の将兵のご健闘と武運長久を祈る」

 

成瀬支隊長の部下には不平不満があった。
「ラバウルには、まだ10万の将兵が無為徒食している。」
「なんでズンゲン支隊が玉砕、犠牲にならなければならないのか。ラバウルから500名でも、1000名でも、逆上陸して連合軍を攻撃してくれたら、戦況が変わる」と、思っていた。が、そんな愚痴を一切いわないで、成瀬支隊長葉電文を終わらせている。

 

 参謀本部の考え方は、戦闘持続には、今一切無駄な兵力の消耗、武器弾薬の無駄をしたくなかった。本部の方針としては、一貫してズンゲン支隊への支援はしなかった。

 

5039  この電文がラバウル司令部の参謀に手渡されてから、大騒動になった。
「この玉砕判断は早すぎる」という点で一致していた。成瀬少佐支隊長の独断を止めようと、参謀たちが集まって会議を開き、成瀬支隊長の軽挙に止めるように電文をまとめ打とうとしたが、すでに電信設備を破壊したあとで、手の下しようがなかった。

 

 成瀬少佐支隊長は玉砕の行動を進み、遊撃隊の児玉中隊長も進んででいくが、途中で児玉中隊長がマラリアを発症して高熱で動けなくなった。部下が児玉中隊長を交代で担いで進んだが、
「俺を殺す薬はないか?」と付き添いの衛生兵に頼むが、「ない」と答えた。「では、オレを置いて、先へ行ってくれ」と自軍を先に行かせ、しばらくすると、ピストルの音が聞こえ、児玉清三中隊長は自殺した。(衛生兵だった人の証言)

5060水木しげるは、このとき同行していれば命があったか、わからない。連合軍の朝から晩まで雨あられの砲撃で腕を飛ばされた。それゆえ、病院とは聞こえはいいが、後方で麻酔なしで左腕を切断手術を受けていた。その間に、遊撃隊指揮の児玉清三中隊長は、命を絶っていたのである。

 若い士官学校出の成瀬支隊長の方針に対し「こんなところで死ねるか」と不信感を持っている人が隊から離脱して、隊の荷物を隠してある場所(砦)へ行ってみると、自分一人だと思っていたら、次々に離脱した兵が集まってきた。

 遊撃隊成瀬支隊長の下の分隊長クラスにも不信感があった。前夜のうちに分隊長が兵士(山口)の耳元で、「明日の朝、第一回攻撃が成功したら、今座っているこの位置へ集合しなさい」と指示があった。「隊から離れた所に集合とはおかしいと思った。これはひょうっとして死ななくてもいいことになるかも」と感じた。

 玉砕覚悟の成瀬支隊長はオーストラリア陣地を見つけ、突入して戦死したが、玉砕方針に反対していた他の分隊長たちは戦線から離脱した。

S5032  成瀬支隊長の電文のとおり、ズンゲン支隊は「玉砕」したと新聞発表された。
 ところが、数日して、生き残ったズンゲン支隊の玉砕し損なった兵士がラバウルを目指して戻ってきていると連絡が司令部に届いた。
 この生き残り150名いたが、そうすると、「玉砕」という報告は天皇にも伝えられているから、これらをどうしたらいいか、参謀本部では大慌てになった。

 そこで、「玉砕」としたはずの兵隊が生きて戻ってきたら、司令部は困るわけだ。人権がないがしろにされていた時代の国民、兵士は「靖国神社でまつられる」ということで、納得していた。現代の感覚からいえば、靖国で納得できないから、金を払うことになる。それをはっきりさせたら、あまりに露骨だが、戦死の代償はそういうモノだろう。

「死して虜囚(捕虜)の辱めを受けず」
 軍人訓にあり、それで玉砕という手段に訴えてしまうのが、ごく当然であるという常識が作られてしまった。罪つくりな「軍人訓」だ

5114_25115_2  その当時の司令部はアメリカ連合軍をひきつけて、日本本土への襲撃を阻止しようとしていたが、アメリカ連合軍は、ラバウルを含むニューブリテン島では戦わず通過して、フィルピンへ攻撃の主体を置いていた。ここで戦うのは無駄という判断をしていた。

51245070 ところが、玉砕したはずの兵が生きていたという理由から、司令部は、彼らを編成して、激戦地で消耗してしまう気でいた。
 8月15日に終戦まで、隔離収容された状態で、彼ら150名は命が残った。それまでは、体面上の「恥」であった。

 この『玉砕』兵士の処理についての考え方は、終戦65年たった今も、参謀本部にいた人は、その当時の基準を固持している。人間の教育は身についたら、新しい基準を受け入れることは不可能に近いのかもしれないが、兵士の人権は靖国に祀ればそれでいいのだろうか。命が軽い。

戦争の基礎知識:
水木しげる腕失ったニューブリテン島
水木しげる ゲゲゲは滑舌から名付け:

関東軍 機密費戦費まかなう阿片 
ポツダム宣言 阿南惟幾VS東郷茂徳 
反東條運動 松前重義に報復人事 
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インパール作戦 陸軍の良心宮崎繁三郎 
橋本艦長 回天出動せず 真夏のオリオン 
太平洋戦争 開戦から学徒動員まで 
海軍軍令部はどんな反省をしたのか 
特攻艇震洋 SuicideBoatの戦果

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2010年8月20日 (金)

元ヤンキー木下 優樹菜の芸能界活躍

Ws000001 木下 優樹菜は、島田紳介のヘキサゴンに出ていなかったら、きっと芽が出なかっただろうと思うが、彼女の突き抜けた部分が現代の世相にマッチしているから、イオンCMなどにうまく利用されている。化粧すると、外見からはこの子ががヤンキーだったなどの経歴はわかるものではない。本日の記事は『徹子の部屋』より

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09木下 優樹菜(きのした ゆきな、1987(昭和62)年12月4日 -22 歳 ):東京都葛飾区生まれ。身長は1センチ低めにして169センチと言っている。多くの背高女子は、少なめにいう人が多いらしい。最近1年で、10キロやせたという。「ダイエットしているの?」と徹子さんがきくと「そんなことは嫌いだけど、何もしないのに減った」という。病気でないければいいが。

葛飾区立葛美中学校卒業。「渋谷高等学院」終了。日本の女性タレント、ファッションモデル、歌手、女優である。歌手グループ 『Pabo』、及び『アラジン』のメンバーでもある。自営業を営む家に、3人姉妹の末っ子として生まれた。長姉は元祖ヤマンバで19歳でできちゃった婚。次姉は運動部会系姉で19歳でできちゃった婚。陽は、また昇る 歌詞 音楽つき 2008.07.17 「Hiwanata.WMA」をダウンロード

こりゃ学校教育の場ではてこずっただろうな、という不良上がりのタレントや有名人は案外多い。和田アキ子、張本勲、島田紳介、木下 優樹菜とつながっていく。芸能界やそういう激流みたいない社会で、そのツッパリが役立っているのかもしれない。学校教育でいい子はカタなしだ。「やってはいけない!」と学校でいうことをやった方がいい?そんな感想さえ持ってしまう。彼らのやることは自分の独創だが、学校でいい子は自分で考えるという習慣がないかもしれない。

優樹菜は、スカウトされ、芸能事務所に入ってもオーデション受けに行くように指示されても、やる気なさがあってぜんぜん・・・。親切な友人が、ファーストフードの二階でコンコンと3時間にわたって説教してくれて、やっと一つオーデションに行った。そこで、周り見ると、黒髪のストレートで、素直そうな子ばかりだったが、優樹菜は地で行こうと、金髪で短いスカートで厚底靴で「チョリース」風な態度で、自分のままで行ったとか。一年間の水着のモデルが、決まった。

その間に、島田紳介のヘキサゴンに出演し、里田マイ、スザンヌの歌手グループ 『Pabo』、及び『アラジン』のメンバーになり、紅白歌合戦にまで、それが数年でトントンとうまくいってしまって、シンデレラストーリーである。これは、島田紳介との相性がよかったからだろう。

Hqdefault それでも、「だるい」から寝すぎて約束の場所へ行かなかったり、迷惑かけても、いつでも辞めてやるという、辞めたってどこでも生きていけるという案外ヤンキーの女の子の独特の強気があった、と島田紳介が指摘していた。

この地位を後生大事にするまじめな生き方をする子もいれば、ツッパリの子は偶然この地位のありがたさを気づかない子もいる。トントンときているから、優樹菜は頭の中は相当知識不足だし、言葉遣いも、ツッパリ言葉だし、アレアレと思うマネーもいっぱいある。

女子バスケットのベストプレーヤーに選ばれるほどの運動のセンスは抜群だったようで、自信もあった。それが、態度が不真面目で、練習嫌いであるから、先生には、ほかのまじめに練習する子の手前、放って置けないから、試合に出させないで締め付けたりしたが、優樹菜が出ない試合でチームが勝ったなら先生の措置が正解だったが、負けちゃったから、「優樹菜が出ないと勝てないだろう」という気持ちになっていた。

小学生から続けたバスケを、突如やめて、一夜にして、黒髪を金髪にして、ピアスの穴をあけ・・・とヤンキーグループに入り、家出を繰り返すようになる。それが中学生の半ば過ぎから始まる。

金だけは、電話して親からもらっては、家出していた。親から電話すると「電話なんかしてくるなよ!」と怒鳴っていたらしい。親は、この子はもうダメだと思っていたが、1%だけはわが子の更生を信じてお金を渡していた、と母から最近聞いた。

この一二年で、親と落ち着いて話ができるようになったので、母は「優樹菜が子供生むと、私が受けた迷惑の二倍、三倍の仕返しを受ける」と言われて、「子供産むのこわい」という。

高校も全日制は辞めてしまったが、高校だけは出ようと思ったので、週3日の通信制で卒業した。いい加減でありながら、キチンとしているところはある。優樹菜は徹子さんに自分の性格を語っていた。

ツッパリでヤンキーにも、頭のいいヤンキーは、自分の行く末を見通すことのできるのがいる。ただ付和雷同型の暴力と破壊や不法行為だけで、今自分が何をしているか、さっぱりわからない下っ端の不良は始末が悪い。

塾やっているときの話だが、不良が数人集まると、その学年はまじめタイプの生徒は駆逐されてしまい、ますます不良の溜まり場になる。ある年のクラスでは、ワルの一群が集まるようになって、地域一番のボスを連れてきたから、話をしてみたらその子は、ボスになるだけの頭があり、考え方を持っている、と思った。

 中1では、進学クラスのトップに近い成績であったが、行き違いが先生とあって反発からツッパリの道に行っている様子だった。話をすると筋道の通る考えをするから、いい感じはあった。下っ端の子は、ただ感情的な行動だけだけの子が多いのに手を焼く。

 デビュー前、安室奈美恵に憧れてアクターズオーディションや、13歳時の2001年(平成13年)第5期『モーニング娘』オーディションで最終選考の9人に残るも落選。落選理由は「協調性のなさ」。この挫折がヤンキーの道へと走ったきっかけであることも語っている。

「今までの人生で一番熱くなったことは?」と質問に対しても、優樹菜はヤンキーであったことを隠さない。「中学校のときの『タイマン』」と答えている。いわゆる『タイマン1対1』でトーナメントを勝ち上がり番長になれるというルールで番長決定戦が行われたが、本人は決勝で負けたために副番長となった。『タイマン』は都立水元中央公園で行われた。

2006年(平成18年)に勤めていた渋谷109前でスカウトされ、翌2007年(平成19年)、三愛水着イメージガールに抜擢。スポンサーモデルを勤める傍ら、グラビア方面でも活動。またおバカタレントとしてバラエティ番組に取り上げられ、『クイズヘキサゴンII』でレギュラー解答者となる。

68636_200908240184120001251109174cDrop_fujimoto2009年5月に『クイズ!ヘキサゴンII』で共演しているFUJIWARAの藤本敏史との交際が報道され、同年6月7日放送の『お笑いワイドショー マルコポロリ!』内で藤本は木下と交際していることを明言した。後に、木下も交際を認めている。この件については、『徹子の部屋』では何も聞かれず、答えてもいない。

イオンCM

浴衣モデル

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2010年8月18日 (水)

北朝鮮デノミ崩壊 北政権から人民離反

01 経済破綻の北朝鮮北朝鮮は、デノミで大混乱 からもわかるように今、北朝鮮の混乱はピークに達しようとしている。韓国は、北の金正日政権が崩壊し、統一国家になったときのために、統一後にかかる負担を考えて、税金を課すことにした。

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8月15日、李明博大統領が、北朝鮮の政治体制が崩壊した場合、北朝鮮を吸収するコストを賄うため、「統一税」を示唆した。統一税構想は、北朝鮮の最終段階について、避けては通れない公的な議論を進める条件を整えるものだ。
 李明博大統領は、10年近く続いた対北朝鮮援助を終了させた。同大統領は、北朝鮮の金正日総書記に対し、核開発を放棄すればマーシャルプランのような復興支援を行うと呼びかけている。同大統領は、念のために諜報活動を再開させたほか、朝鮮半島問題について、日本や米国など同盟国に対して注意を向けさせている。3月に起きた乗組員46人が死亡した韓国軍哨戒艦沈没事件ついても、北朝鮮側の責任を追求している
ウォール・ストリート・ジャーナル

5027 また。ミ北の戦闘機グ21が中国に墜落したというが、あれは脱北の失敗だろうという予測記事が出ている。中国でも、北朝鮮が不利にになる事件事故は報道していなかったが、それを今回の事故を国籍不明としつつも、報道しているのは、中国が国際情勢を考慮にいれてきたと見る。

つまり、戦闘機の操縦士が飛び出して、脱北をする状況になっている北の国内に注目して、情報ステーションの特集「北朝鮮デノミ崩壊 揺らぐ統制と人民離反」を見た。

昨年の暮れだったと思うが、北朝鮮金正日政権は、突如用意していたデノミを実行した。単に貨幣呼称を切り替えなら、経済に打撃はないはずだが、目的がいろいろあった。

13 ①急激なインフレに対処、
②隠し資産や富裕層の不正蓄財の没収
③闇市場などへの統制を強化し、
④社会主義体制を引き締める狙い。
14交換比率:北朝鮮旧ウォンと新通貨の交換比率は100対1。
交換期限:国内金融機関で1週間以内に交換するという。
交換上限:各世帯の月の生活水準10万ウォン。(市民の「タンス預金」の封鎖、交換額を制限)

