« Bフレッツをネクストに移行しませんか | トップページ | 公明党の組織選挙の現状さぐる »

2010年7月27日 (火)

辻元清美離党、社民党 今後どうする

Cover_20070528 辻元清美が社民党を見限るという記者会見があったが、こうして社民党から出て行って、社民党は解散するか。

社民党離党 2010年7月26日、社会民主党を離党する意向を表明[8]。7月26日夜に重野安正幹事長との会談で離党の意向を伝え、7月27日午前中には福島瑞穂党首から離党を思い留まるよう慰留されるも、福島の説得を受け入れず、次の衆議院議員選挙には無所属で出馬する考えを表明した。

読んだよクリック」よろしくね!
   ↓   ↓
人気blogランキングへ  ご感想  お書きください

Photo132875Photo あの福島さんが、普天間基地の問題でスジを通したのはカッコよかったが、社民党は連立政権から抜け出るのは、失敗だったか。いや、前回、社会党のときヒゲの委員長村山さん、自民党と連立組んで自衛隊容認という平和憲法の解釈を変更して、社会党凋落の原因を作ったという前科があったから、福島さん、今回精一杯、スジを通して連立解消した。そこまでやっては、現実のメリットを失うと、現実を考える重野幹事長が反対していたようだったが、福島さん突っ走った。

20tuji その余波は、遂に辻元清美の離党にまで来た。副大臣として政策実行の先端で働いていて、彼女の上司前原国交大臣からも、有能だと評価され、清美副大臣もやりがいを感じたようだ。前原さんから、直接指名された経緯もある。福島さんが辞任・罷免で、それを生木を裂くように副大臣を辞めることになって、このことが大きな理由になったと思う。

部分連合があるなら、「部分非連合」連立を図れば、鳩山内閣のダメージが少なく、民主党も現状維持ができた。すると、社民党の傷も小さくて済んだだろうが、清くカッコよく離脱で、現在張り切って仕事をしていた辻元清美が、福島路線から脱落する仕儀となった。

看板娘で将来の委員長候補がいなくなり、嫁に出て行かれた家のようで、社民党は寂しくなってしまう。野党時代、衆議院議員の1/3を越えて、改憲阻止勢力として存在意義があったのが、華だったかな。

確か、与党政府に側になって、政策が実行できる立場に立って、野党で「総理!ソーリ!総理!ソーリ!」と小泉総理に叫んだり「あなたは、疑惑のデパートだといわれているが、疑惑の総合商社です!」と鈴木宗男を追い詰めたのも、存在感があったが、50歳になって、これからは追及より、税金をつかって、できる仕事をして味を占めたら、やはり与党側に立ちたくなる。それは、よくわかる。

しかし、社会党→社民党と「平和」を一番に考え、アメリカとの平和条約を破棄しても、戦争放棄で貫いている社民党は、存在意義を持ってきたが、そろそろ使命を果たしたから、「解党します」と宣言するのも良いのかもしれない。

それは考えられないなら、解党的で直しで、生活ネットとか、NPO母体の組織をまとめて、社民党という名前ではない、組織の作り直しを考えるべきだろう。「新党みんな無所属」で党議拘束がない組織でも面白い。

社民党の将来を考えていたら、昔社会党事務局で働いていた人と知り合いだった。選挙するたびに社会党議員が少なくなり、組織が縮小して、多分大変だったと思うが、彼は何もそういうことは党秘だったのか、何も語っていなかった。

社民党発展の献策 拝啓、社民党代表福島さんにお願いがあります 

読んだよクリック」よろしくね!
   ↓   ↓
人気blogランキングへ  ご感想  お書きください

辻元 清美(つじもと きよみ、1960年4月28日 - ):日本の政治家である。社会民主党所属の衆議院議員(4期)として、国土交通副大臣、社民党国会対策委員長、政策審議会長などを歴任した。現在、社民党特命常任幹事。

非政府組織 『ピースボート』の設立など、学生時代からの社会運動への参画を経て、1996年(平成8年)、社会党(現在の社民党)衆議院議員に就任した。政治的には男女共同参画社会の実現を目指すほか、護憲論者と見なされており、左翼組織・中核派が関与する反戦運動 『百万人署名運動』発起人にも名を連ねる。

2002年(平成14年)3月には、いわゆる『鈴木宗男事件』で証人喚問された衆議院議員・鈴木宗男を激しく追及、国会中継で、「ど忘れ禁止法を適用したい! 」や、「あなたは疑惑の総合商社! 」などと、独特の言い回しを用いて大声で怒鳴りちらす姿は、繰り返し放送された[3]。しかし翌月には自身に対する秘書給与流用疑惑が発覚、その後辻元は逮捕・起訴され、秘書給与詐欺で有罪判決を受けることとなった。

1960年(昭和35年)、奈良県吉野郡大淀町生まれ。大阪府高槻市で育つ。名古屋大学教育学部附属高等学校を経て、早稲田大学教育学部卒業。大学在学中の1983年(昭和58年)、その前年に発生した、いわゆる歴史教科書問題に触発された辻元は、アジア諸国などとの交流を目的とした非政府組織 『ピースボート』を設立した。その後も社会運動や市民運動に携わり続け、1988年(昭和63年)には、左翼系出版社である第三書館の取締役に就任している

|

« Bフレッツをネクストに移行しませんか | トップページ | 公明党の組織選挙の現状さぐる »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« Bフレッツをネクストに移行しませんか | トップページ | 公明党の組織選挙の現状さぐる »