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2010年5月 1日 (土)

証言記録 学童疎開、東京大空襲

902浅草の近くにある精華国民学校の4年生5年生、6年生の疎開を通じて、描いていた。NHK「証言記録、市民たちの戦争」(精華国民学校は、現台東区立蔵前小学校)

1944年(昭和19年)7月にサイパンが陥落して、サイパン島、グアム島、テニアン島は日本本土に対する戦略爆撃の基地となった。これ以後、 B29(長距離爆撃機)による大都市への空襲が激しくなった。児童の生命を守るために44(昭和19)年7月〈学童疎開促進要綱〉が決定され、翌年3月に強化された。

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28「手足まといになる老人と子供たちを地方に出てもらい、疎開によって、人的にも物的にも、いわゆる戦闘配置を整え、国家戦力を増強せしめんことをねらったものであります。」当時はテレビはないから、ラジオと新聞を通して発表した。今で言うと、インフルエンザの防疫のため、空港で検査をするというような感じで事が進んだ。

19071908その当時の日本は、「お国ために」という言葉が、全てに優先したから、政府発表から1ヶ月から2ヶ月で、疎開が始まった。最初に縁故で疎開できる子はそちらへ疎開して、残りの4年生から上の子は集団学童疎開した。

〈学童疎開促進要綱〉決定。この決定により〈縁故疎開〉を原則としつつ,それが不可能な国民学校初等科3~6学年の児童を半強制的に〈集団疎開〉させた。該当都市が指定され学校ごとに近郊農村地帯への移動が始まり,45年春には全国で約40万人を超える児童が疎開した。

18871794「兵隊さんが戦っているから、私たちも〝戦闘配置につく”」という気持ちで、先生は全家庭を回って集団疎開を勧めていた。その意味も、国家の狙いも疑問など持たないで、先生はただ推進するコマだった。これを実行するのは「お国のため」という錦の御旗しかなかった。

その当時のサイパンは、徐々に追い詰められ、日本から送り出す兵士は途中で制海権を奪われているから、次々と沈れた。赤紙で徴兵された兵士が戦地に船まるごと沈められたのはお、この頃のことである。戦う前、輸送中に一万人戦死した。あわよくば目的地についても、戦車も大砲も砲弾もない状態であった。

一体1万人の犠牲とは、神戸淡路大地震の犠牲者の2倍だ。御巣鷹山へ墜落したジャンボジェット機の犠牲者520名×20、20回もジャンボジェット機が墜落することだ。考えられない犠牲数だ。戦地へ送り出す輸送船だけで、これだけの数の人命を失っている。この昭和19年から20年にかけた1年で。

国家が、国民の命をいかに軽く考えていたか、ということだ。一人1億円、補償しようとしたら、一体くらか。1億円×1万=1兆円だ。為政者、A級戦犯は、それをどう考えるか、一人ずつ黄泉の国へ行って聞いてみたい。

驚いたことに、サイパンでの日本側の戦死者、犠牲者が5万人を越していて、そのうち戦局が悪くなって、追い詰められ、自殺者が1万人を越しているとは意外。数字が間違っているような印象さえある。捕虜になることを恥とする文化の結果か。
サイパン戦の犠牲者 [wikipediaから参照]
日本兵・在留日本人:55000人以上
アメリカ兵:3500人以上
チャモロ人:900人以上

012102230324サイパンの戦い(1944年6月15日~同年7月9日))において、追い詰められた日本兵や民間人が、スーサイドクリフ(Suicide Cliff自殺断崖)と同様にアメリカ軍からの投降勧告、説得に応じず、80m下の海に身を投じて自決した悲劇の断崖(岬)である。

この現場のほか、従軍看護婦が「君が代」と「看護婦の歌」を歌ったのち、集団で飛び降り自殺したとか、枚挙にいとまがない。

多くの自決者が「天皇陛下、万歳」と叫び両腕を上げながら身を投じたことから、戦後バンザイクリフと呼ばれるようになった。自決者の数は1万人にのぼるとも言われていて、海は血で真っ赤に染まり、死体の海と化した。

そのように追い詰められても、日本は降参する気運はなく、ますますアメリカ憎しで戦った。特に幼い子たちは、その「お国のため」に燃えていた。

全国で縁故疎開が始まったのが昭和19年秋以降である。私が育った岐阜県の山の中では、疎開してきた児童が徐々に増え、戦争が終わってもずっと住んでいた。そのまま、地元の子になる一家もあった。しかし、大方は昭和23年ころまでに元の都会へ帰っていった。

