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2010年8月 3日 (火)

継母ストーリー 40年 ネグレクト虐待

 私は、五男二女、7人兄弟の下から二番目。戦前の家庭では、このくらいの兄弟は普通だった。しかし、どっちかと言えば、私は余分だったかもしれない。そのことは、父の姉、伯母にはっきり言われた。
「ナスか、かぼちゃだったら、ちぎって捨てられるところだった。人間だったから助かった。有難く思わんとアカンぞ。お前産んだから、オッカアが体弱ってしまった」
 父の姉は、実母の母が亡くなったのを同情して言っていたのかも知れないが、デリケートな子供の気持ちを踏みつけ、ズケズケいう人だった。

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 実母の死後、私の育ての母には、私が小学校1年生のとき、初めて会った。小ニからこの母の元で暮らした。そして、40年にわたる葛藤が始まった。この母にしつけとも、虐待とも、ネグレクトとも、区別し難い育て方をされた。小説「にんじん」を地でいく母であった。全国的にみれば、もっと激しく虐待する人はいると思うが、育ての我が母は、特異な存在だった。

 生みの母が死後は、医大のインターンだった長兄と結婚した姉を除く兄弟たちは、父と新しい母と暮らし始めた家へ引き取られた。多分新しい母への父の気兼ねで、小5だった兄と小1の私は、姉(長女)が二十歳を期に結婚した家に同居することになった。

姉の夫(義兄)は、一緒にメシを食う時、無作法だと箸でビシビシ叩き、幼い私たちに親しむ気配はなかった。賑やかに食べていた以前が懐かしかった。義兄は海軍に行っていたから、その気分が残っていたのかもしれないが、姉もよく殴られて泣いていた。

昼間、同居の家は、義兄は国鉄勤務で不在、姉も国鉄機関区へアルバイトに出ていた。小6の兄は学校が遅くなると、小学校1年の私は、家に帰ってもダレもいない。今でいう「かぎっ子」状態になることが多かった。

家の中には、テレビがあるわけでもない。大人は誰もいない。することもなく放置されていた。隣所に友だちがいない。まったくのひとりぼっちだった。これ、どうしたらいいのか、まったく孤独地獄だ!と痛感した。母の死が、こんな形になって私に影響してきた。実母のいない悲しみ、これは幼少の頃には、心の底に響くものだ。

 本町には、兄弟がいる。父がいる。新しい母がいる。それは知っていたから、「本町へ行こう」と思った。およそ5分か10分、数百メートルの距離だが、一人で行ったことはなかったから、一年生にとっては冒険であった。宮町(恵比寿神社前)姉の家から本町へ歩いて行った。

 初めてのお使いのようなドキドキ感があった。四つ目川に沿って、古い中仙道通りは柳並木で薄暗かった。本町のウチへ着いた。そこがわが家だ。でも、格子戸があり、閉まっていた。自分チだが、自分チではない家には、中へ入れない。
 しばらく入口に佇んでいたが、ダレも出てこないし、外の通りにも人はいなかった。誰も相手にしてくれない、こんな孤独は、味わったことはなかった。
 小一の私は、ここの家の子にしてもらえない。締め出されたような寂しさを感じて、しばらくここに居たが、また、今来た道を帰るしかなかった。こっちの家に帰ってきても、誰もいないままだった。

 誰に言えば、私の気持ちを受け止めてもらえるだろうか。兄にも姉にも、その後何十年も、誰にも伝えていない。この時の孤独な気持ちは、大人になっても、まだはっきり残っている。だから、小学一年生の幼い子を孤独にしてはいけないと、思ってきた。

 姉夫婦は、家一軒もらって、その代わり、弟二人を面倒見る約束だったが、義兄も姉も二人だけの新婚を楽しめないという気持ちもあっただろう。義兄が嫌がったのだろうか、一年生が終わる頃、荷物をリヤカーに載せ、私もそのリヤカーに乗せられ、父や兄弟のいる家へ連れて行かれた。月夜の3月の末だろう。「伊那の勘太郎」を義兄は一人で歌いながらリヤカーを引いていた。

 ようやく兄弟の仲間に入れてホっとした。当日は、まだちょっと遠慮があったが、義兄の前とは違って、遠慮なく賑やかに食事をするから、気持ちは楽になった。しかし、自由に動きまわる兄たちを見て、羨ましかった。

 
 昨今、離婚、再婚も多くなるがろうが、これから、ママ親(後妻)になる方に、アドバス。子供の支えになってやるつもりでないと、長い目で見ると、再婚はその家に揉め事を増やすだけかもしれない。義理の母が、数十年後に彼らに慕われるか、それとも憎まれるか、それはあなたの心がけ一つ。また、子供の側が継母の隔絶を克服、達観するには、長い時間と強い精神力が必要だ。

