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2010年6月14日 (月)

満州建国大学 最後の同窓会

National_foundation_university 昭和12年に「満州建国大学」設立が決まり、翌年から募集が始まり、満州国最高学府が作られた。五民族協和の理想を掲げた新生国家、満州国に憧れた。建国大学が昭和20年に閉校になって、今年で65年経つ。二十歳だった学生は85歳になる。

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Photo_3 関東軍とは独立した満洲国の大学としての自由な校風を目指し、式典には満洲国皇帝溥儀が出席することもあった。

5族協和の理想は、これがうまく行けば、東アジアにおけるEUになったかもしれない。まあ、それは満州国として世界が認知して独立できればの話だが。ヨーロッパの国々の植民地政策をまねして、日本は朝鮮へ進出、満州へ溥儀を皇帝として担ぎ出したのは、国家創立時からかなり強引でウサン臭さを持っていた。これはあとから知る事実だが。この過程は一般には知られていなかったから、五族協和が提唱され、多くの民族を融和する理想であると感じられた。

Kanji_ishiwara2_2Photo石原莞爾  辻政信 

満州建国大学は、「満州国」首都・新京(長春)に1937年(昭和12年)8月設立。修業年限は前期・後期各3年。翌年(昭和13年)5月:開学。 国務院直轄の国立大学。満州国国務大臣が学長で、学校に実務を取り仕切るのが副学長がトップになった。1945年(昭和20年)8月満州国崩壊に伴い閉学した。建国大学はわずか7年の短い命だった。卒業生は1500名。

建国大学の基礎「アジア大学」構想は、石原莞爾が提唱し、辻政信により原案が作成され、関東軍によって敷地の確保・設立された。

学生たちは、五民族が仲良く新国家を作っていく、この理想を実現に真剣だった。学生の多くは、五族協和を信じて集まっていた。そのことは、満州国の実務官吏を教育する専門大学、大同学院(新京、卒業生4000人)でも同様であった、と聞いている。

満州国の理想が、関東軍や日本の意向に大きく曲げられてしまったのは、結果であって、五族協和の理想は、当初はその実現に向かおうとしていたのは事実である。

現実には、建国大の校門には満洲国旗を掲揚していたが、新たに制定された法律により、日本国国旗を同時に掲揚せねばならなかった。他にも配給された食料である高粱と米は、支那人に高粱、朝鮮人に高粱と米、日本人に米が配給されるなど、差別があった。批判が噴出し、学生が互いに高粱米として混合して食べることになった。
 学問については比較的自由で、内地では禁書の資本論など、共産主義に関する書物も回し読みされていた。戦争が激化すると治安維持法が強化され、反満抗日活動を行った中国人学生は検挙された。また日本人学生は、徴集猶予はなくなり、学徒出陣していった。

Ob_2新生満州国の最高エリートであった建国大学の同窓生、彼らも寄る年波に勝てず、今回の同窓会を最後にするという宣言した。朝鮮族、中国族、満州族、ロシア族、日本人の五族を仲良く一つの国を作り上げようとしたが、昭和20年の8月15日を迎えてしまった。

日本が国際連盟から脱退して、アメリカ、イギリス、中国、オランダの諸国、ABCD包囲網に包囲されて、孤立を深めていく。日本の敗戦色が濃くなるに従って、日本の供給基地化されて、5族協和の理想はいつの間にか、吹っ飛んでしまった。そういうのが満州国の辿った道である。政府のやったことの後始末を、満州に置き去りにされた国民は払わされる形で、多くの犠牲者をだして引揚げることになった。

満洲国の最高学府として設立された国立大学で、総長は国務総理大臣の兼任であった。大学院・研究院を設置した。
1937年8月:新京市に設立。年限は前期・後期各3年。
1938年5月:(昭和13年)開学。
1943年6月:第1期生卒業。
1944:(昭和19)年:12月:第2期生繰り上げ卒業。
1945年8月:ソ連軍占領と日本の敗戦に伴い閉学。
1946年10月:中華民国接収、国立長春大学に併合。
1949年:中華人民共和国成立をうけ廃校となる。

Photo_2たったの十年余の建国大学のOBたちも、日本人はシベリヤ抑留の運命の人だったり、中国人は文化革命では日本への協力者として断罪される人とか、苦労が多かったと聞く。

朝鮮族で朝鮮へ戻った人は 、韓国の建国に有用な人材として大統領になって活躍した人もいる。消息がわかる人より、行方不明など、消息不明の人の方が多いらしい。一番の混乱の渦中にいた人たちだから止む得ないが。

京城〈ソウル)に置かれた、京城医科大学は、国籍を問わず入学できた。ソウルにいた日本人子息や現地朝鮮人が厳しい入学試験をうけて入ってきた。内地の医学校は難しいから京城医科を受けた日本人にくらべ、朝鮮人学生は優秀だったと、いう。これは、朝鮮人医師は、その後、ニューヨークに渡って、業績を上げて故郷に帰ってきた老医師の取材で聴いた。

朝鮮人にしてみれば、無料で医学を学べるチャンスはめったないから、選ばれた優秀な生徒が集まるのは当然だろう。そういう人は、ハングリー精神が強いから必死に医学を究めていたようだ。

今後100年経ったら、「満州建国大学」は歴史の波の中に消えてしまうだろうが、満州国を含めて、人類はこんなムダ、トロイことをやらかしたという事実、私画知る限り、誰かあとの人に伝えておきたい。また、同じことを繰り返さないために。