Photo19051806精華国民学校(東京市浅草区)が疎開したのは、宮城県白石市である。小学生が親元を離れて、生徒同士で暮らすのは、きっと初めてだから、心配もあっただろうが、旅行気分であったと言っている。

19031906 しかし、行ってみると、上級生からはイジワルされるし、地元から歓迎されない。食糧はない。腹いっぱいご飯は食えないから、脱走する子はいるし、上級生から食事をカツアゲされて悲しい思い出がある。もうそれらのことは自分の歴史から消してしまいたいほどだ。

18391841 女の子の頭にシラミが涌いて、頭をマル坊主にしてしま割れた子もいる。一粒のご飯粒を半分に割って、口の中で転がして、ソレから飲み込むという工夫した。また、薬が甘かったので、それを全部なめて飲んでしまったとか、そのあとは絵の具が甘いと知って絵の具を舐めたとか。

東京都の教育委員会の指示で、6年生の卒業式のため、帰京を求めた。宮城県白石市から精華国民学校の6年生100名が3月8日に帰京した。東京大空襲のあったのは翌日、10日の未明である。100名中、30名が死亡。

83683418歳の吉田先生だったクラスから東京で卒業式のため、昭和20年3月10日に帰京させた。その夜、東京大空襲をアメリカ軍は敢行した。10名中6名が焼死した。言葉では簡単にいうが、その夜を体験した人には、得も言われない光景だった。

1900_190118891890 魚を焼くと上の皮がむけるように衣服がなくなって丸裸になっている死体。もっと焼けて炭化した死体、それがゴロゴロと転がっていたし、少し片付いたところでは、焼死体が積み上げられていた。それを親は見させないように目とふさがせて通ってきたが、見てしまって、今も脳裏に残っているという女子生徒がいた。

天皇がその後被災地を見舞いに来た。失礼があってはいけないので、焼死体など片付けたのちお出で頂いたという記録を読んだことがある。この焼死した遺体を見ないでいいのか、という疑問が涌いた思いがある。

1898戸田山さんは、カネマン寮から六人の女子が卒業式に上京してきたが、他の5人は一夜にして死んでしまい、彼女一人のみが生き残ったという。5人の友だちがなしえなかったことを自分が死ぬまでに何かしていかなければと思う。戸田山さんは語っていた。

1871 60数年の年月が過ぎても、悲しみは消えることなく心に残っている。無辜の民を爆撃によって殺す作戦は、昭和20年になって、日本が相変わらず好戦的で、戦闘意欲があるから、軍事拠点だけを攻撃から人口密集地を爆撃すると決めた。そのときの地図がこれである。この結果、東京大空襲が3月10日深夜実行された。 1浅草区 2本所区 3下谷区

引率した先生、長門先生たちは、生徒たちに東京大空襲の様子を説明し、一家全滅した家の子にその事実を伝えるまで1週間、悩んだ。どんなショックを受けるか、それを心配した。

「君の家は一家全滅だよ」「君の家も、そうだよ」と順次伝えても、子ども達は、黙って平然としていた。小国民として「お国のため」メソメソできない、「ここで泣いてはいけない」と思ったのだそうだ。すぐに現実がわからないだろうが。

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疎開体験者:宇井純(沖縄大学名誉教授)  永六輔(タレント)  岸田今日子(女優) 児玉清(俳優)  小林亜星(作詞家・作曲家) 島倉千代子(歌手) 筒井康隆(小説家・俳優) 半藤一利(作家) 藤子不二雄A(漫画家) ペギー葉山(歌手) 若尾文子(女優) 海老名香葉子(エッセイスト)  

海老名香葉子(エッセイスト)の体験:本所区竪川町(現・東京都墨田区立川)。生家は釣り竿の名匠「竿忠」。第二次世界大戦中、静岡県沼津市に疎開。当時は国民学校の5年生。東京大空襲で、父音吉・母・祖母・長兄・次兄・弟の家族6人を亡くす。生きていたのは、三兄中根喜三郎のみ。身寄りを亡くしたため、彼女は終戦・帰京後は親戚をたらい回しにされる。父の知人で釣り好きで3代目三遊亭金馬に引き取られる。金馬家に七代目林家正蔵の妻が出入りしていた関係から、その実子であった初代三平と結婚。長女・海老名美どり、二女・泰葉、長男・九代目林家正蔵、二男・二代目林家三平と、4人の子供に恵まれた。海老名香葉子 あした元気になーれ:

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