 よその家の話しだが、88歳の母親、再婚して子供の母になり、その後、故あって別れ、最近再会を求めてきたが、60から70歳になっている義理の子供たちは会いたがらない。支えてもらいたいときに、支えてもらえなかったという昔の齟齬を根にもって、溶けない気持ちがあるようだ。肉親でも、同様なケースがあるからアイコかもしれないが。

 戦中から昭和20年代、ウチは、〈恵那)郡全体が消費する麦を精麦する会社だった。日本人が貧乏で、麦を主食で食っていた時代は、機械がフル稼働していた。「貧乏人は麦を食え」と言われる時代で、多くの「米が食えるようになりたい」と人々は思っていた。朝鮮動乱のころまでは、工場はパートのオバサンや従業員も多く、にぎやかで、順調だった。

景気のいいときは、社員の慰安として、根ノ上高原のつつじを見にいくとか、桜の時期は恵那峡へ弁当持ちで出かけた。そんな慰安会に子供として連れて行かれた。教育の一環として映画も見にいった。月一回はエノケン、金語楼などの喜劇映画に旭座へ行った。

五月頃、町中の電柱に「神谷農園のイチゴ狩り」と青字のポスターが貼り巡らされた。晴れた日曜日連れて行ってもらった。農園で取ったイチゴにコンデンスミルクを掛けて、一粒ずつ潰して食べた甘さは、あれは忘れられない。神谷農園 イチゴ狩り

特需で日本の景気がよくなると、途端に日本人の「麦食離れ」が起きて、精麦会社は斜陽になった。この「麦食離れ」は、会社への影響は一気に来た。この影響は子供にはわからなかったが、大人になって振り返って見ると、それが分岐点だった。これ、日本人の嗜好が米食に傾いて、日本人の変わりようはめまぐるしかつ急激だった。それは、今まで本町通りに列をなしていた馬車やトラックがすっかり来なくなった。

精麦工場で働くのが、母親の仕事だったのが、仕事がなくなり、収入の道が途絶えた状態だったので、機嫌が悪い毎日になり、母はパチンコ屋へ入り浸りとなった。母親が毎日パチンコ屋へ入り浸りというのは、子供には恥ずかしい気持ちであった。

そのころ、昭和20年代の半ばから、急激に中津の町は名古屋発祥のパチンコ屋が町中にできた。中津の町は昔の宿場町で、商売で成り立っているから、そういう商売が成功すると、一気に広がる傾向がある。射幸心を刺激すると、人ははまると、もう麻薬状態で、ある。

本町わが家の隣りSさん宅も、三坪もない場所に、パチンコ屋を始めた。母は、隣り町、横清水町のパチンコ屋のお得意さまで、ここに一日入り浸りだった。収支を聞いたことはなかったが、毎日日課のように通っていた。玉を店に預けたり、顔になっていたのは確かだ。一方、父はギャンブルは苦手だったので、ニワトリの飼育でタマゴの販売を考えていた。豚の肥育もやった。アヒルも、兎も飼った。しかし、恵那郡一帯の精麦を引き受けていた時代のような旨みがあるわけには行かなかった。

わが家へ母が入って四、五年たって、母もそろそろ尻尾を出してきたのか、きつくなってきた。わが家は不景気になってから、母は本性を表してきたというか、子への虐待が始まった。朝は起きないし、朝メシの支度もしなかった。子供と一緒に食事はしないで、父と二人だけ別室で、美味しいものを食べるという生活をしていた。

 母は、口をひらけば、「私は子供は好きではない、こんなに子供がいるとは聞いていなかった」と平気で子供に向かっていう人だった。確か、子沢山の家に嫁に来たつもりはなかった母にとって、次から次に子供が現れて、子供嫌いの母には驚きだったはずだ。
 精麦工場隣の自宅購入は、父が資金を都合したと聞いていたが、後妻に来てもらうために、登記上の名義を母の名前にした。それを、「ここの家は私の家だ。子供は、早く家を出ていけ」と、コトあるごとに大声でいう。子供の私たちには反抗する手がなかった。

母は、名古屋が大空襲で危くなったので、戦時中、中津へ疎開して来た人だった。元々置屋にいて芸者をやっていたから、田舎の人とは毛色の違う人だった。おシャベリや遊び、芸事などは得意だが、日常生活のコマゴマとしたことは、不得意だった。

芸事の得意の母は、秋祭りの山車上で、三味線で東京音頭や、賑やかしの音曲を弾いていた。目立つ役回りが大好きであった。実母の地味な真面目さとは雲泥の違いが、私の兄や姉には受け入れ難いようだった。

芸事の得意反面、家事が苦手で、朝起きが苦手、その上、口が悪く勝気。それが、不機嫌とともに、ガミガミと本性として出てくると、誰も止められなった。育ち盛りの子供には、怖い存在だった。母というのは、抱擁してくれる存在に勝手にイメージを持ってしまうのは、私を代表するママ母に育てられた人のクセで、全幅の信頼で寄りかかれるのが母だと思いがちだ。