この政策は、金正日の政権交代を目前にして、金正雲への移行に先立ち、強行された。これが、半年過ぎ、多くの人は財産を没収されて、希望を失ってしまった様相だ。07


009 人民警察=保安は、やる気のある人にトラックを貸して、営業しているところへ保安員がきて、売り上げから賄賂を取るつもりで、近づくと、責任者の女性に追い払われるシーンを撮影していいる。以前の保安は権威も力もあったかあら、市民の前で恥をかくようなことはなかった。このピンクの洋服着た女性、○○清美さんのように元気がいい。朝鮮の罵詈雑言は強烈で、罵倒される警察官でもタジタジだ。

24女性は23歳のコッチェ(ホームレス)、一日ウサギのえさ雑草1キロ集めて、20ウオン(日本円で70円~80円)を稼いでいる。パン1個で25ウオンにもならない。それで、取材させてもらったお礼に50ウオン(200円)程度の謝礼を出すが、うれしいとか、そういう表情がない。喜怒哀楽を忘れているのか、知能が遅れているような印象がある。

ウサギ:子供のいる家では、ウサギを飼育が義務つけられている。ウサギの肉、毛皮を学校が取りまとめて供出する。

32002 デノミ以降、父が死に、母も最近亡くなったという。生活手段を失うと、希望がない。やる気のある人は、脱北してしまう。あるいは、保安の車を借りて仕事をしている。インテリな人は、冷静に政権の行く末を見ている。229792 「戦争でもして滅びてしまえ」と国を離れたら言えるようだ。

日本のインテリ北朝鮮ウオッチャー先生たちのできない取材は雑誌リムジンガンに載っている。リムジンガンというのは、臨津江のlこと、雑誌は2980円 イムジン川の歌

(1) リムジンガン 水清く
  静かに流れゆき

  鳥は河よぎり 自由に飛び交うよ
  南の故郷(フルサト)へ 何故に帰れぬ
  リムジンの流れよ 応(コタ)えておくれ

(2) 悲しく 水鳥は
  南の岸で鳴き
  荒れた野良(ノラ)には むなしく風が立つ
  幸せ花咲く 祖国の北の歌
  リムジンの流れよ 伝えておくれ

貨交換で両替商がはやる。これは政府は死刑を持って臨むと脅しているが、誰も言う事を聞かない。「外貨で物を売り買いする者は、死刑も含め、法的に厳しく処罰する。」と文書を配布しているが、タガが外れたように、外国人を見れば、寄ってきて両替を勧める。

中国人民元100元=1万2000ウオン
アメリカ  100ドル=8万6000ウオン

28 もう国の言うことを聞いていたら、食って行かれないから、違法のことは承知で市場経済をやっている。金正日政権の力より、市場36経済の力が勝っているということだ。このデノミ前は、市場経済社会が普及して、多少なりとも、浮浪者が減り、自殺者も減っていたが、このデノミで、急激に困窮者が増えた。

南アフリカ共和国の隣にあった国、ローデシアだったか、経済のルールを知らないでデノミをやったり、新札発行しても流通しなかったので、自国の貨幣が信用されなくなった。ドルを利用していた。

34 1960年に日本から「地上の楽園」北朝鮮に帰国した夫について行った日本人妻たち、その村には7人いたが、今5人亡くなって二人残っている。一人81歳の女性、朝鮮語は片言で、日本語も忘れかけている。左手は麻痺状態で、右手でトランプ占いを一人やっている。夫はすでに亡くなっている。「年取ったから死にたいと思うが、死ねなくて生きている」という。出身地は、香川県坂出市だと覚えている。姉は85歳だとか。

北朝鮮の今① 経済破綻の北朝鮮 黄長燁ファン・ジャンヨプ 脱北高官 来日  韓国哨戒艇 撃沈真相と北朝鮮の実情  金賢姫来日 遅れた民主党選挙対策  田原総一郎の北朝鮮観 北朝鮮核実験でお手上げ アメリカ 国連  日朝平壌宣言 捨てるより生かせ 日朝平壌宣言 平成14年9月17日 北朝鮮ミサイルを撃ち落せないか? 北朝鮮の窮状 ここまで来た 南北交通遮断した北朝鮮 末期症状

北朝鮮の今② 拉致問題 韓国と日本は共同歩調?  イムジン河 加藤和彦の自殺はなぜ 北朝鮮と日本、どっちが大切?米国よ  金正日キムジョンイルかキンショウニチか  拉致問題がよくわかる YouTube  アメリカの北朝鮮外交は失敗だ  米国は、なぜ北に金融解除するか  日本のデノミ こんな具合だった 脱北女性 人身売買の犠牲

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2010年8月17日 (火)

赤毛のアン みなし児ストーリー

4847赤毛のアン・シャーリーが、どう育ったか。虐待に近い扱いを受けたりして、それを悲しみながら、うまく野生児から学校の先生になるところまでを演じきっていた。赤毛でそばかすだらけの少女が育つ過程が面白い。人間の元になる、幼少期こそが興味引く。

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48724882 養子先の家が老兄妹という意外な家庭で、養母のマリラのオールドミスの偏屈さ、これが意地悪そうでいて、結構アンを考えてくれたり、責任もって隣りへ一緒に謝罪にいったり、勉強して女の自立を支援している。大学へ入って、一年で教師の資格を取って地元へ戻って、養母と暮らすという選択することを反対しながら、喜ぶ姿。その結構矛盾した性格を作者は描いている。この矛盾した姿が人間だから、うまく作品に収まっている。

48864887 アンのおしゃべりで想像をたくましい性格、文学的センスで周りを楽しませる天才ぶり、死んだ両親が先生だったという設定だったが、学校へいくと成績がいい。この個性が、侮辱する人には、時として、破裂して強烈に言い返す。美女ではないが、面白い。これ、日本人の女優に当てはめると「室井滋」だな。あの感じで受け止めると理解しやすい。

48684865 幼少期の才能って、大人には理解できないものだから、イギリスの片田舎と思ってみていたが、これはカナダの海べりの田舎のようだ。

『赤毛のアン』(英: Anne of Green Gables グリーンゲイブルズのアン)は、カナダの作家L・M・モンゴメリが1908年に発表した長編小説。とくに児童を対象に書かれた作品ではないが、この数十年は児童文学とみなされている。グリーンゲイブルズはアンが住むことになるカスバート家の屋号。
4881 カナダの作家L・M・モンゴメリがはプリンス・エドワード島の田舎で育った自身の少女時代も作品に投影した。
『赤毛のアン』は、孤児院暮らしだったアン・シャーリーが、11歳でアヴォンリーのカスバート家に引き取られてから、クィーン学院を卒業するまでの少女時代 5年間を描いた。モンゴメリーはイヴリン・ネスビットの写真を雑誌から切り取り、書き物机の上に貼り、主人公アン・シャーリーのモデルにした。

48494880 見たのはDVDだが、11歳で親のいない少女アン・シャーリーが、努力する姿は、けなげ。それが頑固な養い母のマリラのキツさがいい味だしている。養い父のマシューは良識ある態度で接するが、オールドミスのマリラは、しつけと称して、色気つくことをかたくなに拒否する。

48714874 ストーリー全体で193分(約3時間)あるが、この子の失敗や頑固さを見ていると、この時間が、長いとはちっとも思わなかった。明治一代女の理解しにくさはかんじなかった。イギリス社会の1800年代~1900年を描いた「誇りと偏見」の田舎暮らしににているが、単純化された家庭を見ていたが、キリスト教が日本の仏教のようにしみこんだ景色がある。

4898_24907 まるで小学生時代に「家なき子」「家なき娘」「小公子」「小公女」を読んでいた、あの感覚を感じた。講談社少年少女世界名作を競って読んだときの感覚がよみがえった。

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2010年8月16日 (月)

靖国神社周辺の変貌先鋭化

46794669_2愛国心を発揮して声を出し発言するのは結構だが、相手を否定して、罵倒するのは頂けません。相手の話をしっかり聞いて、主張の根幹をしかり受け止めたいと思っていますが、主張がマスコミに取り上げられる機会が少ないものほど、先鋭化しているように見える。

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4659 私が見ている前で、警視庁機動隊によってグループの一員が連行されるシーンがあった。装甲車に連れ込まれる寸前で、それを取り返そうと、別の一員が機動隊に食ってかかると、排除されていた。近くにいた団体に「同じグループではないですか」と聞くと「私たちは暴力的な行動では運動しないから、彼らとは一線を画しています」という。

4700 今年も靖国神社は、のぼりを立てたグループが大勢いた。

4788また、旧陸軍の軍服を着た人たちが集まってきていた。しかし、昨年までいたひげの司令官風の人はいない。

Syamisenn9146 いないのは、毎年石灯篭に腰掛けて軍歌を三味線を弾きながら歌っていた人がいない。その場所をはーモニカで軍歌を吹き、隣りで歌う二人組に占拠されていた。一昨年年の写真

5868昨年の写真 昨年は、94歳のニューギニア北部へ出征した砲兵の生き残りは、今年は現れなかった。東京蒲田から来たって言っていたが、この暑さでは、今年は無理だったか。あくまでも個人の意思できて、話をしようとするのだから、毎年来るには、困難なことだ。見るほうも、元気がないと来られない。

4662_2 インターネット放送「さくら」が、ずいぶんがんばってスタッフを出して、いろんな取材をしているのが目立った。一般のマスコミは、今回民主党は公式参拝がないから、やる気をうしなっている。自民党が公式参拝というわけにいかないから。マスコミの姿勢もいい加減だ。

地下鉄九段下駅から、靖国神社までが勝負のチラシ配りだが、機動隊が多くの規制をかけているが、宣伝合戦の様相だ。
Photo_4 一番人数の多そうな のは①「My日本」の南京大虐殺 従軍慰安婦 黙っているだけでは、嘘が本当になってしまいます。英霊の名誉や誇りを貶める嘘と戦いましょう。このグループのチラシはアート紙でカラー印刷だ。

Photo_2 次にインパクトが強いのは、②「尖閣が占領の危機」という国民新聞である。狙われる国境の島 南シナ海波高し 中国人「反日」団体 上陸計画を発表 普通新聞の体裁で多量に配布。

チラシ③「民主党の本質は隠れ共産主義!! 民主党日本解体法案推進派議員を名前入りで 菅直人、千葉法務大臣、枝野幸男幹事長、岡田外務大臣、小沢一郎、それに民主党日教組議員として輿石東、横路孝弘、鉢呂(北海道4区)、神本美恵子、佐藤、辻、那谷、水岡を列挙しているが、一般にはわからない。民主党議員のようだ。

チラシ④日本ウイグル協会 ウイグルは、今、民族浄化の渦中にあります。ウイグル民族が代々守ってきた文化、言葉、宗教が消されてようとしています。その灯が消えないように、皆様のお力添えが必要です。

100 チラシ⑤日韓併合100周年記念事業 主催在特会 ~朝鮮半島を救った日韓併合の真実~100年前の日韓併合とはなんであったかを徹底検証 日時8月22日午後3時日比谷公会堂 カラー上質紙

18 チラシ⑥ ゼッタイ反対 外国人参政権 制作者:外国人参政権に反対する会全国協議会 上質紙で四折り 昨年も同じチラシを受け取った。

チラシ⑦ 中国共産党の秘密文書「対日政治工作
A基本戦略・任務・手段 
1基本戦略=わが党の日本開放の当面の基本戦略は、日本が現在保有している国力のすべてをわが党の支配化に置き、わが党の世界解放戦に奉仕せしめることにある。
2解放工作組の任務 
第一期工作の目標 わが国との国交正常化 
第二期工作の目標 民主連合政府の形成 
第三期工作の目標 日本人民民主主義共和国の樹立 
B工作主点の行動要領  
C強調せしむべき論調の方向、

Photo_3 チラシ⑦二枚目、三枚目「この地図の意味わかりますか」とあり、日本自治区と東海省に日本が二分された地図。まえから、中国共産党の内部資料には、存在すると言われていたが、見たのは初めてだ。

チラシ⑧ 主催NPO法人 日本法輪大法学会 カラー上質紙
中国共産党による法輪功への迫害の即時停止の要求 アメリカ下院へ決議案を提出  法輪功迫害を訴える運動は一番歴史が長い。写真展示も多く、初めて見る人には、刺激が強い。
チラシ⑧二枚目には、法輪功の内容広告 政治的団体とは違うという主張に見える。 カラー上質紙

チラシ⑨外国人参政権 絶対反対 「新しい歴史教科書をつくる会」

チラシ⑩ アメリカ人もびっくり仰天「外国人に参政権

チラシ⑪大東亜聖戦大碑建立十周年 副碑落慶記念式典平成22年10月11日(祝日)午後1時半より主催石川護国神社

チラシ⑫ 愛国女性のつどい 花時計 従軍慰安婦問題と外国人参政権の二点を認識を改めさせる主張 カラー上質紙

チラシ⑬外国人参政権反対CM放映 カラー上質紙

日本を取り巻く世界から、日本を守るためのご意見だろうが、こういう意見が主張されることで、対立が激化する。そういう危惧を感じるのは私だけだろうか。主張を貫くために、手段を選ばないのでは困る。

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2010年8月15日 (日)

靖国神社と千鳥が淵戦没者霊園2010

4759 今年も千鳥が淵戦没者霊園で、2人の人と話をしてきました。つい話込んで、予定の戦場地図前にいる時間が少なくなって、「ハンカチ手首に巻いて来たのに、野沢さん いないじゃないか」と帰られた方がいたら、すみません。

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最初の方は、戦場地図のトラック島を指先でなでて、念仏か祈りのように語りかけていた方がいた。横に立っていると、「おじがトラック島で戦死したので」と教えてくれた。母親の弟がトラック島で中隊指揮官陸軍中尉だった人という.。母は、弟のおじについて、あまり語らないままなくなったという。

02300pxhailstonetorpedo_401_3 注:1944(昭和19)年2月17日、18日、アメリカ軍によるトラック島空襲。戦後の遺骨収集で集骨されたので「千鳥が淵墓苑」に納骨されたようだ。

4750  新潟県から、きょう出てきた、とおっしゃる方。N■さん。昭和9年8月9日生まれ。おじは優秀な方だったという。身内で、指揮官になったおじさんを漠然としか知らされていない、という。陸軍士官学校出の人でないと、指揮官になれないから、このおじさんは、陸軍士官学校出でしょう。

