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2010年7月 7日 (水)

野村克也 ID野球 人生に生かされたか

3509 野球を通して人間を育てる。その原点は 、高校の野球部顧問をした先生に影響を受けた頃に遡る。

身長体重175cm 85kg
ポジション 捕手・打席 右投右打
選手歴
京都府立峰山高等学校 →南海ホークス (1954 - 1977) →ロッテオリオンズ (1978) →西武ライオンズ (1979 - 1980)
監督歴 
南海ホークス (1970 - 1977) →ヤクルトスワローズ (1990 - 1998) →阪神タイガース (1999 - 2001)→シダックス (2003 - 2005)→東北楽天ゴールデンイーグルス (2006 - 2009)

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こころの遺伝子〈NHK〉野村克也を呼んで、彼の人生を聞いた。彼の人生はなるほど、かなりがんばったことはよくわかった。しかし、ちょっとサラッと言っている。3482 

(ウイキペディア)資料によると、
家業は食料品店であったが、克也が三歳のとき、父・要一は出征して満州にて戦死したが、実際は道端の供え物の柿を食べて亡くなったらしく、幼少時代に情けない思いをしたと語っている。
周囲は丹後ちりめんの産地で裕福な家庭が多く、野村の家は貧しく劣等感にさいなまれる。看護
師だった母は病弱で癌も患うが、小学校1年から兄とともに毎日新聞配達をし、父の戦友の助けと、母のがんばりで何とか生活した。貧乏な生活から脱却したいとの思いから、将来は歌手になろうとコーラス部に所属したり、俳優になろうと映画館通いをしていた。

3518  中学生で野球を始めると、目立つ存在だった。京都にある峰山高校へ進学するつもりだった。「進学するな。デッチに行って家計を助けてほしい」と母に言われて悩んでいると、兄貴が「オレは大学進学はしないで就職する。学費を送る」と、助け舟を出してくれた。

高校の野球部に入ろうとしたら、この野球部は不良の巣窟のような場所だった。新学期になっても、顧問、部長を引き受ける先生がいなかった。

3505 高校の側は、この野球部を廃部にしようとしていた。学校で一番手ごわい生徒指導部の清水義一先生が部室にきて、野球のコト知らない先生は野球部をつぶす気でいた。
「お前たちが弱いのは、行いが悪いからだ。こんな野球部はいらない。」「どうか、野球部をつぶさないでください」と野村克也は部員の先頭に立って、先生懇願したが聞き入れてくれなかった。

野村克也は、作戦を立てた。まず、先生の小学生の息子が野球が好きだとわかり、息子をつかって先生に高校野球の応援に連れ出した。

試合の中では、ヤンチャな高校生が「ハイハイ」従ってやっている。必死に高校生部員が必死にボールを追いかけ、打っている姿を見て、先生には、不良の高校生も野球をしているときは真剣だと思った。それをさかいに、野球の見方が変わった。

克也は部員に「野球部を存続するには、清水先生を野球部の部長に就任してもらうのが近道だ」と説得した。「先生、野球部の顧問になってください」と強引に申し入れた。先生も「野球を通して、生徒の心を育てられるかもしれない」と思って、部長を引き受けてくれた。

これの清水先生を監督に据えたのが、克也の最初のヒットだった。清水先生は生徒指導部の責任者だ。先生は一般学生と話すことは少ない。生徒会長と生徒指導部の清水先生とよく話しこんでいた。克也は「オレも生徒会長になってやる!」と、生徒会長に立候補した。押しかけ立候補だから、本命候補に負けないように野球部の部員を使って選挙運動をした。「オレに投票しないとゆるさないぞ」といった脅迫もした。それで、僅差でめでたく生徒会長に当選した。

その後は、克也は清水先生には野球部でお世話になり、毎日顔を合わせていた。

先生は野球部の部長になったはいいが、野球のことをまったく知らないから、応援は「ホームラン 打て!」と掛け声のみだった。そのために、チームはホームランを打って勝った。

貧乏で、授業料の納入でも、相変わらずお金では苦労した。「貧乏は、お前が考えているほど、恥ずかしいことでも、なんでもない。」と、先生は、授業料の足しにと、そっとお金を渡してくれたこともあった。

高校3年のとき、先生は、プロ野球の監督へ「野村克也という有望な選手がいるから、京都府大会を一度見に来てほしい」と克也を推薦する手紙を書いた。これは、「先生、プロ野球の監督へ推薦してくれませんかね」と、克也が言い出したのかもしれないが、清水義一先生は全プロ野球の監督へ送った。

 京都府大会の終わったあと、清水先生のもとへ南海ホークスの鶴岡一人監督が訪ねてきて、「野村君をプロテストへよこしてください」と言ってくれた。克也にとっては、うれしいこと、ヒットだった。
 その年のシーズンオフに行なわれた、南海のプロテストを受けに行った。ミーティングでみんなが集まった前で、マネージャーが「峰山高校の野村は来ているか」と聞かれ、私ですと答えると「君か、がんばれよ」と言われた。注目されて見ていられるというのは、幸運、コレがよかった。
 このテストで、南海の練習生として合格し、二軍選手に登録されることになった。

3512 その当時の有望な選手、王貞治クラスは、契約金2000万円を受取った。それが、名前のない克也は契約金ゼロである。その後の活躍したことを考えてみれば、南海は、道路歩いていてダイヤモンドを拾ったようなものだ。

だが、母はプロ行きには、大反対した。「プロで成功するのは、バクチだ。たしか、高卒でプロ野球に通用する選手になるのは、千に一つだ」就職をしてもらいたいというのだった。

3513 そのとき、清水先生が克也の自宅まで訪ねてきて、母の説得に当った。「3年だけ、行かせてください。3年立って目が出ないようだったら辞めさせ、地元で働くように就職します。就職は私が責任もって世話します。僭越ながら、父親のの代わりをさせてください」母フミさんは、しばらく黙っていたが、「先生にお任せします」と答え、克也はチャンスを握った。人生最大のヒットだ。

3533_2 人生の舞台はできた。この先は、各自の努力次第だ。本日の話のなかでは、三年目に芽がでたように言っていたが、資料によると、もっとボロボロだったようだ。
 1954年、南海に契約金0のテスト生として入団。捕手層が薄く高齢化していた南海なら1軍のレギュラーになりやすいと考えた。なおテストには落ちていたが、キャンプイン前に合格者の一人が入団を辞退したことと、南海の鶴岡一人監督(当時は山本姓)の「カベ(ブルペンキャッチャー)用にでも入れておけや」の一言で入団が決まったという。

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コメント

私はノムさんの大ファンです。
しかし彼の、運までも味方につける生き方はすごい!諦めの早い私に一番欠けている部分だわ…大したものです。

投稿: なお | 2010年7月10日 (土) 11時32分

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