学校へ行く前、母親が起きてくれないので、中1の姉がご飯をたき、食事の支度をしてくれた。その間、私と弟は板の間の掃除、雑巾掛けをするのが「決まり」になっていた。置屋にいた住み込みの少女などのしつけを参考にしているようだった。

食い物では、辛い思いをした。食べさせられるものは、私たちは、親とは違うものだった。親の部屋からすき焼きの匂いがしてくるのに、私たち子供は昼の残りをたべさせられていた。
 名古屋で生活していた母は、よく焼き飯(チャーハン)を作って食べさせた。ふーん、これは新しい母の味は、都会の感じだと思った。

 が、油がよくなかったのか。今思うと、使い古した油を使っていたのではないか。だから、この焼き飯を食うたびよく下痢になった。下痢になっても、母には言えなかったし、母も子供の腹具合には関心をもたなかった。食いたくなければ、食うものはない。選択の余地はなかったから、食わなければ何もなかった。
 
 6年生のとき、学校を休んで、駅主催の「(三重県)桑名の汐干狩り」に行った。桑名の港から船で沖に出て、海の中州でハマグリをたくさん掘った。海に連れて行ってもらって楽しかった。しかし、採ったハマグリのことを忘れていていた。  
 翌日の夕方、庭を見ると、桑名のハマグリの殻が庭に放り出されていた。母と父が二人で食べたとわかった。子供にはハマグリを食わせてもらえなかったことに気づいた。うちはこうだから、余所も親と子供は別に食事をしているものと思っていた。

 母は子供のものを洗濯してくれる気はまるでなかった。洗濯はしてくれないから、子供の私たちは、自分の洗濯は自分でやることになっていた。確かに、洗濯機ない時代、子供嫌いの人が子供五,六人分をやる気を起こすだろうか。コマメニやらないと、大量溜まった日には、益々イヤになるだろう。まして、愛情も感じない子供のものだったら。
 小5の冬の日曜日、洗濯にお湯など用意されているわけではない。たらいに水を入れ、ズボン、シャツ、洗っていたら、手は真っ赤になるし、石鹸つけてゴシゴシと二時間くらい必死にやった。それを母はお茶の飲みながら、眺めているのだった。そうそう続けて洗濯できるわけではないが、井戸廻りが水びたしになると「水をこぼすな」と一喝される

 恥ずかしかったのは、衛生検査で着ているものを見られるときだった。保健の時間、着ている物の衛生検査で、長く着続けているシャツを評価が最悪の汚いといわれて、ああ、みんな親が洗濯してくれて、下着まで気配りしてもらっているのだな、と痛感した。実母の良さを味わっている彼らと比較して、悲しみを味わった。

 高校生ころ、夜中十二時を過ぎて、明かりを点けて勉強していると
 『もったいない。早く消せ!』
母は大声で怒鳴るのであった。勉強であろうと、読書であろうと理由にはお構いなしで、怒るのだった。電気代を節約の方が大事で、子供が勉強をすることを喜ぶ人ではなかった。
 ムシの居所が悪いのか、そして本当にヒューズを抜いてしまい、二階の私の部屋は真っ暗にしてしまう。そんなこと、いくら貧しくたって,本当の親子だったら、ここまではやらないでだろう。こんなこと、友達に言えることではない。
 真っ暗な部屋の机で、この母の仕打ちを忘れないぞ、と心に決めて時の過ぎるのを待っていた。いつか、復讐してやると思って。高校生の私は一番勉強しなければならない時だっただけに、『親』ではない『鬼』だと言う気持ちであった。母の寝静まった頃、階段をソーッと下りて、ヒューズを入れたが、これでかなり人生に対して意気阻喪した。

 私が大人になるに従って、この母も、勝気も多少は緩和したが、平成元年亡くなるまで、多くのストーリーを私に残して去っていった。今は、母に対して、憎しみも恨みもない。却って、人生に深みができたという印象さえ持っている。

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コメント

昔は大変な事だらけだったけども、今は全てが便利になった時代。だけど子育てだけは自分がやらなくちゃダメだからよけいに大変に感じられるんでしょうね。血のつながりは関係なく子供に当たり散らす人は周りにもいる。私なんか夫が厳しい人だったから子供も何とかキチンと育てたけど自分の思い通りでやってたら案外子供ほったらかしのタイプだったかも。母性は本能なんかじゃない。周りのフォローも大事。

投稿: なお | 2010年8月 3日 (火) 09時21分

神谷農園 イチゴ狩りhttp://members.jcom.home.ne.jp/4119094901/Private2/KamiyaNouenn.htm

投稿: イチゴ狩り | 2012年3月29日 (木) 16時31分

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