陸軍士官学校は、当時は、士官になる学校は一番難しく、素行、体力、学力、忠誠心が優れている人のみがいける。授業料がなく、卒業後は少尉になれるので貧しい家の子の多くが行こうとしたので、東大へ行くより難しいといわれ、士官学校出の将校は国民の憧れであった。その中から、上位2割が陸軍大学校へ行ける。参謀や将官になる候補が進学した。それ以外は部隊勤務になる。

 N■さん、温和な方ではあるが、頑固にアメリカは大嫌いで、娘4756の結婚式がハワイにあったが、アメリカ大陸の旅をみんなでしたが、アメリカ行へ同行せず、日本へ戻った、という。
 昭和20年の記憶は、寺の境内で遊んでいると、お寺の住職の奥さんが子供たちにおやつのようなものを食べさせてくれたので、連れ立ってお寺へ行っていた。寺も飢えている子供のためにお供物を下げたものを準備して待っていてくれた、という。

 話の途中で、正午の黙祷の合図が入った。母親は、おじの話をめったにしないので、戦争の話を聞かなかったが、「親類で、もう私が一番年長で、戦死した人を誰も知らないから・・・」と早朝から新潟から出てきたという。

もう一人戦死したという。父方のおじは、中支で昭和12年以前に戦死して、日本軍が強かった頃だから、天皇からの下賜金もあり、盛大な葬儀を行われたという。匪賊の急襲での戦死のようだ。

誰も、ハンカチを手首に巻いて戦場地図の前に現れないので、園内を一回りしていると、ベンチに座っている人に声かけられた。フリーカメラマンで、リボンをつけて許可を受けて、この戦没者霊園の写真を撮るためにきている様子であった。近郊から来ているとのこと。

47104711471247284718_34713_2 右翼の街宣車が、数えただけで30台は集まっている。黒塗りのバン型 から、ワンボックス型の車が多く列を成していた。この右翼圧力が強く感じられて、昨年より多くなっている印象だ。誰かが資金提供しない限り、この街宣運動は続かないはずだ。

4764 平和運動など、写真を撮り続けている方のようにお見受けした。この街宣右翼活動の兵隊各人は職務としてやっているだけで、問題は、後ろ盾の思想と組織だとの趣旨を語っていたが、同感である。4734

個々の人が理解しあえるために、この戦没者霊園を拡大して、スピーカーズ広場にしてほしいもんだ。戦死者という戦争従事者と共に戦災被害者が戦争を考える場にしたら、意味がある「慰霊園」になるだろうと思っている。

千鳥が淵墓苑は、靖国神社と違って、戦争遂行のために戦死者慰霊とは違うのだから、各個人が本音を吐露できる場にするべきでしょう。みんなの公園にするのが一番いい。

  • 拝啓、社民党代表福島さんにお願いが 2009.08.17
  • 勝浦で終戦を迎えた通信兵 2009.08.16
  • 靖国神社8月15日(2009年) 2009.08.15
  • 8月15日靖国神社2008年 千鳥が淵Ⅳ 2008.08.17
  • 8月15日靖国神社2008年 Ⅲ 2008.08.16
  • 8月15日靖国神社2008年 Ⅱ 2008.08.16
  • 8月15日靖国神社2008年 Ⅰ 2008.08.15
  • 戦争被害と戦後1 橋本艦長 回天出動せず 真夏のオリオン    太平洋戦争 開戦から学徒動員まで     8月15日千鳥が淵戦没者墓苑に集合     陸軍中佐沼田正春 幼い息子に遺訓    海軍軍令部はどんな反省をしたのか   うじきつよし 本物の平和主義者になるために    うじきつよしへ反論は、戦争容認か     NHK戦争証言 戦闘を知る10月12日マデ  

    戦争被害と戦後2  軍用馬を徴用された体験談    征韓論から太平洋戦争まで 加藤陽子    平和祈念展示資料館 独立行政法人に一言     韓国併合までの安重根と伊藤博文     シベリア抑留 当時16歳の体験者     ああ、許すまじ原爆 核不拡散条約NPT    満州建国大学 最後の同窓会    戦争を語り継ぐ意味は何か   田母神さん俎上に論争の難しさ、   原爆で死んだ山本文郎の父   特攻艇震洋 SuicideBoatの戦果   靖国神社と千鳥が淵戦没者墓苑

    靖国神社と千鳥が淵霊園の比較

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    2010年8月13日 (金)

    何で日本は戦争したの?

    4620 「おじさん、何で日本は戦争したの?」と、30歳を越す親戚の娘に聞かれた。えッ?そんなこと、内心オレ知っているつもりだが、答えられるか、一瞬、脳裏を巡る。戦争の原因など、列挙できるか。戦争している兵士自身、わかっていないと思うよ。

    NHKの戦争特集は、終戦記念日近くでは盛んに放送する。それらの番組は、確か戦争について事実は教えてくれるが、それは戦争の体験談だし、事実だが、なぜ日本が戦争しなければならなくなった理由ではない。

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    4604 大抵は、バトルBattleは、戦争の一面だ。戦争はWarだよ。日本は戦争しなければ成らなかったのか。これは、戦前の空気感が、今とは全然違うから、理解しにくい。一番戦争したかったのは、国民の側だとさえ言われている。止められなくなったのは為政者だった、という理解が妥当だろう。

     日本全土が貧しく、東北の農村では娘を売るとか、餓死する人がいたとか、それを反映して、地方出身の一部将校たちがクーデターを考えるほど、切羽詰まっていた。この日本は狭くて貧しい、満州を「日本の生命線」だと、自国の食料庫としていた。その空気が日本の政治を動かしていた、と思う。そこへ、いろいろの要素が加わるのだ。

     満州を独立国にしようとする、関東軍幹部が先頭に立って、満州匪賊の仕業のように見せ掛け、満鉄爆破して中国全土へ戦線を広げていく。満州国の五族共栄を掲げ、なおかつ東亜共栄圏をアジアに広げ、西欧諸国の力をアジアから追い出す。これらの盟主にすわることが一つの日本の夢だった。五族共栄:中国、朝鮮、満州族、ロシア、日本が仲良く一つの国をつくる新しい世界観。うまくいけば、すばらしい。

    「狭い日本に住み飽きた」と標語は、日本には移民局という部門はなかったが、日本の人口を減らし一戸あたりの耕作面積を広げることで、農村を豊かにできるはずだった。その計画図を吹き込まれて、日本人は踊っていた、と思う。

    4602 五族共栄の満州国を設立してきたはずが、世界はそれを欺瞞の独立国だということで、国際連盟がリットン卿が国際連盟の命により調査に来た。結果、中国の一部を独立国にしているだけだと見抜かれ、認められるには至らない。「日本は国際連盟を脱退する!」と松岡洋右は演説をぶち上げた。そして、脱退した。

    Abcd_2 日本は資源のある国ではないから、石油を輸入しなければならない国だが、中国侵攻で、各国から非難されて包囲される形になり、ABCD包囲網は完成した。A=アメリカ、B=イギリス、C=中国、D=オランダの諸国が日本へ重要物資を輸出しなくなってしまった。特に石油を禁輸した。これで、日本は苦しんでしまった。それで、マレーシアにある石油の油田地帯を落下傘部隊が急襲したが、油田の施設を破壊炎上させて逃げたので、日本に石油を手に入られなかった。

    注意:同じことを、日本は北朝鮮に対して行っている。しかし、中国が支援しているから、その効果は上がっていない。

     アメリカとの交渉も、日本の南方進出に関する事項で、日本の身勝手を許さない内容だった。アメリカは、イギリス、中国、オランダと提携しながら進めていた。

     日本はこの交渉を打ち切るつもりはなかったが、同時にアメリカを攻撃する両面準備を同時に進めていたが、それをアメリカの諜報網はキャッチして、大統領に伝えていた。アメリカは、日本の情報キャッチしていることを知られないように努めていた。だから、日本は内容が漏れていること、情報技術の遅れで、戦争が終わるまでは気づかなかった。

    アメリカに日本の考えていることはダラ漏れで、アメリカは日本に先に真珠湾攻撃させて、アメリカ国民を焚きつけて、戦争にもって行った。そう分析されている。ルーズベルト大統領には、情報が上がっていたらしい。これは、日本の研究者には定説になっている。

    4624 アメリカはハルノートを突きつけたが、日本側の東郷茂徳外相は、「長年に渉る日本の犠牲を無視し、極東における大国たる地位を捨てよと言うのである、然しこれは日本の自殺に等しい」

    「この公文は日本に対して全面的屈服戦争か、即ち日本に対する挑戦状を突きつけたと見て差し支えない。」と述べている。

    4622 日本のプライドをぐちゃぐちゃにしてしまう通告だったので、カチンときた日本は、振り上げたこぶしを、脅すだけでなく、実際「ニイタカヤマノボレ」という、攻撃開始のゴーサインを出してしまった。それが真珠湾攻撃で「勝った!勝った!また勝った!」と大喜びしたのであるが、これがアメリカ国民を怒らせてた。

    日本人の戦う意欲、「勝つ」という気持ちは十分わかるが、その精神力を裏付ける技術、物資が不足しているのに、日本人の戦争計画がずさんであると、私は見る。

    アメリカより早くから戦争準備をしていたから、緒戦の戦いはアメリカの油断を突いて、日本が連戦連勝だった。アメリカ国民は、真珠湾攻撃で、反戦的な市民にまで愛国精神に火がついた。物資の生産は日本の10倍、20倍の国が本気になって、日本をやっつける気になった。また、情報通信技術も進歩しているから、日本通信文は全部読まれて、手の内知られていた。

    なにせ、日本は「敵性語」として英語を排斥した。電車中で「英語」の教科書を開いていると、殴られたという。そういう敵の言葉を嫌って相手を嫌う状態になった。国民の感情的ムードがこういう形に表れた。ところが、アメリカは敵を知るために「日本語学校」を軍隊内に作り、通訳を大量に養成はじめた。日本語を傍受して、暗号も解読する技術を高めようとした。この通訳学校を卒業して、戦後、日本文化を紹介する人も多く出た。

    日本の「アメリカ嫌い」がアメリカを知らず、中国で勝ったという勢いでいけると思ってアメリカを攻撃したり、物資不足、勉強不足を精神で勝てるとする、日本人の欠陥が出た。

    4611日本は、鎖国を続けてきて、「欧米に追いつき、追い越せ」の合言葉で進んできて、植民地を作って、植民地から利益を得ようとしたが、それが欧米の先進国に「やりすぎ」と頭を叩かれた、という図だね。先進国の権益を侵した面があるからだろう。

    朝鮮、満州、台湾を植民地政策を展開したが、これはイギリ4610 スの真似だ。それが100年遅かったから、時代が変わっていたのだ。資源のない国の日本は、どうすれば、豊かで、平和な国つくりができるか。

    植民地から搾取して豊かになるというやり方は、65年前に失敗した。今日本は、どうすると、諸外国と軋轢を避けて発展できるのか。65年前の戦争を通して、考える課題だ。

    戦争被害と戦後 ミズーリ艦降伏調印 責任者の責任 8月15日千鳥が淵戦没者墓苑に集合  太平洋戦争 開戦から学徒動員まで   嗚呼 満蒙開拓団 岩波ホール盛況なり  橋本艦長 回天出動せず 真夏のオリオン  陸軍中佐沼田正春 幼い息子に遺訓  平和祈念展示資料館 独立行政法人に一言    浅田次郎シューシャイン・ボーイ 生き方  傷痍軍人という生き方  水木しげる ゲゲは滑舌から名付け 火垂るの墓 11月2日TV  海老名香葉子 あした元気になーれ:    12月8日 開戦記念日 海軍反省会  ああ、許すまじ原爆 核不拡散条約NPT

    戦争被害と戦後② 小沢昭一が戦中、戦後を語る   大郷村兵事書類から戦争を見る  終戦 荒廃した国土 忘れるな    講和条約 日本は占領されていた   戦争を知る人たちの記録    復員兵が帰ってきた 昭20年秋   城山 三郎 ついに『落日燃ゆ』   戦争の影響 疎開、食料など   樺太の真岡電話局 最後の放送   満蒙開拓青少年義勇軍を知ろう 戦前の軍歌は巧妙にできている   林真理子 戦中の父と母、そして戦後    空襲警報発令 昭和20年中津川市    空中戦でB29遁走 昭和20年1月9日     ああ、許すまじ原爆 核不拡散条約NPT 証言記録 学童疎開、東京大空襲  吉村公三郎映画 新文芸坐:

    戦争被害と戦後③  高遠菜穂子講演 成田九条の会主催   「戦争を語り継ぐ60年目の証言」    橋本艦長 回天出動せず 真夏のオリオン    太平洋戦争 開戦から学徒動員まで     拝啓、社民党代表福島さんにお願いが    うじきつよしへ反論は、戦争容認か   軍用馬を徴用された体験談 証言記録 学童疎開、東京大空襲 8月15日 戦没者墓苑戦場地図前 目印:手首にハンカチ

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    2010年8月12日 (木)

    オレがの『我』より おとなの知恵

    日本列島、朝、台風が接近しているとかで、風が強かったですね。電車を黄色の線の前いでまっていた。電車には、二列縦隊で待つ。風を避け、黄色の線より半歩下がって立っていたが、私が先着で先頭であるのは、他に人はいない朝だから、わかると思っていた。

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    数分遅れてきた青年、私の後ろに並ぶかと思ったら、黙って私の前に来て、何事もない様子でスポーツ紙を読み始める。

    一言「よろしいですか」とあるべき場面だと思うが、この20代半ば過ぎの青年は、傍若無人というか、私という存在が目にはいらないか、人ではなく物に見えているか、そんな感じでいる。

    スポーツ紙は「石川遼、マスターズ予選通過」と、記事に食い入るように読んでいる。私が電車にのる一位の立場をその青年に譲れば別に問題はないだろうが、「君は、私より後にきて、先に乗るのかい?順序があるだろう」というほど、ヤボではないが。

    そこへ電車が来た。その青年、一歩待って、自分が先頭に立っていても、『あなたが先に乗ってください』と、先にいた私に乗る瞬間、順を譲るかもしれない。よく、年寄りや女性に譲る、そういう間合いがある。つっけんどんだった人が、「えっ?」良い人じゃないか、という印象を感じる場合がある。