資 料 石原 莞爾(いしわら かんじ、明治22年(1889年)1月18Kanji_ishiwara2_2日-昭和24年(1949年)8月15日)は、山形県西田川郡鶴岡で旧庄内藩士、飯能警察署長の石原啓介とカネイの三男として生まれる。
 昭和の陸軍軍人、最終階級は陸軍中将。「世界最終戦論」など軍事思想家としても知られる。関東軍作戦参謀として、板垣征四郎らとともに柳条湖事件を起し満州事変を成功させた首謀者であるが、のちに東條英機との対立から予備役に追いやられ、戦犯指定を免れた。
 明治40年(1907年)、陸軍士官学校に入学し、ここでも軍事学の勉強は教室と自習室で済ませ、休日は図書館に通って戦史や哲学、社会科学の自習や名士を訪問した。学科成績は350名の中で3位だったが、区隊長への反抗や侮辱のため、卒業成績は6位であった。
 連隊長命令で不本意ながら陸軍大学校を受験することになった。石原は受験に対してもやる気がなく、試験準備に一心に打ち込むこともなく、試験会場にも一切の参考書を持ってこず、どうせ受からないと試験期間中は全く勉強しなかった。しかし合格。、大正4年(1915年)に入学 大正7年(1918年)に陸軍大学校を次席で卒業した(30期)。卒業論文は北越戦争を作戦的に研究した『長岡藩士・河井継之助』であった。

Photo資 料 辻 政信(つじ まさのぶ、1902年10月11日 - 1961年?)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大佐。衆議院議員(4期)、参議院議員(1期)などを歴任した。
 マレー作戦では辻は新聞記者相手の広報も担当していた。記者達は辻がよどみなく語る名作戦の数々に感嘆し、辻を「作戦の神様」と謳った。しかし、陸軍士官学校事件、ノモンハン事件、シンガポール華僑虐殺事件、バターン死の行進などにおける失策や、またポートモレスビー攻略作戦やガダルカナル島の戦いにおける日本軍の敗戦について批判されることもある。
 戦後GHQから「アメリカを日本の再軍備のために利用することしか考えてない第三次世界大戦さえ起こしかねない男」と危険視された(後述)。
 参議院議員在任中の1961年4月に東南アジアの視察のために出国後、ラオスで行方不明となる。そのまま、1968年7月20日に死亡宣告がなされた。

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コメント

5族協和の理想は、これがうまく行けば、東アジアにおけるEUになったかもしれない。まあ、それは満州国として世界が認知して独立できればの話だが。

投稿: | 2010年9月17日 (金) 19時53分

私の父は大同学院に関連していました。父がなくなり40年がすぎましたが五族協和の理想 いまも”ウラルを越えて”の書物がわたしの本棚に赤く色をかえてあります。いつか読むつもりですがこれは大同学院の教科書 だったのかも。。。。理想をもって満州へわたり夢やぶれ敗戦後はかなり苦労したようです。 

投稿: 北澤 康子 | 2010年11月 3日 (水) 22時20分

大同学院出身の義父は、満州国の公務員として、馬政局に勤めていました。30歳になったころ、満州の(官選)県知事クラスになっていました。日本人が少ないから、内地とは比べようもないほど、昇進が早いと聞いています。行政の要部分に葉日本人を配するという政治体制だったのだと思う。

投稿: | 2010年11月27日 (土) 01時05分

こんにちわ、
建国大学同窓会の一員中国人の子孫として
建国大学の方々及びお子様との交流がほしいです、
よろしくお願いいたします、

りきょう
中国上海在住
ainoki99@yahoo.co.jp

投稿: りきょう | 2011年11月 7日 (月) 18時30分

 2012年9月、長春を訪ねました。地図で建国大学近くの南湖を目指して行ってきました。
夜であったのと、事前に長春駅前で入手した市内地図に建国大学らしき跡は予想どおりありませんでしたが、建国大学跡地近くの南湖を周辺を散策してきました。
 建国大学で学ばれた皆さんや日本からの教員を偲んでみました。
 南湖の広場で女性の皆さんの現代ダンスを楽しんでいる様子が印象的な長春の旅でした。

投稿: 無記名 | 2012年10月20日 (土) 23時47分

私の父は建国大学第一期生です。20年前にすでに他界しましたが、建大一期入学はとても誇りとしていました。実際に入学してみるとバラック校舎に、訳の分からない支那人講師と、理想からはかけ離れた姿に失望した、となげいていました。同級生には台湾人、朝鮮人、支那人、ロシア人と色々いて国際色だったと言っていました。

投稿: たけむれ | 2014年11月15日 (土) 02時17分

私の祖父は建国大学の教授(この表現が正しいかわかりませんが・・)でした。終戦後抑留されそれっきり。昨年厚労省の ソ連邦抑留中死亡者名簿 に漸くその名前を見つけました。埋葬地未記載でした。
昭和18年満州生まれの父は、自分の父親の記憶すらないまま母親(私の祖母)、兄弟姉妹、呼び寄せていた親戚たちと共に這う這うの体で逃げ帰ったそうです。

投稿: はる | 2016年5月 6日 (金) 22時25分

[私(安濃豊)はモスクワのロシア外務省を訪ね、露日協会とシベリア鉄道延伸の覚え書きを交わした]
http://blog.livedoor.jp/giranbarekanjya/archives/51477269.html

投稿: watashi | 2016年10月14日 (金) 17時53分

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