    しかし、その青年、私にはまるで気づかないのか、さっさと乗り込んで、空いている席に坐った。今の社会は、こうして坐る席を譲るより、まず自分の席を確保するのが当然かもしれない。多少遅れてきても、他人の押しのけても、まず自分の席を確保は当然で、他人の席を配慮するのは、ありえないのかもしれない。物質は豊かだと言われる日本では、精神の余裕は感じられない。

    自分が坐ろうとするとき、他に坐りたい人もいるかもしれないから、一言
    「ごめんなさい」とか、
    「すみません」あるいは、
    「よろしいですか」ということで、
    ギスギスした社会の軋轢が相当緩和するのではないか。

    これは、自分が負けるように見えて、賢い処世術とは思えないのか。相手に一歩、半歩負けることで調和がとれる。江戸時代から、家の前の「水撒き」も隣との境で終えるのでなく、隣の方にも打ち水してあげるのが暗黙のルール、エチケットだった。「オレがオレがの『我』」だと自分が利するように見えても、決して自分の「利」にはならない。「情けは人のためならず」これが従来の日本の教えだった。

    ところが、今は、オレがの『我』を全面に出して、目先の「利」を獲得することがハバを利かせて、実に生き難い世になった。そういう世を作ったのは、私たち先輩の世代かもしれないが。

    外来種の魚ブルーギル、ブラックバスなどが日本の河川に多くなり、在来種は食い尽くされて生き残るのが大変らしい。絶滅するのは、(在来種の)魚だけではなく、日本の文化も同様である。まあ、滅亡前の「遠慮や謙遜、和を大切にする世代」が、「自分の要求をまず出す青年たち」に蹴飛ばされていく。他人を駆逐することを勝ち組といって憚らない。そういう世界を作っていって、地球が滅びるのは、気象現象からだけではない。

    そんな文化や空気が、今、世の中を跋扈して、私たちは・・・・そんな厳しい環境にいる。何かといえば、裁判に訴えて権利を確保するとか。

    「フランダースの犬」で、最後、少年ネルロと犬が教会の絵を見ながら凍死する。絵で入選するはずのネルロ少年の絵が落選してしまう。そして、有力者の家の少年が入選する。

    この事実を見て、「みんななら、どうする?」という問が国語の先生から出された。「裁判所へ訴えます」と私がいうと、先生「それは二番目の策です。黙ってそれを甘受するのが最上の策」という意味のことを中学生に教えた。その意味が、そのときはよくわからなかったが、今考えると、人間の知恵って、そういう解決法のほうが深いのかもしれない、と思うようになった。

    自分が正しく、一歩引いてまとめる判断が、これからは、人間の深い知恵が利用が、「西洋文化」に対して「東洋の知恵」ではなだろうか。それを「おとなの知恵」と言い換えられる。子供相手の「負けるが勝ち」という態度をとる大人、と同じかもしれない。「金持ち争わず」は、「知恵持ちは争わず」とも言い換えられる。

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    2010年8月11日 (水)

    靖国神社と千鳥が淵戦没者墓苑

    12ya19_1戦前からある靖国神社は、周知のように、戦争従事者の戦死者 を国家が祀る場所である。これは、空襲で死んだ国民を葬る場所ではない。アメリカ軍の大空襲で死んでも、何も補償されないと、裁判を起こしても、「国となんら雇用関係がないから」という理由で門前払いされると同じ理由で、靖国神社には、空襲の犠牲者は入れない。

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    維新の功労者である大村益次郎の銅像が靖国神社に立っている。明治政府ができてから、政府の行なった戦争で倒れた戦士を国が祀る神社として設立された、という経緯がある。政府の軍隊として戦えば、戦死してもこのように手厚く葬るということを示したものである。

    明治初年、薩摩の動向をさぐるため、明治政府が派遣した警察の密偵が殺された慰霊碑が護国寺にあるが、このような犠牲者は靖国神社には入らないのか、と思って見たが、線引きは微妙だ。

    毎年、靖国神社と千鳥が淵戦没者墓苑へ八月十五日に行っているが、二つの雰囲気はまるで違う。

    靖国神社へは九段下の地下鉄の駅から、ゾロゾロと多くに人が列をなしていく。全国からバスを仕立ててやってくるから、混んでいる。その人々に向かって、多くの団体が政治的宣伝を盛んにしている。

    Sirplane_9182Kif_9201 資料館である就遊館は、資料映画を通して靖国神社の考え方を示している。日本が欧米に追い込まれてやむえず戦ったと、明確に主張している。かなりの部分でうなずけるが、これを聞いていると、まだまだ、戦うぞ、日本人の本土決戦をやらずに降伏したのは本意でなかった、と言っているみたいだ。たぶん、そう言っているのだと思う。戦争指導した反省とか、不戦の誓いとは違うことは確かだ。

    415pxisoroku_yamamoto 技術の面が疎かにして、精神は「勝つ」ことに集中しているが、戦前のまんまで、この「精神一到何語とかならざらん」とでもいう。おかしな、日本人の愚かさをみせている。通信技術が遅れていて、味方の行動が一致させられなかった。通信はアメリカに傍受され解読されて、山本五十六は戦死した。一木隊が勇猛な精神で敵に突っ込むのはいいが、その行動を読まれて、なおかつ武器の不足を勇気で補うつもりで、来たら警戒線にひっかって、アメリカの袋のネズミになった蛮勇だけでは勝てないのだ。

    民主党政府は、今年靖国神社へ閣僚参拝はしない方針らしいが、靖国参拝をする国会議員連盟があるから、多くの自民党議員を中心に出かけるだろう。

    0938 参拝する参道のパフォーマンスも、年々派手になっている。見ていると、昔日本軍の兵士だった人もいるが、もう65年も過ぎれば、足腰が弱って靖国の八月の暑さに耐え難い。ましてや、戦争の時の軍服を着て行進はできないだろうに、軍服着た人が行進のデモンストレーションをする。見ると、どう見ても、彼ら戦後生まれのように見える。コスプレ感覚で参加している。頼まれてやっているように見える。

    あと、北朝鮮にかこつけて、日本の軍備、自主憲法の制定、自虐史観を非難することをのぼりを立てて行進する団体、門前でスピーカーで主張する団体など、実にさまざま。

    12ya230906 戦死者の慰霊にかこつけて、政治的なプロパガンダの場と化しているのは、問題でないか。平和を望むというより、日本は諸外国に負けない国にしよう!

    聞いてみると、戦前受けた教育のまま、戦前の常勝日本、日本軍を恋しがる気分がみなぎっている。南京虐殺の事実を写真は偽造だというし、「勝つ!」ことが唯一の価値観で、「一寸も揺るがない」と、のF社の教科書発行するグループは元気だ。

    靖国神社の周辺は、騒々しい。お祭りと見れば見られるが、戦没者の気持ちを考えると、この騒がしさは間違っているように思う。もっと静かに、弔う姿勢が必要だろう。

    12ya210971 千鳥が淵戦没者墓苑は、靖国神社から陸橋を渡り、お堀の水を見ながら、1000メートルくらい離れた場所にある。こっちは静かだ。私は、靖国神社へは五年ほど続けて行っているが、千鳥が淵戦没者墓苑へは、今年いけば三回目になる。こちら、のぼり、スピーカーが禁止だということがあるが、静寂で別天地だ。歩いていくお堀の水と桜の青葉がマッチして、一幅の絵になっている。

    5765 ただ、中へ入っても、コレという見るべきものがなく、物足りない。唯一、戦場地図前と戦死、犠牲者の数字がモニュメントである。

    ここの緑陰にこの地図の拡大版を地面において、公園にし、ボランティア説明者が積極的に語る場にすれば、いいのにと思う。無縁戦没者の骨壷がメインで、その隣に皇室の方の歌碑があるが、あれはデザインに一部に過ぎない。

    もっと、平和をリードする場所として、戦争の航跡を語り、その事実を広めるスピーカズ広場としたら、意味があるのではないか。

    Org_pict_502 集合:8月15日正午~午後1時 同写真の場所前で、目印は手首にハンカチで、声を掛けてください。

  • 8月15日 戦没者墓苑戦場地図前 目印:手首にハンカチ

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    2010年8月10日 (火)

    特攻艇震洋 SuicideBoatの戦果

    4485 太平洋戦争(大東亜戦争)は、真珠湾攻撃のハワイ奇襲で戦果を華々しく打ち上げ、景気よく始まり、新聞、ラジオは「勝った、勝った、また勝った!」と昭和16年12月8日以来、勝ち戦が続いていた。多くの国民は勝利に酔わされていた。

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    それがいつからか、負け戦が始まったか、アレ?と思う間に形勢が逆転したのが、ミッドウエィ海戦での大敗北である。この結果は極秘にされ、国民は知らされず、それどころか、参謀本部や東條英機総理兼陸相に対してさえ報告されていない。

    山本五十六は「日本は開戦から半年、もって1年は優勢を維持することができるが、それ以降はアメリカ(と連合軍)の国力が日本を圧倒する」と予測を述べていた。

    戦略、戦術、用兵などの拙劣により、約2倍の戦力をミッドウェー海戦に投じながら、空母機動艦隊を壊滅させる損害を受けた。この作戦について反省会は開かれず、敗戦の責任者が処罰されることもなかった。そのうえ軍令部は、ミッドウエィ海戦での大敗北を極秘にし続けた。

    415pxisoroku_yamamoto 山本五十六が連合艦隊司令長官に就任すると、先任(首席)参謀に抜擢されたのが、黒島 亀人海軍少将である。日米開戦の二年二ヶ月前だった。山本はそれまでの伝統的発想の持ち主でなく、当時から異端と揶揄されても、新しいアイデアを創造できる黒島を起用した、と言われている。山本五十六の行なった、真珠湾攻撃、ミッドウエイ海戦、特攻艇震洋の発案は、腹心の黒島亀人海軍少将のアイディアであるとされる

    4501山本五十六がすべて責任を採る形であるが、黒島の作戦指導に疑問を感じた節もあり、それを同僚参謀の記録『戦藻録』(昭和16年~昭和20年)にか書かれていると思われるが、黒島が勝手に処分したのか、(昭和17年11月~昭和18年2月頃まで)欠落している。山本五十六が黒島の作戦能力に疑問を抱き始め、ひそかに代わりの先任参謀の人選を行っていた時期である。

    45051945年5月、軍令部第2部部長を辞し、その後は大本営の海軍参謀兼軍令部先任として終戦までを過ごした。多くの軍人と同様、本土決戦を主張し1億玉砕を唱えた。しかしデスクワーカーとなっていた黒島は、敗戦後も戦争犯罪を問われず、自決するわけでもなくその後天寿を全うした。

    麹町の旧鍋島侯爵邸に住み哲学、宗教の研究に没頭したが生きる屍同然であったと言われる。旧友が訪ねてくると「今、俺は宇宙、人間、生命の研究をしているのだ。最近ついに『零の研究』をして悟ったよ」と言って煙に巻いた。1965年、肺癌のため没。享年72。その遺言は『南の島に飛行機が行く』であったという。(以上、ウイキペディア参照)

    4519_24543ミッドウエィ海戦で、航空機と多数の熟練パイロットを失い、制空権と制海権を失い、コレ以後の対アメリカ戦では、守勢に立たされ続けるが、その起死回生の方法として、太平「洋」を驚き「振」るわせるという意味で特攻艇「震洋」を発案した。

    震洋(しんよう)は、昭和17年6月のミッドウエイ海戦以降の形勢逆転の切り札として、考えられた。熟練パイロットを失い、搭乗する飛行機もない。それで、海軍上層部の考えたのは、航空隊で二年半訓練を受けた隊員を震洋の特攻にすることだった。

    黒島の構想としては、軽量で大量生産できる可能性があることであった。材料はベニア板で、自動車のエンジンを搭載することだった。事実、短期間に6200隻を作製した。

    震洋(しんよう):第二次世界大戦で日本海軍が開発した特攻兵器。小型のベニヤ板製モーターボートの船内艇首部に炸薬(約250kg)を搭載し、搭乗員が乗り込んで操縦。敵艦に体当たり攻撃することが目標。。
     フィリピン、沖縄諸島、日本本土の太平洋岸に配備された。日本各地の沿岸に基地が作られた。九州・川棚の訓練基地跡が有名。

    フィリピン レイテ沖海戦マリアナ海戦闘で、日本海軍は起死回生の戦いを挑んだが、結局、もてる駒をすべて失ったような結果になった。レーザー光線技術、通信技術で劣って日本は、情報を日本軍内で共有できず、みすみす攻撃チャンスを失った、と後世の研究家に指摘されている。

    4546 手詰まりになった状態で、黒島少将の発案特攻「震洋」が作られていった。NHK放送の「ベニアボートの特攻兵器」は、フィリピンマニラ近くの島コレヒドール島へ派遣された第7震洋隊と沖縄へ派遣された第22隊のことを取材していた。全体で40数隊あるようだ。

    コレヒドール島へ派遣されたのは、震洋200隻と要員900人を日本から輸送船で送ったが、アメリカの攻撃で戦場に着く前に1/3が失われた。その結果、600名が特攻隊員がようやく任務についた。アメリカ軍はレイテ島に上陸開始をしていたが、12月23日出動前日、第7震洋隊が整列中、事故が起き、大爆発、誘発が起きて、75隻が破壊沈没し、明日攻撃に出る隊員90名が死んだ。

    この事故の原因は起こるべくして起きたといえる。「震洋」は構造上、エンジンと爆薬が近くにあり、エンジンの火花が飛び散ることで、いつ事故が起きても不思議でない。これは、海軍上層部に伝えられたが、対策は講じられなかった。

    コレヒドール島だけでなく、日本国内でも震洋の事故は多く発生して、250名亡くなっていた。日本から戦地に赴いた450隻以上の震洋は、アメリカ軍の攻撃や事故で、昭和20年2月に100隻たらずになっていた。

    コレヒドール島北西部に停泊しているアメリカ連合艦隊への攻撃命令が出た。複数の震洋による一斉攻撃である。

    4487 証言者:石崎幸男89歳は、自分の震洋が誘発爆発で失われたので、見送った。出撃する彼らは、日の丸国旗をマフラーにして、私たちが着る予定であった搭乗服を着て、立ち上がり笑って出ていった。作り笑いではなく、本当の笑い顔で出撃した。出撃から数時間後、ドカーンと音と火柱の明るさと船が沈むのが同時です。轟沈です。7発、そういうのがあって、船が沈んでいくのが見えたのです。七艘の敵艦を沈めたと思ったのです。

    戦果が上げたとき、「万歳!万歳!」でして、私ら喜びました。その陰には、今戦友が死んだんだなとはっきり、感じ取りました。この攻撃では、30名の搭乗者が命令により、死んだ。

    日本では7隻と思われているが、アメリカの資料では。三隻の上陸用支援艇が沈没している。震洋による戦果は、その三隻だけで、あとは、続かなかった。

    翌日からコレヒドール島へアメリカ軍は上陸開始した。そして、残っていた震洋はアメリカ軍の攻撃で、出動機会がなく全て破壊された。9日間で、日本軍(震洋要員)の殆どは壊滅したので、生き残った兵は、対岸のバターン半島へ脱出することを銘じられた。「コレヒドール島を再度奪回するため、対岸のバターン半島まで泳げ」と命ぜられた。

    食料もなく、12時間泳いで渡った。「震洋」隊員は、航空機乗りから、ベニア製特攻艇乗り→飛行機とも、船とも無縁の地上戦に引きこまれた。コレヒドール島で戦った震洋搭乗員300名の七割以上は死亡した。

    Shinyoboat以上が、コレヒドール島へ派遣された震洋隊員の結末である。震洋戦果は、コレヒドールの三隻と沖縄での一隻をアメリカに被害与えたにすぎない。震洋の隊員の死者は2500名といわれている。割りの合わない自殺行為を日本の若者に強いた。

    この震洋隊員の生き残りで、有名になったのは、
    島尾敏雄 - 小説家。第十八震洋隊を率いて加計呂麻島に駐屯。出撃前に終戦。当時の状況、大平ミホ(後の妻)との逢瀬を描く『島の果て』、特攻隊員として出撃を待つ『出発は遂に訪れず』。
    田 英夫 - 社会民主党の元参議院議員、出撃前に終戦。 好漢田英夫、反骨キャスター死す
    三島敏夫サイパン島出身のハワイアン歌手。和田弘とマヒナスターズなどでボーカルとしても活躍。出撃前に終戦。

    小型のベニヤ板製モーターボートの船内艇首部に炸薬(約250kg)を搭載し、搭乗員が乗り込んで操縦。上陸しようとしている敵艦に体当たり攻撃することが目標。

    下記のアドレスは、別の特集「震洋のリポート」である。

    http://search.yahoo.co.jp/search?fr=slv1-gyao&p=%E9%9C%87%E6%B4%8B&ei=UTF-8

    8月15日 戦没者墓苑戦場地図前 目印:手首にハンカチ  靖国神社と千鳥が淵戦没者墓苑  特攻艇震洋 SuicideBoatの戦果戦争と人間 ( 五味川 純平)日本昭和史  田母神さん俎上に論争の難しさ、

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    2010年8月 9日 (月)

    梅ジュースを造ってみた。

    8505 案外かんたんである。料理、御菓子をつくる楽しみを女性だけの特技にしておくのはもったいない。

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    2010年8月 8日 (日)

    誰かのために生きること

    697 頂いた命へのお返し

    それは、誰かのために生きること
    愛すること
    生きること
    それが
    頂いた命の恩返し

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    お蕎麦屋さんへ行ったときに見た「げ」である。旧東久邇宮邸を店に改築したお蕎麦屋さんへ、いつもは賑わっていると思って行ったら、長引く不景気で、暇そうだった。不景気が外食にモロに来ている。道を歩いていると、この店は大丈夫か、とか思って見ていると、心配でならない。

    ※東久邇宮稔彦王:1945年8月17日~10月8日。終戦処理のために皇室の権威が必要という理由で首相に任命され,日本降伏文書に調印,軍の解体,占領軍受入れを実施,国民に対して〈一億総懺悔(ざんげ)〉を説いた。

    708 つい忘れてしまうのが「頂いた命の恩返し」ということである。死にたいと思うjことも多いだろうが、基本、多くは望まれてきたはずだ。それが、生まれる前に、状況が変わって、いらない子になることはあるだろう。

    生まれた側には罪はない。生まれてきた命の中心に誰が入るのか、今私、私という外皮をかぶっているのが、不思議だ。その核になるのが、「魂」あるいは「霊魂」か、それをおろそかにしがちだが、「頂いた命の恩返し」に気づくか、気付かないか、これで大きな違いが生まれる。

    714 一体私は、何をしたらいいいのか、ブログで小さなことでいいから、「こうあるべき」ことを訴えたいと思っている。今年の8月15日千鳥が淵の戦没者墓苑掲示板前へ手首にハンカチ巻いて集まろう!というひそかな決心をしている。毎年、これをやれば、戦争への想いを自分に言い訳できる。大きな望みではないが、戦争とは、あの戦いはこうだった、という説明をすることで、実態を知らせることがわずかはできる。

    思想的な問題はこの際必要ないのであって、日本が追い込まれてやむえずやったのだとか、そういうことは言う必要はない。あの戦いで、どれだけ、日本人は、アジアの人々は犠牲を強いられたか、それに直面する日として、日本の記憶するべき日の戦没者への慰霊をしたい、と思う。あとから生まれて、日本に住むことの感謝を表すには、この日を記憶したいと思う。

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    2010年8月 7日 (土)

    原爆で死んだ山本文郎の父

    4478山本文郎の父は、昭和19年召集をうけ、軍医として島根県浜田陸軍病院へ勤務した。母は薬剤師で、東京へ残っていた。四年生の文郎は、縁故疎開で、母の実家(島根県邇摩郡大森町字こまの内 福田力太郎様方)へ一人身を寄せた。(「徹子の部屋」を参照しています)

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    4482 「島根県邇摩郡大森町字こまの内 福田力太郎様方」という名札をさげて、一人で東京から出発した。途中、京都で空襲にあって、列車から降りて、迷子になるところで、海軍の軍人さんが「坊や」と声掛けてくれて、「これ食べな」と、当時めった食べられないキャラメルをくれた。美味かった。そして島根へいく列車に乗せてくれた」

    浜田陸軍病院から、文郎を訪ねてきてくれたのが、昭和20年の7月だった。「近いから、また訪ねてくるから」と言って帰っていった。昭和20年の7月31日、転属命令で広島の陸軍病院へ移った。原爆が落ちた6日まで一週間という、まるで原爆に呼び寄せられるように、転属がきまった。

    8月6日原爆が広島に落とされた。父は、この日、朝礼で外に庭に出ていた。そこで被爆した。必死に助かろうと逃げだしたが、力尽きたところで、収容されて、故郷の病院に送られた。

    電報がきて、父を見舞いに親戚のお姉ちゃん(母の弟の妻)に連れられて、父の入院している病院へいった。それは6日の原爆が落ちてから9日後、13日のことだった。

    文郎が病院に着いて、病室に入ると、プーンと物が腐ったニオイが充満していた。ベッドに黒こげの人が横たわっていた。それが、誰だかわかる状態ではなかった。

    「おう、来たか、文郎」と黒こげの人から声掛けられて、父だとわかった。オヤジは「こんなになっちゃったよ」というが、私はなんと答えていいかわからなかった。「お父さん、がんばってちょうだい。これから、ボク看病するからね」というと「そうか、、じゃあ、ちょっと、水を飲ませてくれ」というので、水を飲ませた。

    8月6日、広島陸軍病院の庭で朝礼で訓話中であった。山本文郎の父文行は、それに出ていたそうだ。そのとき「ピカッ!」と光って、それから意識がなくなった。タマタマ、父は、原爆の直射から陰にいたので、助かった。原爆ピカドンの直射を受けた人は、みな即死した。溶けて消えただろう。

    しばらくして、気がついた。全身やけどで熱いので、川の堤防を上って、川を渡って、もう一つ堤防を渡ったところで気を失った。そこは、農家の軒先だった。それから、気がついて「私は鳥取県の人間で、ここが生まれ故郷」と伝えた。貨車に載せられて運ばれてきたのである。

    帰ってきた駅で、親戚の人が迎えにでて、山陰の鳥取県根雨にある郡立病院に入れられた。

    美輪明宏さんと番組で一緒にになったとき、『文ちゃんもそなの?耳の後ろに蛆ウジ涌かなかった?」とおっしゃった。何でご存知かと疑問をもたが、彼も長崎で原爆で死んだ人を多く見ているからだった。

    確か、父は「耳がかゆいから、耳掃除してくれ」と言った。耳掻きでほじくると、ポロっと一匹蛆が落ちてきた。父に見せてはいけないと思って、グチュと指で潰して、隠しえて捨てた。耳にはそれくらいの数だったが、半身のガーゼの下はすごかった。

    医師は巡回に来て、と言っても、箸で蛆を採るのが治療みたいなものだった。ガーゼを取り替えて薬を塗るが、患者は痛がるし、大勢回るから、医薬品の関係でか、片半身治療手当して、「明日また」と言って次へ行ってしまう。

    真夏の暑いさなかの入院だから、文郎は父の体を団扇で煽る役目だった。煽っていると、ガーゼの隅間から、ポタっと蛆が落ちてくる。べっとりくっついたガーゼの隙間には、蛆がビシリだ。ハエはどこからとなく飛んできて、人間の体にタマゴを産み付けてしまう。それが、数日で蛆に孵化する。

    その後、文郎はアナウンサーになって「モーニング・アイ」朝の番組の担当になったとき、「文さん、あなたのお父さん、原爆でお亡くなりになったのだから、だったら、一回広島に取材にいったらどうですか?」ということで、その年、8月6日に広島へ行った。

    「ここが広島陸軍病院の跡地です」とやって、そこから、ひょいと見ると、200メートル先に堤防になっていた。そこへ上って行ったら、堤防の上に女性が十人くらいが集まっていた。ワイワイ話をしていた。

    M990510100715 「何をなさっているのですか?」
    「実は、私たちは陸軍病院の看護婦やっていました。毎年、この日に集まって、こうして話をしているのです」
    「私の父は、山本文行という、ここで軍医をしていたのです。どなたか、ご存知ありませんか?」と聞いたが、口々に「さー」と返ってきた。勤続一週間の医師では、ちょっとムリだったかもしてないと思ったが、一人が「文行さんというのですか?」と尋ねた。
    「はい」
    「じゃあ、いらしゃいました。私も先生と一緒にいろいろお仕事をしました」という方に出会った。

     そこで、アナウンサー山本は話した。「父はこういうわけで、故郷へ返ってきて、亡くなりました」
    「そうでしたか、お気の毒でしたね」
    「いや、亡くなっても、どこの誰かもわからない人も多いことを思えば、ボクは、オヤジの最後を見とれましたので、よかったと思っています。」

    小5の文郎の目にも、父は日に日に容態が悪くなっていくのは、わかっていた。医師である父は、自分の体が衰弱しているのは理解していた。

    父は「オレの体を見てみろ」と言って、「ここだけだぞ。人間の肌を残しているのは」とパンツを履いていた白い部分を見せた。あと残りは、黒く焼けた肌しかなかった。

    父は「〈お前を一人っ子にして)悪かったね。一つ、友達をいっぱい作れ。そして、その友達の良いところを見つけて付き合え。悪い所を見てもしょうがないんだ。どんな人も、お前にはないいいところがあるはずだから、そこを見て付き合いなさい」

     これが父の遺言となった。私はこの父の遺言をずっと守って、友達が物凄くいっぱいできました。

    東京に残っていた母へは、電報を何度も打った。しかし、なかなか通じなかった。「ママは、まだ来ないか?」と父は私に聞いたが、「うん」と答えるしかなかった。電信網も、交通網もズタズタになっていた昭和20年、止む得ないかもしれないが、父は死期は近いことを感じていたから、また電報を打った。父が母の到着をまっているのだけは、小学生の文郎にもわかっていた。

    終戦がわかって、病院内の泣いている様子があり、だんだん動揺も広がって、病院の機能もおかしくなって、父にもソレがわかったようだった。

    「どうしたのだろうね」と父が聞くから「じゃあ、聞いてくる」と出掛けた。事務局みんな泣いて、「(戦争に)負けた」という。

    「パパ、負けたんだって」と、父に正直に教えたが、父にはショックだったんだね。小学生にはなんでもないが、大人には、今まで命を賭けた戦いが「負けた」というのだから、今までの努力はなんだったのか、その存在意義がわからなくなっても不思議ではない。

    日本の敗戦を知って、父は「何!」と涙をこぼし、黙ってしまった。「犬死にでないか!」自分の命が風前の灯火になって、自分が死んでも、何の価値もないと痛感したのだろう。小学生の私の心には、アメリカ憎し、という感情が高まった。

    その夜、父は母を待ちながら、死んだ。日本が勝つと信じて耐えてきたが、「敗戦」を知ることで、プツンと信じるものを失い、父は死んだと思った。

    『父死す』という連絡しても、母はまだ来なかった。しかし、父の死を知れば、来ないはずはない、そう信じて、父の遺体を土葬にするのを待ってもらった。数日、もう待てないというときになって、母は駆けつけた。父の遺体をひと目見て、埋葬となった。やっと間に合ったと、文郎は思って安心した。

    戦後、絶えず、「アメリカ憎し」の気持ちを感じていた。最初の妻と結婚して、しばらくすると、家の前にアメリカの軍人が引っ越してきておどろいた。

    何日かして、二階の窓から下を見ると、息子は向かえの金髪の子供と遊んでいる。内心、「なんだ、アメリカ人と遊びゃがって」と、余り面白くなかった。

    しかし、よく見ると、言葉が通じないはずなのに
    「コレ貸して」と金髪坊やがいうと、ウチの子が
    「だめ」
    「じゃ、コッチは?」
    「それならいいよ」と

    声は聞こえないが、二人が話しているように見える。子供にとっては、コミニケーションがとれる。友達になって二人は仲良く遊んでいた。子供の世界には国境がないのだな、と思えるようになった。いつまでも「アメリカ憎し」ということもない、という気持ちになっていた。
     そのうち、アメリカ人の親たちも来るようになった。アメリカさんは、偶然にも、文郎の父と同じ軍医だった。任務を終えて、アメリカへ帰るというとき、

    「実は、オレのオヤジは、君と同じ軍医で、広島の陸軍病院に勤めていた。それで原爆で死んだ」といったら、
    夫婦で「悪かった」と謝り、二人は泣きました。そのとき、私はわだかまりはなくなった。いつまでも、そんなことにこだわってはいけないと思った。
     「Bigフミ!許してくれ」私は、Bigフミで、息子文明は、Little フミと呼んで、彼らは親しく接することができた。
     軍医のアメリカさん、キャンプ内にいれば、家賃はいらないから安く過ごせるが、彼らは、「わざわざ君の家の前にお金を遣って住んでいる意味がわかるか?」
    「知らない」というと、
    「日本人たちがどういう暮らしをしているか、どんな生活を送ってか、知りたいと思って、ワザワザ住んだのだ、わかってくれ」と、「Shake Hand !」と言って、手を出してきた。

    彼らは良い人だった。同じ軍医だったことで、父の無念さや悲しみ、そして、もろもろの感情がわかってくれた。

    鬼畜米英!欲しがりません、勝つまでは、贅沢は敵、と言っていた私たち、一体何に、誰に言わされていたのだろうか

    4476200906071290051l  追伸:父は短命に終わったが、母は現在ジャスト100歳で、施設に入って健在である。訪ねていくと、「小遣いあるかい?」と子供扱いをする。また、私のでたテレビをチェックしていて、アレコレ批評を聞かせてくれる。
     私が大学へ入った年、「再婚してもいいかい?」と聞かれたので、「どうぞ、どうぞ。僕を育てて苦労したのだから、幸せになって」と、再婚を勧めた。二度目の結婚をしたが、その配偶者も亡くなり、その後は、独身。迷惑掛けたくないからと、ひとりで施設を探して、一人の生活を楽しんでいる。

    4481 追伸2:父はあちらのお遊びがお盛んで、「テニスにいくぞ」と、テニスラケットをもって、文郎をオートバイに乗せて家を出るが、女性のいる店にくる。すると、「文郎、お姉ちゃんと映画を見に行っておいで」と、まず、文郎を別の女の子に連れて行かせて、自分は女性と楽しく過ごす、と65年前の話をする。「そんなこと、言ってもいいのですか」と、司会の黒柳徹子さんがきくと、いいんです。もう母も、わかっていますから。

    戦争の実態を語る① 小沢昭一が戦中、戦後をいる語る   大郷村兵事書類から戦争を見る  終戦 荒廃した国土 忘れるな    講和条約 日本は占領されていた   戦争を知る人たちの記録    復員兵が帰ってきた 昭20年秋   城山 三郎 ついに『落日燃ゆ』   戦争の影響 疎開、食料など   樺太の真岡電話局 最後の放送   満蒙開拓青少年義勇軍を知ろう 戦前の軍歌は巧妙にできている   林真理子 戦中の父と母、そして戦後    空襲警報発令 昭和20年中津川市   

    戦争の実態を語る② 8月15日千鳥が淵戦没者墓苑に集合   嗚呼 満蒙開拓団 岩波ホール盛況なり 陸軍中佐沼田正春 幼い息子に遺訓  平和祈念展示資料館 独立行政法人に一言    浅田次郎シューシャイン・ボーイ 生き方  傷痍軍人という生き方  水木しげる ゲゲは滑舌から名付け 火垂るの墓 11月2日TV  海老名香葉子 あした元気になーれ:    12月8日 開戦記念日 海軍反省会  ああ、許すまじ原爆 核不拡散条約NPT 戦争と人間 ( 五味川 純平)日本昭和史

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    2010年8月 6日 (金)

    にんじん(原作ルナール)虐待ネグレクト

    4441_2 「にんじん」は、作者のジュール・ルナールの実体験だと聞いているが、見事なほど、文章では母親の意地悪が特出していたと思ったが、映画では、あの程度のお母さんはいるぞ、と思う程度になっている。

    母親に愛されない少年の悲しさがよく出ている。「にんじん」と呼ばれる少年、お母さんの立場も気持ちもあるが、そういっていると、この小説「にんじん」の味が消えてしまうから、「にんじん」の辛い気持ちを汲む点から見てみる。母親に愛されないと、少年も少女も人生に傷を負っていく。

    他の人は、傷の大きさと意味に気づかない。まあ、簡単にいうと、「マザコン」の正反対の意味である。親の態度→子供に影響する一覧 

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    443   ジュール・ルナール(Jules Renard,)1864年2月22日 - 1910年5月22日):フランスの田舎マイエンヌ県に生まれる。
    1881年、17歳、パリに出て高等師範学校を目指すも、劇作などに興味を持ちはじめた。
    1888年、24歳の時にマリー・モルノーと結婚。
    1894年に『ぶどう畑のぶどう作り』『にんじん』を発表。
    1896年に『博物誌』『愛人』をリリース。1897年には散文劇『別れもたのし』を上演。この劇は大成功を収め、一躍一流作家の仲間入りを果たした。
    1897年には父親が病を苦に猟銃自殺を果たし衝撃を受けた。
    1898年父親が村長を務めていたシトリー村の村長になる。
    1910年に動脈硬化症により死去。享年46歳。また、日々ルナールがつけていた日記が『ルナールの日記』として死後出版され、日記文学として認められている。

    4448赤い髪から「にんじん」と呼ばれている。最初、見ていると、母は何でそこまで辛く当らなければならない必然性が見えない。多少「にんじん」は不細工な顔して、ガンコではあるが、どこにでもいる少年である。それが、一学期の終了、夏休みの始まりの日、学校へ母親達は我が子を迎えに来てくれる。「にんじん」には、そういう母親の気遣いはない。よそんちのママは、手つなぎ、楽しそうに帰っていくのに「にんじん」そういう経験がない。

    4472 ママは、お兄ちゃんのフェリックスとお姉ちゃんのニコルには愛情を注いでいるが、「にんじん」はいつも仲間はずれだ。日曜日にしか帰って来ないパパと兄は釣りの約束したので、「にんじん」も連れて行ってと頼む。ママは「釣り竿がない」という。近所に住んでいる祖父に釣竿を借りてくれば行ける、と借りにいく。

    祖父は唯一「にんじん」の理解者であった。竿を貸してくれたとき、こんなことを言っていた。

    4452 「醜いアヒルの子」って知ってる?おじいちゃんが言うんだ。僕とおじいちゃんは似たもの同士の「醜いアヒルの子」なんだって。わけわかんない。今度本をくれるっていうから、読んでみよう。
     ママはお兄ちゃんやお姉ちゃんには、よそんちのママみたいにギュッて抱きしめたりニコニコしてる。違うのは、僕なんだ。きっとそうだ。家族の中で赤毛なのは僕だけだし。

    あの時、おじいちゃんは僕に秘密を打ち明けてくれたんだ。おじいちゃん、「似たもの同士」って言ってたろ?きっとこのことだ。確かめなくっちゃ・・・

    4450 次の日、起きると、父と兄は釣りに出かけていく後姿が見える。「母は起こしてくれなかった」と思ったが、今から急げば追いつくと、釣り竿を持って出かけようとすると、母は行かせまいと「私のいうことが聞けないのか。手伝いをするのだ」と釣りには行かせない。

    お使いから帰ると「おじいさんが亡くなった。パパを呼んできなさい」といわれ「にんじん」は必死に走る。

    おしっこしたくてトイレへ行きたくても、カギをかけてしまう母に逆らえなくて、部屋中でオシッコしてそのニオイでママは「にんじん」を殴る。

    4465 「にんじん」には、どうして自分だけがことさらに母親からいじめられなければならないのか、分からない。父親は少なくとも彼を嫌ってはいないようだが、母親は父親と「にんじん」が二人で仲良く出かけたりするのをとにかく邪魔して許さない。仕方なく母親の命に従う。この家庭、実は、父親と母親は仲がよくない。母親は、父親とうまくいかない苛立ちを、すべて「にんじん」にぶつけている。

    母も本当は赤毛で染めているだけだ。髪の毛は染めても下の毛は染めていないから、きっと赤毛だ、と信じてそれを確かめようとして、ハシゴから落ちて怪我をする。

     いつもママに苛められているから、「にんじん」は、ひねくれた子になっていた。狡猾で意地悪で残酷な面をも持っている。小鳥や生き物を見つけると、殺してみせた。兄ニコルは、「にんじん」の残虐な行いを見て失神してしまうほどだ。

    ママはトラブル続きでほとほと「にんじん」に手を焼いていた。「にんじん」は、ママの子ではなく、よそからもらわれてきた子であるか、確かめたくて、役場へ戸籍抄本を取ろうとしたが、うまく行かない。

    44534454 こんどは、医者の元恋人ではないか、とニセ手紙でママの反応を見てやろうと、友達に代筆を頼むが、それも見破られて、ひどく叱責される。家出して、湖で死んでやろうとして深みへ歩いていくが、知り合いが見つけて助ける。

    4457  ずぶ濡れで家に帰ると、母に咎められるが、「にんじん」は階段を上がって行こうとする、母に咎められる。が、「ママのいうことは聞かない」と、階段の上から宣言する。完全にママへの反抗宣言をする。今までは叱られる「にんじん」だったが、きょうから「従わない!」と逆らってしまった。

    4459 父は黙って、「にんじん」のすること、いうことを聞いている。「パパが降りて来いというなら、降りていく」と、父には柔軟な態度を示す。「わかった、●○」と「にんじん」を本名で呼ぶ。彼をあだ名の「にんじん」と呼ばないのは父だけだった。

    散歩へ出て、「にんじん」と二人きりになって話す。「母とはうまくやれないか」と切り出す。「パパは家にいないから、知らないが、ママはボクだけを差別する」 これがわからない。

    4460 「パパはぼくのパパではないんでしょ。だって、ぼくだけが赤毛だ。」
    「お祖父ちゃんがいるよ。お祖父ちゃんは昔から白髪だったわけでじゃないんだよ。前は赤毛だった。」
    「ママは赤毛がキライだから、ボクを苛めるんだ」
    「いや、不幸だからだ。わかるか、不幸だと優しくなれない。マ4461マは子供は二人でいいと言っていた。仕事をしたかった。気をつけなかったパパも悪かった。そして、赤毛のお前が憎まれたんだ。お前だけが感じが違うから、昔は優しい女性だった。結婚した頃は」
    「今もママが好き?」
    「背を向けたのはママだ。お前は幸せな人生を送れ」
    4462 「ママに嫌われても、幸せになれる?」
    「なれるさ、お前なら」
    「ボク、家を出たい。寄宿舎に入れて。ここでは、ボクは幸せになれない。」
    「寄宿舎はきびしいぞ。長い休みにしか帰れないぞ」
    「会いにきて。お願い、パパ」
    「赤ん坊だと思っていたら、いつの間にか、成長したな。ああ、良い子になった」と、いつの間にか父は「にんじん」の肩を抱いていた。

    寄宿舎へ「にんじん」が行ってしまうと、母は、自分の手元から去ってしまったことで、自分を責めているのか、泣いている。この女の気持ち、少しよくわからん。だったら、手元にいるとき、抱きしめてやればよかったにに、と思う。

    女は、“夫を口汚く罵る”とかしながら、愛しているという芸当ができるから、男とは人種が違うと思うことがある。夫が死んで、深く落ち込むという女がいる。だったら、生きているうちに夫に愛しているし姿勢を示せよ、ということだ。それの子供板だ。

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    2010年8月 5日 (木)

    真夏の快晴 きょうは暑さのピーク 2010年

    Photo_2  連日猛暑、真夏日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。
    「お暑うございます」などと、挨拶をする今日この頃。しかし、最近の暑さは今までと違うとかいうが、夏が暑いのは、昔から決まっている。

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    01 この暑さ、空を見ながら、このエネルギーを取り込めないか。電気に熱を交換機通して、溜め込めば、相当の電気になるのではないか。東京電力でそのくらいの研究していてもおかしくない。案外、すでに太陽熱を電気に変えていながら、水力だ、火力で電気を起こしていると言っているだけかもしれない、と思ったりして。

    Photo_3  きょうがピークで明日から、猛暑日はあるが、そう連続に暑い真夏日は続かないし、熱帯夜も減ってくるという予報だ。暑い日が減ると、もう秋になる。中学生の時行った(青森県)三戸町から山奥へ入っていく猿辺村の診療所では、8月10日過ぎると、赤とんぼが群だって飛び回っていた。

    Photo_4  個人的に言えば、この猛暑、キライではない。むしろ30度を越すくらいの暑さに耐える自分が好きである。汗タラタラ流して、扇風機に当たるのが一番快適だ。冷房を30度にして扇風機を掛けると、もういけない。寒すぎて落ち着かない。

     汗と頬に脂が出て不快になるのが問題だが、シャワーを浴びて、シャンプーすると、すっかり気分がよくなる。まあ、一日家にいるような日には、運動不足になるから、太陽が出ていている時間帯に三十分程度自転車で図書館か、買い物に出て汗をかいてくる。

    8503_3 日本の統計が案外良い加減ではないか、と疑問を持たれるようなケースの続出だ。
     一体、男性でいえば、79歳=80歳まで生きていると、同級生は50%はいないということか、どうかだ。嬰児死亡など早逝を除いてから同級生になる。平均寿命を下げる要因を省いた仲間を見ているのだから、平均寿命は余命の計算の根拠とは違う。

     東京へ出て、18年も経つと、田舎にいた歳月と同じとか、田舎にいた時間より東京にいる時間が長くなると、ふと自分の人生を考えてしまう。
     次にターニングポイントとなるのは、40歳過ぎ50歳ななると、一年の過ぎるのが早くなり、50歳で、アレ人生半分残っていない、と感じる時だ。この頃になると、やたらと同窓会の誘いが来るようになる。みんな人恋しいのか、人生を振り返りたくなるようだ。

     所ジョージが、真夏の畑で1時間草むしりして、熱中症で気分が悪くなってしまって救急車を自分で呼んだというが、熱中症は要注意。夏に強いと勘違いしていると、倒れてしまう。
     私の祖父も87歳で矍鑠カクシャクとしていたが、昭和35年の話、真夏に畑へ行って倒れたが、そこには誰もいなかったので、一時間くらい倒れたままだったので、それから衰弱が始まって、二週間後に亡くなった。

    Photo ◆所 ジョージ:本名・芳賀隆之(はが・たかゆき)。1955年1月26日、埼玉・所沢市生まれ。55歳。拓殖大在学中に音楽活動を開始し、後にタレント業に進出。現在、日テレ系「1億人の大質問!? 笑ってコラえて!」などレギュラー番組多数。身長172センチ、血液型O。

     そうそう、祖父は自分の死を予測して、死の前日「ひと夜さ経てば、死ぬ」と叫んだ。まわりにいた父の妹たちは、「一矢刺せば、死ぬ!」と聞こえたので「誰も刺させんよ」と答えたそうだ。入れ歯を外していたので、カツゼツ(割舌)が悪くなっていたので、伝わらなかった。

     それで、もう一度祖父は「ひと夜さ経てば、死ぬ!」と、前より大きな声で叫んだ。娘たちはやはり「一矢刺せば、死ぬ!」としか聞こえなかったので「誰も刺させんよ」と耳元で答えてやったそうだ。それから、もう祖父は何も言わず、翌朝死んだ。

     祖父が翌朝死んでから、その言葉「一矢刺せば」が「ひと夜さ経てば」と、意味がわかったのだった。
     
    自分の死がわかるのか、それ以後、私にとっての課題である。叔母は、「夫を亡くしたときは泣けなかったが、父〈祖父〉の死では思う存分泣けた」という言葉を言っていた。そういうものか、これも一つの疑問というか、課題として脳裏に残っている。

     父は82で亡くなり、祖父は87で亡くなった。一応の目標は祖父の年齢を超えることだ。叔母たちは元気だと思っていたが、90代でで亡くなり、叔母あと一人のみ残っている。7月1日、夏生まれの私は、この夜を去るのは夏なのかもしれない。

     中津の町では、本町の歯科医のオジさん岩田さんが、町内の子ども会で、クイズで「本町の最年長の人は誰か」と子供たちに聞いて、正解者に商品を渡す、そんなゲームがあった。正解は「曽我さんのオバアさん」あの昭和20年代の半ばで90歳くらいだった。町中で、どこの誰が何歳だと町中でみんな知っていた。

     岩田のオジさん、見た目はとっつき難いが子供好きだったので、子ども会の世話をしてくれた。家のなかへ子供を入れて、催しをしてくれた。余興で、雨の路上へガソリンをまいて、水の上でも火がっつく、ガソリンの怖さを教えてくれた。
     秋祭りに二人羽織りを作って仮装行列したり、巨大団扇を本町の真ん中に立て、「この団扇の高さは何メートルでしょうか」とクイズを出して、当てた人に商品を出した。三メートル二十センチと書いて出して、一等ではなかったが、二等で賞品の醤油小瓶をもらった。楽しい企画を作るおじさんは、謡曲の地謡の先生をやっていた。

    100歳以上の長寿になっても、誰も関心を持たない都会の関係とは違って、中津の町では、きょうの夕食は何かまで知っているのは、息苦しいが、密な関係があった。

     夏休みになると、町内10人くらいの小中学生が、(中仙道)本町通りを朝6時に起きて竹箒で約100メートルくらいを掃除をしていた。朝の弱い私は、みんながわが家の前まで掃き進んできたころ、「Tちゃーん!」と起こされて、慌ててみんなに参加した。そんな記憶がある。

     緊密な田舎の人間関係はプライバシーも侵されるが、案外本来の人間社会のあり方だったような気がする。100歳以上で所在不明者が全国で18人だとか、20名だとか、最終的には50名を越す勢いだ。中学、高校の同級生で所在不明者がセロのクラスは珍しい。理由はいろいろあるが、50名に一人の割合で所在不明者がいるのではないか。

     少し夕暮れて、蝉の声が、まだまだかまびすしい。孫が近くにいないと、蝉を取りにいくなどしなくなるから、蝉がいても知らん顔になる。数日後、下の娘の子供たちが常滑からやってくると、賑やかになる。

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    2010年8月 4日 (水)

    刑務所の読書で、更生の効果を

    8_2 犯罪者の多くが、最初の出発点が恵まれず、愛情を注がれることが少なかったという点があるのではないか、という点に注目している。

    単に、形式を守るだけでは、罪を反省して、その後の人生を償うことになるか、非常に疑問である。

    自分が経験してきた厳しいとさげすまれた過去にしか参照するべきモノがない。そのために、読書をする機会を得なかった犯罪者は、どれが正しいか、多くは知らない。

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    大阪の二児をマンションに置き去りにして餓死か、熱中症か、原因はわからないが、殺した23の女性は、きっと教育さえしっかり受けたら、贖罪の気持ちを持って、立ち直りそうに思える。

    そのためには、読書して生き方を見つけようと思って、本を読む人に図書館があるといい。寄贈される宗教の本が多いときくが、公平にあらゆる見地から人生を見られる配慮があるといいと思う。

    もう一点、刑務所の懲罰と教育という観点から見ると、決まりを服役者に守らせておけば、役目を果たしたという考え方が、管理責任者にあるように見える。

    受刑者にも、規則を守っておけば模範囚になり、早めに出所できるという考えになる。心から反省というより、形式上で反省していれば、それは書類上でOKとなる。お役所仕事が刑務所でも通る。一面それ以外の尺度は探そうとしても、見当たらないかもしれないが、内面からの改良は大人相手に考え方を変えろと言ってもできない相談かもしれないが、自発的な読書で何かつかむことがあるのではないか。

    教誨師となって、受刑者の相談に乗ったり、指導する方には多くの立派な方が引き受けている。また、仮釈放の判定を精神科医や有識者が面接しているが、模範囚であるとか、出所後の生活設計をきちんと立てているか、それらを判定するが、口頭でうまく言いさえすれば、許可が出る。

    これらのことを要領のいい受刑者は、わかっているから、面接j官の気に入ることを言い、早めに出ることを考える。真実に改心したかどうかは、二の次になる。

    相談に乗る有識者、教誨師の方の中に、刑務所内で受刑者に期待過剰のいいこと言うが、受刑者が外に出て相談にいくと、刑務所内でとった態度とずいぶん違う態度で接する人もいると聞く。

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    2010年8月 3日 (火)

    継母ストーリー 40年 ネグレクト虐待

     私は、五男二女、7人兄弟の下から二番目。戦前の家庭では、このくらいの兄弟は普通だった。しかし、どっちかと言えば、私は余分だったかもしれない。そのことは、父の姉、伯母にはっきり言われた。
    「ナスか、かぼちゃだったら、ちぎって捨てられるところだった。人間だったから助かった。有難く思わんとアカンぞ。お前産んだから、オッカアが体弱ってしまった」
     父の姉は、実母の母が亡くなったのを同情して言っていたのかも知れないが、デリケートな子供の気持ちを踏みつけ、ズケズケいう人だった。

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     実母の死後、私の育ての母には、私が小学校1年生のとき、初めて会った。小ニからこの母の元で暮らした。そして、40年にわたる葛藤が始まった。この母にしつけとも、虐待とも、ネグレクトとも、区別し難い育て方をされた。小説「にんじん」を地でいく母であった。全国的にみれば、もっと激しく虐待する人はいると思うが、育ての我が母は、特異な存在だった。

     生みの母が死後は、医大のインターンだった長兄と結婚した姉を除く兄弟たちは、父と新しい母と暮らし始めた家へ引き取られた。多分新しい母への父の気兼ねで、小5だった兄と小1の私は、姉(長女)が二十歳を期に結婚した家に同居することになった。

    姉の夫(義兄)は、一緒にメシを食う時、無作法だと箸でビシビシ叩き、幼い私たちに親しむ気配はなかった。賑やかに食べていた以前が懐かしかった。義兄は海軍に行っていたから、その気分が残っていたのかもしれないが、姉もよく殴られて泣いていた。

    昼間、同居の家は、義兄は国鉄勤務で不在、姉も国鉄機関区へアルバイトに出ていた。小6の兄は学校が遅くなると、小学校1年の私は、家に帰ってもダレもいない。今でいう「かぎっ子」状態になることが多かった。

    家の中には、テレビがあるわけでもない。大人は誰もいない。することもなく放置されていた。隣所に友だちがいない。まったくのひとりぼっちだった。これ、どうしたらいいのか、まったく孤独地獄だ!と痛感した。母の死が、こんな形になって私に影響してきた。実母のいない悲しみ、これは幼少の頃には、心の底に響くものだ。

     本町には、兄弟がいる。父がいる。新しい母がいる。それは知っていたから、「本町へ行こう」と思った。およそ5分か10分、数百メートルの距離だが、一人で行ったことはなかったから、一年生にとっては冒険であった。宮町(恵比寿神社前)姉の家から本町へ歩いて行った。

     初めてのお使いのようなドキドキ感があった。四つ目川に沿って、古い中仙道通りは柳並木で薄暗かった。本町のウチへ着いた。そこがわが家だ。でも、格子戸があり、閉まっていた。自分チだが、自分チではない家には、中へ入れない。
     しばらく入口に佇んでいたが、ダレも出てこないし、外の通りにも人はいなかった。誰も相手にしてくれない、こんな孤独は、味わったことはなかった。
     小一の私は、ここの家の子にしてもらえない。締め出されたような寂しさを感じて、しばらくここに居たが、また、今来た道を帰るしかなかった。こっちの家に帰ってきても、誰もいないままだった。

     誰に言えば、私の気持ちを受け止めてもらえるだろうか。兄にも姉にも、その後何十年も、誰にも伝えていない。この時の孤独な気持ちは、大人になっても、まだはっきり残っている。だから、小学一年生の幼い子を孤独にしてはいけないと、思ってきた。

     姉夫婦は、家一軒もらって、その代わり、弟二人を面倒見る約束だったが、義兄も姉も二人だけの新婚を楽しめないという気持ちもあっただろう。義兄が嫌がったのだろうか、一年生が終わる頃、荷物をリヤカーに載せ、私もそのリヤカーに乗せられ、父や兄弟のいる家へ連れて行かれた。月夜の3月の末だろう。「伊那の勘太郎」を義兄は一人で歌いながらリヤカーを引いていた。

     ようやく兄弟の仲間に入れてホっとした。当日は、まだちょっと遠慮があったが、義兄の前とは違って、遠慮なく賑やかに食事をするから、気持ちは楽になった。しかし、自由に動きまわる兄たちを見て、羨ましかった。

     
     昨今、離婚、再婚も多くなるがろうが、これから、ママ親(後妻)になる方に、アドバス。子供の支えになってやるつもりでないと、長い目で見ると、再婚はその家に揉め事を増やすだけかもしれない。義理の母が、数十年後に彼らに慕われるか、それとも憎まれるか、それはあなたの心がけ一つ。また、子供の側が継母の隔絶を克服、達観するには、長い時間と強い精神力が必要だ。

     よその家の話しだが、88歳の母親、再婚して子供の母になり、その後、故あって別れ、最近再会を求めてきたが、60から70歳になっている義理の子供たちは会いたがらない。支えてもらいたいときに、支えてもらえなかったという昔の齟齬を根にもって、溶けない気持ちがあるようだ。肉親でも、同様なケースがあるからアイコかもしれないが。

     戦中から昭和20年代、ウチは、〈恵那)郡全体が消費する麦を精麦する会社だった。日本人が貧乏で、麦を主食で食っていた時代は、機械がフル稼働していた。「貧乏人は麦を食え」と言われる時代で、多くの「米が食えるようになりたい」と人々は思っていた。朝鮮動乱のころまでは、工場はパートのオバサンや従業員も多く、にぎやかで、順調だった。

    景気のいいときは、社員の慰安として、根ノ上高原のつつじを見にいくとか、桜の時期は恵那峡へ弁当持ちで出かけた。そんな慰安会に子供として連れて行かれた。教育の一環として映画も見にいった。月一回はエノケン、金語楼などの喜劇映画に旭座へ行った。

    五月頃、町中の電柱に「神谷農園のイチゴ狩り」と青字のポスターが貼り巡らされた。晴れた日曜日連れて行ってもらった。農園で取ったイチゴにコンデンスミルクを掛けて、一粒ずつ潰して食べた甘さは、あれは忘れられない。神谷農園 イチゴ狩り

    特需で日本の景気がよくなると、途端に日本人の「麦食離れ」が起きて、精麦会社は斜陽になった。この「麦食離れ」は、会社への影響は一気に来た。この影響は子供にはわからなかったが、大人になって振り返って見ると、それが分岐点だった。これ、日本人の嗜好が米食に傾いて、日本人の変わりようはめまぐるしかつ急激だった。それは、今まで本町通りに列をなしていた馬車やトラックがすっかり来なくなった。

    精麦工場で働くのが、母親の仕事だったのが、仕事がなくなり、収入の道が途絶えた状態だったので、機嫌が悪い毎日になり、母はパチンコ屋へ入り浸りとなった。母親が毎日パチンコ屋へ入り浸りというのは、子供には恥ずかしい気持ちであった。

    そのころ、昭和20年代の半ばから、急激に中津の町は名古屋発祥のパチンコ屋が町中にできた。中津の町は昔の宿場町で、商売で成り立っているから、そういう商売が成功すると、一気に広がる傾向がある。射幸心を刺激すると、人ははまると、もう麻薬状態で、ある。

    本町わが家の隣りSさん宅も、三坪もない場所に、パチンコ屋を始めた。母は、隣り町、横清水町のパチンコ屋のお得意さまで、ここに一日入り浸りだった。収支を聞いたことはなかったが、毎日日課のように通っていた。玉を店に預けたり、顔になっていたのは確かだ。一方、父はギャンブルは苦手だったので、ニワトリの飼育でタマゴの販売を考えていた。豚の肥育もやった。アヒルも、兎も飼った。しかし、恵那郡一帯の精麦を引き受けていた時代のような旨みがあるわけには行かなかった。

    わが家へ母が入って四、五年たって、母もそろそろ尻尾を出してきたのか、きつくなってきた。わが家は不景気になってから、母は本性を表してきたというか、子への虐待が始まった。朝は起きないし、朝メシの支度もしなかった。子供と一緒に食事はしないで、父と二人だけ別室で、美味しいものを食べるという生活をしていた。

     母は、口をひらけば、「私は子供は好きではない、こんなに子供がいるとは聞いていなかった」と平気で子供に向かっていう人だった。確か、子沢山の家に嫁に来たつもりはなかった母にとって、次から次に子供が現れて、子供嫌いの母には驚きだったはずだ。
     精麦工場隣の自宅購入は、父が資金を都合したと聞いていたが、後妻に来てもらうために、登記上の名義を母の名前にした。それを、「ここの家は私の家だ。子供は、早く家を出ていけ」と、コトあるごとに大声でいう。子供の私たちには反抗する手がなかった。

    母は、名古屋が大空襲で危くなったので、戦時中、中津へ疎開して来た人だった。元々置屋にいて芸者をやっていたから、田舎の人とは毛色の違う人だった。おシャベリや遊び、芸事などは得意だが、日常生活のコマゴマとしたことは、不得意だった。

    芸事の得意の母は、秋祭りの山車上で、三味線で東京音頭や、賑やかしの音曲を弾いていた。目立つ役回りが大好きであった。実母の地味な真面目さとは雲泥の違いが、私の兄や姉には受け入れ難いようだった。

    芸事の得意反面、家事が苦手で、朝起きが苦手、その上、口が悪く勝気。それが、不機嫌とともに、ガミガミと本性として出てくると、誰も止められなった。育ち盛りの子供には、怖い存在だった。母というのは、抱擁してくれる存在に勝手にイメージを持ってしまうのは、私を代表するママ母に育てられた人のクセで、全幅の信頼で寄りかかれるのが母だと思いがちだ。

    学校へ行く前、母親が起きてくれないので、中1の姉がご飯をたき、食事の支度をしてくれた。その間、私と弟は板の間の掃除、雑巾掛けをするのが「決まり」になっていた。置屋にいた住み込みの少女などのしつけを参考にしているようだった。

    食い物では、辛い思いをした。食べさせられるものは、私たちは、親とは違うものだった。親の部屋からすき焼きの匂いがしてくるのに、私たち子供は昼の残りをたべさせられていた。
     名古屋で生活していた母は、よく焼き飯(チャーハン)を作って食べさせた。ふーん、これは新しい母の味は、都会の感じだと思った。

     が、油がよくなかったのか。今思うと、使い古した油を使っていたのではないか。だから、この焼き飯を食うたびよく下痢になった。下痢になっても、母には言えなかったし、母も子供の腹具合には関心をもたなかった。食いたくなければ、食うものはない。選択の余地はなかったから、食わなければ何もなかった。
     
     6年生のとき、学校を休んで、駅主催の「(三重県)桑名の汐干狩り」に行った。桑名の港から船で沖に出て、海の中州でハマグリをたくさん掘った。海に連れて行ってもらって楽しかった。しかし、採ったハマグリのことを忘れていていた。  
     翌日の夕方、庭を見ると、桑名のハマグリの殻が庭に放り出されていた。母と父が二人で食べたとわかった。子供にはハマグリを食わせてもらえなかったことに気づいた。うちはこうだから、余所も親と子供は別に食事をしているものと思っていた。

     母は子供のものを洗濯してくれる気はまるでなかった。洗濯はしてくれないから、子供の私たちは、自分の洗濯は自分でやることになっていた。確かに、洗濯機ない時代、子供嫌いの人が子供五,六人分をやる気を起こすだろうか。コマメニやらないと、大量溜まった日には、益々イヤになるだろう。まして、愛情も感じない子供のものだったら。
     小5の冬の日曜日、洗濯にお湯など用意されているわけではない。たらいに水を入れ、ズボン、シャツ、洗っていたら、手は真っ赤になるし、石鹸つけてゴシゴシと二時間くらい必死にやった。それを母はお茶の飲みながら、眺めているのだった。そうそう続けて洗濯できるわけではないが、井戸廻りが水びたしになると「水をこぼすな」と一喝される

     恥ずかしかったのは、衛生検査で着ているものを見られるときだった。保健の時間、着ている物の衛生検査で、長く着続けているシャツを評価が最悪の汚いといわれて、ああ、みんな親が洗濯してくれて、下着まで気配りしてもらっているのだな、と痛感した。実母の良さを味わっている彼らと比較して、悲しみを味わった。

     高校生ころ、夜中十二時を過ぎて、明かりを点けて勉強していると
     『もったいない。早く消せ!』
    母は大声で怒鳴るのであった。勉強であろうと、読書であろうと理由にはお構いなしで、怒るのだった。電気代を節約の方が大事で、子供が勉強をすることを喜ぶ人ではなかった。
     ムシの居所が悪いのか、そして本当にヒューズを抜いてしまい、二階の私の部屋は真っ暗にしてしまう。そんなこと、いくら貧しくたって,本当の親子だったら、ここまではやらないでだろう。こんなこと、友達に言えることではない。
     真っ暗な部屋の机で、この母の仕打ちを忘れないぞ、と心に決めて時の過ぎるのを待っていた。いつか、復讐してやると思って。高校生の私は一番勉強しなければならない時だっただけに、『親』ではない『鬼』だと言う気持ちであった。母の寝静まった頃、階段をソーッと下りて、ヒューズを入れたが、これでかなり人生に対して意気阻喪した。

     私が大人になるに従って、この母も、勝気も多少は緩和したが、平成元年亡くなるまで、多くのストーリーを私に残して去っていった。今は、母に対して、憎しみも恨みもない。却って、人生に深みができたという印象さえ持っている。

    虐待ネグレクト① 育児ネグレクト 秋田の例   出産、子育ては楽しみでありたい   悲しい 母への詩 小4少年    生んでくれた恩、育ての恩、どっちが    子育てイライライ どうするの?    親も しょせん 子供のなれの果て   捨て子の気持ち   新山千春「喜んで!」赤ちゃんの世話   家庭で子育てしながら働くSOHO   おとなの知恵で、丸く治まる 第五福竜丸のマグロを食べた家 ネグレクトで自分を肯定できない 

    虐待ネグレクト② 調整風見しんご 親の悲しみ  幼い子を孤独にしてはいけない   施設に預けられている子の背景  親の態度→子供に影響する一覧   離婚した女の生き方、育児放棄の罪 昭和と母への決別    お父さんの育児協力    奈良の事件から考える   中国人お母さんの孤独ストレス 幼児殺したネグレクト育児放棄の罪    

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    2010年8月 2日 (月)

    8月15日 戦没者墓苑戦場地図前 目印:手首にハンカチ

    Org_pict_502_2 戦没者墓苑戦場地図前 集合 12時から1時
    目印:手首にハンカチで12時から1時にお待ちしています。

    毎年、靖国神社と戦没者墓苑へ終戦に思いを馳せながら来ていますが、同好の士というか、この夏の暑い中を散策でできることで、今年も元気という気持ちを持って帰ります。

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    靖国神社の政治的な主張の場に対して、戦没者墓苑は非常にシンプルであまりに何もないのが寂しいです。話ができるなら、こ個が一番でしょう。暑い外の1時間は辛いですが、休憩所もありますので、案外、戦没者墓苑は穴場です。

    戦没者墓苑では、ポスターなどはいっさい禁止ですので、目印に手首にハンカチとしましょう。手首のハンカチを振ります。「nozawa sanですか?」と声かけてください。

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    2010年8月 1日 (日)

    戦争と人間 ( 五味川 純平)日本昭和史

    4407 「戦争と人間」を読んだのは、昭和30年代の後半だったかもしれない。まだ多くの戦争体験者は健在で、私はまだ戦争を知らないウチに入っていただろう。左翼書籍を多く発行する三一書房から出ていた。

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    今は都営住宅と図書館の併合住宅になった、文京区の神明町都電車庫の近くに住んでいた頃、博文堂という本屋で買った記憶がある。映画にもなって、動坂映画館に見に行った。確か、戦場に出る夫のために、体の隅々まで目に焼き付けておきたいという夫の要望に応えて、新珠三千代がヌードになるシーンを見た記憶があるが、錯覚だったかな。(「人間の條件と混同している。)

    4399 五味川純平の体験は、「1943年召集を受け、満州東部国境各地を転々とした。1945年8月のソ連軍の満州侵攻時には、所属部隊はソ連軍部隊の攻撃を受けて全滅に近く、生存者は五味川以下数名だった」これは、よほどの幸運でなければ、生き残れない。生き残った人間の務めとして、戦争について書かずにいられない気持ちがわかる。多くの読者も、そう感じただろう。五味川純平の書くものはことごとくヒットした。

    彼の戦後残った人生で、彼は十分勤めを果たしたのだろう。文化勲章とか、文化功労賞はもらっていないのは、これだけ、政府のやったことを批判しているからか、

    Archive_person_081128 五味川 純平(ごみかわ じゅんぺい、1916年(大正5年)3月15日 - 1995年(平成7年)3月8日):日本の小説家。旧満州生まれ。東京商科大学(現一橋大学)に入学するも1年で中退、東京外国語学校(現東京外国語大学)英文科卒業後、満州鞍山の昭和製鋼所に入社

    4396 抗日則生 不抗日則死  中国人に意識だろう。「戦争と人間」は、五味川純平の人生で、満州で戦場で見たものを描写している。昭和7年ころから、終戦までの満州で体験したり、見聞しているから、それを軽々に批判できない強さがある。その時代をともにした人が描いたものだから、誰もウソだとはいえない迫力がある。

    377 今現在、この種のストーリーを描くにしても、真実味が希薄になってしまうし、時代背景にしても、同時代の人が減って、ツーと言えば、カーとわかってもらえない。視聴者の興味がもう満州を求めていない。昭和は遠くなりにけり。困った時代になったものだ。

     蒋介石と毛沢東の内戦停止で抗日対戦で統一していく過程、盧Photo 溝橋事件、張作霖殺害とか、このあたりに時代の流れが、日本国民のみんなが知っている常識から、勉強しないとよく理解できない「中国アジア歴史」になってしまう難しさを感じる。

    日本国内も、満州建国前後の日本とソ連の関係も、勉強しないとわからない。坂本竜馬はわかっても、満州で跋扈した日本軍の動きは、日本国民の常識外の話になってしまっている。どうしてだろうね。

    4375 満州首都「新京シンキョウ」(現在のチャンチュン長春)の中心街で、満人の車夫に乗るときは30銭を約束して乗り、人力車で降りると、10銭しか渡さない。そして、満人車夫が不足分20銭を要求したら殴る日本人が実際にいたのだろう。こんな日本人のは幾多もあったといわれている。

    4372 一人の日本人(水戸黄門の西村晃)を見ていた伍代俊介(北大路欣也)が
    「乗るだけ乗って、高いと言って殴るのはひどいでしょう」
    「横から口を出さんでくれ。チャンコロの言い分を真に受けて肩を持とうというんだな」
    「さんざん乗り回して、10銭玉一つで、誰が聞いても通る話じゃないですよ。もう20銭払えば済むことではないですか。」

    Img56172274 「払う必要はない」
    「相手が満人だから払う必要がないのですか。それとも、20銭持ち合わせがないから払えないというのですか」
    「持ち合わせがない、というはなんだ。人をナンだとと思っているんだ。 マア、いいだろう」と10銭玉を車夫に渡さず、雨の路上へ放り投げる。「君は横から口を出したには名前を名乗れ」
    「伍代俊介」
    「伍代俊介?」
    路上の銭を拾って車夫に渡そうとしても、車夫はプライドがあるのか、受取ろうとしない。それをムリに渡し、車夫は去る。

    4382 伍代由介:滝沢修
    伍代喬介:芦田伸介
    伍代英介:高橋悦史
    伍代由紀子:浅丘ルリ子
    伍代俊介:中村勘九郎(第一部)→北大路欣也(第二部・第三部)
    4393 伍代順子:佐藤萬理(第一部)→吉永小百合(第二部・第三部)
    柘植進太郎:高橋英樹
    灰山浩一:江原真二郎
    お滝:水戸光子
    武居弘通:波多野憲
    鴫田駒次郎:三国連太郎(第一部・第二部)
    高畠正典:高橋幸治(第一部・第二部)
    標耕平:吉田次昭(第一部)→山本圭(第二部)
    服部達夫:加藤剛(第一部・第二部)
    大塩雷太:福崎和宏(第一部)→辻萬長(第二部)
    梅谷邦:廣田治美(第一部)→和泉雅子(第二部)
    梅谷庄吉:山田禅二(第一部・第二部)
    鴻珊子:岸田今日子(第一部・第二部)
    白永祥:山本学(第一部・第二部)
    徐在林:地井武男(第一部・第二部)
    陣内志郎:南原宏治(第一部・第二部)
    趙瑞芳:栗原小巻(第一部・第二部)
    趙大福:龍岡晋(第一部・第二部)
    趙延年:岩崎信忠(第一部・第二部)
    石原莞爾中佐→大佐:山内明(第一部・第二部)
    板垣征四郎大佐→少将→中将:藤岡重慶
    ナレーター:鈴木瑞穂

     これらの五味川順平の戦記ものは、日本人の中国、満州で 行なった行動を徹底的に批判した目で見ていることだ。これを今では自虐史観といって、受け入れない傾向がある。安倍晋三の歴史観だったら、止む得ず戦った。あるいは「天に代わり、不義を討つ」として、正しい戦いをしていると考える。これが今後ますます強くなりそうだ。

     今後、追及するのは、「人類に対する戦争の犯罪であって、その中で、祖父の代の犯罪行為は、狂気のなせる業である。日本人の戦争犯罪、日本人の過去を正当化しようとして、「自虐史観」と言いつくろって、「人類に対する戦争の犯罪を見逃していることで問題を複雑にしている。

     祖父の代の行なった中国で犯した残虐行為は、あくまでもはっきりさせて、謝罪する点は謝罪していくしかないでしょう。被害者の立場で考えるべきである。これを自虐史観で否定するのは、広島、長崎で民間人を殺した原爆被害についてアメリカに文句一つ言えない日本人の悲しい裏側である。

     国家間で決着している問題は、未来に向かって一つのステップとして、その上の友好を築いていけるのではないか。そして、反省のしるしとして、多くの収奪品は元の国へ返す運動していくとか、イギリスも、フランスも、アメリカも、日本も、そういう流れで行きたいものだ。

     それは、まず、広島へ長崎へ、世界に首脳を呼んで、G8でも、G20でも開催するべきでしょう。その被害の甚大なこと、日本がなぜ平和憲法を持っているか、原爆ドームを見て、原爆博物館を見てくれたら、良識あるEUあたりの首脳なら、人間の理想、行くべき将来のヒントをくみ上げてくれるだろう。と、期待している。

     世界の首脳を呼ぶのには、金賢姫招待の費用と同じ、内閣機密費を使っても良いでしょう。

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